父方から遡るとおそらく私は五代目のカトリック信者かもしれません。母方から数えるともう少し代を重ねてるかもしれませんが、あまりこれに関しては調べたことがありません。
ただ面白いのは、父に幼児洗礼を授けた司祭から私も洗礼を受けたことです。その司祭は長生きされたようでしたが、約30年前に帰天されました。
先日あることをきっかけに考えてみました。霊魂に刻まれる秘跡は、まず洗礼そして堅振、叙階があります。司祭にならない限りは洗礼と堅振は多くの信者が受けることになると思いますが、幼児洗礼に対する批判として、よく要理を理解していない赤ちゃんに洗礼を授けるのは如何なものかということです。偉大な洗礼の秘跡を理解している者にしては、子供が産まれたらすぐに授けたい、子供の霊魂を最高の状態にしておきたいと思うのは親の心です。命の危険や様々の問題もありますし、議論の余地はありません。
さて、その赤ちゃんだった人が要理を学び初聖体を迎えることになります。私の場合小学校三年生の頃でした。当時の神父さまはフランシスコ会の神父で1952年に叙階されたフランス人司祭でした。私たちの神父さまのあだ名は「シャラップ神父さま」でした。なぜかというと、よく私たちに「Shut up!(静かにしろ)」って怒ってたからです(笑)
毎週ミサの後に私を含めて4人の初聖体クラスの子供たちは神父さまのところで厳しい授業を受けました。
私はその中でも最年少で、手前味噌ですが、神父さまの質問には臆することなく答えを返す優等生(笑)でカトリックの色々な事を学ぶ面白さを神父さまから学び幸せな時間を過ごしました。もちろんその司祭が初告解の神父さまで、告解中は冷や汗をかきました。なぜなら「まだあるでしょ!」と言われたからです。恐る恐る顔を見ると微笑んでおられましたが。
そして中学生になると主任司祭も何人か変わりましたが、そろそろ堅振を受けないかと神父さまから言われ申し込むことになりました。勉強はもちろん司祭館で勉強して、各教会の受堅者が一カ所に集まって、そこで司教様から堅振を受けました。司教様は神父さまよりも偉い方ということで、なかなか私たちの小教区にも司牧に来られたことが無かったこともあって、そのお姿に緊張したのを覚えています。
その初告解からの初聖体、そして堅振の秘跡を受けるという段階と節目を迎える度に信仰が強められていくのを私は感じましたし、大切なことだと思います。日本における成人洗礼の方は気の毒だと思います。成人洗礼の人もいつしか、堅振も同時に受けるようになって、多くの古くからの信者からは違和感を感じてる旨を聞いた事を覚えています。特に司教様から受けない堅振式ってどうなのか、とか洗礼と堅振は別の秘跡なのに同時に受けるのはなんか違うのではないかと、いう意見も聞いたことがあります。なぜなら洗礼の秘跡と堅振の秘跡がなんなのかを理解すればするほどに当然そのような声は出てきていました。洗礼というのも今では入門式みたいな扱いになっています。とりあえず洗礼受けてから勉強です、みたいな発言もあります。昔の信者は理解するのに何年も洗礼に時間をかけていました。成人洗礼はすぐに初聖体を迎えるわけですから、聖体に対しても本物の信仰が無いといけないというわけです。
しかし、これも慣れっこというか妥協というのか、残念ながら今ではこれをおかしく思う人の声も聞こえなくなってきています。
ただ面白いのは、父に幼児洗礼を授けた司祭から私も洗礼を受けたことです。その司祭は長生きされたようでしたが、約30年前に帰天されました。
先日あることをきっかけに考えてみました。霊魂に刻まれる秘跡は、まず洗礼そして堅振、叙階があります。司祭にならない限りは洗礼と堅振は多くの信者が受けることになると思いますが、幼児洗礼に対する批判として、よく要理を理解していない赤ちゃんに洗礼を授けるのは如何なものかということです。偉大な洗礼の秘跡を理解している者にしては、子供が産まれたらすぐに授けたい、子供の霊魂を最高の状態にしておきたいと思うのは親の心です。命の危険や様々の問題もありますし、議論の余地はありません。
さて、その赤ちゃんだった人が要理を学び初聖体を迎えることになります。私の場合小学校三年生の頃でした。当時の神父さまはフランシスコ会の神父で1952年に叙階されたフランス人司祭でした。私たちの神父さまのあだ名は「シャラップ神父さま」でした。なぜかというと、よく私たちに「Shut up!(静かにしろ)」って怒ってたからです(笑)
毎週ミサの後に私を含めて4人の初聖体クラスの子供たちは神父さまのところで厳しい授業を受けました。
私はその中でも最年少で、手前味噌ですが、神父さまの質問には臆することなく答えを返す優等生(笑)でカトリックの色々な事を学ぶ面白さを神父さまから学び幸せな時間を過ごしました。もちろんその司祭が初告解の神父さまで、告解中は冷や汗をかきました。なぜなら「まだあるでしょ!」と言われたからです。恐る恐る顔を見ると微笑んでおられましたが。
そして中学生になると主任司祭も何人か変わりましたが、そろそろ堅振を受けないかと神父さまから言われ申し込むことになりました。勉強はもちろん司祭館で勉強して、各教会の受堅者が一カ所に集まって、そこで司教様から堅振を受けました。司教様は神父さまよりも偉い方ということで、なかなか私たちの小教区にも司牧に来られたことが無かったこともあって、そのお姿に緊張したのを覚えています。
その初告解からの初聖体、そして堅振の秘跡を受けるという段階と節目を迎える度に信仰が強められていくのを私は感じましたし、大切なことだと思います。日本における成人洗礼の方は気の毒だと思います。成人洗礼の人もいつしか、堅振も同時に受けるようになって、多くの古くからの信者からは違和感を感じてる旨を聞いた事を覚えています。特に司教様から受けない堅振式ってどうなのか、とか洗礼と堅振は別の秘跡なのに同時に受けるのはなんか違うのではないかと、いう意見も聞いたことがあります。なぜなら洗礼の秘跡と堅振の秘跡がなんなのかを理解すればするほどに当然そのような声は出てきていました。洗礼というのも今では入門式みたいな扱いになっています。とりあえず洗礼受けてから勉強です、みたいな発言もあります。昔の信者は理解するのに何年も洗礼に時間をかけていました。成人洗礼はすぐに初聖体を迎えるわけですから、聖体に対しても本物の信仰が無いといけないというわけです。
しかし、これも慣れっこというか妥協というのか、残念ながら今ではこれをおかしく思う人の声も聞こえなくなってきています。