■観音瀬水路の由来
----------- 以下、宮崎県指定史跡「観音瀬水路」案内板より --------------
周囲を山に囲まれた広大な都城盆地の水を一ヶ所に集めて、漏斗口のように吐き出すところが、ここ有水八久保の観音瀬です。藩政時代には、この瀬には大きな岩が林立していて激流となり、その下流は高さ10mぐらいの滝になっていました。
この観音瀬を開削して赤江港に通ずる舟路を開こうと決意したのは、第22代都城領主島津久倫で、久倫はこの難工事を家臣藤崎五百治公寛に命じました。命を受けた公寛は、桂川(山梨県)や吉野川(徳島県)球磨川(熊本県)などの急流や難所を調査し、肥後(熊本県)の石工や船頭を伴って帰り、寛政3年(1791)藩主の許可をまって着工しました。
水量の少なくなった冬季の仕事で、激流や岩との闘いですから苦労は並大抵ではありませんでした。観音瀬左岸に幅一間(1.82m)の舟路の開削工事が竣工したのは、3年後の寛政6年12月のことでした。これによって、都城の竹之下橋から川口の赤江港までの間を川舟が通行するようになり、都城地方はもとより鹿児島方面の物産も運べるようになりました。
明治22年(1889)、県営工事で更に右岸に一間幅(1.8m)の水路開削が始まり、翌年の明治23年に完成し、ますます舟運は盛んになりました。これらの工事に肥後から来た石工たちがそのまま居着いたのが、ここ八久保地区です。
しかし、陸上交通が発達してきた大正13年(1924)には、大淀川の水利権を取った電気工事株式会社が、ここに水力発電のための堰堤を造りました。
それから台風や大雨のたびに都城盆地は大被害を受け、激しい撤去運動が続きました。そして昭和37年(1962)下流の新設ダム完工と同時に轟ダムは撤去されました。こうして昔開削した舟路は再び出現したのです。
---------------- 以上案内板より --------------------
■観音瀬水路を訪ねて
観音瀬水路は、都城市から約40分で着く。分岐ポイントには標識があり、迷う心配はない。狭い未舗装道路になると、駐車場に着く。駐車場にはトイレが設置してある。ここは悠々の森公園で散策道も整備されている。
観音瀬アクセスマップ
さて、観音瀬水路は何処かいなと探していると、切石運搬路の標識が目に飛び込んできた。ここだと思い。運搬路跡を歩くと大淀川に出た。ここではなさそうだ。
引き返し魚釣りしている、お爺さんに聞くと上流に下り口があるとのこと。お礼を言い。駐車場から歩いて(100m位)直ぐに下り口を見つけた。途中、魚道跡や轟堰提跡の標識や轟ダムの説明板などが設置してある。
仮説階段を下ると観音瀬に出る。正面対岸には採石場がある。下流を見ると轟堰提の跡を確認できる。上流に観音瀬水路がある。以外に大きい。
写真撮影をしながら、岩の上を歩き観音瀬水路に近づいて見ると、水路の側壁にノミの跡を確認できる。機械がない時代、全て人力で岩を切り水路を開鑿したのである。先人の偉大さを感じながら、岩の間の水たまりを避けながら上流を目指した。
最上流部だろうか、大きな岩の門構えがある。その岩の門には切り込みが入っている。水止用の堰板を設置したのだろうか、船を繋ぎ止める横木用だろうか、と思いをめぐらす。
水路周辺の岩場には無数の四角い切石の跡がある。何のための四角に切ったのだろうか。観音瀬水路は、河川の水量が増すと水没し見られない時もあるので注意が必要である。
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