読むクスリ

読んでいてクスリと笑ってしまうような、心の処方箋に。
道徳大好き小学校教諭です。
現在、双子の育児に奮闘中。

竹下ロスがハンパない

2018-09-20 23:11:24 | 研修

授業大好き♡の石津が、方向転換。
3月までは、がっつり学級経営路線で攻めようかと。学級経営×道徳がテーマっす。

おっほん。昨日、支援課訪問が終わりまして。
体育の鬼遊びをやったのよ。1年生でも結構チャレンジした授業だった。それだけに、準備も念入りにしたつもりだった。そしたら、指導主事が、誰も見向きもしなかった石津の細案をきちんと読んでくれててさ。異動してから、石津のこだわりを理解してくれる人が初めて現れた!もう、嬉し泣きしそうで、ちょっとウルっときたっけ。

中心授業は賛否両論めっちゃ分かれた授業だった。もっとうまくやれたかもしれないけど、後悔先に立たず。それよりも、私が不器用なりに一生懸命考えた系統性の意識を理解してくれた指導主事の気持ちが嬉しくて、嬉しくて。

去年まで、隣の席から大先輩が叱咤激励しつつ、石津がやろうとする授業とか学級とか、私の性格まで理解しようとしてくれてた。それって、当たり前じゃないんだ〜って気付かされたよ。あ〜竹下ロスがハンパない。

ほんで、中心授業って、色々な人との縁に支えられてできるものだから、ほんと感謝しかない。資料を貸してくれたり、相談に乗ってくれたり、準備を手伝ってくれたり、お菓子くれたり、もちろん子どもっちも、みんなみんなありがとー!!

あちゃ〜怒鳴ってしまった。道徳を掲示しておこう。

2018-09-20 22:20:39 | 道徳


全国の小学校で4月から道徳が正式教科となったが、熊本市南区の銭塘小(福田衣都子校長、107人)は「銭塘メソッド(方式)」を掲げ、独自の道徳教育の充実を目指している。評価基準として、「4つの心」を設定。マスコットキャラクターを活用し、さまざまな場面で児童の行動を評価するという同小の取り組みを報告する。

 アイデアを考案したのは荒木隆伸教頭(49)。道徳と特別活動の教育研究賞で6年続けて入賞した、道徳教育のスペシャリストだ。

 ●自己有用感

 荒木教頭は道徳の教科化に際し、「これまで以上に創意工夫が求められる」として、学習指導要領に基づいた(1)自分を育てる心(2)ともに生きる心(3)社会をつくる心(4)命を感じる心-の「4つの心」を考案。それぞれに対応した4体のマスコットを作り、昨年度から学校ぐるみで全児童の評価を始めた。

 学校生活の中で、教師が「(1)~(4)のうち、どの心で頑張ったのか」を児童に質問。児童は専用のシートに書き込み、どの心が伸びたのかを振り返る。例えばトイレのスリッパを並べた児童に対し、学校生活の改善につながったことを気付かせた上で、(2)や(3)の心を評価する-といった具合だ。

 荒木教頭は「児童が何を学んだのか客観的に分かるようになり、自信が生まれる。学校で役に立っているという『自己有用感』が育つ」と話す。

 ●学びを整理

 荒木教頭は、児童の行動を「4つの心」ごとに振り返るコーナーを校内に設置。校内のあらゆる場所にマスコットも散りばめ、定着を図っている。

 さらに、児童一人一人に、専用ケースを配布。道徳のワークシートなどを「4つの心」に分類して整理し、どの心が伸びたのか確認できるようにした。

 一方、教師らが児童の行動がどの心に当たるのか戸惑う場面もあったため、「4つの心」を具体的に示したパズルを作成。児童の行動を評価するための共通基準とし、教室などに掲示している。

 ●家庭でも実践

 同小は2018年度、この取り組みを家庭にも広げようと、パズルとマスコットのシールを全家庭に配布。児童に道徳的な行動が見られたら、パズルの指標を基にシールを渡してもらうようにした。

 同小6年の村上詩さんは「シールをもらうのがうれしいし、お手伝いを頑張ろうと思う」とにっこり。父親の知政さん(42)も「子どもの行動が目に見えて変わった。学校と同じ目線に立ち、成長を共有できる」と歓迎する。

 荒木教頭は「共通の評価基準があれば、誰でも同じように児童の行動を認めることができる。地域で児童の育ちを見つめることができるよう、実践を広げたい」と意気込む。(社会部・臼杵大介)

(2018年9月13日付 熊本日日新聞朝刊掲載)

道徳 掲示 ネット検索集












よし、沖先生を思い出して、
道徳コーナーを作り、
変身をキーワードに心が変身すること、行動が変身すること、クラスが変身することを目指して頑張るぞー!

学級経営✖️道徳 の理論

2018-09-20 18:39:44 | 道徳

学級経営にシフトして、
道徳心に基づいた学級経営を目指して後半戦を創るべく、色々と検索してみた。

長いし、理論が抽象的だけど、
共感できた記事がこれ。


研究ノート
「考え、議論する道徳」の可能性
-学級経営の観点から-
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 「道徳の時間」が「特別の教科」として教育課程に位置付けられ、「教科書」の使用や「評価」 が定められて、道徳教育は大きな転機を迎えている。

「教科化」の検討過程では、「読み物道徳」と いわれる授業のあり方や、「特定の価値観の押し付け」など、個々の「内面」に関わる問題が指摘され、 「他者と共によりよく生きるための基盤となる道徳性」を養う観点から、「考える道徳」「議論する道 徳」への転換が課題とされている。

また、「教科化」においては、その発端となった「いじめ問題」 への対応など、「現実の問題に主体的に対応することのできる実効性のある力を育てる」ことが期 待されている。道徳教育が新しい可能性を拓くためには、指導方法の問題にとどまらず学校(学級) における「相互関係」を基盤として、道徳的な主体の形成をめざす学級経営が課題となる。

「道徳教育」と「特別活動」との相互補完的な関係がその柱である。
キーワード:考える道徳・議論する道徳、道徳性、規範構造、学級経営 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

1 はじめに
道徳に係る学習指導要領の改訂に伴い、道徳教育の目標が、「自己の生き方を考え、主体的な判 断の下に行動し、自立した人間として他者と共によりよく生きるための基盤となる道徳性を養う」 こととして明確にされ、『「考える道徳」、「議論する道徳」への転換を図る』ことが課題として 示された。

2 道徳教育の現状と問題
「道徳の時間」の「特設」以来、その賛否をめぐって繰り返されてきた道徳教育に関する論議は、 「特別の」とはいえ、「教科」として位置付けられることにより、一応の決着が図られたといってよ い。しかし、その過程で指摘された、「道徳教育そのものを忌避しがちな傾向」や「読み物道徳」 と言われるような授業のあり方などは、依然として道徳教育の問題である。

「考える道徳」「議論す る道徳」への転換の前提となる道徳教育の現状についてみておきたい。

道徳教育の現状について、平成 24 年度の「道徳教育実施状況調査」(文科省)をみると、「道徳 の時間」の「平均授業時数」は小学校が 35.7 時間、中学校が 35.1 時間である。また、「全体計画」 や「年間指導計画」を作成している割合は、小中ともに 99%を超えている。平成 10 年度の「道徳 教育推進状況調査」では、授業の実施時数は小学校が 33.9 時間、中学校が 31.0 時間であったが、こ の調査結果も平成 5 年度と比べれば増加である。全体計画や年間指導計画については「各学年の基 本方針や他の教育活動における道徳教育との関連が大幅に増加しており、徐々に改善が図られてい る」と評価されていた4。

臨教審答申における「徳育の充実」、平成元年学習指導要領改訂における道 徳の学習内容の分類や重点化、平成 10 年の中教審答申「新しい時代を拓く心を育てるために」など、 繰り返し道徳教育の改善・充実が課題とされたことに伴って授業の「標準時数」が確保され、指導 計画も「充実」してきたということであろう。その後も、平成 14 年度からの「心のノート」の配布、 平成 20 年の学習指導要領改訂における各教科の学習との関連の明確化など、道徳教育の改善・充実 を目指す方策が相次いで講じられてきた。

中教審答申は、こうした経緯を振り返り、「学校の教育目標に即して充実した指導を重ね、確固 たる成果を上げている優れた取組がある」とする一方で、「道徳の時間」の「特質を生かした授業 が行われていない場合がある」ことや「発達の段階が上がるにつれ、授業に対する児童生徒の受け 止めがよくない状況にある」こと、さらに「学校や教員によって指導の格差が大きい」ことなど、 「全体としては、いまだ不十分な状況にある」としている5。

また、「歴史的経緯に影響され、いま だに道徳教育を忌避しがちな風潮がある」ことや、「他教科に比べて軽んじられ」、「道徳の時間」 が他の教科に振り替えられているのではないか、との懸念もある6。様々な改善・充実の手立てが講 じられ、調査結果では改善がみられるにもかかわらず、なおこのような問題点を指摘しなければな らないところに「学校現場」における道徳教育の問題の深刻さがあるといってよい。
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従来の道徳の授業については、「読み物の登場人物の心情理解に偏った形式的な指導」8として反 省的に振り返られているが、そこでも子どもたちの「考え」をもとに話し合いが行われ、感想や考え を交流しながら、何をよりよいこととするかを探ろうとしてきたはずである。そのようなプロセス が、教師の意図する道徳的価値への収束を主たる目的としていたとすれば、子どもたちの「話合い」 はそのための便宜的な手立てにすぎなかったことになる。

教師の設定する目標へのアプローチに「話 合い」を位置付けるにしても、その先に「正解」が想定される教科と、「解」自体が話合いの目標 である「特別の教科道徳」とではその意義は異なるはずである。形としては子どもたちの「主体性」によりながら、教師が想定する価値を正しいものとして(それが結果的に、だとしても)結論づけ る指導の在り方に、「価値の押し付け」とされる問題があるのではないだろうか。

中教審がいう「形 式的な指導」は、そのような点においてこそ反省的に見直されるべきであり、「道徳的な価値」をめ ぐる指導(学習)に内在する問題点の検討が求められるところである。
道徳においては教師が設定する価値の「正しさ」それ自体が「考え、議論する」ことの対象である。 道徳教育の想定する「価値」の普遍性が担保されているわけではなく、授業の目標設定には個々の教 師のバイアスがかかる。教師が設定した「道徳的価値」に収束させる、いわば閉じられた授業のあり 方を変えることができなければ、「考え、議論する道徳」にはつながらない。道徳的な問題の解決に ついて話合い、互いにとって望ましいこと、よりよい解決として共有できる何らかの「合意」を形 成することを9、「道徳科」の授業の課題として位置付ける必要があろう。

道徳教育において、「対話や討論なども行いつつ、内省し、熟慮し、自らの考えを深めていくプ ロセス」10を重視するとすれば、子どもたちの道徳的な問題の解決に対する教師のスタンスが問わ れるところである。「他者と共によりよく生きる基盤となる道徳性」を形づくる「合意」形成の先 に何を目指すかという指導の構想に関わる課題であり、そこに、道徳教育の目標が示す「主体的な 判断の下に行動」することと、「他者とともによりよく生きる」こととの順接に関わる課題もある。


(2)教材の解釈と「道徳」のリアリティ 「考え、議論する」ことに関して、小学校低学年の定番教材ともいえる「にわのことり」を例に、
教師の意図(教材の扱い)と子どもたちにとっての「道徳的な問題」についてみておきたい。

「にわ のことり」のあらすじは次のとおりである。
山の小鳥たちのもとへ、やまがらから誕生会への招待状が届く。ところが、同じ日にうぐい すの家で音楽会の練習がある。小鳥たちは皆、明るくてごちそうもあるうぐいすの家へ行って しまう。
みそさざいは迷っていたが、みんなと同じようにうぐいすの家へ行く。しかし、みそさざい は、誕生会に招待してくれたやまがらの事が気になって仕方がない。迷った末に、みそさざい はこっそり抜け出し、やまがらの家へと向かう。やまがらは大喜びし、みそさざいは来てよかっ たと思う。

改訂前の「道徳の時間」の内容項目でいえば、「信頼友情」の教材である。「友情」や「思いやり」 を主題として、「友だちと仲良くし、助け合おうとする心情を育てる」などのねらいが設定される。 「みそさざい」の行動を「やまがら」への「友情」「思いやり」として価値づけ、自己中心的な考えに なりがちな低学年の子どもたちに、互いに仲よく、助け合うことの大切さを理解させることを意図 する授業が多いが、松下行則は、道徳の授業について論じた際に、この教材の「資料上の矛盾」につ いて指摘している11。

「やまがらの誕生日会と音楽会が重なっていることを知った小鳥たちは、どうするかを迷ったり 話しあったりした形跡がない」、「やまがら」のことが気になった「みそさざい」が音楽会の練習 を「そっと」抜け出す、このようなことは、「現実にはありえない」設定だというのが松下の指摘で ある。資料の「矛盾」について、その「批判的検討」を欠いたまま「みそさざいのやまがらに対する 友情」を「優先価値」として授業を構成すれば、「みそさざいのこっそりと抜け出した行動が逆説的 に」示す、音楽会の練習をしている他の小鳥たちへの関わり(友情)が視野から遠のいてしまうこ とになる。「やまがらへの友情」を優先させるところに「価値の序列化」の問題を指摘する松下は、 「他の小鳥たちへの友情を軽視し、他の小鳥たちとの協力関係を軽視」するような「発想や行動が 道徳的であるはずがない」というのである。

だが、松下が指摘する「教材の批判的検討」の抑制や、行為の選択における「価値の序列化」の問 題は、教材(道徳的な価値)の扱いに関する教師(教育)の問題である。「にわのことり」を子ど もの問題意識に位置付けてみれば、教師の意図とは異なった課題が見えてくる。「にわのことり」 における「みそさざい」の「やまがら」への「友情」が共感できるものかどうか、或いはその出来 事に、自分たちの「友情」につながる問題を感受できるかどうかなど、子どもたちにとっての道徳的 なリアリティに関わる問題である。
「音楽会」に向けて皆で練習をしているときに、たとえ「友だちのため」とはいえ、「そっと抜け出す」 ような行為をどう考えたらよいのか。「そっと抜け出す」ことは「友だち」のためであれば許されるの か。「そっと抜け出す」ことが問題だとすると、「練習をサボること」が問題なのか、或いは、音楽 会のために懸命に練習している他の小鳥たちをないがしろにすることが問題なのか。練習を「そっと 抜け出して」みそさざいが来てくれたことは、「やまがら」にとって大喜びしていいことなのかどう か。練習を「そっと抜け出す」こともなく、なおかつやまがらの誕生日を祝うこともできるような解 決策はないのか。子どもたちの視線からは、自分たちの「友情」に関わることとして、そのような 問題を想定することができる。高学年ではもとより、低学年の授業でも、「みそさざい」の迷いを 「道徳的な課題」としてとらえた話合いの事例が松下の考察でも紹介されている12。
自分たちが捉えた問題について「多角的・多面的」に考察し、よりよい解決に向けた「合意」を形 成することが学習のめざすところとなる。それが、教師の目指す「道徳的価値」とは異なったとし ても、互いの関わりにおけるよりよいあり方の具体像を共有できれば、「道徳的な課題」について考 える意義を実感することもできるだろう。「考え、議論する道徳」への転換は、教師が目指す道徳価 値へ子どもたちを「導く」ことではなく、子どもたちにとっての「道徳的な問題」の「解決」を、教師 が学級における相互関係の「規範」として共有できるかどうかにかかっているといってもよい。課題 解決の焦点化に偏りが生じる可能性もあるが、「共によりよく生きる」上で不都合があれば、新た な「道徳的な問題」として検討し、「主体的」に「道徳性」を養う契機とすることもできる。教師の「指導 性」が期待される局面である。


4 学級経営の構造と道徳教育
(1)学級経営における道徳教育の視点
かつて文部省(当時)は、学級について、「たまたま特定の地域に住む子供が、教育を受けるため 割り振られたという意味」で、子どもたちにとっては「つくられた」集団であり、学級経営におけ る当面の課題は、この「つくられた」集団の中に、『「仲間」または「われら」という連帯感に基 づくまとまりをつくりあげ、共通の目的を達成することができるように相互に協力し合う態勢を確 立することである』とした。

「つくられた」集団において「生活」し「学習」する上で、見知らぬ「他 者」とどう関わるかが子どもたちの主たる関心事である。「割り振られた」状態では、その関係は 互いの「力関係」によって左右されかねない。だからこそ、対等な相互関係を形成することが学級経 営の「当面の課題」となる。「相互に協力し合う態勢を確立」するプロセスは、「学級の一員」(児 童生徒)としての「自己形成」のプロセスでもある14。

とりわけ、「集団のために働く意欲や生活上の諸問題を話し合って解決する力が不足している」 「規範意識が低下している」「自分に自信が持てず、好ましい人間関係を築くことが困難であるな ど社会性の育成が不十分」などの問題が指摘される子どもたちの現状において15、相互関係の拠り 所となる「規範」の共有は避けて通ることができない課題である。ここでの「規範」は、ありのまま の「自己」としてではなく、「児童生徒」としての相互関係を成り立たせる「ルール」といっても よい。

「関係」を視点として「学級」を捉えれば、「教師と生徒」、「生徒と生徒」の「コミュニケーショ ンの継起を通じて維持される」「相互行為システム」としてみることができる16。「相互行為システ ム」とは、「教師」や「児童生徒」を「独自の自己準拠システム」としてとらえ、「意識の作動」が互いに「不 透明」な存在として相互にかかわり合う関係のあり様を指している。そのような関係の下では、「教 師」「生徒」がそれぞれに、「つねに予測不能な事態に対処」することが求められる。「相互行為シス テム」における関係の拠り所の形成に、教師がどのように関与できるのかが指導上の問題である。

「相互行為システム」における規範的な側面に着目し、それを「教室の規範構造」として捉えた のは渡邊満である。渡邊のいう「規範構造」は、「それぞれ社会の在り方に対応した独自の構造」を もつ、「規範の集合」である。そのような「規範構造が、諸主体のコミュニケーション的行為にお いてその正当性が吟味され、組み替えられていき、社会的な諸関係の在り方が発展していくと見な す」ところから、「教室の規範構造に根ざす道徳授業」を構想する17。

渡邊は「教室の規範構造」に 関して、

A:「『大人(教師)− 子ども(生徒)』→対象(世界)」

と、

B:「[大人(教師)−『子 ども(生徒)−子ども(生徒)』]→対象(世界)」

という二つの「教育行為の相互主体モデル」を提示 している。A が教師による働きかけ(伝達)であるのに対して、B は、大人(教師)が一人の子ども と同時に子どもたち(そして、子どもたちの相互関係)にも対する関係にあることを示している。 そのような関係において、「子どもは大人に対すると同時にやがて複数の同じ子どもたちと共同す

ることによって成長していく」18ことを想定している。このような規定によれば、「考え、議論す る」コミュニケーション的行為を通して、「相互関係」に関わる「合意」を形成することが、「規範構 造の組み替え」として主体的な「道徳性」形成の駆動力になろう19。


(2)「学級空間」の構造と道徳教育

「学級経営」は、「組織管理」「生活」「学習」などの観点から、教師の「指導」がどこに重心 を置いているかを視点として、

「教室における学習を整える条件整備を主たる目的」とする「条件 整備型」学級経営

と、

「児童の参画を包含した」「学級づくり型」学級経営とに区分される20。

「条 件整備型」でも「他者」との関係は避けられず、「参画」が重視される「学級づくり型」においても教 師との縦の関係に制約される。

学級経営の形としては対立的にみえるが、当事者としての子どもの 立場からは二つの類型が別々に存在するわけではない。そこで学び、生活する(或いは、しなけれ ばならない)「学校空間」である。諏訪哲二はこのような「学校」を、子どもの「自己形成のプロセス」 の観点から、「秩序」「自治」「教育」の三つの層によって構成される空間として捉えている21。 ここでは諏訪の捉え方を、道徳教育の可能性を検討するために、学級経営における指導の視点とし て参照する。

「秩序空間」は、「家庭での養育としつけ」に対応する。子どもは文字通り指導の「対象」とし て扱われ、「児童生徒」として、学校が教育目的を達成する上で必要とする「秩序」の枠組みに従 うことを求められる。

道徳教育が、「社会のルールやマナー」を「しっかりと身につけさせせるこ とは必要不可欠」とされる22のはこのレベルでのことであろう。

渡邊のいう「A」のモデルを基本と するプロセスを通して、教室における「生活」や「学習」が成立する。教師が「道徳教育」として 自覚的に指導するかどうかはともかく、子どもたちの「道徳的諸価値」の理解に関わる「体験」の場 でもある。

秩序の成立過程が、一方的な指示・命令としてか、子どもたちの「合意」を形成しながら か、その諸相は一様ではないだろうが、ここでの「体験」がその先の「道徳性」に関わることは承知し ておかなければならないことであろう。

これに対して、子どもたちの水平的な相互関係において成り立つのが「自治空間」である。渡邊 が教育行為の B モデルで示した、『子ども(生徒)−子ども(生徒)』の関係が立ち上がる。子どもた ちはいわば「擬似主体(準主体)」として、概ね、「班」や「当番」、「係」などの仕組みを通じて「自 主的、実践的な活動」を展開する(可能性がある)。子どもたちの人間関係によっては、それが「力」 によって左右されることも当然ありうる。

子ども同士のトラブルが発生するのもこの局面であり、 相互関係を支える「規範」が求められるところである。教師の作為に収まらないこの水平的な関係を 方向付けることと、子どもたちが相互関係の拠り所(規範)を共有することとは相互補完的である。 教師の「作為」と子どもたちの「自治」が予定調和的に両立することはあり得ないが、「道徳教育」と 「特別活動」の相互補完的な展開を通して、「教師と生徒との垂直的な関係性と、生徒たち同士の 水平的なつながり合いが同時的に成立」23する可能性も期待できる。

「秩序空間」「自治空間」を基盤として成り立つのが「教育空間」である。諏訪は、ここには「近 代の発達論的な教育論が想定する自立的な学ぶ主体」がいるとしている。「秩序空間」や「自治空間」 においては、教師との非対称的な「指導・被指導」の関係に制約されていた子どもたちが、「自ら 選びとったかのように内面では切り換えられて主体的に学ぶ」24ことが想定される。

「主体的」に 「道徳性」を養うことは、このレベルでこそ果たされうる目標であろう。

「教育空間」の基盤となる「秩序空間」と「自治空間」との相補的な関係には、「統制と放任」、「秩 序と自治」が背中合わせになった危うさが潜在する。道徳教育の課題は、「秩序」と「自治」が交錯す る局面におけるそのような「危うさ」を、「学級経営」において教育的な価値へと方向付けるところに ある。

4 おわりに
目指す「道徳性」を育むべく、教師は何らかの意図をもって指導に当たる。それでもなお、指導の 意図による制約を超えて、或いは、それをよそに、自ら意味ある世界を構成してしまうのが「主体」 としての子どもである。子どもたちの相互性における「規範構造」の組み替えを論じた渡邊は、「伝 達から創造へ」を授業の視点の一つにあげ、それは「新たな妥当性の了解による価値内容の自覚」 であるとしている25。「考え、議論する道徳」への転換が、「他者」と共有できる「新たな価値」の 創造をめざすものであるとすれば、子どもたちの「主体的」な「合意」形成に開かれた学級経営を実 現できるかどうかが実践的な課題になる。そこに、「教科化」における道徳教育の新たな局面が拓 かれると考える。

大隅心平 研究ノート:
大隅論文から学ぶ -学級経営のもつ意味・意義-
周知のように、子どもたちは個性と社会性を自分なりに統合して大人になっていく。考えてみれ ば直ぐわかることであるが、この発達課題は実に難しく子どもたち(若者)を悩ませるのである。 単にみんなとうまくやるだけなら、あるいは単に自分自身に忠実・誠実になろうとすることだけな らば何とかなっても、この一見矛盾する両者を統合するとなると、この難題 aporiani にどう対処し たらいいのだろう。私は教育相談(カウンセリング心理学)や学校心理学の立場からたくさんの子 どもたち(若者)の相談に乗ってきたが、大隅論文も道徳教育の立場からこの問題に答えているの で、今後の私の実践活動に非常に参考になった。以下私が大隅論文から学んだことを記す。

大隅論文によれば、あるべき姿として「考える、議論する道徳」を措定するのは当然にしても、 その際に「「主体的な判断」と「他者と共に」とがひとつながりのこと」(文科省 2015 小学校学習 指導要領解説総則編)とされているとのことである。

こうなると「主体だから「自分のわかること」 「自分の利益になること」受け入れるが、それ以外は排除する」可能性も出てくるし、しかしだか らといって「他者と共に」という教師のねらいが先立てば、子どもたちの主体性を損ないかねない。 ここに「道徳教育の隘路」がある。ではどうするか。大隅論文は、諏訪哲二氏の立論を援用しなが ら、学級経営を軸(媒介項)にして「特別活動(相互関係の形成)と道徳教育(関係形成における 規範の共有)」との関連構築の視点からこの難問 aporiani を解こうとしている。

現実の学校では、一方で子どもたちは「児童生徒」として、学校が教育目的を達成する上で必 要とする「秩序」の枠組みに従うことを求められる」(教師の作為による秩序空間)が、他方では 「子どもたちが水平な相互関係において」「いわば「疑似主体(準主体)」として」「自主的、実 践的な活動を展開する(可能性がある)」(子どもたち同士の自治空間)。学校が「教育空間」と して機能しうるためには、「「道徳教育」と「特別教育」との相互補完的な展開を通して」この二 つの「空間」を「同時に成立」させる可能性を求めることになる。これには「子どもたちの「主体 的」な「合意」形成に開かれた学級経営が実現できるかどうか」が大きな実践的な課題となってく る。道徳教育の教科化による「新たな局面」はこの課題解決に果たして適合的かどうか、これが大 隅論文が提示している新たなる問題の所在(論題)である。

翻って私の研究・実践テーマである教育相談を考えるとき、今も中心になるのは個別相談である。 心理教育的援助サービスをより広くとらえれば、グループ(集団面接)による直接的な援助やコン サルテーション、コーディネーション、コラボレーションといった間接的な援助サービスも当然入 りうる。個性と社会性の統合という論題も学校という時空間ではもっと学級経営(特別活動)との 関連で新しい展開が出てくるものと思われるのである。




http://www.mitsumura-tosho.co.jp/tokubetsu_dotoku/column/gakkyu-keiei/

資料はよく読み込むことです。

忘れちゃいけないのが、扱う資料は葛藤資料なのか、共感資料なのかというところ。

主発問の位置も補助発問の組み立ても全く違ってしまいますからね。


それから、道徳の時間に出た子供の意見は尊重したい。間違ってもいいんだ、の気持ちをもたせ、子供のありのままの意見を引き出せればと思います。

そして、道徳の時間に皆で考えたことは必ず何らかの形で子供に考えさせること。学級経営の範囲内であればこれも最上でしょう。なにせ、間違ったっていいんですから。


ここまで書いてきて、なかなか学級経営と道徳の時間の関連性が見つからず、あせっているのですが、道徳の時間に学んだことは、子どもたちの行動のお手本ともなりますから、学級経営、なんです。でも、間違ってもいいんだよ~。間違ったら直せばいいんです。