下間仲之(しもつまなかゆき)
〔現代仮名遣い〕しもつまなかゆき
下間少進法橋。下間頼照の子。
1580年3月禁裏からの信長方との講和の勅使
に対して本願寺顕如光佐・北の方・
家老衆が下問した所、下間頼総・平井
越後・矢木駿河・井上・藤井藤左衛門
らが評定を行い、勅定を受けることを
決める。顕如光佐は、7月20日までに
大坂を退出する旨告げ、下間仲之・
下間頼廉・下間頼竜・北の方・門跡の
連名で誓紙を提出。信長方青山虎が検使
をつとめる。
1580年4月顕如光佐は門跡を子の教如光寿に譲り、
大坂から退城するはずであったが、教寿
は取り巻きにそそのかされ、大坂に立て
篭もる道を選んだ。そのため顕如光佐・
北の方・下間・平井越後・八木駿河守ら
だけの退城となった。
1580年7月本門跡顕如光佐は、藤井藤左衛門・
矢木駿河守・平井越後を使いとして、
勅使近衛前久・勧修寺晴豊・庭田重保
を同行させ、安土の信長にお礼を進上
に参上する。信長方は、宮内卿法印・
佐久間信盛が取り次ぎをつとめる。一行は
織田信忠にお礼を述べたが、信長は会わな
かった。信長は門跡・北の方・下間頼竜・
下間頼廉・下間仲之に黄金を与える注文を
下し、使いの衆にも黄金を与える。
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〔現代仮名遣い〕しもつまなかゆき
下間少進法橋。下間頼照の子。
1580年3月禁裏からの信長方との講和の勅使
に対して本願寺顕如光佐・北の方・
家老衆が下問した所、下間頼総・平井
越後・矢木駿河・井上・藤井藤左衛門
らが評定を行い、勅定を受けることを
決める。顕如光佐は、7月20日までに
大坂を退出する旨告げ、下間仲之・
下間頼廉・下間頼竜・北の方・門跡の
連名で誓紙を提出。信長方青山虎が検使
をつとめる。
1580年4月顕如光佐は門跡を子の教如光寿に譲り、
大坂から退城するはずであったが、教寿
は取り巻きにそそのかされ、大坂に立て
篭もる道を選んだ。そのため顕如光佐・
北の方・下間・平井越後・八木駿河守ら
だけの退城となった。
1580年7月本門跡顕如光佐は、藤井藤左衛門・
矢木駿河守・平井越後を使いとして、
勅使近衛前久・勧修寺晴豊・庭田重保
を同行させ、安土の信長にお礼を進上
に参上する。信長方は、宮内卿法印・
佐久間信盛が取り次ぎをつとめる。一行は
織田信忠にお礼を述べたが、信長は会わな
かった。信長は門跡・北の方・下間頼竜・
下間頼廉・下間仲之に黄金を与える注文を
下し、使いの衆にも黄金を与える。
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