『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

近衛前久(このゑさきひさ)[2/3]

2017-03-19 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
近衛前久(このゑさきひさ)[2/3]

〔現代仮名遣い〕このえさきひさ


1580年3月頃正親町天皇は近衛前久・勧修寺

    晴豊・庭田重保を勅使として石山本願寺

    へ送り、信長方との講和を命ずる。

    信長方からは宮内卿法印・佐久間信盛

    が目付けとして添えられた。本願寺顕如

    光佐・北の方・家老衆が下問した所、

    下間頼総・平井越後・矢木駿河・井上・

    藤井藤左衛門らが評定を行い、勅定を

    受けることを決める。顕如光佐は、

    7月20日までに大坂を退出する旨告げ、

    下間仲之・下間頼兼・下間頼竜・北の方・

    門跡の連名で誓紙を提出。信長方青山虎

    が検使をつとめる。

1580年7月本門跡顕如光佐は、藤井藤左衛門・

    矢木駿河守・平井越後を使いとして、

    勅使近衛前久・勧修寺晴豊・庭田重保

    を同行させ、安土の信長にお礼を進上

    に参上する。信長方は、宮内卿法印・

    佐久間信盛が取り次ぎをつとめる。

    一行は織田信忠にお礼を述べたが、

    信長は会わなかった。信長は門跡・

    北の方・下間頼竜・下間頼兼・下間仲之

    に黄金を与える注文を下し、使いの衆

    にも黄金を与える。

1580年8月とうとう教如光寿も大坂退城となる。

    勅使は近衛前久・勧修寺晴豊・庭田重保

    およびその下使い荒屋善左衛門、信長方

    の使いは宮内卿法印・佐久間信盛、大坂

    受け取りの検使を矢部家貞がつとめた。

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