うちの「おかん(関西でいうところの母親)、第2弾である。戦後の混乱時にどこで知り合ったのか(まったく聞いたことがない!)、山口県のおかんが、熊本県の親父と19歳で結婚し、20歳で俺を生んで、しばらくは平穏に暮らしていたらしいが、3年で別離し(正式に離婚はしてない)、一家離散。
俺はおかん方の実家(山口県周南市)に預けられ、高校まで出してもらったが、おかんは北九州の小倉にいた。小学生の時、夏休みや冬休みにおかんに会いに行った。しかし、当時のおかんは、まだ30歳くらいで、言わば女盛りである。それも今でいうところのヤンキーで、遊び呆けていたと思う。ラウンジや、クラブに勤めていて、だらしない生活を続けていた。
確か、小学4年生の冬休みだったと思う。12月27日に小倉につき、アパートに行ったら、「ちょっと用事があるから」と言って、出掛けてしまった。そして、3日間何の音沙汰もなかったのである。おばあちゃんがやりくりしてくれた行きの電車賃しかもらっていなかったから困ったが、それでも米はあったので炊飯器で米を炊き、冷蔵庫にあつた味噌や鰹節、漬物などで飢えをしのいだ。
帰ってきたのは12月31日、大晦日の夜9時過ぎだった。「ごめん、ごめん、お腹がすいてるやろ」と、悪びれることなく、俺の顔を見て笑い、そして、「ちょっと出掛けよう」と、そのまま氷点下の外に連れ出された。そして連れて行かれたのが、「賭場」である。トバ?そう、昔でいうところの博打場である。よく時代劇などで出てくる、壺でさいころを振り、丁か半かというあの賭場である。
そこは大きな旅館で、ある部屋では麻雀を、となりの部屋では本引き(1から6までの札を使う心理ゲーム)、そして昔ながらの丁半博打、その他、多種多彩の賭けごとが行われていた。小学生がなぜそれを判断できたのかと言うと、幼少時からそんな環境で育ったからである。後に、俺が大阪に来て、ギャンブル専門紙の会社に入り、予想記者としてたちまち頭角を現したのも、博打のノウハウが体に染み込んでいたからだと思う。なんと、編集長まで上り詰めたのだ。
その賭場へ行くと、天国ではないかと思った。24時間オープンしており、食いものはご飯に魚や肉、野菜となんでも置いてある。酒や飲み物も無料である。そして俺が小学生と言うことも誰も問わない。除夜の鐘が鳴り、夜が明けると、3,4人の人が、「おお、Мちゃんの息子さんか」と、お年玉までくれた。
そこに1月2日までいて、そのまま山口県に帰った。なんという親だろうか!小学生を3日間ほったらかしにし、博打場に連れて行く。世の中に、こんな無責任な親がいるものか!
最近、その話が出て、俺が、「本当に、あんたには親らしいことをしてもらったことがない。ほとんどおばあちゃんに育ててもらったからなあ」と言うと、「あんたも男やろ。昔のことでじくじく言うな。それより、パチンコ代に、一本(一万円)回してや」と、不敵な笑いを浮かべる老婆。
そんなおかんだが、恨んだことは一度もない。生んでもらったことに感謝するしかないのだ。
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