まいごのイケてないブログ

なんだかなぁ~。と思うようなことを書いてみたい。

地名

2020-03-04 13:05:33 | Weblog
家づくりの時も、そう思ったのですが、【地名】って大事です。
今回古代史の本を見ていても、地名や古地図が無いと理解できないことがたくさんあります。
今の地図や地形で考えてはいけません。
今と当時は地形が全く違います。
大阪には淀川沿いの地域に○○島というところがありますね。
今は平地ですが、昔は、違います。
大阪府は【摂津】の国【河内】の国【和泉】の国ですね。
全部、水関係の字が入っています。
あと、住之江とか石津とか岸辺とか、今は海岸線から離れていますが、昔は海のすぐ近くでした。
私は専門家や研究者ではないので、、本からの知識でしかありませんが、
素人考えからしても、そういうことが、今回今城塚古墳を考えるうえで重要で、
そういうことがわかって初めてどうして、こんなところに天皇陵があるのか?がわかりました。
今城塚古墳は、現在は宮内庁の認めるところの天皇陵ではありませんが、
研究者の間では、こちらが【真の継体天皇陵】と言うことになっているようです。
通称【仁徳天皇陵】は大仙古墳ですね。
継体天皇陵は【藍野陵】だそうです。
字が違うけど、あのあたりは安威川が流れてて、
茨木市の方の【太田茶臼山古墳】の方が【藍野陵】って地図には書かれてました。
茨木の方には【安威(あい)】という地名も残っていますしね。
藍野陵は安威の陵だったんじゃないかと思います。
【今城塚古墳(いましろづかこふん)】がなぜ、天皇陵に治定されなかったのか?のお話を
今城塚歴史博物館でボランティアの方からお聞きしました。
そのあと、本も読んで、あぁ、このことだなと思いました。
【今城塚古墳】も、元々は【いましろづかこふん】と呼ばれていたわけではありません。
古事記では「三島の藍野に陵がある」、とされており、
日本書紀でも「藍野陵」となっていて、場所は同じところを指しているようです。
それが、時代が下がり、天皇家の力がだんだん弱まり、祭祀や管理が十分できなくなっていき、
天皇のお墓がだんだんわからなくなるという事態になって行ったようです。
平安時代の延喜式での陵墓表では「三嶋藍野陵」となって添え書きで「摂津国嶋上郡」とあって
しばらくはそれが定着していたようです。(「扶桑略記」まで)
その後、公家の日記で「継体大王の摂津嶋上陵を荒らした盗人が捕まった」と言う記事があって
その頃には荒れていたんだろうと書かれています。
大体、ここの天皇陵、ポツンとあるんです。
周りに古墳はいっぱいあるんですが、百舌鳥や古市、または奈良の様にはありません。
今城塚と茶臼山は大きいですが、あとは小さな古墳です。
しかも、ここは継体天皇はしばらくこの辺りで宮を作り、政治をとっていたようですが、
そのあと奈良(大和)に入ってしまいますので、管理も行き届かなかったのでしょう。
しかも平安時代になって、更に都は京都に移り、その上、天皇家はドンドン力を失っていきますので
離れたところにポツンとある陵は中々管理が行き届かなかったのでしょう。
ま、古墳はほとんど盗掘に遭っているようですので、ここだけが例外ではありませんが…。
ピラミッドと同じで、そこに財宝があることは当時の人は知っていますので、、管理が行き届かないと、、、そうなりますね。
そして、この陵は荒れて、その上地震で地滑りを起こし崩れてしまったようです。
それを戦国時代あたりから山城に使われたりして、様相が変わってしまったようです。
信長の時代の文献には【今城陵(いまきのみささぎ)】とあるそうです。まだ、一応【陵(みささぎ)】であるという認識が残っていたようです。
それが寛政年間になると【今城塚】と記録され、更に【今城山】となって、陵であったことが忘れられていったようです。
元禄年間に天皇陵をまとめた頃にはこちらは荒れ果て、陵であったことも忘れられ、近くの【太田茶臼山古墳】の方が【藍野陵】だと記録され
それが広まって、そっちが【継体天皇陵】と言うことになってしまったらしいです。
けど、発掘調査で年代が合わなくて、【今城塚(いましろづか)】の方が年代が合うのでこちらが真の【継体天皇陵】だ、ということに
なったらしいです。
私は摂津市に住んでいるので、茨木市も高槻市もお隣です。
地名が出てくると、あのあたりだな、とアタリが付きますし、ナルホド!と思います。
この度、今城塚古墳に行くことが出来まして、こんなに近くにこんなに立派な古墳があったんだなと驚きでした。
どうしても、古墳と言うと堺市出身の私は大仙古墳を思い出しますし、
百舌鳥。古市や飛鳥奈良以外に古墳がある、ということも知りませんでした。
コンビニより古墳の方が多いなんて、ビックリ!
そして、どうして、今城塚古墳はこんな場所にポツンとあるんだろう?と疑問に思いました。
しかも【継体天皇】って重要人物ですよ!
でも、色々調べて、あぁ、だから、ここにあるんだと、納得しました。
時代背景や、古い地図がないと理解できませんでした。
歴史は本当に面白いです。
天皇家の万世一系は実は3王朝が交代したのをいかに長く続いているかと見せかけるためにちょっとしたズルが行われているんですね。(*´艸`)
どうやら、継体天皇から継体王朝が始まっているようです。
ま、普通に考えて、そうですよね。
前の王朝に跡継ぎが居なかったら、その地点で終わりです。
そのときの実力者が跡を継ぐに決まっています。
日本書紀や古事記は飛鳥奈良時代に作られていますから、そこがあたかも初めから中心地だったように書かれているんです。
古代は都が転々としています。
今のように日本が一つに統一されていたわけでもありません。
さながら、戦国時代のように、そこここにクニがあり王様がいて、強い王様がだんだん勢力範囲を広げて行ったのでしょう。
もう少し古い時代。
神話の時代だと出雲の国とか吉備の国とか越の国とかありますね。
九州だと豊の国でしょうか。
大きな王国だったのでしょう。
当時の先進国は中国や朝鮮ですから、それに近い九州や今の中国地方から最新技術は入って来たでしょう。
征服された、というより、人と物の行き来があって、混血もしていったでしょうし、
朝鮮半島の情勢を考えると、任那から、国を亡くした人々がたくさん日本列島にやってきたのかもしれません。
考古学の発展や発見で、弥生時代の物や人の移動は考えられていたよりずっと広範囲だとわかってきたようです。
これからも色んな事がわかってくるといいんですが、、、そこはデリケートな問題もあるようで難しいかもしれません。
私なんかが、無責任な素人レベルであれこれ空想を働かせてられるうちがロマンがあってイイのかもしれません。
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