皆様、長くて暑すぎる夏から、今日は急降下、一気に秋を通り越すような肌寒い一日でしたが、お元気でお過ごしですか?
さて、今宵の1曲は~さだまさしの「秋桜」~昭和歌謡の中でも、名曲中の名曲ですね!
さて、ウィキペディアによると~
曲を制作したさだは、山口百恵側から依頼を受けて約2年間、忘れていたと言い、その後半年かけて完成したと語っている。さだはレコーディングの際には立ち会えなかったが電話で「(結婚をテーマにした作品であるため)まだピンと来ないでしょう?」と尋ねた際、当時18歳だった山口は「はい」と正直に答えている。しかしその後、結婚を期に引退するラスト・コンサートの日に「この歌の意味がようやく分かりました」というメッセージをさだに送ったという。
本作は元々「小春日和」というタイトルだったが、曲を聴いたプロデューサーの提案で「秋桜」に変更となった。当初、さだはタイトルの「秋桜」を ”コスモス” と読ませるつもりはなく、本来の和名である ”あきざくら” とするつもりであった。
嫁ぐ娘が母を想う歌であり、さだは後に同じシチュエーションを母親の視点から歌った作品「秋の虹」を制作している。
リリースから約半年後、さだがアルバムでセルフカバーし、その他、中森明菜、福山雅治、平原綾香などポップス・演歌・クラシックなどのジャンルを問わず数多くの歌手によりカバーされている。
さて、今回も、まくらが歌謡楽団フルート奏者であり、写真家でもある茂木氏より、たくさんの秋桜のお写真をお借りしましたので、ほとんどぶっつけ本番の一発録りで、大変お恥ずかしい歌声ではありますが、よろしかったらお聴き下さい
ピアノを弾きながらこんな難しい歌を歌われるなんてすごいです。高音部も綺麗に聞こえました。これからも色々聞かせて下さい!
演奏は拙くても、映像がハッと目を惹く鮮やかさがあるので、再生回数の伸びが凄いです。いつも、本当に素敵なお写真をありがとうございます🥰✨
あきマドさんの歌声も聴きたいなぁ〜😍
気になるところとは、「明日への荷造りに 手を借りて/しばらくは楽しげに いたけれど/突然涙こぼし 元気でと/何度も何度も くりかえす母」の部分です。この中で、「手を借りて」の意味上の主語は、嫁ぐために荷造りの必要な「私」と考えられますが、その後の「いた」、「こぼし」、「くりかえす」などの動詞の意味上の主語は、この部分の最後に名詞留めの形で記してある「母」と思われます。しかし、形式上は、途中で意味上の主語が変わったとは理解しにくい構造になっています。「〜して、〜した」とある場合、「〜して」と「〜した」の意味上の主語は、異なることを明示してなければ、同一とみるのが普通だからです。したがって、私はこの部分を聴いたり歌ったりするたびに、引っかかるものを感じないでいられません。
「手を借りて」の代わりに「手を貸して」とすれば、意味上の主語は全部「母」になって、スッキリします。しかし、「貸して」では、意味上はなんだか押し付けがましく響き、発音上はカサカサした感じになるようです。「荷造りを 手伝って」としても、意味上の主語を「母」に統一できますが、この場合の発音も、濁音と促音が入ることで、ゴツゴツした感じになり、必ずしも良くないようです。こう考えると、「荷造りに 手を借りて」は、なかなかスマートな表現ではありますが、ただ、意味上の主語の曖昧な移行が惜しく思われてなりません。
実は私も、この歌を歌うたびに、いろいろな疑問を感じておりました。
まず、冒頭の、淡紅の秋桜が秋の日の〜でメロディが区切れているので、気をつけないと、秋の日に〜と歌ってしまいます。
歌っているのは嫁いで行く私、ですがこの歌は1番は私から見た母親の姿、サビではそんな母親から受ける自分の溢れ出す気持ちが歌われ、2番は、まず自分の状況説明、明日の為に荷造りを行い、母に手伝ってもらう時、少しの間、別れる事を忘れたかのように無邪気に楽しくしていたが、突然母親が本音を言った時、自分も別れの悲しさが押し寄せて来た、そして最後のフレーズでは、嫁いで行く私が母への最後のメッセージとして歌っている〜
2番の主語が抜けているような部分は、歌う人、聞く人に想像させるように、わざとはっきりさせていないのかな?と思ったりしますが、もし、正確に説明していただける方は、よろしくお願いします🙇♀️💕✨
論文の文章では曖昧さがあってはいけませんが、詩歌や小説は、いろいろな解釈の出来るほうが、抱擁力があって良い、ということにもなりましょう。
以前、歌は聴く方によって様々に解釈できる、その自由度が高いほど、優れているというような事を聞いた覚えがあります。おそらく、この歌が時代を超えて、多くの方々に愛される所以かもしれません。
また、リクエストして下さいね😃🎵
①私は庭仕事をしている母の気配を感じながら縁側で荷造りを初めている。
②母が縁側に来て、荷造り途中のアルバムを開いて懐かしい思い(過去)を語るとともに、嫁ぐ私(未来)の心配を払拭するように声をかける。(娘はきっと幸せになると自分に言い聞かせながら)反面、私は母の思いに報えていな過去を反省する。
③アルバムを見終わり、荷造りが最後の段階になったので、それを母も手伝い始めた。
④二人は最後の共同作業を楽しむ。(それは、これまで繰り返してきた二人での作業と同じ風に感じる)
⑤だが、突然母は、これはいつもの作業と同じでは無いことに改めて気づき、感極まる。
ということですが、④に示しましたように文法上の曖昧さを抱えているこの部分について、「しばらくは楽しげに いた」のは「私と母の二人」であると私はこじつけたいです