拝島正子のブログ

をとこもすなるぶろぐといふものを、をんなもしてみむとてするなり

マタイの元詩=メンブラ説は容疑不十分にて不起訴

2021-05-09 07:52:37 | 音楽
バッハのマタイ受難曲の「血潮したたる」の原曲の話は一段落したつもりでいたら、新たな、興味ある疑問をK田美女が提供してくれた。マタイの「血潮したたる」の歌詞の元詩はブクステフーデの「我らがイエスの四肢(Membra Jesu nostri。略してメンブラ)」の終曲のラテン語の詩だという噂があるのだそうだ。メンブラと言えば、以前、シュッツを歌う会でとりあげたとき対訳を作ってあった。どれどれ。おっ、第7曲に「Salve,caput cruentatum(ようこそ!血潮したたる御顔)」とある。これのことか。これがマタイの「血潮したたる」の元詩なのか(バッハがこれを独訳してマタイに入れたのか)。あらためて捜査をした。その結果、容疑不十分で不起訴とした(メンブラはマタイの元詩ではないと判断した)。今回の捜査結果は次のとおりである。「事件」を時系列で並べよう。
13世紀に、アーヌルフ・フォン・レーヴェンが、ラテン語で、「Oratio Rhythmica」という詩集を作った。これは、十字架につけられたイエスの7肢について表したものである。当初、この詩集は、12世紀に、ベルンハルト・フォン・クレールヴォーが作ったとされていたが、今日では、作者はレーヴェンとされている。
1601年に、ハンス・レオ・ハスラーが、「私の心は千々に乱れ(Mein G’müt ist mir verwirret)」を作曲した。
1656年に、パウル・ゲルハルトが、賛美歌「血潮したたる(O Haupt voll Blut und Wunden)」を作った。メロディーは、上記のハスラーの曲のリズムを簡単にしたものであり、詩は、上記のレーヴェンのラテン語詩のうち第7節を独訳したものだった。
1680年、ブクステフーデが、「我らがイエスの四肢(Membra Jesu nostri)」を作曲した。歌詞は、上記のレーヴェンのラテン語詩を7節すべてラテン語のまま採用した。
1727年、バッハのマタイ受難曲が初演された。その中に、コラール「血潮したたる(O Haupt voll Blut und Wunden)」があり、これは、メロディー、詩とも上記のゲルハルトの賛美歌と同じである。
結論。メロディーについては疑問はない。ゲルハルトの賛美歌を経てハスラーの曲にたどりつく。今回、問題となったのは詩である。こう結論づけた。マタイの「血潮したたる」の詩の直接の元詩は、メロディーと同じくゲルハルトの賛美歌である。その賛美歌の歌詞は、レーヴェンのラテン語の歌詞の一部を独訳したものである。他方、ブクステフーデの「メンブラ」の歌詞は、レーヴェンの詩をすべてラテン語のまま採用したものである。

レーヴェンの詩の一部→ゲルハルトが独訳して賛美歌に使った→バッハがその賛美歌をマタイに使った。
レーヴェンの詩の全部→ブクステフーデがラテン語のままメンブラに使った。

したがって、「バッハのマタイの歌詞の元詩がブクステフーデのメンブラの歌詞」なのではなく、「マタイの歌詞の元になった賛美歌の元詩と、メンブラの歌詞が同じ」というのが正確な表現である。言ってみれば、マタイはキズナ(父はディープインパクト)産駒であり、メンブラはディープインパクト産駒、ということである(最後に、ワケの分からないことを言ってたりして)。以上!K田美女様、ありがとうございました。お陰様で、楽しい捜査のひとときを過ごせました。