『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

多治見一党(たじみいったう)

2018-02-06 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
多治見一党(たじみいったう)

〔現代仮名遣い〕たじみいったう


多治見氏を中心として結合した武士たち。

1565年9月28日 信長出馬し堂洞を取り巻いて

    攻める。風の強い日だったので、続松

    を作り城中に投げ入れさせる。長井隼

    人正は、堂洞から25町のところまで軍

    勢を進めるが、足軽も出さない。 信長

    軍は二の丸を焼き崩し、天主に攻め入る。

    太田又助牛一の弓矢を、信長三度もほめ

    る。天主に、河尻与兵衛秀隆に続き丹羽

    五郎左衛門長秀が攻め入るが、岸勘解由

    左衛門・多治見一党が頑強に応戦。その

    日は引き退き、信長は加治田城の佐藤父

    子と面会し子息のところへ泊まる。

1565年9月29日 翌日山下の町で頸実検を行い帰

    陣しようとしたところ、関の口から長井

    隼人正が井口から斎藤竜興が攻めかかっ

    てくる。敵は3000身方は700~800であ

    り、手負い・死人多数発生。一度広野に

    退き軍勢を立て直し、手負い・雑人を先

    に川を越させ、残りは足軽の動きのよう

    に馬を乗り回し、全軍撤退した。


↓ランキングに参加中。クリック応援よろしくお願いします!
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へにほんブログ村


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« たし(たし) | トップ | 多治見修理(たじみしゅり) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

信長公記の蔵:人物篇」カテゴリの最新記事