▽元旦である。
昨夜紅白歌合戦を見て、ジャニーズカウントダウンでマリウスという名らしい若い子の転落を見て、
『コンビニ人間』を読んで、2時だか3時だかに眠りについた私は8時くらいに目を覚ました。
▽昨晩一緒に年越しそばを食べたあとに「明日は8時~9時くらいに来る」と言っていた、生家のすぐ裏に住んでいる兄一家はまだ来ていない。
遅ればせながらようやく昨日書いた年賀状を出しに行きがてら、近所のコンビニの駐車場で煙草を吸って、コンビニでご祝儀袋を3つ買った。
お年玉用である。
兄の娘である姪っ子はまだ1歳8か月。お年玉を渡すにはまだちょっと早い。
姉の娘はそろそろ4歳と2歳。(たぶんあってると思うけど情けなくもはっきりしない。)
こちらもまだお年玉をあげるには・・・という年齢の様な気がする。
では誰がためのお年玉か。
父と母、祖母へのお年玉である。
▽この度訳あって本10冊とパソコン2台を持って帰った私は、
生家や母の実家である西蓮寺へのお土産のことを頭に浮かべながらも、
なにも用意しなかった。
親族だから大目に見てくれるだろうという甘えである。
けれど、生家に帰ってみていざ西蓮寺に行く直前になると、
祖母へのお土産がないことに後ろめたさを覚えてきた。
「直ちゃんはええ子だけぇ」とかわいがってくれ、大学生になってからも、一般的には「立派な大人」になっているべき25歳になっても、顔を出すたびにお小遣いをくれた祖母である。
納得のいく仕事ができていないとはいえ一応自分で稼げるようになった私が、
なにも用意せずただ祖母宅に招かれて食事をするというのはいかがなものかとその時になってようやく思い始めた。
そこで母親に「やっぱなにかあったほうがいいかな」とアドバイスを求め、
「お年玉をあげたらいいんじゃない?」
「お金が欲しいとは思っていないかもしれないけど、かわいがっていた孫が立派になってそういうことをしてくれたらそりゃあ喜びんさると思うよ」
ということで祖母にお年玉を渡すことにした。
▽そういうわけで年賀状を出すついでにコンビニでポチ袋を買おうと思ったわけである。
結局ポチ袋がなかったので大仰かなとも思いながら「お祝い」とかかれた祝儀袋を買った。
何の祝いの日でもないけれども。
何も書いていない熨斗袋を買って自分で「御年始」と書いた方がよかったのかもしれないけれども。
▽祖母用のポチ袋代わりの熨斗袋代わりの祝儀袋を前にしたとき、
父母へは何もしなくていいのかという思いが湧く。
▽卒業までに7年かかった大学生活、
バイト無断欠勤したりゼミ無断欠席したり転学後に授業をサボったりしていた私が卒業できたのは、
バイト先の社員さんであったり、2番目のゼミの先生であったり、卒論を見てくださったゼミの先生のおかげでももちろんあるのだが、
なにより父母によるところが大きい。
大いに心配をかけ、大いにお金をかけてもらった。
それだけ大切に思ってもらって大学を卒業させてもらいながら、
就職後に父母に初任給で何か買ったりなどの恩返しはしていない。
贖罪になるかはわからないけれども、
結局のところ自己満足の世界になるのかもしれないけれども、
父母にもお年玉を用意しよう。
▽そういう思惑のもと祝儀袋を買って、父母と祖母に渡した。
喜んでもらえただろうか。
心うちはわからないけれど、「ありがとう」と言ってもらえたから良しとする。
▽お年玉を渡した後、父母は町内の新年会に向かった。
父は年齢と順番と圧力から今年は町内会長を務めている。
その間私は持って帰った本の一冊、『ゴキブリ大全』を読んでいた。
「元旦から読む本じゃねぇなぁ」などと思いながら、
ゴキブリの生態に気持ち悪くなったり興奮したりしながら過ごした。
▽母が、これもやはり順番で回ってくる組当番といわれる仕事のひとつ、新年会の片づけをして帰ってきた1時間半後、
父親が返ってきた。
余った日本酒を処理して、つまりは結構な量の日本酒を飲んで、ふらふらである。
ふらふらでありながら、「大麻山に行く」と宣言した。
大麻山は地元の山で、その頂には大麻山神社がある。
歩いたら2時間近くかかる。
桑谷家年中行事の一つ、元旦登山。
▽大麻山への生き方はいくつかあって、
私がかつて一緒に上っていた時のルートであり、舗装されていない道を行く文字通り「山道」ルートや、
ところどころヒビが入りながらもアスファルトが敷かれている「車道」ルートが主である。
私の父は少し頑固というか、やりたいと思ったら他人の進言をほとんど聞かずに実行したがる所があって、
母と私は一応「酔っとるし雨もふるからやめといたら?」と口にしながらも「どうせ止めても聞かないだろうな」という心中から無理には止めなかった。
▽道中で2,3回転んだらしい。
結局3時間半くらいたっても神社にはたどり着けなかった父から、
「(神社へ向かう途中の)林道で拾ってくれ」との連絡。
「ズボンを持ってきてください」の添え書き。
車で拾いに行ったけれども林道がどこか私も母もよくわかっていなかった。
何度か二人に電話が入っていたけれども、私は運転中で取れず、母はコートのポケットにある携帯電話の振動に気づかず、
父が見つからない。
結局兄一家が父親を拾って、母と私はなんの成果もあげられぬまま帰宅。
▽父はまだ酔いが醒めていないようだった。
その日は「桑谷家年中行事その2」、西蓮寺での食事会。
父から「俺はシャワーを浴びてもう寝るから置いて(私、母、兄一家で西蓮寺に)行ってくれ」と勧められた。
母は「残ろうか?」と2回くらい聞いたのだけれど、
2回とも「俺はいいけぇ早よ行ってきんさい」の返事。
2回目はちょっと怒った様子だったので、恐らく父は「大丈夫と思って臨んだ大麻山登山で転けて途中で拾ってもらった自分」が情けなくなってしまったんだろうと勘繰り、
自分が情けなくなってしまったときに憐れみを「かけられる」辛さを感じたことのある私は父も同じ気持ちなのだろうと考え、
「残っても機嫌が悪くなるだけだろうけぇ行こう」と母に説いて、父の望みを叶えてあげた。
▽叶えて「あげた」のである。
「あげた」という言葉から察せる通り、それはやっぱり上からの憐れみの目線であり、自己満足のためだったと知ったのは9時半ごろに西蓮寺から帰ってきた時である。
父の右肩が上がらない。
転けたときに脱臼していたらしい。
父は私たちに西蓮寺に行くよう促した当時、酔っていたから痛みを感じなかった。
というわけではなく、
「朝までは耐えられる」と思って、
私たちが「自分のために食事会に行けなかった」状況を作らないために、
私たち家族に楽しんでもらうために、
痛かったのに強がって平気なふりをし、私たちに西蓮寺へ行くよう促していたらしかった。
▽10時過ぎに市内の救急外来に行って、
専門医を呼んでもらって、
脱臼を直してもらった。
母と診察中に話していたのは、
「滑落や頭から転ける可能性もある中、命があってよかった」
「けれどやはり一歩間違えば大変なことになっていた」
「ふらふらで帰ってきて、大麻山に行くと言ったときに強いてでも止めるべきだった」
「西蓮寺に行って来いと言われたときもやはり母は残るべきだったのかもしれない」
ということ。
そこでは口に出さなかったが、
私の頭の中には「そもそも私はなぜ父と一緒に歩いて大麻山に行かなかったんだろう」という思いがあった。
上記の過去記事では、「毎年続けようと思う」みたいなことを書いておきながら、
結局昨年、一昨年の年末年始は一緒に歩くどころか帰省すらせず、
今回は帰ってきていたというのに一緒に行かず『ゴキブリ大全』を読んでいた。
なんとも人間という生き物とは、
いや、
なんとも自分という人間とはいい加減なものか。
ゴキブリに関する知識が父より大切なんてことがあるものか。
▽来年、父は元旦に「大麻山に行く」と言うのだろうか。
自分は一緒に登るのだろうか。
今の自分は「一緒に登りたい」と思っているが
来年の自分は本当に登るのだろうか、
わからない。
昨夜紅白歌合戦を見て、ジャニーズカウントダウンでマリウスという名らしい若い子の転落を見て、
『コンビニ人間』を読んで、2時だか3時だかに眠りについた私は8時くらいに目を覚ました。
▽昨晩一緒に年越しそばを食べたあとに「明日は8時~9時くらいに来る」と言っていた、生家のすぐ裏に住んでいる兄一家はまだ来ていない。
遅ればせながらようやく昨日書いた年賀状を出しに行きがてら、近所のコンビニの駐車場で煙草を吸って、コンビニでご祝儀袋を3つ買った。
お年玉用である。
兄の娘である姪っ子はまだ1歳8か月。お年玉を渡すにはまだちょっと早い。
姉の娘はそろそろ4歳と2歳。(たぶんあってると思うけど情けなくもはっきりしない。)
こちらもまだお年玉をあげるには・・・という年齢の様な気がする。
では誰がためのお年玉か。
父と母、祖母へのお年玉である。
▽この度訳あって本10冊とパソコン2台を持って帰った私は、
生家や母の実家である西蓮寺へのお土産のことを頭に浮かべながらも、
なにも用意しなかった。
親族だから大目に見てくれるだろうという甘えである。
けれど、生家に帰ってみていざ西蓮寺に行く直前になると、
祖母へのお土産がないことに後ろめたさを覚えてきた。
「直ちゃんはええ子だけぇ」とかわいがってくれ、大学生になってからも、一般的には「立派な大人」になっているべき25歳になっても、顔を出すたびにお小遣いをくれた祖母である。
納得のいく仕事ができていないとはいえ一応自分で稼げるようになった私が、
なにも用意せずただ祖母宅に招かれて食事をするというのはいかがなものかとその時になってようやく思い始めた。
そこで母親に「やっぱなにかあったほうがいいかな」とアドバイスを求め、
「お年玉をあげたらいいんじゃない?」
「お金が欲しいとは思っていないかもしれないけど、かわいがっていた孫が立派になってそういうことをしてくれたらそりゃあ喜びんさると思うよ」
ということで祖母にお年玉を渡すことにした。
▽そういうわけで年賀状を出すついでにコンビニでポチ袋を買おうと思ったわけである。
結局ポチ袋がなかったので大仰かなとも思いながら「お祝い」とかかれた祝儀袋を買った。
何の祝いの日でもないけれども。
何も書いていない熨斗袋を買って自分で「御年始」と書いた方がよかったのかもしれないけれども。
▽祖母用のポチ袋代わりの熨斗袋代わりの祝儀袋を前にしたとき、
父母へは何もしなくていいのかという思いが湧く。
▽卒業までに7年かかった大学生活、
バイト無断欠勤したりゼミ無断欠席したり転学後に授業をサボったりしていた私が卒業できたのは、
バイト先の社員さんであったり、2番目のゼミの先生であったり、卒論を見てくださったゼミの先生のおかげでももちろんあるのだが、
なにより父母によるところが大きい。
大いに心配をかけ、大いにお金をかけてもらった。
それだけ大切に思ってもらって大学を卒業させてもらいながら、
就職後に父母に初任給で何か買ったりなどの恩返しはしていない。
贖罪になるかはわからないけれども、
結局のところ自己満足の世界になるのかもしれないけれども、
父母にもお年玉を用意しよう。
▽そういう思惑のもと祝儀袋を買って、父母と祖母に渡した。
喜んでもらえただろうか。
心うちはわからないけれど、「ありがとう」と言ってもらえたから良しとする。
▽お年玉を渡した後、父母は町内の新年会に向かった。
父は年齢と順番と圧力から今年は町内会長を務めている。
その間私は持って帰った本の一冊、『ゴキブリ大全』を読んでいた。
「元旦から読む本じゃねぇなぁ」などと思いながら、
ゴキブリの生態に気持ち悪くなったり興奮したりしながら過ごした。
▽母が、これもやはり順番で回ってくる組当番といわれる仕事のひとつ、新年会の片づけをして帰ってきた1時間半後、
父親が返ってきた。
余った日本酒を処理して、つまりは結構な量の日本酒を飲んで、ふらふらである。
ふらふらでありながら、「大麻山に行く」と宣言した。
大麻山は地元の山で、その頂には大麻山神社がある。
歩いたら2時間近くかかる。
桑谷家年中行事の一つ、元旦登山。
▽大麻山への生き方はいくつかあって、
私がかつて一緒に上っていた時のルートであり、舗装されていない道を行く文字通り「山道」ルートや、
ところどころヒビが入りながらもアスファルトが敷かれている「車道」ルートが主である。
私の父は少し頑固というか、やりたいと思ったら他人の進言をほとんど聞かずに実行したがる所があって、
母と私は一応「酔っとるし雨もふるからやめといたら?」と口にしながらも「どうせ止めても聞かないだろうな」という心中から無理には止めなかった。
▽道中で2,3回転んだらしい。
結局3時間半くらいたっても神社にはたどり着けなかった父から、
「(神社へ向かう途中の)林道で拾ってくれ」との連絡。
「ズボンを持ってきてください」の添え書き。
車で拾いに行ったけれども林道がどこか私も母もよくわかっていなかった。
何度か二人に電話が入っていたけれども、私は運転中で取れず、母はコートのポケットにある携帯電話の振動に気づかず、
父が見つからない。
結局兄一家が父親を拾って、母と私はなんの成果もあげられぬまま帰宅。
▽父はまだ酔いが醒めていないようだった。
その日は「桑谷家年中行事その2」、西蓮寺での食事会。
父から「俺はシャワーを浴びてもう寝るから置いて(私、母、兄一家で西蓮寺に)行ってくれ」と勧められた。
母は「残ろうか?」と2回くらい聞いたのだけれど、
2回とも「俺はいいけぇ早よ行ってきんさい」の返事。
2回目はちょっと怒った様子だったので、恐らく父は「大丈夫と思って臨んだ大麻山登山で転けて途中で拾ってもらった自分」が情けなくなってしまったんだろうと勘繰り、
自分が情けなくなってしまったときに憐れみを「かけられる」辛さを感じたことのある私は父も同じ気持ちなのだろうと考え、
「残っても機嫌が悪くなるだけだろうけぇ行こう」と母に説いて、父の望みを叶えてあげた。
▽叶えて「あげた」のである。
「あげた」という言葉から察せる通り、それはやっぱり上からの憐れみの目線であり、自己満足のためだったと知ったのは9時半ごろに西蓮寺から帰ってきた時である。
父の右肩が上がらない。
転けたときに脱臼していたらしい。
父は私たちに西蓮寺に行くよう促した当時、酔っていたから痛みを感じなかった。
というわけではなく、
「朝までは耐えられる」と思って、
私たちが「自分のために食事会に行けなかった」状況を作らないために、
私たち家族に楽しんでもらうために、
痛かったのに強がって平気なふりをし、私たちに西蓮寺へ行くよう促していたらしかった。
▽10時過ぎに市内の救急外来に行って、
専門医を呼んでもらって、
脱臼を直してもらった。
母と診察中に話していたのは、
「滑落や頭から転ける可能性もある中、命があってよかった」
「けれどやはり一歩間違えば大変なことになっていた」
「ふらふらで帰ってきて、大麻山に行くと言ったときに強いてでも止めるべきだった」
「西蓮寺に行って来いと言われたときもやはり母は残るべきだったのかもしれない」
ということ。
そこでは口に出さなかったが、
私の頭の中には「そもそも私はなぜ父と一緒に歩いて大麻山に行かなかったんだろう」という思いがあった。
上記の過去記事では、「毎年続けようと思う」みたいなことを書いておきながら、
結局昨年、一昨年の年末年始は一緒に歩くどころか帰省すらせず、
今回は帰ってきていたというのに一緒に行かず『ゴキブリ大全』を読んでいた。
なんとも人間という生き物とは、
いや、
なんとも自分という人間とはいい加減なものか。
ゴキブリに関する知識が父より大切なんてことがあるものか。
▽来年、父は元旦に「大麻山に行く」と言うのだろうか。
自分は一緒に登るのだろうか。
今の自分は「一緒に登りたい」と思っているが
来年の自分は本当に登るのだろうか、
わからない。
とりあえずお父さん無事で良かったね、ちょっと変わった人だけど昔俺一人んとき大して雨も降ってないのに車に自転車積んでわざわざ家まで送って行ってくれて、確かあの日はおまけに飯まで食わせてくれた、質素な飯だったけど夕方まで何も食ってなかったからかなり美味かった記憶がある。俺あんまり好かれてないと思ってたからびっくりしたわ。
来年は自分から誘ってあげな。