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なかなか勝てない馬がいる。今日もその馬が走る。
がんばれ、と声が出る。
まなざしは、ゴールの先を見つめている。

医傑凌雲  病には身分の貴賎も敵味方もない   林 洋海/著

2020年11月15日 10時05分01秒 | 読書・歴史


死の間際まで、貧民医療への情熱は衰えなかった。いつも心には、パリで学んだオテル・デューの思い出が輝いていた-。節を曲げず、官に媚びず、患者のために自主独立を貫いた気骨の人、高松凌雲の生涯を描く。

1867年2月29日、朝9時半、凌雲の乗った船はゆっくりとマルセイユ港に入港した。
横浜出航から49日目だった。

「篤(とく)さん、ありゃあ要塞かのう、すさまじいもんじゃ」
高松凌雲の声に渋沢篤太夫(とくだゆう)がデッキから身を乗り出した。
のちに日本の近代資本主義経済の大指導者と仰がれる渋沢栄一も、窓外に次々に現れる圧巻に眼を奪われるばかりで、凌雲の声にも上の空だった。
実は渋沢は徳川慶喜に仕えるまでは「外国はすべて夷敵(いてき)禽獣(きんじゅう)である」といったコチコチの攘夷論者だった。
渋沢は幕府使節一行の中で、一橋家の家臣になる前は高崎の豪農の息子で、出身が同じ百姓とあって凌雲とはうまがあった。
のちに、経済・医療について民間の立場から明治の国づくりを担う二人の巨頭の第一歩は、貪欲な知識欲を満たすことから始まった。

マルセイユには1週間滞在した。
4月11日、一行は首都パリに着いた。

出品商人・清水卯三郎:瑞穂屋
日本からは幕府、薩摩藩、佐賀藩のほかに瑞穂屋が出品していた。
日本の出品の多くは伝統工芸品だったが、その精緻さや高い芸術性で話題になっていた。
渋沢は「航西日記」に各国の万博出品の事物を記録している。
万博の目玉としてエッフェル塔が完成したのもこのときである。

白耳義(ベルギー)のブリュッセルに着く

「戦傷兵国際救済委員会」を1863年に設立した。
ヨーローッパ各国に呼びかけ戦傷兵や捕虜の救済活動に乗り出した。
この会が赤十字国際委員会と名を変えるのは1867年のこと。
凌雲は捕虜が命を保障されるだけでなく、戦傷兵は敵味方なく手厚く治療を施されることを知って感動した。
日本の戦争では、敵の捕虜となるのを恥として自尽したり、捕虜は斬首してその首を晒すのが当たり前だったからだ。

パリ市民病院・・・世界の近代病院の祖といわれ、治療だけでなく死亡すれば必ず病理解剖が行われ、すべての医師が臨床所見と解剖所見を系統立てて結びつけていた。

献身的な看護で有名なナイチンゲールの功績も野戦病院の環境改善で戦病死者を減らしたことだった。
クリミア戦争で従軍看護婦だったナイチンゲールは、戦場で戦死するより、野戦病院に運ばれて死ぬ戦傷者のほうが多いことに心を痛め、これは病院の環境にあるのではないかと考え、その改善に取り組んだ。病室に光を採り入れ、風通しを善くし、すし詰めのベットの間隔を広げて、病棟の環境を善くしただけで40%もあった死亡率が、半年も経たないうちに2%まで改善したという。

陵雲がかなわないと思ったのは外科手術だった。
手術にしても患者に苦痛を与えることはなかった。
患者にクロロホルムという麻酔薬をかがせると、患部を切り開いても痛みを感じることなく手術ができた。
輸血の方法が確立していなかったこの時代、外科手術はいかに短時間で済ませるかが重要だった。

オテル・デューは貧窮の患者は無料で診察していた。
「それは、病が貧困を作り、貧困は病がつくるからだよ」
「考えてもみたまえ、病は軽いうちに診れば、試療も容易で安く済む。病がなければ人は元気に働いて貧困から抜け出せる。つまり、貧困は社会病だ。」
「医は仁術なり」という言葉が凌雲の口からふともれた。

刻苦奮励

権平の覚悟は医者修行に入るにあたって、医者らしい名前に改名したことだ。
凌雲、名前の由来は自ら著した「経歴談」にもないが、
凌とは、雨露を凌ぐという意味があり、雲は青雲を表している。

人体解剖の開祖は蘭医の杉田玄白と思われているが、わが国で初めて腑分を行ったのは山脇東洋である。
「斬首人の腑分お許しの儀」
牢屋敷の雑役が東洋の指示で刑死人の遺体を開き、それをまとめた「蔵志」は、国内の医学会に衝撃をもたらした。
東洋は28枚の腑分の彩色図とともに「蔵志」を完成させた。
「蔵志」は、17年後の1771年、杉田玄白、前野良沢らが江戸小塚原で女性の刑死体を腑分するまでわが国医学会の聖典となった。
その正確さを知って翻訳を決意し、3年余をかけて「解体新書」を出版した。
それまでの漢方の五臓六腑では、女性の生殖器の図はなかったが、男女の性器は外見でもはっきり異なっている以上、臓器も異なっているはずだと考えるようになり、「解体新書」以降は、一般向けの錦絵や書籍にも、女性の図には子宮や卵管、卵巣なども描かれるようになった。

松本良順は視察に来た老中に人体解剖模型を見せて医学には人体を知る必要を説き、解剖学では毎日斬罪人の屍が二体ずつ引き渡されるようになり、解剖実習が行われた。


このころ蘭方医育成機関として最先端にあったのは大坂の適塾と下総の順天堂だった。
順天堂は外科技術を重要視した。
その手術も麻酔を用いることはなかった。

オランダの衰退とイギリスの台頭を知って、英語塾の必要性を認めた。
来日2年足らずで日英会話のテキストを作った語学の天才、米国人のブラウンとヘボン式ローマ字で著名な宣教師ヘボンだった。

凌雲は奥医師に昇進した。
「そのほう英学を学んだとのことだが、余に英の数学を教授せよ」
こうやって凌雲は慶喜の信頼を勝ち取っていった。

火縄銃の有効射程距離はせいぜい50mほどで命中率は2%
長州兵のミニエー銃の有効射程距離は500mで命中率は52%
このころの医者では、体内に残った弾丸を取り出すことなど考えられもしなかった。
傷口を消毒処理して縫い合わせるくらいで、なかには傷口が壊疽状態になったり、破傷風を起こして死亡する者が多かった。

徳川家茂が21歳という若さで死去。
手足の指に麻痺があり、足がむくんで全身がだるいと訴え、脚気とみられていた。
このころ、脚気は死に至る不治の病として恐れられていた。それも貧窮者が罹りやすい結核やハンセン病と異なり、患者の多くは大名や富裕の者だった。江戸に多い病気で田舎に帰ると治ることから「江戸病」とも言われた。実は江戸では精米された白米を常食し脚気になり、田舎では雑穀を食べ、ビタミンB1を自然に補給していただけだったのだが、そのことがこの頃は解明できていなかった。当時、西欧には脚気はなく、蘭医にとっても不可解な病で、欧米の医者からは、日本の特殊な風土病ではないかと見られていた。脚気が社会問題となったのは、日清、日露戦争での兵士の罹病が多かったことで、日露戦争での戦・病死者4万7000人のうち、脚気死亡者は2万7800人で60%にも及び、戦死者を上回っていた。患者になると21万人を越え、陸軍の存亡問題になっていた。

イギリス海軍に脚気患者がいないことから、原因は食事にあるのではないかと考え、パン食に変えたところ、患者は激減した。高木説を頑強に否定した陸軍軍医総督の森林太郎(森鴎外)は米食でも四大栄養素は足りていて「将兵の戦闘力の強化は白米食にある」として白米食を続けさせ、陸軍兵の大量病死という悲劇をもたらした。森の罪はそれだけではない。明治43年、農学博士・鈴木梅太郎が米ヌカから抗脚気有効成分となるビタミンB1を東京化学会誌に発表したが、「百姓学者のまゆつば研究」としてこれも無視した。余業の文学では功績を残した森鴎外だが、本業の医学では、医学史に汚点を残している。

脚気はビタミンB1を多く消費する夏の暑い盛りに悪化しやすい。

毀誉褒貶(きよほうへん)の多い慶喜だが、この異端の将軍の面白いところは、人事や事象に関する差別心がまったくなかったことである。慶喜は「豚一」と影で呼ばれたように肉食も平気で、好んで食べている。獣の乳を飲むなんてと、「牛乳」もやはり好んで飲んでいる。魂を盗られると庶民が恐れた写真も好んで撮った。
のちに、「幕府に人材がいないわけではない、採る道がなかった」と硬直した幕府の制度と因循固陋(いんじゅんころう)な幕府官僚を嘆いている。

フランス公使ロッシュの提言の中で、世界で初めて開かれる国際万国博覧会に日本からの出展を要請していた。
鵺(ぬえ)のような朝廷が国政に跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)するようになり、その無法さえ、幕府は抑えることが出来なかった。「将軍になったとて、何が出来る。考えても見よ。政体が古すぎる。誰がやってもうまくいかぬ」

慶喜の家臣で会計方の渋沢栄一がこのパリ行きにどれだけ意欲的であったかを知ることができるのは、一日も欠かさず日記をつけていることである。「航海日記」「巴里御在館日記」「御巡国日記」の三冊を残している。
凌雲は、慶喜の配慮を感じて、驚きと感謝の気持ちで興奮を抑え切れなかった。
渋沢は「私が初めて汽車に乗ったのは、スエズからアレキサンドリアで地中海の船に乗り換えるまでであったが、汽車の窓から窓の外を見ると、全然透き通って見えるので、何もないと思って、みかんの皮を投げ捨てると、何度投げても戻ってくる。窓にはガラスがあったのだから仕方がない」と、そのときの驚きを記している。*スエズ運河は当時工事中だった。

孝明天皇は徹頭徹尾「攘夷鎖国・外国人排斥(はいせき)」を掲げ、これに従った長州は馬関で外国船砲撃を行い、異人斬りを行ってきた。
「断固たる基礎を据(す)えることは、戦争より良法はない」
「関東の戦争は、実に大政一新の最良法成り」木戸孝允
だがこの野望は勝海舟から見破られ指弾される。
「口に勤皇を唱えて大私を挟み、皇国土朋、万民塗炭に陥るを察せず」
と鋭く倒幕派の野望を追及した。

血管結紮(けつさく)による止血法を伝授した。
患部から弾丸を摘出する専用の器具なども新たに買い入れた。

新政府軍は維新後、廃仏廃寺を行い、お寺や仏像、経典を破壊し、仏教文化とともに、幕府が300年かけて育んだ日本文化を破壊尽くして平然としていた。総参謀の大村益次郎であえ、上野戦争の軍費を作るため江戸城内の骨董、絵巻や屏風などの後世に残すべき美術品を叩き売ろうとして薩摩の海江田から非難されている。
新政府軍は人というより禽獣に近いものばかりで、軍人としての規律も誇りもなかった。
「彰義隊の死体を死んでいることをいい事にして官軍の連中が又無闇に斬る、腕やら肩の辺の肉などは刺身か膾(なます)のようになってしまふ」
「彰義隊の死体が血で汚れていないのは死んでから斬られたからだ」
戊辰戦争では、倒した勇者の腹を割いて生肝を食らうことさえした。
その後は、野山に放置し、犬猫やカラスなどが啄ばむのに任せ、埋葬を許さなかった。
「天皇の力を見せ付けるために、相手に絶望感を抱かせる徹底的に残虐非道な戦争の遂行を為さねばならない」
木戸孝允日記

西洋医学所頭取・松本良順は軍資金3000両を差し出し、自らも会津支援に向かっている。

あまり知られていないが、勝海舟は伊賀者の頭領である
勝安房守は伊賀忍者を使い、幕府も敵方の新政府の情報も一手していた。
勝自身、鳥羽伏見の敗戦は幕僚より早く知っていたという。
幕臣たちの反抗計画はすべて諜報者の手によって勝の掌中にあり、勝はその都度、西軍に内報して、彼らの計画を潰していった。

かつては伊達軍団として恐れられていた仙台兵は、300年の太平で堕落していて、戊辰戦争では敵味方から「ドン五里兵」と嘲(あざけ)られていた。西軍の大砲がドンと鳴ると、指揮官をはじめ戦わずして、我がちに戦場から五里も逃げ去るというのだから、戦士としてはまったく頼りにならなかった。

銃器だけでなく弾薬や食料、医薬品といった兵站(へいたん)は全然考えられておらず。・・・

板垣退助は会津の精鋭が固めた白河街道口と異なり、急峻な天然の要害でもある母成峠から会津攻めをした。

一刻も早く榎本軍を追い払いたい仙台藩は、榎本艦隊の仙台出港を条件に物資の供給を約束した。
米1000俵
酒1000樽
味噌200樽
醤油500樽
塩150俵
酢30樽
沢庵300樽
梅干1200樽
するめ三万枚
大豆50俵
白砂糖300貫目
鶏卵3万個
鰹節500貫
椎茸200貫
焼きパン100箱
番茶300斤
五升芋50俵

茶碗3000人分
箸1万人分
団扇500本
竹箒100本
白半紙紙5万枚
料紙3000枚
杉手桶150
飯杓子200本

驚くべき量だが、仙台から乗船した要員3500名の生活用品なのである。
どこまでも姑息な仙台藩だったが、伊達武士の意地を見せる者もいた。

彼らの悪辣さで最たるものは、疲弊する徳川家臣団の受け皿になるために蝦夷地開発を願い出た榎本軍を「賊徒」と名指し、静岡に退かせた徳川藩に、彼らを討たせようとしたことである。榎本軍の真意を知っていながら、君臣相打たせ、両方の殲滅を謀ろうとしたのだった。この卑劣な案を打ち出したのは陰謀家の大久保だった。この案に冷酷で鳴る木戸が賛同した。木戸は、戊辰戦争で「徹底的に残酷非道な戦争で天皇の力を示し、敗北した東北諸藩兵の遺体は見せしめのために野犬や狐狸(こり)、鳶やカラスの啄ばむに任せよ」とその埋葬や追悼を許さなかった非道な男である。このため自刃した白虎隊などのその遺体は野犬や鳥獣に啄ばむに任され、半年間放置されたままだった。

戊辰戦争では捕虜の観念はなく、味方の傷病兵はともかく、敵兵とみれば病院に入院しているものも医者も容赦なく殺していた。新政府軍に従軍した英国人の医師ウイリスは「私は未だ一度も捕虜を見ていない。敵兵をすべて無慈悲に処刑してしまう日本人のかたくなな戦争行為を改めさせたい」と語っている。

共和国の総裁榎本はオランダ留学中に戦争を観戦し、欧州の捕虜の扱いを知っていた。
だが、敵兵の患者を診た共和国の患者が、敵兵をなぜ手当てするのか、殺せと騒いだ。

この頃は術前術後の患部の消毒が重要だという考えがなく、術後、化膿して手術に成功しても感染症で亡くなる者が多かった。
コッホが結核菌を発見したのが1882年、
治療薬ストレプトマイシンが発明されたのは1944年のことである。
当時、労咳(肺結核)は亡国病といわれた不治の病だった。
毎日、大量な傷病者を生み出す戦場は、医師たちにとって治療技術を学ぶ実践教育の場となった。

五稜郭本営は最後の決戦にあたり、入院患者を室蘭にに逃がすことを勧めたが、凌雲には、赤十字精神にのっとれば、新政府軍といえども病院を襲うことはないという確信があった。
西軍にしても「王政維新の一視同仁」を謳っている以上、傷病者に残虐をくわえるようなことはしまいと確信している。もしさようなことがあれば、私は身命を賭して諸君を守るつもりである」
「そこでお願いだが、もし、適が乱入してきた場合、諸君のうち誰かが発奮して武器を取り刃向かおうとするなら、諸君全員の命は勿論、我々の命もないだろう。無用な争いをしないためにも諸君の武器はすべて預からせていただく」と、説いた。

「これは失礼申した。只今の申し出は委細承知しもした。病者は必ず助けもはんで安心なさるがよかろう。降伏すれば皆等しく皇国の臣民じゃっで、いわんや傷病者を殺戮するなどは固く禁じられており申す」
薩摩の隊長は、凌雲の用意周到さに感動したのか「拙者は薩州隊の池田次郎兵衛と申します。ぜひ、先生のご尊名をお聞きして、お見知りおき願いたい」

今後の無用な争いを避けるために病院の門に「薩州隊改め」と掲げることを願った。
しかし、分院の高龍寺を悲劇が襲った。
分院を襲ったのは松前と津軽の兵だった。入院患者10余人を撃ち殺し、まだ息のあった者を省みず、寺に火をかけ生きたまま焼き殺してしまった。身動きもならない傷病者が炎のなかから救いを求め絶叫するさまを喝采しながら見ていた。
松前藩主・松平徳広には武士としての矜持がなかった。

戦後、松前戦で捕虜になってその地に残った者たちを「反逆者」として捕らえ、粛清してしまった。それも処刑というより虐殺というむごたらしい殺戮をした。松前藩の弱者に対する悪行はそれだけではない。戦死者は鼻を削ぎ目玉をくりぬいて放置した。
戦争中に捕虜になった共和国軍の兵士43人を3ヶ月も水牢に幽閉していた。
「我死せば、魂魄(こんばく)鬼とありて、松前人種を絶滅し、此怨を晴らさでやは」
「松前人の残酷無情、断じて許すべからず」
と凌雲は天を仰いだ。

籠城の諸将は最期の時を覚悟して、それぞれ介錯人を立てている。

亀田斥候所から駕籠で総督府に連行される幹部の4人は処刑を覚悟した。
ところが、猪倉屋という店で降ろされ、そのうえ酒肴でもてなされて、呆然とした。
黒田清隆は庄内藩の戦後処理でも処罰なしと粋な計らいをしたが、この後、榎本ら幹部の除名活動をして全員の命を救ったばかりでなく、その後、明治政府に登用して、榎本らが目的とした北海道開発に従事させた。
このとき、西郷は蝦夷賊徒征伐の遅延を怒り、中村半次郎を参謀とする兵を送っていた。しかし、西郷は共和国軍の降伏を知ると上陸せずに兵を返した。

彼らは銃創患者の体に食い込んだ弾を抜き、傷口が壊疽(かいたん)化していた場合は切断手術で命を救っていた。

凌雲は徳島藩邸に移され謹慎生活に入った。
隙間風が吹き込む吹き抜けのだだっ広い部屋には、手をあぶる火鉢さえなく、しんしんと冷え込む部屋で薄い煎餅布団に身を丸めながら、ひとり凍えてすごさなければならなかった。部屋にもまして酷かったのは食事だった。「賊徒」には食わせる飯ももったいないと思ったのか、飯は打ち出し飯で、それに朝は味噌汁、沢庵二切れ。昼と夜は梅干が一個加えられているだけだった。
ある日、小さな塩鮭が一切れついたので、驚いて牢番に聞くと、正月元旦なので、徳島藩主の特別の思し召しでくだされたのだと言った。謹慎中は風呂を使うことが許されなかった。あまりに過酷な仕打ちに、食事を運んでくる下僕がいたく同情して、2回ほど密かにたらいに湯を汲んできてくれ、タオルで体を拭くことが出来た。

徳島藩は維新にあたって何ほどの働きも、傑出した志士もいなかったので維新に乗り遅れており、新政府から預かった「賊徒」を痛めつけることで新政府への忠義を果たすつもりだったのだろうか。外部との連絡を断たれ、灯りもない薄暗い部屋で相手になるのは食べ残しを狙って徘徊する鼠だけだった。「厳しい寒さにくわえ、満足な副食もなく極度の栄養失調と偏った食事によってリューマチを患った」
「リューマチの痛み」が出るたびに徳島藩を呪うことになった。

このとき会津藩に加担した松本良順も、加賀藩で謹慎させられている。
謹慎は座敷牢だったが、窓があり日が差し込んで明るかった。真冬になると火桶の炭火は絶やさず、寝具も上等なものが与えられた。唯一の楽しみの食事も、謹慎者に与えるとものとは思えないほど心がこもっていた。日に一回は、たらいに張られた熱いお湯で体を拭くことができた。牢番も、良順を先生と呼び、態度も丁重だった。藩邸の用心も、ときより顔を覗かせては「なにかご不自由な事がありましたら、お申し付け下さい」と言ってくれる。

食事も満足に与えず、凌雲を餓死の一歩手前まで落としておきながら、わが藩のお抱え医師となって働いてくれとは、なんという厚顔無恥というか、徳島藩は恥を知らないのだろうか。

同じ頃、松本良順も病院を開設している。
洋風2階建ての病院には、その頃珍しかったガラス窓があり、病院食に牛乳を出して話題を呼んだ。

早稲田大学の祖、大隈重信が買った早稲田の土地5万坪の値段が1万円だったというこの時代、明治の医師の稼ぎっぷりについて松本良順は「医者取得の純利は一日50円を下らず、ひと月にして〆て1500円、一年にして金1万8000円也」で、儲かりすぎだと暴露したが、そういいながら彼は毎晩花柳界で遊んで、病院に通う始末だった。
わが国歯科医の第一号となった小幡英之介も診察が済むと毎夜、紅燈の巷通いをして、それでも使い切れないとぼやいていた。
ところが、医者を凌いで荒稼ぎしていたのが政府の要人である。
明治11年の最高給取りは山県有朋で月給1700円だった。年収で2万400円という巨額なものになる。内訳は参議で500円、陸軍卿で500円、陸軍中将で400円。これに続くのは参議・陸軍中将・北海道開拓長官の黒田清隆で1400円、西郷従道が1400円、海軍の川村純義1400円、伊藤博文と大蔵卿の大隈重信が1000円と続いた。このときの官吏の一番下の判任官17等が12円、陸軍一等兵が1円50銭だったから、政府の要人がいかに稼いでいたかが分かろうと「いうものである。月給1000円の大隈は、給与日になると一人では持ちきれないため、下僕に担がせて持ち帰ったという。山県などは馬車で運んだのではないだろうか。

明治4年7月、廃藩置県により、凌雲は水戸藩御医師の職を解かれ、水戸家の御用医師となった。
仙台の伊東友賀からの手紙に凌雲は愕然となった。
師の石川桜所が獄につながれており、処刑の運命にあるというのだ。

仙台城下には粛清の嵐が吹き荒れていた。
仙台藩は降伏すると、勤皇派の執政・遠藤文七郎が全権を握った。
藩主・伊達慶邦、亀三郎親子には謹慎の命が下り、城下には遠藤による恐怖政治に覆われていた。それまで列藩同盟派に政権を握られ、遠ざけられていた遠藤は、執政に返ると狂気のように戦犯狩りをはじめた。そうすることが新政府軍への忠誠の証であると信じていたようだ。仙台藩による戦争責任者の処刑は数十人に及んでいる。戊辰戦争最大の朝適とされた会津藩でも、切腹を申し渡されたのはか萱野権兵衛ただ一人である。長岡や二本松は戦死者を戦争責任者として差し出した。藩として新政府に抗戦した以上、その責任は藩主以下全藩士にあり、個人にその罪など問えるはずがないという考え方だった。庄内藩などは一人の犠牲者も出していない。箱館戦争など、榎本以下幹部の処刑もなかった。新政府もそれほど責任者の処刑など求めたわけでもない。

欧米の赤十字に倣って発足した「博愛社」
凌雲にとって中立であるべき「赤十字」が、軍部によって設立されることに納得がいかなかった。
赤十字の精神は「政治・経済・宗教からの独立」そして「普遍」である。
中立の立場にない「博愛社」が、本当に前線で、敵方の負傷兵も助けることができるだろうかという疑問があったのだ。

警視庁の川路警視総監は、戊辰戦争で「朝敵」とされた東北士族を中心に、「戊辰の敵が討てる」と煽って、新たに5200人の抜刀隊員を急募した。会津からは猛将・佐川官兵衛が旧会津藩士300人を率いて出征した。

「鶯渓病院」

国家予算に匹敵する4500万円を費やした西南戦争により国家財政は破綻に瀕していて・・・

貧民救済組織、日本版オテル・デュー「同愛社」

慶喜婦人の美賀子には子はなかったが、慶喜は二人の側女に21人の子供を作っている。




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