2016・5月28日
幸村ロード「やま元」へ、「真田丸ジオラマ」の引き上げに?
前日にその旨の電話を入れると「テレビ局数社が写真を撮って行きましたよ」の情報・・・
「この場所にジオラマが、なじんでいますよ」の、おことば”
結局、テレビより実物を・・・の人のために、と引き上げ断念”
神戸のご夫婦さんが、まさにそれ・・・
「テレビで見たよ」の人10人以上・・・すごい影響力
目的変更・・・新作「大坂城総構え狭間障壁、空堀」を真田丸の背後に置き写真撮影に・・・。
九度山の「町おこし応援」で、作品「家康殿捕まえちゃいました」から始まった、真田丸ジオラマ造りでした。
あれから、ほぼ10年「やっと時代がきましたね」と、ファンの方々から励まされている今日この頃です。
ニュースを・・・同じく幸村ロードの「大豆パン」さんから展示依頼を受け・・・ロード2か所同時展示になりました。
もう一つ・・・毎日新聞のカメラマンから取材と写真撮影ありました。
上は新作「大坂城黒門・猫間川・現三光神社・現真田山小学校」を東から見た所です。
最近の論調で「三光神社は真田丸に含まれない、もっと600m西」と最近になって多くなされています、出丸の規模解釈で変わりますが、私は違います、本陣はともかく真田軍が居た所すべてが真田丸だと考えます・・・
・徳川軍の目指すのは、猫間川沿いに続く黒門、完璧に要塞化され、まして急坂で離れている出丸を攻める必要性が?
・徳川軍にとっては出丸が、目の上のタンコブ?の意見も、
背後の心配?の論調も・・・これは無い・・・20倍からの進撃軍に背後は無い”
・地形考察・・・現三光神社の東に小高い山が昭和30年頃まであった”と、神主さんの言、あの当時ならその裾のは猫間川まで続いていて、黒門への道はかなり細く勾配も・・・当然、進撃する大軍に滞留がおこる、あの信繁(幸村)が、これを計算しない事はありえない”・・・では最前線は?やはり真田山小学校の東側、三光神社の南東部と考えるのに矛盾はない。
(以前に撮った神社の南東端です、左の猫間川(現玉造筋)まで150m、徳川の埋め立てや都市開発以前はもっと急こう配だったでしょう)
先日、テレビ取材で、「三光神社は真田丸ではなかったのですね」と失礼な言に、神主さん「そんなんも含めて話題にされる事がうれしい」と大人の対応” 見ていた私は、自分も否定されたようで・・・
三光神社の名誉?のため、真田丸ジオラマ3作目を造ることに・・・ほぼ完成はしていますが、発表は、三光神社近辺の現地写真でと・・・。