こんばんは!今日は暖かな成人式になりましたね!
さて、今日は久しぶりに、懐かしいものを発見しました。
これです!
あまり綺麗ではないのですが…
これは、どなたのサインかおわかりになりますか?
昭和52年、かれこれ40年以上前へ~
当時、NHK3チャンネルでは「ピアノのおけいこ」という番組をやっていたのですが、その番組の生徒役で出るオーディションを受けた後、NHK内にある食堂で食事をしていたら、母が急に「ねぇ、あの方、中村八大さんよ!きっとそうよ!サインお願いしてきなさい」を言われ、私はまだ小さかったので、もちろんそんな名前聞いたこともないし、ありがたみもわからなかったので、なんだかヤダな~と思いながら、持っていた楽譜とそばにあった赤ペンでサインしていただいたのでした。その後も、クラシックの勉強にはそのお名前は出てくることはありませんでしたので、いつも「なんでかな~」と思いながら、何十年も経ち、ようやくそういえば…とここでこのサインについて書くことができたのです。
中村八大さんについて(ウイキペディアより)
1931年、青島にて誕生。父親は青島の日本人学校で校長を務めており、自宅にはピアノや蓄音機、レコードなどがあるという恵まれた音楽環境であった。音楽的素養を認めた父の勧めで1940年春、小学4年生に進級すると同時に日本へ単身留学、新宿の国民学校へ転校。東京音楽学校(現・東京芸術大学)の附属児童学園に週2回通い、ピアノと作曲の英才教育を受ける。しかし技術習得を重視するハードトレーニングの教育方針に疑問を抱き、学園でのレッスンをさぼって新宿、浅草などの劇場に足しげく通っていた。
1941年末に日米戦争が始まると、翌1942年には早くも帝都は空襲に見舞われ始め、音楽留学を続けるのは不可能になり、1943年夏、青島へ引き揚げた。1945年には父母の郷里である久留米市へ一家で引き揚げ、そこで終戦を迎える。再び大っぴらに音楽活動ができるようになった中村は、旧制中学明善校(現・福岡県立明善高等学校)で音楽部を結成、熱心に活動に打ち込む。進駐軍とともに米国音楽が流れこんできた時代で、中村は自作の鉱石ラジオで進駐軍向けのラジオ放送を聴いたり、自宅近くの米軍のクラブで披露される演奏を漏れ聞くなど、米国音楽をむさぼるように聞いていた。
1948年春、当時売れっ子の作曲家であった利根一郎が北九州の炭鉱の慰問巡業を行うことになり、一座に加わっていた中村の兄・二大(当時、早大に在籍しながらジャズを行っていた)からの誘いで八大もこれに加わる。大宴会場での興行を会場の隅で見物し、小畑実のバックでピアノを弾いたこともあった。この年の秋の中学の文化祭では、クラシックのコンサートでのピアノ演奏、演劇グループの芝居での伴奏、のど自慢大会での全曲伴奏などをすべて引き受けて、度肝を抜かせた。なお、こののど自慢大会では生涯通じてほとんどなかった生歌の披露を行っており、『セコハン娘』の替え歌を歌った。
1949年春に上京、早稲田大学高等学院の3年に編入。生活費や学費の工面のためにキャバレーでジャズ・ピアノ演奏のアルバイトを始める。夏休みにはクラリネット奏者として独立していた二大の伝手で、大阪の名門ダンスホール『赤玉』に1ヶ月、『谷口安彦とプレミア・スウィング』のメンバーとして赴く。
1950年、早稲田大学へ入学。二大の紹介から渡辺晋の勧誘を受け、松本英彦、南廣、安藤八郎らとバンド『シックス・ジョーズ』を結成。1年後にはバンドの名は全国に知れ渡り、音楽雑誌『スイングジャーナル』の人気投票でバンドは部門2位、中村はピアニストとして1位を勝ち取った。しかし間もなく、ジャズの芸術性を追求しようとする中村と、あくまでジャズをエンターテインメントとして割り切り、ジャズメンの生活の安定を目指すマネジメント肌の渡辺との間で衝突が発生、中村は松本とともにシックス・ジョーズを脱退してしまう。
…以下、ジャズメンとしての生活、やがて時代の流れからプロダクション、放送界での番組、自身の作曲活動ほか、大変詳しくウィキペディアには載っていますので、さらに興味を持たれた方はぜひ、検索をして続きをお読み下さい。
作曲家としての苦悩から薬物依存に陥ったり、成功の影には苦しみあり、芸術家として作品を生み出すことがいつも自身の喜びへとつながっていたとは言いにくいところもあるが、しかし、中村八大にとっての必然ともいうべき出会いが永六輔。「六・八コンビ」として数多くのヒット曲を世に送り出してゆく…
さて、残した作品を見てみると、たしかに聞いたことのある曲が多い。
主な作曲作品
- 梓みちよ
- 「こんにちは赤ちゃん」 第5回日本レコード大賞受賞
- 「STVの歌」 札幌テレビ放送イメージソング
- 北島三郎
- 「帰ろかな」
- 九重佑三子
- 「コメットさん」 TBS『コメットさん』テーマソング
- 「ウェディング・ドレス」
- 「しあわせ」
- 「青い恋」
- 「抱きしめて」
- 堺正章
- 「明日を祈る」
- 「なんでこんなに」
- 坂本九
- 「上を向いて歩こう」 全米チャート・ビルボード3週連続1位。 世界70ヶ国でリリース
- 「明日があるさ」 2001年にウルフルズとRe:Japanのカバーで再ヒット
- 「一人ぼっちの二人」2008年の連続テレビ小説『だんだん』の中で使用されている。
- 「銀座の夜」
- 「さよならさよなら」
- 「世界の国からこんにちは」 日本万国博覧会(大阪万博、EXPO'70)テーマソング。
- 「そして想い出」日本初の手話による手話のための歌
- 「口笛だけが」「夢を育てよう」「フライパンの唄」「銀座の夜」「太陽と土と水を」
- 「生きていてよかった」ほか多数
- 坂本スミ子
- 「夢であいましょう」 NHK総合テレビ『夢であいましょう』テーマソング
- 4代目三遊亭小圓遊
- 「マドモアゼル」
- 4代目三遊亭小圓遊・三波伸介・5代目三遊亭圓楽・桂歌丸・6代目三遊亭圓窓・林家こん平・林家木久蔵(現:林家木久扇)・松崎真
- 「アリャリャン音頭」
- 塩見大治郎&ヤング101
- 「若い旅」
- ジャニーズ
- 「若い涙」 デビュー曲。ジャニーズ事務所のスタートを飾った曲
- シング・アウト
- 「涙をこえて」 第1回合歓ポピュラーフェスティバル・グランプリ受賞曲。 NHK総合テレビ『ステージ101』オリジナルソング
- 宝みつ子(「嵯峨野れい」名義)
- 「しゃれた気分」
- 「東京-パリ」
- 「ルイサが知りたきゃ蛇にきけ」
- ダークダックス
- 「近鉄の歌」(近畿日本鉄道社歌)
- 田辺靖雄・梓みちよ
- 「いつもの小道で」
- 「ひとりだけの歌」
- デューク・エイセス
- 「おさななじみ」
- 「続・おさななじみ」
- 中尾ミエ
- 「雨の遊園地」
- 中山千夏
- 「宇宙にとびこめ」
- 西田佐知子
- 「初めての街で」 菊正宗酒造のコマーシャルソング
- 「故郷のように」 NHK『夢であいましょう』今月のうた
- 萩本欽一・真屋順子
- 「欽一・順子の子守唄」 テレビ朝日『欽ちゃんのどこまでやるの!?』挿入歌
- 「妻は夫をいたわりつ」
- ザ・ピーナッツ
- 「私と私」
- 「東京の四月」
- 「幸福のシッポ」
- 弘田三枝子
- 「ブルージン・ブルース」
- 「寝不足なの」
- ジェリー藤尾
- 「遠くへ行きたい」 第4回日本レコード大賞作曲賞受賞
- 「インディアン・ツイスト」
- 松崎しげる
- 「ぼく達はこの星で出会った」 遺作。第1回古関裕而記念音楽祭・金賞受賞曲
- 水原弘
- 「黒い花びら」 第1回日本レコード大賞受賞
- 「黄昏のビギン」(永六輔との共同作詞)
- 「黒い落葉」「青春を賭けろ」「暗い慕情」「野良犬の歌」「この青さこの若さ」「水にうつりし月」「恋のカクテル」「別離」「黒い貝殻」「男一匹旅がらす」「黒い三度笠」「黒い旅鴉」「星の下の瞳」「風に歌おう」「青春を賭けろ」「素晴らしい人生」「東京の夜」「何も云わないで」
- 三波春夫
- 「世界の国からこんにちは」 日本万国博覧会(大阪万博、EXPO'70)テーマソング
- 森山加代子
- 「じんじろげ」
- 「青空を抱きしめよう」
- 「幸福のシッポ」
- その他
- 東海テレビ放送のステーションソング「楽しい1チャンネル」(1963年)
- 「笑点」(日本テレビ系列)のテーマ音楽 (1969年11月 - 現在)
- 「遠くへ行きたい」(よみうりテレビ・日本テレビ系列)のテーマソング (1970年10月 - 現在)
- 「ステージ101」(NHK総合テレビ)のテーマソング (1970年1月 - 1973年4月)
- 「JNNニュース」(TBS系列)のテーマBGM (1975年春 - 1984年秋まで使用)
- 「想い出はいつも」(埼玉県草加市歌)
- 「川口市立新郷東小学校校歌」(作詞は岩谷時子)
- 「柏市立柏高等学校校歌」(作詞・作曲)
- 「月隈こども園園歌」(大分県日田市にある認定こども園。作詞は当時の園長・武内一美)
- サンフランシスコ日本語補習校校歌「いつか世界の架け橋に」作曲 中村八大 作詞 サンフランシスコ日本語補習校生徒
では、今日は最後にこの曲で~おやすみなさ~い♬
私が持っているサインは詩人、哲学者、エッセイストの串田孫一の本です。これは神田の古本屋で見つけて思わず購入しましたが、現在家の中で紛失中です。夢で逢いましょうのアナログ的な音楽と映像には癒されます。
私が持っている著名人のサイン入りの本は、鶴見俊輔の『詩と自由』(思潮社、2007)です。私が呼びかけ人の一人になっている堺・九条の会で講演に来て貰った時(2007年)の展示即売で買い、サインを貰いました。予定では加藤周一氏が講演されることになっていましたが、体調不良のため、鶴見氏が急遽代わりに来られたのです。私は開会の挨拶で、鶴見氏には大変失礼ながら、鶴見氏の紹介は司会者に任せることにして、私がいかに加藤氏の大ファンであるか、氏が来られなかったのがいかに残念であるかを話したのでした。加藤氏はその翌年に亡くなられ、鶴見氏も2015年に亡くなられました。
学生時代は、その時に勉強していた楽譜の裏表紙に著名な外国人ピアニストのコンサートに行っては、終演後にサインしていただき、それをお守りのようにして、試験に向けて練習したというのが多いですが…
変わり種としては~
その昔、演劇に興味を持ち、仲代達也さんの無名塾に入りたくて手紙を書いたなんてことも(20代前半)ありましたが、大変達筆な丁寧なお言葉でお返事をいただき、今でも家宝として大切にしまってあります。
また、映画「Shall we ダンス?」が流行った時には、その映画からソシアルダンスに興味を持ち、ダンス雑誌をきっかけに、その振付をされたわたりとしおさん(東大のダンス出身)と知り合う事になり、サインはもちろんありますが、数年、浅草橋のダンス教室へ通った懐かしい思い出があります(そのことについては、またいつか書きたいと思っています)
家宝にしていらっしゃる仲代達也さんの手紙の話もありましたが、それに関連して、私が貰った貴重な手紙、そして、貰ったと思っていたところ、実は貰えていなかったサインのことを書きます。
貰った貴重な手紙とは、反陽子発見の業績によって1959年度ノーベル物理学賞を受賞したエミリオ・セグレ博士からのものです。博士から手紙を貰うに至った経緯とその手紙の和訳を、私の最初の職場(略称「大放研」)の広報誌『大放研だより』に掲載し、それを私のホームページの下記URLのところに転載してあります。この手紙の現物(文はタイプ打ちですが、サインはもちろん入っています)は、家宝にして仕舞い込んでおくのももったいなく、時折展示して貰えるような、大阪市立科学館あたりにいずれ寄贈したいと思っています。
http://ideaisaac.web.fc2.com/slow2b.html#sec2-9
上記URLの文頭にある「木村毅一先生」とは、私の大学での恩師で、湯川秀樹博士の同期生でもあり、私の最初の職場の初代所長を兼任していた方です。
貰ったと思っていたところ、貰えていなかったサインとは、湯川博士のものです。私は物理学科3年の後期に湯川博士の量子力学の講義を受講しました。試験では、3問中1問について、物理学的に解法は分かっていながら、数学的には正解に到達出来なくて、成績は「良」という芳しくないものでしたが、単位は貰えました。それで、受教簿に湯川博士の手で講義名、単位、成績、そしてサインが記入されているとばかり思っていました。それにしては、サインの文字が書物などで見る博士の字体とはいくらか異なるようだという気もしていましたが、のちに同期生から聞いたところでは、湯川博士は私たちの試験の頃に海外出張中で、当時の助教授が代わりに採点や受教簿への記入をしたということでした。
Tedさんの御専門は原子核など物資の究極を探ることだと理解していまが、私も”原子”をかすめるような仕事をしたことがあります。それは原型炉であるもんじゅの次の実証炉を開発するという国の方針が決まった後に、電力中央研究所に高速増殖炉の免震設計技術指針をつくるプロジェクトが発注され、私は出向して免震設計法を作成する分化会の運営を担当しました。ここでサインの話になるのですが、柴田翔(芥川賞作家、東大教授)のお兄さんのである柴田翠先生(原子炉施設の耐震設計の第一人者・東大生研)が免震分化会の主査になられたため先生と頻繁にお会いし指導を受ける機会に恵まれました。年賀状も毎年いただいていましたがすべて印刷で一度だけ自筆でかかれたハガキをいただきました。ノーベル賞受賞者に関わるなど別世界の話ですが、自分の過去は大事にしたいと思います。
茂木さんは、高速増殖炉免震設計法作成分化会の運営を担当され、『部分と全体』も読まれたとは、原子核・素粒子の世界にずいぶん近づいていらっしゃったのですね。私も『部分と全体』を愛読し、英訳版 "Physics and Beyond" も読みました。さらに、原書 "Der Teil und das Ganze" のペーパーバック版も買いましたが、これは積読になっています。
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