今週も当ブログを訪問いただきありがとうございます。
この曲は浅香唯さんのヒット曲なので、多分皆様ご存じなのではないかと思います。
サビの部分の…
「恋は楽しい時より 悲しい時に
そっと始まった方が 長く続くねきっと誰でも一人は 味方がいるの
いつも私がそれに なれればいいのに」
もう、ここのフレーズだけで充分。歌詞を味わうなら余計な説明などいらいない、そう思うのは私だけでしょうか?
でも作詞家はこの歌詞に込めた恋への思いとセシルの恋のあり方を、題名に入れてまで対比させているんですね。
「映画で見たセシルのように嘘は言いたくない」の映画とは、フランスの作家サガンの『悲しみよこんにちは』の同名小説をアメリカとイギリスの合作で映画化したもので、フランス南部が舞台となっているにもかかわらず英語でライトに交わされる会話が軽薄さに拍車をかけているようにも思えてなりません。
簡単に説明しますと、裕福な父レイモンドとその娘セシル、そして愛人のエルザ(セシルの母は亡くなっている)の3人で気ままに暮らしていたところへ、亡き母の親友アンナが入り込んで来てレイモンドと婚約していることをセシルが知ることとなります。このままでは、今までのような気ままに暮らしが失われることを危惧したセシルは一計を講じて、青年フィリップスとエルザの交際を演じさせレイモンドの嫉妬を買わせるのでした。これによりレイモンドとエルザはよりを戻したかのように見えたのですが、今度はそれに失望したアンナが自動車事故で死んでしまうのです。果たしてレイモンドもエルザ愛し合っていたのか、セシルもフィリップスの事をどれだけ本気で愛していたのか?全てが軽薄さと計略に満ち満ちていて私にはわかりまん。
そういう軽薄さが対比にあってのこの『セシル』という歌詞の意味というのを大切にしたいと思います。
今週も最後までお読みくださり感謝します。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます