『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

今川義元(いまがはよしもと)[2/5]

2016-02-29 20:25:21 | 信長公記の蔵:人物篇
今川義元(いまがはよしもと)[2/5]

〔現代かなづかい〕いまがわよしもと

 ※下線部は信長公記以外の記事によります。


1545年7月今川義元、富士川東方の北条氏を攻撃。

1545年8月武田晴信、今川義元に加勢し9月吉原城


    を攻陥。北条方長久保まで後退。

1545年10月一旦停戦し、河越城を攻撃していた

    山内憲政をまじえ、義元・氏康の間で

    誓紙を交わす。

1545年同月北条氏康が停戦反故の動きを見せたので、

    武田晴信再出動し再び停戦させる。

1545年11月北条氏康、長久保城から退却し、今川

    義元に引き渡す

1546年8月北条氏康、狐橋で今川義元と一戦に及ぶ。

1546年10月今川義元、吉田城を攻陥。

1547年10月松平竹千代、今川義元の元へ人質として

    送られる途中、広忠の舅戸田康光の裏切り

    に合い、織田信秀方に送られる。

1548年3月竹千代を奪われた父広忠が義元を動かし

    尾張へ進軍。信秀は前線の安祥城から出撃し

    あづき坂で衝突。信秀敗れて退くも、安祥城

    には織田三郎五郎信広を置く。

    【第二次あづき坂の戦い】

1549年3月松平広忠暗殺され、今川方、岡崎城を占拠。

    太原雪斎・朝比奈泰能・鵜殿長勿らを安祥に

    向かわせるが、戦線膠着。


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