『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

巻一の八 信長、首実検を行なうこと

2025-02-23 00:00:00 | 連続読物『いいかよく聞け、五郎左よ!』
<初出:2007年の再掲です>

巻一の八 信長、首実検を行なうこと

 永禄三年(一五六0)五月二十日朝、丹羽五郎左

衛門長秀は冷たい水で顔を洗い、はれぼったい目を

強引に開け、清洲城下での首実検の準備を続ける。

昨夕織田信長と打ち合わせをした後、一睡もしない

でこの日の朝を迎えていた。まずは昨夜のうち、訪

問したばかりの黒田城に、「今回たまたま乱戦とな

り恐れ多くも駿河の太守義元殿の首級を獲ってしま

った。駿河に対しては何の意趣もないので申し訳な

いことをした」と使者を立てて伝え、京都方面への

情報を操作する。和田新介定利からは了承した旨の

返答が入ったので、おそらく近江の兄和田惟政から

京都へこの旨確実に伝わるだろう。

 次に『飛び馬』を鳴海城に走らせ、岡部元信に今

回討ち取った駿河衆・三河衆の姓名をわかる限り伝

え、それぞれがどういう宗教・宗派であるかを教え

てもらう。というのも、武士が軍で亡くなった場合

それぞれの宗派に基づいて供養しなければ、「あの

国は戦闘ばかり好み仕舞いがしっかりしていない」

と全国に悪評をばらまかれるだけであり、慎重に対

処しなければいけない。念のため、宗派の不明なも

のについては織田家代々の禅宗(曹洞宗と臨済宗)

で供養する旨伝えておく。また元信には、「今川義

元殿の首級はしっかり死化粧を施し梅雨のこの時期

でも傷まない様にニカワで処理してある。駿河には

何の意趣もないのでいずれお渡ししたい」旨、丁重

に伝えておく。ここで形式的な問題だが、岡部勢も

織田勢から一度は攻撃を受けないと『反撃の上詫び

を入れて撤退』という手が打てないため、尾張東部

を管轄している柴田勝家もその点承知し、互いに被

害が大きくならない程度に鳴海城を攻撃し、岡部勢

がきちんと撤退できるようにしている。

 さあ、長秀にとってはそれからが大変で、岡部元

信に教えてもらったそれぞれの宗派の僧侶を尾張中

から呼び寄せ、できる限り本式に近い祭壇をこしら

えなければならない。『困ったときの商人(あきん

ど)頼み』の通り、長秀が前日の夜半、松井友閑に

「どうしたものか」と問い合わせると、「明日の朝

までですな。まあ何とか」と答える。友閑は可能な

ことでも「必ずできる」とは絶対言わない性格なの

で、「まあ何とか」という答えは『確実』を意味す

る。深夜から明け方までに続々と参集する各宗派の

僧侶の応対をし、岡部元信や捕虜とした駿河方同朋

衆から教えてもらった武士の階級により、首実検の

順序と供養する宗派の順序を決めなければならない。

まさに『大事(おおごと)』である。また今回討ち

取った首級を、家臣団で夜を徹して数えたところ三

千ほどもあったため、一日で首実検を終わらせるた

めには一時(二時間)で八百はこなさなければなら

ないことになる。長秀は信長に、

「足軽などは五名づつまとめて首を見る。侍大将以

上の者は、駿河方同朋衆から人となりの説明を受け

た上で実検・供養とする」

と伝えに行く。

 「殿、殿、殿!」呼びかけに応じない。「また、

切られた首が三千もある血なまぐさいなかでよく熟

睡できるものだ。三郎もどういう神経をしておるの

か・・」と思いつつ障子をつっと開けると、そこに

は布団の上にうつむいたまま正座している信長がい

た。小袖の左袖が取れかかっており、相当うなされ

て全身かきむしったあとのようであった。

「殿、首実検を始めますゆえ、直垂・烏帽子に着替

えの上おいでを」

とつたえると、

「うむわかった」

と答える。布団から立ち上がった信長は一瞬よろけ

左手を長秀の肩につく。

「五郎左よ、今日の首実検は午前だけではいかんか」

と問いかけがあり「どうなされた?」と聞いたとこ

ろ、昨夜長秀と大声で議論したところまでは気がは

っていて問題なかったが、風呂に入って体についた

敵の返り血をふき寝床に入ったところ、いくさ場で

見た敵の血糊の臭いを思い出して胸がむせ返り、目

を閉じると無念の思いでいくさ場に散った叔父の織

田玄蕃秀敏などが「殿、殿!」と手足に絡み付いて

くる。胃の中から戻す物がなくなるまで戻し、一睡

もできなかったという次第であった。

「そうか、三郎も人の子であったか。それならまず

冷たい水で口をゆすぎこれでも食べておけ」

と、黒田城からみやげにもらった『真桑瓜の塩漬け』

を差し出す。

「ほほ~、これがあれば何とかいけるか!」

とにっこり笑い、目をきらきら輝かせる。先ほどま

での具合の悪さが嘘のようである。時には強情で、

時にはぼ~っとしてわけのわからないことを言うこ

ともあるが、こういう素直で立ち直りの早いところ

がかわいいところで、長秀・勝家をはじめとして

『憎めない尾張の殿』に付き従う家臣が多かった。

 信長は装束を直垂・烏帽子に替え、戦死者へ敬意

を払う。扇で自分の口から鼻のあたりを覆い首をや

や左に回し右目で凝視するように眼前の首をにらむ。

主力武将のときは捕虜となった駿河方同朋衆の説明

を聞き実検・供養した。信長は汗だくになりながら

も正式な装束・正式な次第でつとめあげ、最後の今

川治部少輔義元の首実検が終わると空は昨日と同じ

く夕焼けに照り映えていた。

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巻一の七 五郎左衛門、信長をしかること

2025-02-16 00:00:00 | 連続読物『いいかよく聞け、五郎左よ!』
<初出:2007年の再掲です>

巻一の七 五郎左衛門、信長をしかること

 「お疲れのところ申し訳ないが、殿、北やぐらま

でお越しいただきたい」丹羽五郎左衛門長秀は、桶

狭間から戻ってきた織田信長に休む間を与えず、い

つもの清洲の居所へ導く。長秀から勝利を祝っても

らえると思っていた信長は、ただならぬ長秀の導き

に血の気を失う。だいたいにおいて、長秀が良いこ

とを言いたい場合は家臣がいる前で行なう。居所の

北やぐらに連れて行かれるということは、信長に対

して怒鳴り倒す前触れである。

 「こら、三郎!約束では三河方面の一部を駿河方

に渡し、軽く手合わせして降参する予定であったろ

うが!それが何の因果で今川治部少輔義元殿の首級

を獲ってきたのだ!お前も知ってのとおり、今川家

とほぼ同盟関係にある北条家は、伊勢宗瑞殿が駿河

に下ってきたときまでさかのぼると朝廷の有職故実

を司る由緒正しき伊勢家の流れであるぞ!いま、織

田信長がいくさで義元殿を討ったとなれば、朝廷を

巻き込んで尾張周辺の国々に我々を滅ぼす大義名分

を与えることになることぐらい稚児でもわかるだろ

うが!ふざけるな!」口角泡を飛ばすとはこのこと

か、長秀は目じりから血が出るほど目を見開き、文

字通り唇にあぶくを吹きながら、脇差を畳にたたき

つけて信長を罵倒する。「うっ、ぐっ、むう・・・」

信長もあまりにも激しい長秀の罵り方に声を詰まら

せる。「やをれ、たしかにうけ賜れ五郎左よ(いい

かよく聞け、五郎左よ)。お前のいいたいことはよ

くわかる。いいたいことは非常によくわかるし、自

分も笠寺につくまではお前の言うとおりの筋書きで

進軍していたのだ。怒鳴る前にまず儂の話を聞け、

五郎左衛門!」通常は柴田権六勝家を含めて三名で

打ち合わせをすることになっているが、この時勝家

は尾張東部の守備にあたっており、かといって勝家

が戻ってくるまで先延ばしすることのできない火急

の用件であったため、二人で冷静に打ち合わせを行

なうことにしたものである。一度心を落ち着けて信

長から話を聞いたところ、以下の通りであった。


*信長としては予定通り笠寺まで行き、丸根要害を

 守備していた佐久間大学盛重と鷲津要害の織田玄

 蕃秀敏がひといくさしてここに集合するのを待ち、

 鳴海城に籠もる駿河方岡部元信に撤退の意思を伝

 え、引き退くつもりであった。

*ところが大高城の番であった松平次郎三郎元康は、

 尾張方が一手手合わせしてから『番五の使い』を

 送って撤退の申し出をしようとしたところ、何を

 血迷ったか『番五の使い』を弓で射殺してしまい、

 あまつさえ丸根・鷲津両要害を総攻めで滅ぼそう

 としたのである!

*信長が笠寺から善照寺に移動したところ、丸根と

 鷲津から決死の働きで逃げ戻ってきた家臣が血だ

 らけの姿で、「あのやり口は許せない!死んでも

 許さない!」と口々に訴えたので、いくら何でも

 このようないくさ場での無作法を許すわけにはい

 かず、結果がどうなろうと「大高城に居る松平元

 康だけは攻め滅ぼす」と覚悟を決めて進軍したの

 である。

*ところが途中から強い雨が降り出し、使いにやっ

 た『飛び馬』たちからの知らせも、いわく「元康

 は大高城に居る」、いわく「いや元康は桶狭間山

 の義元本陣に助太刀に向かった」などと錯綜した

 うえ、大高方面から特段の攻撃もなかったため、

 「元康が大高城に居るならば大高方面から攻撃が

 あるはず。その攻撃がないということは、元康は

 桶狭間山に向かったはず」と判断して桶狭間山に

 攻め登ったという次第であった。

長秀が黒田城から戻ってくるときに不安に思ってい

た『松平元康の不始末』が現実のものとなっていた。


「元康を滅ぼすために登っていった桶狭間山で駿河

方と一戦を交えることになり、乱戦となった。家臣

の毛利新介が敵の武将を討ち取ったと聞き駆けつけ

てみると、下っ端の武士にはわからなかったのだろ

うが、何と治部少輔義元殿の首級が置かれていたと

いう次第だったのだ」信長が一気にしゃべり終わる

と二人の間には重苦しい沈黙が流れた。しばらくす

ると「どうしたものか」と二人同時につぶやく。長

秀はそうつぶやきながら、頭を光の速さで回転させ

て申上する。


「殿、ことの成り行きは承知。まずは、駿河方から

幕府・朝廷へ働きかけがなされる前にこちらから動

く必要があるのはお分かりのはず」

「うむ」

「それには昨日、妾が訪問した黒田城の和田定利か

ら佐々木六角義賢の家臣である兄和田惟政を通じて

情報を押さえ込むのが京に一番速く効くかと」

「うむ、五郎左衛門の言うとおりである。因みに今

回放置していたが武衛公が尾張に要らざる人物であ

ることも付け加えておいてくれ」

「御意」

「儂のほうでは、『今回たまたま乱戦となり恐れ多

くも駿河の太守義元殿の首級を獲ってしまった。駿

河に対しては何の意趣もないので申し訳ないことを

した』という筋立てで『鳥』を『風』で飛ばそうか

と思うが如何?」

「うむ、さすが三郎、いや殿、いい考えだ!そのと

きにあえて『松平元康』の名前は出さず、『戦の最

中に無作法をした者がおり、そのためにこのような

混戦となった』とする筋立てはどうだ?こうなった

ら三河の大たわけを徹底的にいじめてやろうではな

いか?」

「わしもそのつもりだ!現にあまりにも腹が立った

ので、大高城には弓一本も射ずに戻ってきてやった

わ!はっ、はっ、はっ!」

城にこもっている者は敵が少しでも攻撃を仕掛けて

くれればひといくさして撤退するという体裁が作れ

るが、攻撃がないままの退却は物笑いの種となる。

その意味で『無視』が一番厳しい罰となるというこ

とである。

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巻一の六 信長桶狭間から戻ること、付大事になること

2025-02-09 00:00:00 | 連続読物『いいかよく聞け、五郎左よ!』
<初出:2007年の再掲です>

巻一の六 信長桶狭間から戻ること、付大事になる

こと

 永禄三年(一五六0)五月十九日午後、陽も傾き

かけると『飛び馬』から断片的な知らせが入ってく

るようになる。いわく「信長一行が桶狭間山に登っ

たまま戻ってこない」、いわく「信長一行は駿河の

今川義元の軍を沓掛方面へ押し戻し清洲へ帰る途中

である」、いわく「信長一行は桶狭間山に登ったが、

駿河勢に押し戻されほうほうの体で戻ってきたとこ

ろ」などなど。織田上総介信長本人の生存は確から

しく、丹羽五郎左衛門長秀も「何かの手違いで駿河

の太守今川治部少輔義元と交戦することになったら

しいが、生きて帰れるのは幸甚。信長が戻り次第今

後の三河地区の扱いをはやく決めねば。まずは鳴海

城に籠もる駿河の岡部五郎兵衛元信殿との打合せを

しなければ」と考えをめぐらし、心を落ち着けよう

とする。

 桶狭間から清洲まではおよそ五里半(約二十二

km)。半時(一時間)で三里(十一・六km)を

駈ける足早の馬であれば、戻ってくるまで一時(二

時間)もかからないだろう。が、これまでの信長の

性癖を見ていると、殿軍とまではいかなくても主力

部隊の最後尾を受け持って全軍撤退させるという

“危険な”性癖を持っている。まあ、それにしても一

時半では戻れるはず。あと少しで三郎が戻ってくる!

 清洲で信長の帰りを待つ長秀のもとへ、なにやら

『飛び馬』が予想外の知らせを持ち込み始めた。い

わく「信長一行は桶狭間山で今川義元の軍を打ち破

り人質多数」、いわく「信長一行は意気揚々と『勝

ち鬨の声』をあげて清洲へ到着」などなど。今回の

進軍を、あくまでも三河方面の領地問題が絡んだ小

さないさかいと考えていた長秀にとっては、「う、

ぐ、む。信長が治部少輔殿と交戦して打ち破った?

しかも勝ち鬨の声を上げて意気揚々と戻ってくる?

どういうことか?」と、理解できず頭が混乱する。

 東のほうへと流れていった雲に角度のうすい紅蓮

の陽光が鮮やかに照り映える夕刻、城門を開いて待

ち受ける長秀らの前に、主力部隊を率いた信長が馬

に乗りゆっくりと到着した。長秀は三郎の無事な姿

を見て一応はほっとしたが、何か言い知れない異様

な空気に一度身震いする。自分の経験から言えば、

この身震いが出たときにはかなりの大事(おおごと)

が起こっていることが多い。一団の中で信長だけが

兜をかぶっていない。「まずは殿のご無事何より。

兜は如何なされた?」長秀の問いに、いつもより上

気した顔色の信長が満面に笑みを浮かべ、持ってい

た刀で毛利新介を指し示す。そっ、その刀は確か治

部少輔義元殿所持と伝わる『左文字』の名刀ではな

いか!あっ、顔から肩にかけて血だらけの毛利が持

つ兜に乗っているのは、な、な、なんと義元殿の首

級ではないか!!

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巻一の五 清洲に入る知らせのこと

2025-02-02 00:00:00 | 連続読物『いいかよく聞け、五郎左よ!』
<初出:2007年の再掲です。>

巻一の五 清洲に入る知らせのこと

 急に降り出した雨を旧守護所跡の下津(おりつ)

でしのぐ。黒田城行きは正式な訪問であったので、

衣装は直垂(ひたたれ)に風折烏帽子(かざおり

えぼし)の裾を短めにしたもの、腰には無銘であ

るが関の刀工に鍛えさせた業物を佩いていた。

「こんなりっぱな装束・刀が雨にぬれては大変な

修繕費用がかかる」と、雨が小ぶりになるまで愛

馬『二寸殿(にきどの)』といっしょに休みを取

る。

 今回尾張東部は柴田権六勝家の担当で、岩崎城

方面まで出て三河勢が乱入しないかどうか警戒し

ている。その柴田からの『飛び馬』も清洲からの

『飛び馬』も半時に一度に間延びしているが、

「どしゃ降りのせいであろう」と五郎左衛門はあ

まり気に留めない。

 雨が上がると「あっ、そうだった」と信長から

の言付けを思い出し、於多井(おだい)の川のた

もとに立ち寄る。そこには血のように赤い『しょ

うびの花(薔薇)』が今を盛りと咲き濡れている。

これは弘治二年(一五五六)名塚取手の戦いが終

わったあと、舎弟の勘十郎信行方との取次ぎを行

なっていた村井長門守貞勝・嶋田所之助秀順が

「地元の農家が神秘的な花を栽培している」と紹

介したとき以来、栽培は村井と嶋田の両名に担当

させ、育ちぐあいを信長と長秀が交互に観察する

ことにしていた。他の清洲の家臣のなかには「血

の色を思い起こさせ縁起でもない」というものも

いたが、当時信長が名乗ることにした「上総介」

は平家に因縁の深い名前であり平家は「赤旗」で

あるから、「悪くはない」と二人で『しょうびの

花』の育ちを見守ることにしたのであった。

 未の一点(十三時)と、ほぼ予定通りの時刻に

清洲に到着する。城内のものたちと、東部方面の

勝家・桶狭間の信長の情報をとりまとめると、桶

狭間からの『飛び馬』が一時(二時間)途絶えて

いるという。これは「『飛び馬』を清洲に送れな

いほどの火急の事態が生じている」ということで

あり、桶狭間方面での混乱を意味する。「三郎よ、

お前に今死なれては困る。尾張が滅びてしまう。

何でもいいから、とにかく生きて帰ってこい!」

と五郎左衛門は心から祈るのであった。

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