『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

巻二の二 信長、松井友閑から叱られること

2025-03-16 00:00:00 | 連続読物『いいかよく聞け、五郎左よ!』
<初出:2007年の再掲です>

巻二の二 信長、松井友閑から叱られること

 一般的に、戦国時代というと『下克上』という言

葉がすぐ出てくる。『下克上』というのは「下位の

ものが上位のものを凌駕すること」の意味であり、

もともと中国の春秋戦国時代に使われていた言葉が

日本に定着したものである。織田信長・丹羽長秀・

柴田勝家の三人が生きているこの時代にも『下克上』

という言葉は使われているが、三人とも「どれだけ

勢力を伸ばしても『下克上』だけは避けよう」と申

し合わせている。というのも中国古代の『下克上』

という言葉は、もともと陰陽五行説の『相生説』

『相剋説』に源を発していて、「下位の者が政権・

王位を手にするのは天の決めた運命的なめぐり合わ

せによる」という意味を持っている。決して「下位

の者が自由に上のものを討ち倒してよい」と言う意

味ではない。源平の争乱以来、主君を裏切ったり弑

逆したりした者がどういう末路をたどったか、三人

ともよく古書を読んで研究している。

・遠くは源義朝を尾張で謀殺した長田忠致

・近くは土岐頼純を殺害した斎藤道三

などが代表的な例である。『下克上』して長続きし

た者など聞いたことがない。今回の桶狭間の戦いの

時も、尾張国守護としての斯波義銀が織田信長の進

軍路を背後から襲う計画が事前にわかっていたが、

「守護から開戦の了承を得ている」状態にしておき

たかったため三人合意の上でわざと泳がせておき、

戦後殺害はせず国外追放としたのであった。どこか

ら見ても武衛公義銀に対して『下克上』はしていな

い。

 久しぶりに柴田権六勝家が、駿河衆の撤退した鳴

海・大高城の手当てを終えて清洲城に帰ってきた。

「殿、ご無沙汰致しましたが、ご機嫌いかが?」

とひげの中の大きな口を“にっ”と首を前に突き出し

て笑みながら申上すると、織田信長も薄ひげの真っ

赤な唇で“にっ”と首を前に突き出して笑みながら、

「その方こそ大儀であった!」

と答える。その横でいつもどおり、“ぶすっ”とした

表情の丹羽長秀が杓子定規に軽く会釈する。見慣れ

たいつもの光景である。勝家が長秀に

「五郎左衛門殿、岩崎城の面々はよく鍛えられてお

りますな。今回大変お世話になりました」

と述べる。これは桶狭間開戦前、丹羽長秀が黒田城

の和田定利を訪問することになり、東部方面の押さ

えに回る柴田勝家が長秀の出発した後の岩崎城を活

動拠点としたので、そのときのお礼を伝えたもので

ある。勝家が“にっ”と首を突き出して笑顔を見せる

と、仏頂面の長秀が思いっきり“にっ”と首を突き出

して笑みかける。長秀としては「こんな儀式は馬

鹿らしい」と思うが、信長が「父備後守(信秀)殿

から『武士は莞爾として死すべし』(武士は笑顔で

死ね!苦しみもだえる首を人に見せるな!)といわ

れておる。この三人だけで出会うときは笑顔で会お

う!」と申し出て、道理も間違ってはいないので従

うことにしている。長秀の引きつりそうな笑顔を見

て信長が“ぷっ”と吹き出し、この儀式が終わる約束

である。

 いつもの儀式が終わり、取り急ぎこのいくさでの

損得勘定と今後の見通しについて即座に打ち合わせ

に入る。これから先は笑顔の取り決めはない。

*まず今回の軍は、表向き「たまたま今川治部少輔

 義元を討ち取ってしまった」という話になってい

 るので、新規に手に入れた領地は"原理的に”無い。

 軍の作法をまもって進軍し、道理に基づいて戦後

 処理を行なったので、京都を含めた周辺各国から

 の評判は飛躍的に高くなったという『得』はあっ

 たものの、すぐに尾張の収益にはねかえってくる

 わけではないので今は評価できない。

*つぎにかかった経費について。

 ①参加した兵員は事前準備・城の守備隊も含めた

 延べ人数としてみると五千人×七日間=三万五千

 人・日。参戦手当てとして一人一日あたり四百文

 (四万八千円)支払うものとすると合計一万四千

 貫文(十六億八千万円)となる。死亡した者に対

 しても、この手当てを遺族に支払ってある。

 ②桶狭間に向かった追手・搦め手の員数を五千名

 とすると兵員が使用した武具・馬具等一式一人あ

 たま八貫文(九十六万円)として、合計四万貫文

 (四十八億円)

 ③丹羽長秀以下、敵の調略に使った経費を一万貫

 文(十二億円)他の経費もあるが、上記三科目だ

 けでも六万四千貫文(七十六億八千万円)かかっ

 ている。

*尾張の国の年間収入予想について。

 ①尾張では米を換金作物としているので、まず水

 田の面積を見ると五万町(五万ha)とする

 ②一町あたり四十石(五.四トン)収穫できるも

 のとすると国全体で二百万石(二十七万トン)が

 最大枠

 ③今現在の相場で一石あたり七百文とすると、米

 総収穫高は二百万石=百四十万貫文(一千六百八

 十億円)であり、税率を収穫高の一割五分とする

 と国としての税収予想は二十一万貫(二百五十二

 億円)となる。ただしこれも、梅雨明けから天候

 が順調に推移し、順調に秋に収穫できればの話で

 ある。


 三人がどこからどうつついても、「桶狭間の戦い

で年間予算の三分の一を使ってしまったのは事実。

この分では、あと一~二年の間は今回と同規模の軍

は避けるべき」という結論しかでてこない。

「軍を起こすとしたら勝って新規に領地を手に入れ

るなど必ず『得』することが必要」

との認識である。当面の間米以外の作物栽培を奨励

し、作物以外の工芸品も税率を下げるなど、領民の

生産意欲を向上させることが急務である。それに連

動して各種作物・工芸品の販売権を持つ問屋たちに

「一定期間販売口銭を我慢してもらい国の税収確保

に協力してもらう」よう交渉する必要もある。なお

米については例年六~八月の端境期に価格が上がる

傾向があり、「今年に限って端境期の米販売を絞り

こみ、米単価を高めにつり上げておき、他地域より

も先んじて収穫し高値の時に売りさばき現金化する。

多少の顰蹙は頭を下げてあやまる」という方針を三

人で確認した。

 織田信長・丹羽長秀・柴田勝家の清洲城における

重要な打ち合わせは、意外にも一時(二時間)もか

からないで終了した。

「五郎左衛門よ、お前もバタバタ忙しかっただろう

が、そのような中でここまでまえもって案をまとめ

てあるとは感服した。やはりあの、お前が鍛えてい

るという『ハゲザル』が下ごしらえしたのか?」

と信長が問う。

「『ハゲザル』というよりはちょこまか動いておる

から『ハゲネズミ』であろう」

と、勝家が自分のひげをくるくるよじりながらつ

まらなそうに茶々を入れる。

「『ハゲネズミ』は背が低いくせに目線を上から下

に向けるように話すし、何かすました顔をするし、

人の懐中に飛び込んでくるようなけなげさも見えな

いし、その代わり気がよくつくし仕事はやるし・・

おお、決して五郎左衛門の事を悪く言っているので

はないぞ」

「まあかまわぬ。城中の評判もあらかた権六が言っ

たとおりだ。もう少し世間並みの付き合い方がわか

ればいいのにと思うが、藤吉郎には藤吉郎の美学が

あるらしいからな。ただまあ、切れる切れる、ここ

がな」

といいつつ眉間の辺りを人差し指ですっと切るマネ

をする。

 三人の重要な打ち合わせが終わり雑談に入ってい

たところ、部屋の外から

「失礼仕る。丹羽五郎左衛門殿はおいでか」

と呼ぶ声がする。織田家が他の名家と違っていたの

は、重要な打ち合わせをしているときでも下臣の呼

びかけがあればそちらを優先することであろう。織

田信秀以前からこのしきたりがあったようだ。この

ときは桶狭間戦の下ごしらえで活躍した松井友閑の

使者が到着したようであった。呼びかけにこたえて

丹羽長秀が部屋の外に出て友閑の使者への応対をす

る。すぐに戻ってきてムッとした表情で信長をにら

みつける。

「殿、いや三郎!いいかげんにしておけよ!」

と長秀が怒鳴る。

「何をいきなり。儂には何のことか、何が何やら・・」

と困ったような振りをしながら、信長はあさっての

方向を向いている。

「では殿、ご説明申し上げる。尾張のどなたかが、

金を受け取るときは『新銭で』といい、金を払うと

きは『鐚銭(びたせん)で』といっておるものだか

ら、困った商人たちが松井友閑のところに苦情をあ

げてきておるらしいぞ。これで如何?」

このころ商取引上、中国は明の国から来た『永楽通

宝』が一文銭として流通していたが、古くなって欠

けたりした一文銭を『鐚銭(びたせん)』と呼び、

世間は嫌い敬遠していた。そのため地域によって、

新銭と鐚銭の交換率を決めて使用していたのだが、

松井友閑によれば信長は『一:四』などというひど

い交換率を指示していたようである。『新銭』で金

を受け取り『鐚銭(びたせん)』で支払えばえらい

ぼろ儲けができるという仕組みである。

「う~む、う~む、う~~む、『尾張のどなたか』

とは儂のことか。ばれたか。ばれたら仕方が無い。

申し訳ない。『これからは無茶はしないから』と友

閑に伝えておくように」

また信長も、こういうインチキを平気でやるし、

あやまり方も本気かどうかわからない。しかも

「これからは無茶しない」とはいったいどういう

ことか?何もいっていないのと同じではないか!

「では!」

といきなり席を立ちいつもの源平盛衰記を胸元に

突っ込み両側の股立ちを取り、廊下をたったと走

っていく。長秀も勝家も、信長の逃げる様を大笑

いで見送るしかなかった。

 ただ気がつけば、商品相場の操作・経費のかか

らない得する軍・問屋との口銭交渉というものす

ごい難事を丹羽自身と木下藤吉郎・松井友閑に任

した形になっている。信長の、自然に人を巻き込

んで働かせる能力は恐ろしい程であり、長秀は一

人身震いするのであった。

↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いします
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へにほんブログ村
<JR岐阜駅前の黄金の信長公像>

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 巻二の一 巻二開始のこと | トップ | 巻二の三 五郎左衛門、再び... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

連続読物『いいかよく聞け、五郎左よ!』」カテゴリの最新記事