監督:ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ。2002年ベルギー・フランス合作。映画をどうとらえるだろうか。娯楽?ひまつぶし? 観る人なりでいいのだろうけども、娯楽ではないし、ひまつぶしだったら観なくてもよい。人は最大の喪失にどう向き合っていくのどうか。この作品はそれを考えさせてくれる。受け入れるのか、あがくのか。怒り続けるのか、憎み続けるのか。許すとはなんだろう。許されるとはなんだろう。贖うとは。
「あり!こんなところで終わっちゃうの?」というラストだった。瀬戸内寂聴さんのコメント「感動でしばらく椅子から立てなかった。明かりがつき、頬一杯に流れている涙を拭くのも忘れていた」を最初に読んでいたが、作品中で感動的な場面はなかった。
見終わり、しばらく考え込む。冷蔵庫からコーラを取り出し、コップに注いだ時に涙がどっとあふれてきた。私たちはどれほど、いろんなものをなくし、それに嘆いているか。そして、それに平気なフリをしているか。「もっと強くならなければ」と責めているか。心の底で「わかってほしい」「許してほしい」と願っているか。人は毎日、この葛藤に生きていると思う。主人公オリヴィエも、少年フランシスも私だった。
「あり!こんなところで終わっちゃうの?」というラストだった。瀬戸内寂聴さんのコメント「感動でしばらく椅子から立てなかった。明かりがつき、頬一杯に流れている涙を拭くのも忘れていた」を最初に読んでいたが、作品中で感動的な場面はなかった。
見終わり、しばらく考え込む。冷蔵庫からコーラを取り出し、コップに注いだ時に涙がどっとあふれてきた。私たちはどれほど、いろんなものをなくし、それに嘆いているか。そして、それに平気なフリをしているか。「もっと強くならなければ」と責めているか。心の底で「わかってほしい」「許してほしい」と願っているか。人は毎日、この葛藤に生きていると思う。主人公オリヴィエも、少年フランシスも私だった。
この監督さん達の作品好きです。前作「ロゼッタ」も、えっ??って所で終了。そこがまたいい。
背後からカメラで追う。遠慮がちな演出、だからこそ、主人公達の深い闇がかいま見える。
映画担当したきっかけで、監督達来日で案内状まで頂いていたのに、取材には行けなかった。
最近観たなかでは、坂本龍一の音楽が無機質な印象をあおる日本映画「トニー滝谷」も同じ空気―孤独―を漂わせていました。
ただし、欧米作品はは骨太い。人と人が向きあった時の対峙力というか、毅然とした自己主張(言葉無くとも、佇まいだけでさえ)恐ろしいほど、屈強な主張があります。
「私はこう決断した、だからこう行動する」。骨格や体格も関係あるのかなと思えるほど。
「トニー滝谷」は曖昧さがあって、湿っぽさのない乾いた孤独なんだけれど、毅然としたものではなくて、浮遊している。決めつけないというのか、両方、受け入れていたりする。
私は今、生きるために映画を見続けています。お給料をもらって働いています。飽きることがないのが、映画の魔力です。
「息子のまなざし」であつかう状況は、実は私たちの日常で起きていることだ。現実に対峙し、得ることを喜び、失うことに悲しみ、承認されることを希う。
フランシスに息子を殺されたオリヴィエが、フランシスに観たものは何だっただろう。私はこう考える。オリヴィエがフランシスを生かそうとしたことは、自らが生き行くという内在する勇気だ。それが「自由」なのではないだろうか。