今日は12月8日。お釈迦さまが悟りをひらいたとされる日。悟りとはなんじゃろな。悟りを開く。悟りを得る。開いたことも得たこともないので説明できない。死も経験したことがないので説明できないのと同じ。しかしながら、お釈迦さまの言っていることを、日常で都合良く使わせてもらっている私としては、やっぱり気になる「悟」。
救われたいと願い、苦からの逃れたいと願い、それが実現することなのだろうかとも案ずる。この身をもってこの世に生まれ落ちた。生を受けた。これは死に向かって後戻りできない旅を始めたということ。私たちのこの肉体的生命が朽ち果てる確率は100%。他にこれほど確実な数字はない。失恋する確率は100%ではない。六本木に歩いて芸能人と会う確率も100%ではない。交通事故にあう確率も100%ではない。常に誰もが生の受け入れと死の受け入れを同時に行っているということだ。「私は受け入れていない」と思っても、叫んでも、その思いがある、その叫びがある時点で、すでに生きている。だからパラドックスだ。これは人の考えや言葉が作る論理ではない。
昨今、報道で集団自殺のことがよく報じられる。私の知る限り、今に始まったことではなく、昔からあった。バンザイクリフだってそうだ。ガイアナ寺院だってそうだ。なりゆきにまかせないで、自ら事故に臨んだ。平成7年、神戸の連続児童殺傷事件で8歳の娘・彩花ちゃんを亡くした山下京子さんの手記を思い出す(『彩花へ―生きる力をありがとう』)。「少年の狂気のハンマーは、彩花の頭蓋骨を打ち砕きました。しかし、そのハンマーも、彩花の命の内面を砕くことはできませんでした。少年の凶行は彩花の命の力が自ら選択した〝きっかけ〟にすぎず、彩花は粛々と自分自身の寿命の最終章に進んでいくのです」。私たちは自分の死を経験できない。生きる中で死を課題とするときは、いつも身近な人の旅立ちだ。
昭和45年5月28日。父は死んだ。私も山下京子さんの言うように思う。交通事故は「きっかけ」だ。父は自らに働く自然の力で生涯に幕を引いた。それは人の意志や論理や言葉ではない。「天にめされた」でも「お迎えが来た」でもいい。それはどうすることもできないことであった。私たちが、明日の天気をコントロールできないことと同じなのだ。かくいう私もかつて自殺を未遂している。死ぬのは怖かった。できなかった。でも、ほっとけば死んでいただろうという状態にはなった。助けてくれた人がいた。そして、今生きている。少なくとも心臓を動かし、呼吸し、拙い考えをこうやって書き連ねている。実は、自殺者も事故死者も方法や状態はともかく、今を生きた結果だったのではないか。
死にたいと思うほどの苦しさ、生きなきゃいけないと思うほどのつらさ。この二つは同じだ。どうせ同じなら、なりゆきにまかせようと思う。しのごの思い通りにしようとしたところで、結果はみえている。思い通りにならない不都合だらけなのだ。ならば、不都合を楽しもう。生きることも死ぬことも、もう生まれた時点で私の中にある。人を愛し、喜び、悲しみ、怒り…それと同じだ。生かされている。そして、死なせてくれる。ほっとけば、全部してくれるよ。悟るか悟らないかは、ひとまずおいといて、なりゆきにまかせよう。まかせるので、お釈迦さま、ひとつよろしく頼みますよ~
救われたいと願い、苦からの逃れたいと願い、それが実現することなのだろうかとも案ずる。この身をもってこの世に生まれ落ちた。生を受けた。これは死に向かって後戻りできない旅を始めたということ。私たちのこの肉体的生命が朽ち果てる確率は100%。他にこれほど確実な数字はない。失恋する確率は100%ではない。六本木に歩いて芸能人と会う確率も100%ではない。交通事故にあう確率も100%ではない。常に誰もが生の受け入れと死の受け入れを同時に行っているということだ。「私は受け入れていない」と思っても、叫んでも、その思いがある、その叫びがある時点で、すでに生きている。だからパラドックスだ。これは人の考えや言葉が作る論理ではない。
昨今、報道で集団自殺のことがよく報じられる。私の知る限り、今に始まったことではなく、昔からあった。バンザイクリフだってそうだ。ガイアナ寺院だってそうだ。なりゆきにまかせないで、自ら事故に臨んだ。平成7年、神戸の連続児童殺傷事件で8歳の娘・彩花ちゃんを亡くした山下京子さんの手記を思い出す(『彩花へ―生きる力をありがとう』)。「少年の狂気のハンマーは、彩花の頭蓋骨を打ち砕きました。しかし、そのハンマーも、彩花の命の内面を砕くことはできませんでした。少年の凶行は彩花の命の力が自ら選択した〝きっかけ〟にすぎず、彩花は粛々と自分自身の寿命の最終章に進んでいくのです」。私たちは自分の死を経験できない。生きる中で死を課題とするときは、いつも身近な人の旅立ちだ。
昭和45年5月28日。父は死んだ。私も山下京子さんの言うように思う。交通事故は「きっかけ」だ。父は自らに働く自然の力で生涯に幕を引いた。それは人の意志や論理や言葉ではない。「天にめされた」でも「お迎えが来た」でもいい。それはどうすることもできないことであった。私たちが、明日の天気をコントロールできないことと同じなのだ。かくいう私もかつて自殺を未遂している。死ぬのは怖かった。できなかった。でも、ほっとけば死んでいただろうという状態にはなった。助けてくれた人がいた。そして、今生きている。少なくとも心臓を動かし、呼吸し、拙い考えをこうやって書き連ねている。実は、自殺者も事故死者も方法や状態はともかく、今を生きた結果だったのではないか。
死にたいと思うほどの苦しさ、生きなきゃいけないと思うほどのつらさ。この二つは同じだ。どうせ同じなら、なりゆきにまかせようと思う。しのごの思い通りにしようとしたところで、結果はみえている。思い通りにならない不都合だらけなのだ。ならば、不都合を楽しもう。生きることも死ぬことも、もう生まれた時点で私の中にある。人を愛し、喜び、悲しみ、怒り…それと同じだ。生かされている。そして、死なせてくれる。ほっとけば、全部してくれるよ。悟るか悟らないかは、ひとまずおいといて、なりゆきにまかせよう。まかせるので、お釈迦さま、ひとつよろしく頼みますよ~
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