武野紹鷗(たけのじょうおう)[1/2]
〔現代仮名遣い〕たけのじょうおう
※下線部は信長公記以外の記事によります。
大黒庵。
武野家は若狭武田氏の末裔といわれ、紹鷗の
父武野信久は皮屋と通称される皮革業を商っ
たと見られる堺の有力町衆で、舳松町に住ん
だ。紹鷗は若年より文芸を好み、歌学の権威
である三条西実隆から「詠歌大概」を授けら
れ、連歌師と目されることもあった。また大
林宗套に参禅して一閑の居士号を与えられた
ように、禅の境地も深かった。和学の教養と
茶禅一昧の境地に立って紹鷗は茶の湯に傾倒
し、侘び茶の思想と内容を充実させた。こと
にわびという思想は紹鷗の「侘びの文」など
によって確立されたといってよい。紹鷗はま
た豊かな財力に任せて「松島茶壷」「玉澗筆
波の絵」など名物を五、六十種も所持したと
いい、紹鷗の侘びは無一物の背景に豪華絢爛
たる世界を含む、いわば重層的な美を意味し
ていた。
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〔現代仮名遣い〕たけのじょうおう
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大黒庵。
武野家は若狭武田氏の末裔といわれ、紹鷗の
父武野信久は皮屋と通称される皮革業を商っ
たと見られる堺の有力町衆で、舳松町に住ん
だ。紹鷗は若年より文芸を好み、歌学の権威
である三条西実隆から「詠歌大概」を授けら
れ、連歌師と目されることもあった。また大
林宗套に参禅して一閑の居士号を与えられた
ように、禅の境地も深かった。和学の教養と
茶禅一昧の境地に立って紹鷗は茶の湯に傾倒
し、侘び茶の思想と内容を充実させた。こと
にわびという思想は紹鷗の「侘びの文」など
によって確立されたといってよい。紹鷗はま
た豊かな財力に任せて「松島茶壷」「玉澗筆
波の絵」など名物を五、六十種も所持したと
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たる世界を含む、いわば重層的な美を意味し
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