『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

鈴木重秀(すずきしげひで)

2017-09-28 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
鈴木重秀(すずきしげひで)

〔現代仮名遣い〕すずきしげひで

※下線部は信長公記以外の記事によります。


孫一。雑賀孫一とも称される。鈴木氏は、

土橋・太田・岡崎氏と並ぶ雑賀党の首領。

1570年からの石山合戦では根来・雑賀の

鉄砲衆を率いて織田信長軍を苦しめる。


1577年2月信長方の攻撃を受ける。

1577年3月信長軍に攻められた雑賀衆は、

    土橋平次・鈴木孫一・岡崎三郎大夫・

    松田源三大夫・宮本兵大夫・嶋本左

    衛門大夫・栗村二郎大夫七人の連署で、

    「大坂攻めに助力する」旨誓紙を書き

    信長に赦免された。

1580年初めの石山本願寺開城後は本願寺と

信長方の取次役をつとめる。


1581年土橋守重は鈴木重秀の継父を殺害。

1582年1月遺恨に思った鈴木重秀は、上意

    を得たうえで土橋を殺害し土橋の

    構えを襲撃。信長が織田信張を大将

    として根来・和泉の衆を応援に送っ

    たところ土橋の子と根来寺の千職坊

    の兄弟が構えに立て籠もる。

土橋を討ち取り1584年ごろには秀吉につかえ

ていたらしく、1585年の四国征伐に従軍。



※「武家として立派に戦い、武家として筋の

 通った降伏を申し出てきた場合、信長公

 はこれを許す」という典型的な例ですね。


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