拝島正子のブログ

をとこもすなるぶろぐといふものを、をんなもしてみむとてするなり

音楽は聴きたいときに聴きたい

2020-11-11 09:07:28 | 音楽
人はカフェやバーでちびちびやりながら思索をするという。すると、私にとってのバーはサイゼリヤだ。安い(わりには旨い)ワインをちびちびやりながら支離滅裂に思考を巡らす。今、考えたいのは島への移住のこと。ところが、ここのところトム・ソーヤーを読むのが大変で(ドイツ語で読んで、分からないところ(=大半)をあんちょこ(邦訳)で確認しているから、普通に邦訳を読むより5倍時間がかかる)、思考を巡らす暇がない。だから、島への移住も形にならない。因みに、マーク・トゥエインの作品では、「ハックルベリー・フィン」こそが代表作だと言う人がいるが、こっちは読んだことはない。トム・ソーヤーをやっつけたら、今度は無理をせず日本語訳で読むつもりである(「ハックルベリー」でググったらそういう名の実がたくさんヒットした。そっか、「ベリー」だもんな)。サイゼリヤで島への移住が形にならないのはトム・ソーヤーのせいだけではない。店内にはいつも音楽がかかっている。これに気をとられる。大体、日本では音楽がかかりすぎである。店内のほか、電車の駅も着くたびに音楽が鳴る。山手線なんかあっと言う間に次の駅に着くから音楽が鳴りっぱなしである(上野駅はマイスタージンガーである)。施設の中だけではない。夕方になると、区がでっかいスピーカーから音楽を鳴らして「よい子は、おうちに、帰りましょう」と言っている。うちなどは、100メートル歩いたら埼玉県で、そっちからも「よい子は、おうちに、帰りましょう」と聞こえてくる(どちらの放送も二箇所に句読点が入る)。しかも、足立区と八潮市では「よい子が家に帰る時刻」がずれたりする。真に真面目な子はどっちの言うことを聞くべきか悩むだろう。罪作りな行政である。だいたい、私が子供の頃はこのような「お節介」はなかった。子供は、暗くなったら帰るものであった。だいたいがして、今の社会はお節介がすぎる気がする。だがまあ、憲法史からいうと、国によるお節介は増えていくのが潮流である。すなわち、市民が民主主義を勝ち取った当初は「ほっといてもらう自由」が尊ばれたのだが、ほっとかれたら貧富の差が生じ、持たざる者はどんどんぼんびーになったので「実質的平等を達成するため国(行政)はもっとがんばれ」ってことになってきている。まあ、そのことを否定するわけではないが、私的にはもうちっとほっといてもらいたい。音楽は、聴きたいときに聴きたい。私らしい話で締めよう。スペインでは、コロナ禍で状況は変わったが、その前は、男女の出会いはバーの片隅というのが定番だったという。しかし、私にとってのサイゼリヤは、出会いの場所にはなりにくい。席がひろびろとしていて、他の席の人とほとんどコンタクトをとるチャンスがない。それがよくて「思索」に行くのだが、サイゼリヤで恋に落ちるのは無理のようである(私にとってのメリル・ストリープは現れないようである)。