ほぼ1ヶ月ぶりに円覚寺のお参り。
左足の膝が、軟骨が出て痛みにおわれていました。
でも何とか歩けるようになりました。
この年になると、痛みに負けて寝ていると
筋肉が衰えて歩くことも出来なくなる恐れがあります。
思い切って鎌倉に出掛けました。
井上禅定さんの
「東慶寺歴史散歩」から
家康と天秀尼
室町時代には、京都および鎌倉に尼五山と呼ぶ尼寺がそれぞれ五ヵ寺ありました。
京都では景愛寺・通玄寺。檀林寺・護念寺・慧林寺、
鎌倉では太平寺・東慶寺・国恩寺・護法寺・禅明寺です。
これはむろん五山の制度にならって設けられたものですが、起源はちょっと不明です。
鎌倉の尼五山は、『鎌倉年中行事』の亭徳三年(1454)にはいずれもそろっているんですが、
東慶寺以外は現在廃寺になっていて、はっきりしません。
さて、さて、用堂尼以降ずっと下りまして、
第二十代に天秀法泰尼という人がおられます。
これが豊臣秀頼の娘、つまり、太閤秀吉のお孫さんです。
家康の配慮
さて、この天秀法泰尼という人は、豊臣秀頼の娘です。
元和元年(1615)の大阪落城で秀頼は二十三歳で自害するんですが、
天秀尼はこのとき七歳。
これは正室である徳川家の千姫との間にできた子ではありませんけれども、
秀頼には男の子と女の子がありまして、国松という八つになる男の子は殺されちゃいます。
大きくなって謀反されちや物騒だっていうんで、
かわいそうに六条河原で首をはねられる。
妹のほうは、これもほんとうは殺したいところですが、そういうことをしちや、不惘だ、といって、
そこらに置いたんじや物騒だというんで、家康はいろいろ考えます。
このお寺は、尼寺として、厳重な男子禁制だったわけですね。
大体、尼寺は男子禁制なんですけども、このお寺の場合は、
特別のお寺としての寺法がありますから、
男子禁制ということがとりわけ強い。
そういう意味で、家康は、このお寺に目をつけたわけでしょう。
このお寺へ入れておけば、男は入れないお寺ですから、
大阪の残党に担ぎ出される心配はないということになります。
で、このお寺へ預ける。このお寺の弟子になりまして、
後に二十代目の住職を継ぐわけです。
河津桜が満開です。
朝早くなので雲水さんがならした地面が綺麗でした。
「おはようございます。きれいですね。」とご朝の挨拶。
砂の波を見ていると、遠く波の音が聞こえてくるような気がしてきます。
ありがとうございました。
雨宮りかさんの花ごよみから
「ウグイスカズラ」
木彫りのおひな様は、
桜の着物に素朴な顔立ち
桃と菜の花は強すぎる気がして、
折々の草花を供える。
今日は、蕾をつけた小枝に、
小花を添えて。