フランキーが「母の瞳」を歌い終えた後のジップ・デカルロとトミーの「目配せ」は何なのか?
実は…「ジャージー・ボーイズ」の舞台では、ジップが出てくるのは映画よりもずっと後。映画では、クリストファー・ウォーケン演じるジップが最初から出てきますが。
これは、なんというか…単なる「ハリウッド映画的配慮」というか、キャストの中で映画俳優としてもっとも知られているウォーケンの出番を意図的に多くしただけかな…という気がしないでもありません。
「レミゼラブル」の映画のときだって、舞台出身俳優が演じたエポニーヌとアンジョルラスがスクリーンに映る回数が微妙に減らされていましたしね。やることが露骨…バリケードでアンジョルラスが「たとえ倒れても、後に続く者たちはいる!」と果敢に歌うシーンなんて「声はすれども姿は見えず…」あそこでアンジョルラスを映さないなんて、一体どういうこと!?(はいはい)
まぁ~とにかく…このジップ役がクリストファー・ウォーケンに決まった時点で、ジップの出番は舞台よりも多くなっているであろうということは予測できました。
舞台では、例の宝石の「ジャージースタイル・ショッピング」で詐欺被害にあったフランキーが、トミーに助けを求めに行って「ジップに頼むんじゃないんだろうな?」というシーンで、初めて彼の名前が出ます。このあたりは映画も舞台も台詞は同じ。舞台では、ストリーが始まったときから、彼らの住む地区はマフィアと切っても切れない関係にあるのだろうということは仄めかされますが、実際に本物が出てくるのは後なのです。
そして、映画ではトミーがどうやって例の二人組を懲らしめたか…というところも映し出されます。(あそこのジップの台詞、可笑しかったですね)間抜けな二人組は、ジップに呼び出されただけでも生きた心地がしなかったでしょうが、帰り際にトミーにまで「お前ら、俺の仲間に見張られてるんだぜ!」と念を押されます。それがジップから大いに褒められて、トミーはワンポイント獲得したような感じになっています。
映画では、最初のシーンで、トミーが観客に向かって「俺はジップ・デカルロとはいい関係を築いているんだ」と言うなり、ジップに「トミー、私のドライクリーニングをとってくるように!」と言い付けられます。舞台では、ジップが初めて登場するシーンのやりとりなのですが、とにかく、ここでは観客から爆笑が起きます。「な~んだ、ただの使い走りじゃないか!」アメリカでは、映画館でも笑いが起きたのですが…まぁ、日本の方も「なんか変だな?」とは思われたんでしょうが…でも「笑っていいものかどうか」というシーンだったんでしょうか。
とにかく…舞台では、例の詐欺被害騒動のシーンのあと、クラブにジップが初めて姿を見せるのです。トミーが「フランキー、ジップ・デカルロ氏だ。知っているだろう?」と言うと、「ああもちろん、こんにちは、デカルロさん」という会話が入ります。映画のように、日ごろからフランキーがジップの寵愛を受けているような印象はありません。
そして、ジップは「フランキー、『母の瞳』を歌ってくれないか?」と頼みますが、フランキーは「すいません、その曲はもう歌わないんですよ」とやんわり断ります。「今日はおふくろの命日なんでな…歌ってくれたら嬉しいんだが」それでもフランキーは「15歳のとき以来歌っていないんですよ」と困り顔…そこにトミーが割り込みます「つべこべ言わないで歌え!」
そして、ジップが「フランキー、車は戻ったか?あの二人はもう来なくなったか?今度は私のために何かしてくれる番だがな」と言ったとき、フランキーは例の一件がジップの助けによって解決したことを知ります。「やっぱりジップ・デカルロに頼んだのか、大した奴だな!」とトミーに怒りをぶつけながら、「母の瞳」を歌います。
私は、フランキーがこれほどジップの助けを借りることを嫌がっていたというのは、まぁ普通に考えれば、マフィアに関わり合いになりたくないから…ということなのかな、と思っていたのですが、しかし、歌い終わった後、感動の面持ちのジップから「引換証」をもらって、それを自慢げにトミーに見せている姿を見ると…そういうことではなくて、むしろ地元の大物に、自分がつまらないことでトラぶっていることを知られるのが格好悪いことだった、ということなのだろうか…とも思えます。とすると、このあたりはトミーと共通していることになります。
ちょっと整理しましょう~
まず、映画では、フランキーが、例のトラブルでトミーに助けを求めに行ったとき「まさか、ジップに頼むんじゃないんだろうな?」「こんなくだらないことでジップに頼めるか!」とのやり取りがあったにもかかわらず、結果的にジップが解決してくれていたことを知っても、別に驚きもしていない。ここがちょっと腑に落ちませんでした。
舞台では、フランキーはジップの力を借りたトミーを責めながらも、一方では、ジップの「引換証」を手にして満足げな表情を見せるのが、私的にはわかりにくい部分でした。
いずれにしても、映画のほうが、フランキーの「ジップとの日常的な深い繋がり」が描かれていることには間違いありませんし、フランキーのほうが、トミーよりもましな家庭環境ではありましたが、それでも根っ子の部分はトミーと同じ、ニュージャージーの「土地っ子」であったことが示されています。
映画では、おそらく…その前のシーンで、「よく言ったトミー」とジップに褒められて気をよくしたトミーが、クラブでジップの好きな「母の瞳」を歌うようにフランキーに命令していたのではないかと思われます。こういう展開になれば、更なるポイントも稼ぎたいでしょう。そして、歌い終わった後の二人の目配せは、フランキーがこの曲を歌うように仕向けてくれたことに対する感謝の気持ちを、ジップがトミーに送っていたのではないかと思いました。
映画では、引換証を手にしたフランキーを見てトミーはこう語ります。「俺は長年ジップに仕えていても、いつまでたってもカス扱いなのに、フランキーは1曲歌っただけで引換証を手にした。リードボーカルは割がいい」これは舞台にない台詞です。しかし、ここの台詞があったことで、のちにトラブルの解決を頼みにフランキーがジップのところに行ったとき、ジップに「なぜトミー本人が来ないのだ?」と尋ねられて、「彼は僕のように『母の瞳』を歌えないからです」と引換証を渡すシーンは非常に説得力がありました。この台詞を加えてくれて良かった。
フランキーの地元はマフィアと繋がっていて、トミーの方こそ、まさにそちら側の人間であったにも関わらず、結局は魅力的な歌声を持っていたフランキーのほうが「引換証」という契約をマフィアのボスと結んでしまいます。
そしてその後、同様のことが再び起きます。フランキーはニックに歌い方を指導してもらったことでリードボーカルとして成長できた面もあったのに、成功を収めた後、ボブとのミュージシャン同士としての契約(ジャージー契約)を、ニックを差し置いて結んでしまうことになります。
ここの契約を陰で見ているのは、映画ではトミーになっているのですが、舞台ではニックです。
ここの違いは大きい。
これについては、またあらためて(続)
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