Makki's English マッキーの旅行記&英語習得のヒント?

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岐阜城 Gifu Castle

2019-11-25 | *旅行・中部地方 Travel in Chubu

11月 日 / November  , 2019

岐阜城 Gifu Castle

 

長良川を越しの山の上に何やら構造物??
Can you see something on the top of the mountain across the Nagara River?

山頂には…岐阜城です!!(東側から見た岐阜城)
That is the Gifu Castle Tower!! 

長良川の対岸(右岸)の道路からの眺めです。
山頂の岐阜城が、肉眼でもはっきり見えてきました。ワクワクが止まりません!!

Driving on the right side of the Nagara River, you can see the Gifu Castle Tower even with the naked eye!
I can't help looking forward to visiting it!

肉眼で/裸眼で=with the naked eye  (× eyes, × bare eye)

  

↑こちらは、岐阜公園の入り口です。
若き日の信長公の銅像越し、金華山(329m)山頂に岐阜城が‼(西側から見た岐阜城)
The entrance of Gifu Park which has a statue of young Oda Nobunaga.
You can see the Gifu Castle Tower on the top of Mt. Kinka (329m).

 

岐阜城は、岐阜県岐阜市の金華山(稲葉山)に建つ長良川沿いの山城です。元は1201年に二階堂行政が建て、一時廃城となったようです。
15世紀中ごろに、美濃守護代の斉藤利永が修復して居城としました。
1539年、斎藤道三が稲葉城山頂に城を作り始め、1567年に織田信長の手に落ちました。この時信長は、城と町を「岐阜」とし、「天下布武」の朱印を使い始めたとのこと。

Gifu Castle stands on Mt. Kinaka along the Nagara River in the city of Gifu, Gifu Prefecture. 
It was first built in 13C and originally called Inabayama Castle.
During the Sengoku period, Saito Dosan started to build a castle on the top of Mt. Inaba (=Mt. Kinka-san). 
Later it was owned by Saito Tatsuoki and Takenaka Hanbei for a while. 
In 1567 it was occupied by Oda Nobunaga and renewed and enlarged as Gifu Castle. 

 

 

実は、来年の大河ドラマの主役は明智光秀。光秀と言えば織田信長。
そして信長を語るには岐阜城が欠かせないことがわかり、生まれて初めてくらい、しっかり下調べをして(このブログのページの一番したに記載)行った岐阜城でしたが… まさかの事態が~~~~!!!

The leading role of the famous Taiga Drama televised by NHK next year will be Akechi Mitsuhide. Then you can't help telling about Oda Nobunaga.
I found the Gifu Castle quite important one for Nobunaga.  I was really looking forward to seeing it and preparing by consulting the interenet.
But.......a quite incredible accident (?) happened!!!

下は、よくよく調べたら載っていた、スマホの画像です~~~
The information on the smart phone says that.........

何と、11月25日から29日までの五日間だけ、年中無休なはずのロープウエーが休み。金華山に歩いて登っても城内には、入れないとのこと~~
まじか~~~

The rope way stopped running from November 25 to 29, for 5 days. They said nobody can enter the castle during that period.
Oh my god!!

 仕方がないので、岐阜城公園を散策して帰ることにしました
 

 ↑冠木門 Kabuki Gate 

 

 

 

三重塔 Three-storied Pagoda
これは、1917年(大正6年)に、大正天皇御大典記念行事として建設されたとのこと。
日本画の巨匠、川合玉堂が位置を定めたと言われていて、登録有形文化財。

This pagoda was built as a part of the Taisho Emperor's Enthronement Anniversary Event in 1917.
It was designated as a Registered Tangible Cultural Property and they say the great Japanese-style painting master Kawai Gyokudo chose the location to built it.

 

織田信長の居館跡 Ruins of Oda Nobunaga's Residence

 

織田信長は、山麓ではなく、おもに金華山頂の城に居住していたそうですが(2020.1 NHKのテレビ番組より)、山麓にも大きな館と「おもてなしの場(?)」があったことが、近年の信長公居館発掘調査でわかってきたということです。平成 23 年(2011年)には、文科省により「岐阜城跡」が国の史跡に指定され、調査は本格化(?)し、今も続いています。これもワクワクしますね~。

Gifu City started to excavate the ruins of Oda Nobunaga's residence on a large scale recently.
It was designated as the national historic site in 2011.
Even now many unknown things were revealed from the excavation.
How exciting!! 

 

 

 

  

以下、この日の午後3時頃に訪れた大垣城の復元天守からの画像です。
大垣城は町中の城ですが、岐阜城の姿がビルの合間に、しっかり見えました。

2019年11月27日15:10pm


↑The Gifu Castle Tower seen from the Ogaki Castle Tower.

 

さらに以下は、翌日訪れた、岐阜養老公園内にある養老天命反転地の画像です。

早朝で、天気も良かったせいか、約100㎞北東方向にある御岳山がくっきり見えました~
しかも、御岳山の手前の小山の頂上に、なんと~~!岐阜城が~~!
約30㎞離れていますが、しっかり見えます
養老天命反転地の係員の人が親切にも教えてくれました。

なんか、岐阜城すごい

やっぱり、金華山のてっぺんのお城に上り、広大な濃尾平野を眼下に捉え、背後に3067mの御岳山を従えたら..........
天下を取る気になっちゃうかも~~と思いました。
岐阜城…本当に、見晴らし抜群なんだろうな~~
なぜ、休みだったんだ~~~

 岐阜城…いつか必ずリベンジ(?)をしに行くと、決めた瞬間でした

 

 2019年11月28日9:40am

 

 ↑You can see the Gifu Castle Tower seen from Yoro Tenmei Hantenchi in Yoro Park which is located 30km west of the castle.
The high mountain covered with snow over the Gifu Castle is Mt. Ontake (3,067m).

  

 

ここから、岐阜城と織田家と池田家について、私が調べた内容です~

織田信長の乳兄弟の池田恒興は、色々な時代劇で取り上げられているので、私にとって、とても興味深い人物だったのですが、本能寺の変の後、池田家がどうなったかよくわかっていませんでした 
今回、池田輝政との関係など、やっと色々な謎が解け、また、恒興の子孫がこんなに活躍したとは驚きでした
少しは歴女に近づけたかな??

 

 

 岐阜城の歴史

1201年、鎌倉時代に源頼朝・頼家に使えた公家の二階堂行政(にかいどうゆきまさ)が稲葉山に砦を築く。のちに廃城。

15世紀、美濃守護代、斎藤利永がこの城を修復して居城とする。

1525年、斎藤氏の家臣の長井氏が謀反を起こし稲葉城を攻撃、支配下に。

1533年、長井新左衛門尉の死後、長井新九郎規秀(後の斎藤利政/道三)が後を継ぎ、城主となる。

1539年、守護代となっていた斎藤利政が、稲葉山山頂に城を作り始める。

1554年、斎藤利政が城と家督を嫡子の斉藤義龍に譲り道三と号す。


1556年、斎藤義龍が長良川の戦いで道三を打ち取る。


1561年、斎藤義龍が急死して、13歳の斉藤竜興が城主となる。


1564年、家臣の竹中半兵衛が造反し半年間城を占拠。竜興は逃げる。


1567年、稲葉山城の戦いで、織田信長が勝利。小牧山城から稲葉山城へ移転。城と町を「岐阜」とし「天下布武」の朱印を使い始める。


1576年、信長の嫡子、織田信忠が岐阜城主になり岐阜城も整備改修。


1582年6月2日、本能寺の変後、織田信忠自害。


1582年6月27日、清須会議、織田信孝(信忠の弟)が岐阜城主になり、三法師(信忠の嫡子)の後見になる。


1582年12月20日、織田信孝、秀吉・丹羽長秀・池田元助の軍が岐阜城に迫り講和。三法師を羽柴軍に引き渡す。


1583年4月16日、織田信孝、賤ケ岳の戦い後に兄の織田信雄らの軍に岐阜城を包囲され、その後切腹。

その後、池田恒興が美濃国を拝領して大垣城主になり、池田元助が岐阜城主となる。

1584年、小牧長久手の戦いで、池田恒興(つねおき)と元助が死去


1585年、池田恒興の次男、池田輝政の居城となる。

1591年、輝政の転封により、豊臣秀勝が城主となる。

1592年、秀勝死去後、織田秀信(三法師)が美濃国岐阜13万石を領有し、城主となる。

1600年、関ケ原の戦いの前哨戦で、西軍に着いた秀信が岐阜城に立てこもったが、福島正則や池田輝政らに攻められて落城。(岐阜城の戦い)

1601年、徳川家康が岐阜城の廃城を決める。奥平信昌に加納城を築城させ、岐阜城山頂の天守・櫓・山中山麓の石垣などを、加納城に移したという。
信長がつけた「岐阜」という名を家康が忌み嫌ったからとも言われている。

 

織田家家系図

織田信秀(Oda Nobuhide)
織田信長(Nobunaga, 1534-1582)
―長男・信忠(Nobutada、1576年濃姫を養母として岐阜城主になる、1582年本能寺の変後に二条御所で明智軍に攻められ自害、26歳で死去)

   ー信忠の長男・秀信(Hidenobu/三法師 Sanpoushi、岐阜城主、1600年関ケ原の戦い前の岐阜城攻防戦で敗北し高野山へ、1605年26歳で死去)

―次男・信雄(Nobukatsu、安土城を焼く、1584年小牧長久手の戦いで家康側→大阪冬の陣直前に秀吉側から家康側へ、~1630年)
   ー信雄の四男・信良系が群馬県の小幡藩→山形県の出羽高畠藩→出羽天童藩主となり明治まで続く)
    信雄の五男・高長系が大和宇陀松山藩→丹波柏原藩主、他の子孫が有楽斎形の柴村藩と柳本藩を継いで明治まで続く)

―三男・信孝(Nobutaka、清須会議で三法師の後見役・柴田勝家側・岐阜城主、1583年26歳で秀吉・信雄に攻められ自害)

―信長の弟・信包(Nobukane、秀頼を補佐したが、1614年大坂冬の陣直前に急死)
   ー信包の息子・信則(Nobunori、兵庫の丹波柏原藩主外様大名~1630年)ー信勝(Nobukatsu、1650年28歳で死去、お家改易)


―信長の弟・長益(Nagamatsu/有楽斎 Urakusai、有楽・如庵 Uraku Jyoan~1622年、
    子孫は奈良の柴村藩・柳本藩の外様大名に、藩は後に信雄系へ)


―信長の妹・(Ichi/浅井長政の正室)
    ー茶々(Cyacya/淀殿Yodo-dono/豊臣秀吉の側室、秀頼の母)

    ー初(Hatsu/常高院Jyoukouin/京極高次の正室)
    ー江(Go/崇源院Sugenin/徳川秀忠の継室、千姫・家光の母)
 
 
 
池田家家系図
 
池田恒興 (Tsuneoki, 1536-1584、母は信長の乳母、信長→信忠→秀信→羽柴秀吉に使える)
―長男・元助(Motosuke, 1584年父と共に小牧・長久手の戦いに参戦するが討死)

―次男・輝政(Terumasa, 1565-1613, 1584年家督を相続し、美濃大垣城主→岐阜城主(13万石)→愛知吉田城主(15万石)
     秀吉の仲介で家康の娘・督姫(とくひめ)を継妻に。2人の間に忠継以下5男2女誕生。
              妹が秀次の正室(失脚後も例外的に助命されたとのこと)
     関ヶ原の戦いでは東軍。岐阜城攻略の功績から播磨姫路52万石に。1601-9姫路城大規模改修。
     1611年、二条城における家康と豊臣秀頼の会見に同席。
―輝政の長男・利隆(Toshitaka, 1584-1616, 大坂の陣では徳川方)
―輝政の次男・忠継(Tadatsugu, 1599-1615, 備前岡山藩28万石, 17歳で早世)
―輝政の三男・忠雄(Tadakatsu, 1602-1632, 淡路州本藩6万石→岡山藩主31万石、岡山城拡張工事、弟たちに所領を分与)
―輝政の息子達、輝澄(山崎藩3万8千石)、政綱(赤穂藩3万5千石)、輝興(平福藩2万5千石)

―三男・長吉 (Nagayoshi,1570-1614 関ケ原の戦い後、鳥取藩6万石の藩主に)

・・・池田氏の備前岡山藩31万5千石と因幡鳥取藩32万5千石は明治時代まで続き、子孫は侯爵に列せられました。
 
  

 
   
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