『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

野々村正成(ののむらまさなり)

2018-09-30 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
野々村正成(ののむらまさなり)

〔現代仮名遣い〕ののむらまさなり


三十郎。野々村氏は尾張津嶋の名族。

1575年5月長篠の合戦で鉄砲隊をつとめる。

1578年11月信長の荒木成敗の時、古田重然・福富

    秀勝・下石頼重・野々村正成の四人が調略

    し、茨木城の中川清秀を内応させた。その

    後茨木城の警護をつとめる。

1578年12月茨木城に布陣。

1581年4月長谷川秀一・野々村正成は、信長から過

    分とも思える知行地を下される。

1581年江州蜂屋のつつもたせ八が東善寺の延念と

    いう裕福な僧に美人局を仕掛けたが、野々

    村正成・長谷川秀一に捕らえられ、成敗さ

    れた。

1582年2月信長は雑賀で土橋の構えを攻めている織

    田信張に、野々村正成を検使としておくる。

    攻撃に成功すると敵根来寺千職坊は逃げ出

    すが、斉藤六大夫が追いかけうちとる。千

    職坊の頸は安土の信長へ送られ、斉藤は森

    長定を使いとして小袖・馬の褒美を授かる。

1582年6月二条新御所で織田信忠切腹の後、攻めか

    かってきた明智光秀の軍と戦い討ち死に。


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