作品「真田丸」は、新資料発見に伴って、再編集を初めています。
※学者目線では無い、「聞き取り」「歩き調査」ほか、による、戦略的な視点に立った現実”ジオラマです、(歴史的信用度95”)
10年前に作った、私のジオラマは最初から、木彫り人形が主役なので、主戦場に主眼を置いています。
まずは、「位置?」
・秀吉時代の、猫間川沿いには、桜並木があり、露天商も出ていて、
多くの民が花見がてらに、黒門を通り「玉造稲荷神社」にお参りを
していたそうです。(何が言いたいか、?)総構えの内側は、平時には解放していたのです、しかし城の内を、自由に行き来させるはずも無く、その道は※最短であったと考えるのが普通”
この参道を真っすぐ南に下ると、総構えの掘り、を挟んだ、現三光神社と心眼寺坂の丁度真ん中辺りに・・・
黒門の位置を、自分なりに、ほぼ確定”
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/7c/6ae568352deaa767c89ca923adebcbc9.jpg)
左が本陣、真ん中の道が「心眼寺坂」右は「寺町」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/67/b4/0f65245303bd83f8a6121a57414c5c08.jpg)
から猫間川へ
・黒門への敵軍の進路?
平野郷と四天王寺から、猫間川沿い、もう一つは「高津宮」から
鎌神社に至る山道(現谷町筋の一つ東の道)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5a/7b/312140954e91ca1cd642bee23d1700b7.jpg)
ジオラマ鎌神社(未完成)左の大木に鎌が食い込んでいます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/88/bf97ba92e54a2611f4ceef98f038601d.jpg)
鎌神社の東隣りが「真田本陣」
この辺りは、※道との高低差がほとんど無く、ここだけは、かなり深く堀を掘ったと推察”できます。
(※徳川が総構え空堀を埋めるために、本陣の山を崩しているので
当初はもっと高低差があったでしょう)
・地形
西側・・・鎌神社、本陣の西は、現松屋町まで続く山
南側・・・現真田小学校の前から、味原池まではなだらかな坂
東軍が、塹壕や築山で、攻撃の場所”
東側・・・猫間川沿いの道、(昭和30年代に川を埋め立て)
現三光神社の山が川まで続き、※そこだけ道幅が狭く、
・作戦
東軍・・・本隊は猫間川沿いから黒門へ(真田丸は攻めるな”の家康の進言の記録)
西軍・・・現三光神社の東南(黒門、鎌神社への三叉路)を主戦場に、攻めさせるための、陣を置き、主力を配置”
上記の、※猫間川沿いの狭くなった路・・・大軍なれば、必ず、ここで滞留がおこる”
真田丸は二つに?現明星学園に守りの本陣”ともう一つ”
「守りでは無く、攻めさせる”」を、目的にした現三光神社の山(松江からの新資料「絵地図」に、二つの「丸」が、こちらが本来の馬出し?)
長くなりましたので、次回に続けます、
私のジオラマの正確さの自慢?も入れて、ほかの真田丸ジオラマの矛盾にも、鋭く指摘・・。