町並み情景工房

主戦場に主眼を置いた「真田丸ジオラマ」


 作品「真田丸」は、新資料発見に伴って、再編集を初めています。
※学者目線では無い、「聞き取り」「歩き調査」ほか、による、戦略的な視点に立った現実”ジオラマです、(歴史的信用度95”)

10年前に作った、私のジオラマは最初から、木彫り人形が主役なので、主戦場に主眼を置いています。
 
まずは、「位置?」
・秀吉時代の、猫間川沿いには、桜並木があり、露天商も出ていて、
  多くの民が花見がてらに、黒門を通り「玉造稲荷神社」にお参りを
  していたそうです。(何が言いたいか、?)
総構えの内側は、平時には解放していたのです、しかし城の内を、自由に行き来させるはずも無く、その道は※最短であったと考えるのが普通”
この参道を真っすぐ南に下ると、総構えの掘り、を挟んだ、現三光神社と心眼寺坂の丁度真ん中辺りに・・・

   黒門の位置を、自分なりに、ほぼ確定”

左が本陣、真ん中の道が「心眼寺坂」右は「寺町」

から猫間川へ

・黒門への敵軍の進路?
 平野郷と四天王寺から、猫間川沿い、もう一つは「高津宮」から
 鎌神社に至る山道(現谷町筋の一つ東の道)
  

ジオラマ鎌神社(未完成)左の大木に鎌が食い込んでいます。

鎌神社の東隣りが「真田本陣」
 この辺りは、※道との高低差がほとんど無く、ここだけは、かなり深く堀を掘ったと推察”できます。
  (※徳川が総構え空堀を埋めるために、本陣の山を崩しているので
    当初はもっと高低差があったでしょう)

・地形
  西側・・・鎌神社、本陣の西は、現松屋町まで続く山
  南側・・・現真田小学校の前から、味原池まではなだらかな坂
       東軍が、塹壕や築山で、攻撃の場所”
  東側・・・猫間川沿いの道、(昭和30年代に川を埋め立て)
       現三光神社の
山が川まで続き、※そこだけ道幅が狭く、
・作戦
  東軍・・・本隊は猫間川沿いから黒門へ(真田丸は攻めるな”の家康の進言の記録)
  西軍・・・現三光神社の東南(黒門、鎌神社への三叉路)を主戦場に、攻めさせるための、陣を置き、主力を配置”
上記の、※猫間川沿いの狭くなった路・・・大軍なれば、必ず、ここで滞留がおこる”
  真田丸は二つに?現明星学園に守りの本陣”ともう一つ”

「守りでは無く、攻めさせる”」を、目的にした現三光神社の山(松江からの新資料「絵地図」に、二つの「丸」が、こちらが本来の馬出し?)

長くなりましたので、次回に続けます、

私のジオラマの正確さの自慢?も入れて、ほかの真田丸ジオラマの矛盾にも、鋭く指摘・・。











  

 

 

 





 
 





 
 

 
 



町おこしのためのジオラマです。

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