先日の大山講で今度元町を探索しようと意見がまとまりました。
本箱kから何冊か引っ張り出して読んでいて新しい発見です。
この中で改めて感動したのは、スコットランド出身のマ-シャル・マ-テンです。
幕末に外国からの圧力で横浜や函館など開港を行いました。
横浜では、新しいいろいろなものが持ちこまれました。
蛤御門の戦いで国内が争っている時期に外国の文化がどんどん入ってきました。
この本を見ると幕末の混乱期にも文化は、どんどん入ってきているのを感じます。
日本にあった横浜山手(鳥居 民著)の最後のところに
大正大震災の復興に腕を振るったマ-シャル・マ-テンについて書かれています。
永大借賃権のことで大いに力を発揮しました。
その上、自分の借地権を市に売却し、顧問料も受け取らず、
米国やヨ-ロッパに出かけた費用も受け取らなかった。
今の山下公園に港を造る案に反対し公園を設置することに努力されました。
今の横浜は、マ-テンのお陰ですね。Ⅰ度外人墓地に行ってお礼を言ってこなければと思っています。
遺骨で山手に還る
マ-テンが腕をふるったのは、震災あとの横浜市の復興に際してである。
横浜でも、東京でも、復興計画は焼失区域全体にわたって区画整理を行い、道路を拡張することに重点を置いた。
東京ではこれが激しい反対運動にぶつかったが、
横浜では山下町の区画整理を行うために、永代借地権者の了解を得なければならず、
しかも多くの永代借地権者が帰国しているために、交渉ができないという困難をかかえていた。
さらに横浜の切実なる問題は、貿易商が山下町に復帰して来なければ、
横浜の復興は望めないという悩みがあったことである。
震災後一年たち、二年だっても、山手は依然として廃墟のままであった。
フェリス、紅蘭、共立の三つの女学校が再建された以外、外国人の家は十数軒あるだけであった。
山下町はといえば、南京町にバラックが立ち並んだだけで、
山下町に事務所を持っているのは、船会社、銀行の支店、貨物陸揚げ業者、
それにわずかな生糸貿易業者が戻ってきただけだった。
多くの貿易業者は疎開先の神戸にとどまり、東京へ事務所を移し、上海へ移転し、本国へ帰っていた。
横浜にはさらにもうひとつ問題があった。
山下町と山手が焼けてしまい、その土地の価値が下落したいま、
永代借地の問題を片付ける絶好の機会だとする主張が強くなっていたことである。
本国に帰ってしまった永代借地権者のなかには、自分の土地を手放したがっている者もいたから、
永代借地権の買収にとりかかることで、不平等条約の遺物を搦手から解決できると、国と市は考えたのである。
いずれにせよ、山下町の区画整理をまっさきに着手し、道路を整備し、
上下水道の工事を行わなければ、横浜へ戻ってくる貿易業者はいなかった。
このためには英国人の永代借地権者に協力を求めねばならなかった。
英国人は、山下町二十万平方メートル、山手四十万平方メートル、計六十万平方メートルの永代借地の
うち二十六万平方メートルを持ち、アメリカ人の借地とあわせれば、全体の七割を支配していた。
政府は山下町の特殊事情を考慮して、この区画整理の実施を市に任せた。
市長渡辺勝三郎は英国の永代借地権者委員であるライジングサン石油会社の
横浜支店長A・P・スコットに協力を求めた。スコットは自分の力ではどうにもならないと考えて、これを断わった。
つぎの市長有吉忠一は、神戸でホテル住いをしているマーテンに助けを仰いだ。
マ-テンは快諾した。かれは一九二四年(大正十三)十月にこの復興事業の顧問に就任した。
つづいてかれは山下町の英、米、仏、中の永代借地権者委員会の連合会委員長に選任された。
さらにマーテンは山手通り拡張のための永代借地権者の委員会の委員長となった。
一九二五年一月にかれは山下町に事務所を置いて、十数人の技術者を雇った。
減歩率十二パーセントで区画整理の計画案をつくり、日本側の案と調整したあと、
各国の委員会の支持を得て、各戸の了解を求めてまわった。
実現のめどがついたところで、かれは本国に帰っている権利者との交渉を行うために
、翌年の七月に単身でアメリカへ渡航し、つづいて英国に渡り、
さらにフランス、ドイツ、ベルギーに帰っている権利者の承認を得てまわった。
こうして一九二七年(昭和二)三月に海岸通りの五番で杭打ち式が行われることになったが、
マ-テンは出席を辞退した。
かれはまたこの期間月額一千円の顧問料も受け取らなかったし、一万円の
出張費も固辞したのだった。
マ-テンが気位の高かったことはよく分るが、いったい、
かれはどうして区画整理に尽力したのであろうか。
年来の友人である有吉に助力を懇請されたとき、
スコットランド生まれのかれの胸には困っている人を助けようというカルヴィソ主義的な気持が湧いたのであろう。
無論、このような心意気だけだったのではあるまい。
震災は横浜の九十五パ-セントを潰滅させた。
居留民にとって潰滅したものはなんだったのであろうか。オーティス・プールはつぎのように述べる。
「救難船で日本を去った大部分の人は、そのまま故国へ去ってしまった。多くの人びとは戻ってこなかった。
横浜駅です。
元町の百階段 関東大震災で崩壊してしまいました、
現在の状況です。ちょっと気づきませんね。
ありがとうございました。
今日は、何とか時間を作って鎌倉に行ってきます。
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