多治見一党(たじみいったう)
〔現代仮名遣い〕たじみいったう
多治見氏を中心として結合した武士たち。
1565年9月28日 信長出馬し堂洞を取り巻いて
攻める。風の強い日だったので、続松
を作り城中に投げ入れさせる。長井隼
人正は、堂洞から25町のところまで軍
勢を進めるが、足軽も出さない。 信長
軍は二の丸を焼き崩し、天主に攻め入る。
太田又助牛一の弓矢を、信長三度もほめ
る。天主に、河尻与兵衛秀隆に続き丹羽
五郎左衛門長秀が攻め入るが、岸勘解由
左衛門・多治見一党が頑強に応戦。その
日は引き退き、信長は加治田城の佐藤父
子と面会し子息のところへ泊まる。
1565年9月29日 翌日山下の町で頸実検を行い帰
陣しようとしたところ、関の口から長井
隼人正が井口から斎藤竜興が攻めかかっ
てくる。敵は3000身方は700~800であ
り、手負い・死人多数発生。一度広野に
退き軍勢を立て直し、手負い・雑人を先
に川を越させ、残りは足軽の動きのよう
に馬を乗り回し、全軍撤退した。
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〔現代仮名遣い〕たじみいったう
多治見氏を中心として結合した武士たち。
1565年9月28日 信長出馬し堂洞を取り巻いて
攻める。風の強い日だったので、続松
を作り城中に投げ入れさせる。長井隼
人正は、堂洞から25町のところまで軍
勢を進めるが、足軽も出さない。 信長
軍は二の丸を焼き崩し、天主に攻め入る。
太田又助牛一の弓矢を、信長三度もほめ
る。天主に、河尻与兵衛秀隆に続き丹羽
五郎左衛門長秀が攻め入るが、岸勘解由
左衛門・多治見一党が頑強に応戦。その
日は引き退き、信長は加治田城の佐藤父
子と面会し子息のところへ泊まる。
1565年9月29日 翌日山下の町で頸実検を行い帰
陣しようとしたところ、関の口から長井
隼人正が井口から斎藤竜興が攻めかかっ
てくる。敵は3000身方は700~800であ
り、手負い・死人多数発生。一度広野に
退き軍勢を立て直し、手負い・雑人を先
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