近衛前久(このゑさきひさ)[2/3]
〔現代仮名遣い〕このえさきひさ
1580年3月頃正親町天皇は近衛前久・勧修寺
晴豊・庭田重保を勅使として石山本願寺
へ送り、信長方との講和を命ずる。
信長方からは宮内卿法印・佐久間信盛
が目付けとして添えられた。本願寺顕如
光佐・北の方・家老衆が下問した所、
下間頼総・平井越後・矢木駿河・井上・
藤井藤左衛門らが評定を行い、勅定を
受けることを決める。顕如光佐は、
7月20日までに大坂を退出する旨告げ、
下間仲之・下間頼兼・下間頼竜・北の方・
門跡の連名で誓紙を提出。信長方青山虎
が検使をつとめる。
1580年7月本門跡顕如光佐は、藤井藤左衛門・
矢木駿河守・平井越後を使いとして、
勅使近衛前久・勧修寺晴豊・庭田重保
を同行させ、安土の信長にお礼を進上
に参上する。信長方は、宮内卿法印・
佐久間信盛が取り次ぎをつとめる。
一行は織田信忠にお礼を述べたが、
信長は会わなかった。信長は門跡・
北の方・下間頼竜・下間頼兼・下間仲之
に黄金を与える注文を下し、使いの衆
にも黄金を与える。
1580年8月とうとう教如光寿も大坂退城となる。
勅使は近衛前久・勧修寺晴豊・庭田重保
およびその下使い荒屋善左衛門、信長方
の使いは宮内卿法印・佐久間信盛、大坂
受け取りの検使を矢部家貞がつとめた。
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〔現代仮名遣い〕このえさきひさ
1580年3月頃正親町天皇は近衛前久・勧修寺
晴豊・庭田重保を勅使として石山本願寺
へ送り、信長方との講和を命ずる。
信長方からは宮内卿法印・佐久間信盛
が目付けとして添えられた。本願寺顕如
光佐・北の方・家老衆が下問した所、
下間頼総・平井越後・矢木駿河・井上・
藤井藤左衛門らが評定を行い、勅定を
受けることを決める。顕如光佐は、
7月20日までに大坂を退出する旨告げ、
下間仲之・下間頼兼・下間頼竜・北の方・
門跡の連名で誓紙を提出。信長方青山虎
が検使をつとめる。
1580年7月本門跡顕如光佐は、藤井藤左衛門・
矢木駿河守・平井越後を使いとして、
勅使近衛前久・勧修寺晴豊・庭田重保
を同行させ、安土の信長にお礼を進上
に参上する。信長方は、宮内卿法印・
佐久間信盛が取り次ぎをつとめる。
一行は織田信忠にお礼を述べたが、
信長は会わなかった。信長は門跡・
北の方・下間頼竜・下間頼兼・下間仲之
に黄金を与える注文を下し、使いの衆
にも黄金を与える。
1580年8月とうとう教如光寿も大坂退城となる。
勅使は近衛前久・勧修寺晴豊・庭田重保
およびその下使い荒屋善左衛門、信長方
の使いは宮内卿法印・佐久間信盛、大坂
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