<初出:2007年の再掲です>
巻一の八 信長、首実検を行なうこと
永禄三年(一五六0)五月二十日朝、丹羽五郎左
衛門長秀は冷たい水で顔を洗い、はれぼったい目を
強引に開け、清洲城下での首実検の準備を続ける。
昨夕織田信長と打ち合わせをした後、一睡もしない
でこの日の朝を迎えていた。まずは昨夜のうち、訪
問したばかりの黒田城に、「今回たまたま乱戦とな
り恐れ多くも駿河の太守義元殿の首級を獲ってしま
った。駿河に対しては何の意趣もないので申し訳な
いことをした」と使者を立てて伝え、京都方面への
情報を操作する。和田新介定利からは了承した旨の
返答が入ったので、おそらく近江の兄和田惟政から
京都へこの旨確実に伝わるだろう。
次に『飛び馬』を鳴海城に走らせ、岡部元信に今
回討ち取った駿河衆・三河衆の姓名をわかる限り伝
え、それぞれがどういう宗教・宗派であるかを教え
てもらう。というのも、武士が軍で亡くなった場合
それぞれの宗派に基づいて供養しなければ、「あの
国は戦闘ばかり好み仕舞いがしっかりしていない」
と全国に悪評をばらまかれるだけであり、慎重に対
処しなければいけない。念のため、宗派の不明なも
のについては織田家代々の禅宗(曹洞宗と臨済宗)
で供養する旨伝えておく。また元信には、「今川義
元殿の首級はしっかり死化粧を施し梅雨のこの時期
でも傷まない様にニカワで処理してある。駿河には
何の意趣もないのでいずれお渡ししたい」旨、丁重
に伝えておく。ここで形式的な問題だが、岡部勢も
織田勢から一度は攻撃を受けないと『反撃の上詫び
を入れて撤退』という手が打てないため、尾張東部
を管轄している柴田勝家もその点承知し、互いに被
害が大きくならない程度に鳴海城を攻撃し、岡部勢
がきちんと撤退できるようにしている。
さあ、長秀にとってはそれからが大変で、岡部元
信に教えてもらったそれぞれの宗派の僧侶を尾張中
から呼び寄せ、できる限り本式に近い祭壇をこしら
えなければならない。『困ったときの商人(あきん
ど)頼み』の通り、長秀が前日の夜半、松井友閑に
「どうしたものか」と問い合わせると、「明日の朝
までですな。まあ何とか」と答える。友閑は可能な
ことでも「必ずできる」とは絶対言わない性格なの
で、「まあ何とか」という答えは『確実』を意味す
る。深夜から明け方までに続々と参集する各宗派の
僧侶の応対をし、岡部元信や捕虜とした駿河方同朋
衆から教えてもらった武士の階級により、首実検の
順序と供養する宗派の順序を決めなければならない。
まさに『大事(おおごと)』である。また今回討ち
取った首級を、家臣団で夜を徹して数えたところ三
千ほどもあったため、一日で首実検を終わらせるた
めには一時(二時間)で八百はこなさなければなら
ないことになる。長秀は信長に、
「足軽などは五名づつまとめて首を見る。侍大将以
上の者は、駿河方同朋衆から人となりの説明を受け
た上で実検・供養とする」
と伝えに行く。
「殿、殿、殿!」呼びかけに応じない。「また、
切られた首が三千もある血なまぐさいなかでよく熟
睡できるものだ。三郎もどういう神経をしておるの
か・・」と思いつつ障子をつっと開けると、そこに
は布団の上にうつむいたまま正座している信長がい
た。小袖の左袖が取れかかっており、相当うなされ
て全身かきむしったあとのようであった。
「殿、首実検を始めますゆえ、直垂・烏帽子に着替
えの上おいでを」
とつたえると、
「うむわかった」
と答える。布団から立ち上がった信長は一瞬よろけ
左手を長秀の肩につく。
「五郎左よ、今日の首実検は午前だけではいかんか」
と問いかけがあり「どうなされた?」と聞いたとこ
ろ、昨夜長秀と大声で議論したところまでは気がは
っていて問題なかったが、風呂に入って体についた
敵の返り血をふき寝床に入ったところ、いくさ場で
見た敵の血糊の臭いを思い出して胸がむせ返り、目
を閉じると無念の思いでいくさ場に散った叔父の織
田玄蕃秀敏などが「殿、殿!」と手足に絡み付いて
くる。胃の中から戻す物がなくなるまで戻し、一睡
もできなかったという次第であった。
「そうか、三郎も人の子であったか。それならまず
冷たい水で口をゆすぎこれでも食べておけ」
と、黒田城からみやげにもらった『真桑瓜の塩漬け』
を差し出す。
「ほほ~、これがあれば何とかいけるか!」
とにっこり笑い、目をきらきら輝かせる。先ほどま
での具合の悪さが嘘のようである。時には強情で、
時にはぼ~っとしてわけのわからないことを言うこ
ともあるが、こういう素直で立ち直りの早いところ
がかわいいところで、長秀・勝家をはじめとして
『憎めない尾張の殿』に付き従う家臣が多かった。
信長は装束を直垂・烏帽子に替え、戦死者へ敬意
を払う。扇で自分の口から鼻のあたりを覆い首をや
や左に回し右目で凝視するように眼前の首をにらむ。
主力武将のときは捕虜となった駿河方同朋衆の説明
を聞き実検・供養した。信長は汗だくになりながら
も正式な装束・正式な次第でつとめあげ、最後の今
川治部少輔義元の首実検が終わると空は昨日と同じ
く夕焼けに照り映えていた。
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巻一の八 信長、首実検を行なうこと
永禄三年(一五六0)五月二十日朝、丹羽五郎左
衛門長秀は冷たい水で顔を洗い、はれぼったい目を
強引に開け、清洲城下での首実検の準備を続ける。
昨夕織田信長と打ち合わせをした後、一睡もしない
でこの日の朝を迎えていた。まずは昨夜のうち、訪
問したばかりの黒田城に、「今回たまたま乱戦とな
り恐れ多くも駿河の太守義元殿の首級を獲ってしま
った。駿河に対しては何の意趣もないので申し訳な
いことをした」と使者を立てて伝え、京都方面への
情報を操作する。和田新介定利からは了承した旨の
返答が入ったので、おそらく近江の兄和田惟政から
京都へこの旨確実に伝わるだろう。
次に『飛び馬』を鳴海城に走らせ、岡部元信に今
回討ち取った駿河衆・三河衆の姓名をわかる限り伝
え、それぞれがどういう宗教・宗派であるかを教え
てもらう。というのも、武士が軍で亡くなった場合
それぞれの宗派に基づいて供養しなければ、「あの
国は戦闘ばかり好み仕舞いがしっかりしていない」
と全国に悪評をばらまかれるだけであり、慎重に対
処しなければいけない。念のため、宗派の不明なも
のについては織田家代々の禅宗(曹洞宗と臨済宗)
で供養する旨伝えておく。また元信には、「今川義
元殿の首級はしっかり死化粧を施し梅雨のこの時期
でも傷まない様にニカワで処理してある。駿河には
何の意趣もないのでいずれお渡ししたい」旨、丁重
に伝えておく。ここで形式的な問題だが、岡部勢も
織田勢から一度は攻撃を受けないと『反撃の上詫び
を入れて撤退』という手が打てないため、尾張東部
を管轄している柴田勝家もその点承知し、互いに被
害が大きくならない程度に鳴海城を攻撃し、岡部勢
がきちんと撤退できるようにしている。
さあ、長秀にとってはそれからが大変で、岡部元
信に教えてもらったそれぞれの宗派の僧侶を尾張中
から呼び寄せ、できる限り本式に近い祭壇をこしら
えなければならない。『困ったときの商人(あきん
ど)頼み』の通り、長秀が前日の夜半、松井友閑に
「どうしたものか」と問い合わせると、「明日の朝
までですな。まあ何とか」と答える。友閑は可能な
ことでも「必ずできる」とは絶対言わない性格なの
で、「まあ何とか」という答えは『確実』を意味す
る。深夜から明け方までに続々と参集する各宗派の
僧侶の応対をし、岡部元信や捕虜とした駿河方同朋
衆から教えてもらった武士の階級により、首実検の
順序と供養する宗派の順序を決めなければならない。
まさに『大事(おおごと)』である。また今回討ち
取った首級を、家臣団で夜を徹して数えたところ三
千ほどもあったため、一日で首実検を終わらせるた
めには一時(二時間)で八百はこなさなければなら
ないことになる。長秀は信長に、
「足軽などは五名づつまとめて首を見る。侍大将以
上の者は、駿河方同朋衆から人となりの説明を受け
た上で実検・供養とする」
と伝えに行く。
「殿、殿、殿!」呼びかけに応じない。「また、
切られた首が三千もある血なまぐさいなかでよく熟
睡できるものだ。三郎もどういう神経をしておるの
か・・」と思いつつ障子をつっと開けると、そこに
は布団の上にうつむいたまま正座している信長がい
た。小袖の左袖が取れかかっており、相当うなされ
て全身かきむしったあとのようであった。
「殿、首実検を始めますゆえ、直垂・烏帽子に着替
えの上おいでを」
とつたえると、
「うむわかった」
と答える。布団から立ち上がった信長は一瞬よろけ
左手を長秀の肩につく。
「五郎左よ、今日の首実検は午前だけではいかんか」
と問いかけがあり「どうなされた?」と聞いたとこ
ろ、昨夜長秀と大声で議論したところまでは気がは
っていて問題なかったが、風呂に入って体についた
敵の返り血をふき寝床に入ったところ、いくさ場で
見た敵の血糊の臭いを思い出して胸がむせ返り、目
を閉じると無念の思いでいくさ場に散った叔父の織
田玄蕃秀敏などが「殿、殿!」と手足に絡み付いて
くる。胃の中から戻す物がなくなるまで戻し、一睡
もできなかったという次第であった。
「そうか、三郎も人の子であったか。それならまず
冷たい水で口をゆすぎこれでも食べておけ」
と、黒田城からみやげにもらった『真桑瓜の塩漬け』
を差し出す。
「ほほ~、これがあれば何とかいけるか!」
とにっこり笑い、目をきらきら輝かせる。先ほどま
での具合の悪さが嘘のようである。時には強情で、
時にはぼ~っとしてわけのわからないことを言うこ
ともあるが、こういう素直で立ち直りの早いところ
がかわいいところで、長秀・勝家をはじめとして
『憎めない尾張の殿』に付き従う家臣が多かった。
信長は装束を直垂・烏帽子に替え、戦死者へ敬意
を払う。扇で自分の口から鼻のあたりを覆い首をや
や左に回し右目で凝視するように眼前の首をにらむ。
主力武将のときは捕虜となった駿河方同朋衆の説明
を聞き実検・供養した。信長は汗だくになりながら
も正式な装束・正式な次第でつとめあげ、最後の今
川治部少輔義元の首実検が終わると空は昨日と同じ
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