鈴木重秀(すずきしげひで)
〔現代仮名遣い〕すずきしげひで
※下線部は信長公記以外の記事によります。
孫一。雑賀孫一とも称される。鈴木氏は、
土橋・太田・岡崎氏と並ぶ雑賀党の首領。
1570年からの石山合戦では根来・雑賀の
鉄砲衆を率いて織田信長軍を苦しめる。
1577年2月信長方の攻撃を受ける。
1577年3月信長軍に攻められた雑賀衆は、
土橋平次・鈴木孫一・岡崎三郎大夫・
松田源三大夫・宮本兵大夫・嶋本左
衛門大夫・栗村二郎大夫七人の連署で、
「大坂攻めに助力する」旨誓紙を書き
信長に赦免された。
1580年初めの石山本願寺開城後は本願寺と
信長方の取次役をつとめる。
1581年土橋守重は鈴木重秀の継父を殺害。
1582年1月遺恨に思った鈴木重秀は、上意
を得たうえで土橋を殺害し土橋の
構えを襲撃。信長が織田信張を大将
として根来・和泉の衆を応援に送っ
たところ土橋の子と根来寺の千職坊
の兄弟が構えに立て籠もる。
土橋を討ち取り1584年ごろには秀吉につかえ
ていたらしく、1585年の四国征伐に従軍。
※「武家として立派に戦い、武家として筋の
通った降伏を申し出てきた場合、信長公
はこれを許す」という典型的な例ですね。
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孫一。雑賀孫一とも称される。鈴木氏は、
土橋・太田・岡崎氏と並ぶ雑賀党の首領。
1570年からの石山合戦では根来・雑賀の
鉄砲衆を率いて織田信長軍を苦しめる。
1577年2月信長方の攻撃を受ける。
1577年3月信長軍に攻められた雑賀衆は、
土橋平次・鈴木孫一・岡崎三郎大夫・
松田源三大夫・宮本兵大夫・嶋本左
衛門大夫・栗村二郎大夫七人の連署で、
「大坂攻めに助力する」旨誓紙を書き
信長に赦免された。
1580年初めの石山本願寺開城後は本願寺と
信長方の取次役をつとめる。
1581年土橋守重は鈴木重秀の継父を殺害。
1582年1月遺恨に思った鈴木重秀は、上意
を得たうえで土橋を殺害し土橋の
構えを襲撃。信長が織田信張を大将
として根来・和泉の衆を応援に送っ
たところ土橋の子と根来寺の千職坊
の兄弟が構えに立て籠もる。
土橋を討ち取り1584年ごろには秀吉につかえ
ていたらしく、1585年の四国征伐に従軍。
※「武家として立派に戦い、武家として筋の
通った降伏を申し出てきた場合、信長公
はこれを許す」という典型的な例ですね。
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