タモリさんの「高低差好き」をテレビで知りました、またその見識の高さには、おどろかされ、すっかり尊敬させられました。
私も、城跡限定ですが、高低差からみる、戦の寄せ手、守り手の作戦などを、考えながらの城跡と城下町の散策が、たまらなく好きで、ジオラマ連れの旅を繰り返しています。
・次の太河ドラマ「真田丸」に合わせ、私の人形ジオラマ作品「真田丸」
(組立式で横2500㎝、兵の数50体、全体像は動画あります)
にも依頼があり、現在10月10日までの期間、玉造商店街「やま元」さんで、展示しています、この少し前には、高価な「天王寺ジオラマ」を展示していたそうです、とても立派で、学者さんの監修もなされています。
が、疑問???だらけで・・・
・ほかの城跡に残る出丸や出丸の役割を参考に作られたと思いますが、
当地を何度も歩き、距離、現代の高低差から、幕府軍に埋められたであろう場所の想定など、上町台地全体の高低差から生まれた、幸村らしさの作戦と、武将としての立ち位置と、出丸(馬だし)で戦う、意味? 城攻めの苦手な家康に対しての戦い方、そんな、アレコレを考え合わせると、「あの形で定説化されてしまう心配が」・・・
私なりの答えを出すべく、”真田丸をリアルに復元”、に挑戦”・・・作っているうちに、疑問はますます膨らみ、見えてくる物も・・・
作品95㎝で奥行65㎝(実際は、左真田山から黒門まで2キロ)
まず、与えられた期間
幸村の九度山脱出は10月4日、戦いの始まりは12月初旬、なのに・・・
・真田丸は盛り土で出来たとする、文献が多く、定説化されているが、期間的に考えると、掘って高さを作る方が早いし頑丈”
・どの写真を検索しても、真田丸のゆか面は平面??ありえない”
・家康の茶臼山着陣の情報などは、ラッパ(スッパとも)などから得ていたはず”で、時間との戦いが・・・
外周2000メートルもの距離を、は”無理”・・・おそらく、東西に三段以上の高低差があったはずである。
構築物
絵的に必要だとは理解するが、テレビ、映画、ジオラマ写真、どれを見ても、やはり立派で多すぎる、必要最小限(本陣・火薬庫・陣馬小屋・雨露しのぎの武者溜まり・矢玉除けの石積み・防御柵・井戸・見張り矢倉)にとどめ、時間を、寄せ集めの浪人達の訓練に割く(戦いをみれば、統率など、優れた結果、結論が見える・・・)。
・太河ドラマでも、映像を重視した真田丸に?・・・チョット心配”
出丸の東西規模
・馬出し口、2か所の位置から考えると答えがみえる、何故なら、ここの東西の高低差を利用しない手はない、(後述)1ヶ所では、撤収時に、敵に背後を見せる”(この説自信アリ)
・現、鎌八幡神社の、東側以外の3方は山で、特に西には現谷町筋辺りまで深い山(現真田山)で、その先は鋭い崖になっており、この地形を利用し、
(写真は、北の馬出し口、この左下あたりが鎌八幡・正面が本陣)
北側は大坂城総構えの空堀に利用
本陣はその横、東側に置き、西の馬出し口はこの前を、なだらかに堀り・・・ここが出丸西の端と推察、「鎌神社の北東横」・・・「幸村が鎌八幡に数回訪れていた」の記録からも、やはり神社は、本陣のすぐ近くであったろう、が結論。
では東の端は?
・城とは完全に独立していた事から、大阪城南の黒門近く(現三光神社東北200m)まであったと考えるのに矛盾はない、現三光神社の北東角は小高い山(現在はマンションが昭和中期まであったと神主さんの言)、この山の北側で総構え空堀との間が、敵からは死角になり。東の馬出し口に最適か?、
・出丸の北側、総構えとの間の、空堀だが、西に4分の一ほどは、猫間川の水が入っていた、この堀と川との接点に”大坂城南黒門”があり、馬出し口の条件である勾配を考えると、真田丸東の端は黒門の横で、双方の守りには、一重要な場所である、猫間川沿いの道は狭く作り、ここからの侵入を防ぐための真田丸であり、また補給、連絡の機能も、この馬だし口で果たしていたのであろう。(三光神社と地下鉄玉造駅の線上、真ん中あたり)
(・・・黒門?・・・認められた者以外、一般の立ち入りを制限していた。その内側は、外堀までの間が、下級武士たちの家屋群。ちなみに、外堀から、内堀の間、玉造稲荷を含めた所が、上級武士の屋敷群)
・南側面は?
現代の真田山公園まで、南北にゆるく続く勾配がある、幸村が掘る事で高低差と堀をこしらえた、と結論をだすと、後に幕府軍が、真田丸を崩し、現真田山小学校前の堀を埋めた結果の勾配と結論”
徳川軍はなぜ真田丸に攻撃をかけたか?
考①・・・大坂城内に侵入するには、東は、広い湿地帯の、ぬかるみ、他は大きな川の掘りで囲まれており侵入口は南門だけ”
考②・・・真田丸の勾配は、なだらかで攻めやすかった(策)・・・他の城で現存している、出丸を調べると、高さと、水堀に囲まれ、守りの機能だけ、幸村はその役割は総外堀に任せ、戦える、攻めの出丸を整備、
(写真・三光神社の北側の山に、「見張り矢倉があったはず」の神主さんの言、それを尊重し、櫓を置きました、位置的には当然の合理性があるので”・・・。)
では、幸村は、なぜに、ここで戦うことになったか?
考①・・・「大坂方武将で、唯一城持ち大名に無った事が無い」を理由にかなり阻害されており、「これは自分と家康の戦である」と割り切った、のでは?
考②・・・大阪城の弱点である南側は、現天王寺駅ぐらいまで緩い勾配が続いており、その守りは8mの石垣と、鉄砲狭間障壁の計10メートルの高さだけが頼り。
考③・・・大阪方の、守りに徹する作戦に反発し、戦う出丸を整備”
(作品・抱え筒のいち木造りです、射程距離のある大型銃を多く使用していたが、持ち運びが、野戦には不向きなため、夏の陣の敗因のひとつとも・・・)
幸村の軍略
①・・・鉄砲の戦だけを想定、総構えの鉄砲狭間では、足元に死角ができるし、寄せ手側の数に対し銃眼に限りがある。
②・・・出丸の勾配を鉄砲の射角に合わせ、なだらかに”・・・しかし、守れる高さと規模も計算し。
③・・・おびき寄せ・・・最初は篠山(出丸南東1000m)に布陣し、敵の進軍に合わせ、出丸に撤退、追撃軍を誘う・・・
敵側背後(現真田山グランドあたりと推定)は急勾配に”深く掘ってあり、寄せ手の進行と攻撃場所(現三光神社の南側面から北へ1キロを想定)をも、限定させ、敵将の先陣、功名争いを待つ”
④・・・防御棚で手間取る、敵に銃撃、戦陣が乱れた所に、 西の馬出し口から、騎馬隊が急坂を利し掃討、時間をかけずに、東の馬出し口へ、すぐに撤収”を繰り返す。
最後に軍略家、家康は・・・
・越前隊他は、なだらかな敵陣をみて、「一期に落とせる]と判断(幸村の策)竹束楯で押し寄せる、が、撃退”数回繰り返すも、そのつど、数百単位の死傷者が(計1千とも2千とも)。
・家康は南門からの侵入は諦め西側の川(堀)沿いからと、北側の本丸を目標に、大型砲のみの攻撃に変更、このころには、もう真田丸は小競り合い程度の戦に・・・
・さすがは、「待ちの家康殿”」あとは講和の使者待ち・・・”
おわり
武将名、旧地名、および参考文献などの名称等は、省きました。
・現在の建物位置などはジオラマの上でも説明しています。
・あくまでも私見です、批判と受け取らないで下さる事を願っています、また、考え違い等ありましたら、お教えください。
・10月10日、作品の受け取り時に、この「リアル復元真田丸」を、三光神社で現場撮影して、この記事に追加掲載します。
・また当日昼頃から、その近所で、台車ライブを予定しています。