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せっせと生活、ときどき読書

隅田川を歩く~その二

前回は永代橋に到着したところで終了となった隅田川沿いのお散歩。




今回は永代橋から再び左岸をさかのぼっていくことにします。

水先案内人はまたこの本にお願いして。



「えいたいはドシンと置いたようにかけ」という川柳もあるそうで、重量感がハンパないです。



さすが重要文化財です。


ここから先が深川、対岸は日本橋。

赤穂浪士も吉良邸から引き揚げて来てこの橋を渡ったそうですよ。



橋を渡り、この通り(永代通り)をどこまでも直進すると皇居のお濠にぶつかります。


永代橋を渡り、対岸からうつしたところ。桜がまだつぼみの時期でした(^^;)


うーん、柳の方が合うかな?


永代橋は1698年の架橋です。

隅田川では4番目ですが、1926年(大正15年)に現在の橋にかけなおされています。


当時の帝都は関東大震災(1923年)で壊滅状態。

その復興事業の一つとして隅田川の架橋があったのです。

それは国の臨時組織である復興局と東京市、東京府の三者の分担で行われました。

永代橋、清洲橋は復興局による施工であります。

復興局のトップに据えられたのが当時の鉄道省在籍、鉄道始まって以来の秀才と言われた太田圓三。

太田の示唆した形や構造を具現化していったのが「田中賞」にその名を残す田中豊。

このワンツーが車の両輪となり復興局橋梁課20代の若手軍団40人を束ねてわずか3年間!で東京市と横浜市の150橋の設計を成し遂げたのであります。


なぜこんなに早く竣工可能だったのか?

例えば永代橋、清洲橋の場合は橋の重量をほぼ川内に設けた2本の橋脚だけで支えていて、橋台は小さく抑えることで工期を短縮するという工夫があったからだそうです。(「橋を透して見た風景」紅林章央)




この永代橋、東京の空襲で被弾してもビクともしなかったそうです。

復興の労苦を知るほど、次回の隅田川行きが楽しみです。

でも、泣いちゃったら困るなー。

サングラス持っていこうっと。


つづく

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