雨の中、戸塚宿~藤沢宿を歩きました。
東海道歩きも5日目。
寄り道が多くてなかなか進まないけれど、折角足を運んだ地なので、少しでも多くの物を見て、感じたい。
そう思うからなぁ~。
でも夏休みも今日と明日の2日。
焦りも無い訳では無い・・・。
写真はこの日最後に寄った義経の首洗い井戸。
昨日は護良親王の首洗い井戸に行ったし、2日連続の首洗い井戸か・・・。
戸塚駅到着時点で土砂降り・・・。
先に昼食を済ませたけれど、降りが弱まる事は無かった。
近くに有る区の施設でガイドマップやパンフレットを入手。
気になる場所やお店をチェック。
スタート迄に結構時間を費やした。
でも、土砂降りのまま。
天候の回復の望みを捨て、あきらめて出発する事にした。
写真は澤邊本陣跡。
澤邊家が建てた羽黒神社は現存。
和菓子屋さんの吉田屋。
ちょっと寄り道をしてお土産を購入。
『とつかとうふ』と『ウサギ型のマシュマロ(名前は忘れてしまった)』を購入。
出発して過ぐ、東海道沿いの八坂神社に参拝。
この神社の御祭りは横浜市指定無形文化財に指定されているちょっと変わったお祭り。
『お札まき』と呼ばれ、7月14日の夏祭りに行われるもの。
十数人の男性が女装をして団扇を持ったり踊ったりして五色の神札を撒き、団扇で撒き散らすものそうです。
人々はこれを拾って持ち帰り家の戸口や神棚に貼るとの事で、「厄霊除け」の行事と言う事。
雨の神社で、誰も居ない。
盆踊りが有るのか、提灯がつるされています。
拝殿は小さい物。
狛犬は顔が大きく、目と口が大きい。
カメラ目線ですね。
向かって右の子は玉を持っています。
矢張り顔が大きく、目力が強い。
再び東海道を進み、富塚八幡宮へ。
拝殿は階段の上。
この背後に移籍が有るとの事。
稲荷社、天満宮も。
拝殿横には石仏群が。
庚申塔が並んでいます。
何れも古い物ですが、状態が良く、往時の姿がよく分かります。
狛犬は足元に子供がおり、子供が首を傾げて親の顔を見る姿。
右の子は子もいないし、玉や毬も持っておらず、きりりっとした目つきで神社に来る人や物を睨んで守っている姿。
拝殿の様子。
階段の上から。
マンションでその向こうが見えないけれど、昔は眺めが良かっただろうなぁ~。
海も見えたと思うけれど、どの辺りから海だったのかな?
社務所兼住居は階段下で、御高齢の男性が対応してくださいました。
宮司さんかな?
此処が戸塚宿の見附跡。
右手にそれを示す柱が立っているだけです。
雨の中、東海道を行きます。
流石にこの雨なので、他に歩いている人は見受けられません。
右は第六天神社
近年建て直されたのかな?
拝殿小手前の石畳が新しく、綺麗です。
拝殿に対して手前の境内がやけに広いけれど、此処で御祭りが行われるのかな?
右手に庚申塔が並んでいます。
右は馬頭観音かな?
何れも風化がそれ程でなく、姿がはっきりとしています。
道行く旅人も道中の安全を祈願したのかな?
右端は元禄8年、左隣は元禄6年と彫られています。
大坂台の信号。
「大坂では天気の良い日に松並木から素晴らしい富士山が眺められることから、多くの浮世絵の画題となりました。
昭和7(1932)に坂の改修工事が始まり、頂上を削り、下の方は十mほど土盛りをしてなだらかな長い坂にしました。現在の大阪になるまでは数回の改修がおこなわれたそうです」
と記されており、昔の光景を描いた浮世絵が上に印刷されています。
『お軽、勘平戸塚山中道行の場』の石碑。
歌舞伎の演目の舞台となった地で、架空の物語なのだけれど、石碑まで設置されています。
今でいうと『トレンディドラマとか大ヒット映画、大ヒット小説の有名シーンの舞台』と言う感じかな?
原宿一里塚。
此処も道路の拡幅で失われた一里塚。
当時はもっときつい坂が続いていたんだろうな。
道路の向かいの森が浅間神社。
説明看板によると木々の間から富士山が見えるとの事ですが、生憎の天気。
気になったけれど、この日は参拝せず。
道端に集められた石仏と石柱。
道路の工事でこの場所に集められたんだろうなぁ。
天下泰平
月山 秩父
湯殿山大権現西國供養
羽黒山 坂東
国家安泰
と記されている折、当時の山岳信仰が窺われます。
この石柱1つで様々な場所の御利益が…と言う感じ。
諏訪神社。
創設年不詳ですが、明治40年にこの地に移転してきたとの事。
この神社の奥にかつて影取池が有ったそうです。
辺りは鉄砲宿時う宿場で、武神の諏訪神社を勧請したと言われているそうです。
狛犬の尻尾に帽子が。
忘れ物を狛犬が尻尾で回して遊んでいる感じ。
この後忘れ物(落とし物?)は、無事持ち主に戻ったかな?
足元には色々と石造物の残骸が転がっていたのだけれど、『日露戦役 凱旋紀念』と彫られています。
上には何が有ったのかな?
馬頭観音も半ば忘れられた様にあります。
諏訪神社を後にし、先を行き、振返った光景。
下り坂を再び上り返し、斜視右手奥木々が諏訪神社。
神社の奥が影取池と案内板に記されていたけれど、此処も窪んだ低地。
水の流れが有ったのかな?
鉄砲宿バス停。
変わった名ですが、鉄砲の訓練をする場所が有った地との事。
近くにこの辺りに伝わる昔話の看板が。
『鉄砲宿と影取池の昔話』
昔々この辺りにいた長者が自分の家に住み着いた大蛇を水神様のお使いとして「おはん」と名付け、大変可愛がっていました。
ところが長者の家が没落し、大蛇への餌もままならなくなってきました。
それを見た大蛇は、長者様に迷惑をかけられないと、近くの池は去ってゆきましたが、そこには十分な食料が無く、もともと大食だった大蛇は空腹に耐えかねると、池のほとりを歩く人の影を食べて飢えをしのいでいました。
ところが影を食べられた人は段々弱ってしまうので、村人はこの受けを影取池と呼んで恐れるようになりました。
大蛇を退治しようとしたのですが、鉄砲を見ると大蛇は水底深く潜ってしまうので退治できません。
村人は一計を案じ、鉄砲の上手い猟師に頼み、昔の長者様のように「おはん」と名を呼びました。
昔の飼い主が迎えに来たと思いこんだ大蛇は姿を現すと、ついに撃ち殺されてしまいました。
いつしか影取池は埋められ、影取池の名と悲しい話だけが残されました。
この大蛇を撃った漁師が住み着いた所を鉄砲宿と呼ぶようになったと言います。
(案内板より)
何だかやるせない気分になるなぁ~。
長者の事を考えて姿を消し、とは言え人間を食べてはいけないから影で我慢して飢えをしのいで・・・と言う大蛇。
「おはん」と呼ぶ声にどれだけ喜んだのかな?
長者さんとではないけれど、村人と仲良く暮らす事も出来たのではないかな?
大蛇に苦しめられていた村人も大蛇も長者も被害者なのかな。
読んでいて悲しくなったなぁ~。
「おはん」の事を考えながら歩いていると、歩道橋に『藤沢市』の文字が!!
いよいよ藤沢市に到着!!!
遊行寺坂の一里塚跡。
江戸から12里目の一里塚で、斬り通しの様な崖の上に有ったが、現在は何も残っていないとの事。
12里・・・3.9km×12=46.8kmか。
もう直ぐ50㎞だね!
遊行寺坂の途中、左手に有るのが諏訪神社。
地域の地名である『大鋸』の地名を入れ、『大鋸諏訪神社』と呼ばれています。
誰も居ない境内。
社務所は階段の途中に有るのだけれど、普段は無人との事。
拝殿。
境内社。
右から『太子堂』『祖霊神』『大黒天社』『道祖神』。
道に戻り、此処が藤沢宿江戸見付。
此処から藤佐宿の始まりです。
道を渡り、遊行寺に。
時宗の総本山です。
六地蔵。
酒井長門守忠重逆修六地蔵供養塔との事(1660奉納)。
不慮の死を遂げた酒井忠重の墓の五輪塔が右端に。
突き当りがお寺に小栗堂が有ります。
今回は小栗堂が目当て。
照手姫建立の厄除地蔵尊
名馬鬼鹿毛の墓
照手姫の墓
小栗判官と十勇士の墓
小栗判官も歌舞伎の演目になっています。
歴史的人物の墓所や出来事の舞台が有ったり、架空の物語の舞台で使われたり・・・と、東海道はそう言った地立ったようです。
旅の途中、そう言った地に差し掛かり「此処はあの舞台だ」と思いをはせたりしたのかな?
再び遊行寺に。
犬猫の供養墓がありました。
この墓に実家の猫達は入っていないのだけれど、何だか寂しさがこみ上げてきました。
遊行寺本堂。
雨は一向に止まず。
日限地蔵菩薩が祀られているお堂。
絵馬が付けられています。
寺を創設した吞海上人の兄で、創設に尽力した地頭の俣野五郎景平を祀った物。
寺のシンボルでもある大銀杏。
樹齢は650~700位と考えられているとの事。
上杉禅秀の乱で戦死した双方の兵の供養を願った物との事。
藤沢宿の中に有る高札場と藤沢宿交流館
道には所々案内板が。
白旗神社へ参拝。
源義経の鎮霊碑
拝殿。
弁慶の力石
絵馬は彩色された綺麗な物。
御朱印。
義経の首洗い井戸に行きました。
此れがその井戸。
落ち葉が積もり、現在水は有りません。
石碑には花が。
あいにくの雨でこの日は苦しめられました。
一向に降りが弱くならず、その中何とか藤沢宿迄到着。
明日は小田急線藤沢本町駅からスタート。
天気は・・・あまり良くない話だけれど…。
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