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『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

下間仲之(しもつまなかゆき)

2017-08-10 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
下間仲之(しもつまなかゆき)

〔現代仮名遣い〕しもつまなかゆき


下間少進法橋。下間頼照の子。

1580年3月禁裏からの信長方との講和の勅使

    に対して本願寺顕如光佐・北の方・

    家老衆が下問した所、下間頼総・平井

    越後・矢木駿河・井上・藤井藤左衛門

    らが評定を行い、勅定を受けることを

    決める。顕如光佐は、7月20日までに

    大坂を退出する旨告げ、下間仲之・

    下間頼廉・下間頼竜・北の方・門跡の

    連名で誓紙を提出。信長方青山虎が検使

    をつとめる。

1580年4月顕如光佐は門跡を子の教如光寿に譲り、

    大坂から退城するはずであったが、教寿

    は取り巻きにそそのかされ、大坂に立て

    篭もる道を選んだ。そのため顕如光佐・

    北の方・下間・平井越後・八木駿河守ら

    だけの退城となった。

1580年7月本門跡顕如光佐は、藤井藤左衛門・

    矢木駿河守・平井越後を使いとして、

    勅使近衛前久・勧修寺晴豊・庭田重保

    を同行させ、安土の信長にお礼を進上

    に参上する。信長方は、宮内卿法印・

    佐久間信盛が取り次ぎをつとめる。一行は

    織田信忠にお礼を述べたが、信長は会わな

    かった。信長は門跡・北の方・下間頼竜・

    下間頼廉・下間仲之に黄金を与える注文を

    下し、使いの衆にも黄金を与える。


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