原始仏教の間で術語化されて、一切皆苦(いっさいかいく)と諸行(しょぎょう)無常と諸法無我との三法印と、それに涅槃寂静(じゃくじょう)を加えた四法印となり、やがて一切皆苦が省かれて以後、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静の3種を三法印と称して、仏教の中心に据え、今日に至る。
「諸法無我」(しょほうむが)とは、全てのものは因縁によって出来上がっていること。 また、永遠に変わらない「我」というものを持っていないということをいいます。 一つの物事は常に変化するきっかけがあり、思わぬ変化の原因となる可能性が誰にでもあるのです。 誰もが全てのきっかけとして生かされている。
すべてのものには「実態」がないという考えかた。
「じったい」と読む言葉には、「実態」と「実体」の2つがある。
これらは読みが同じで文字も一部共通していますが、意味内容はそれぞれ異なります。混同してしまわないように、個々の意味をしっかり把握しておきたいところです。
「実態」とは外側からではうかがい知れない、ものごとの本当のありさまを指します
「実態」の「実」は「まこと」「本当」などの意味を持ち、「態」は「ものごとの様子」「ありさま」の意味を持ちます。
「ふだんは人目に触れないものごとの内側の様子」を表すのが「実態」の特徴
「実体」とは、「本当の姿」という意味の言葉です。あるものが持つ物理的な存在としての姿形や、本質的な正体を言います
「実体」の「実」は「本当」を表し、「体」は「姿」を表している。
「実態」との違いで言うと、「実体」は「ものの姿や形、正体」に対して使われるという点が異なります。「実態」は「ものごとの内側の様子や状態」を指して言う言葉。「実体」は「姿形」や「実質」を指す言葉。
私の身体に「実態」があるとするならば、それはどこですか?
私の顔が、わたしなのか?
私の足が、わたしなのか?
裏を返せば私の顔が、わたしであり私の足が、わたしである。
ほな
私というものは、どこにあるのか?
それは集合体である。
集合体とは個々のものが集合して出来あがったもの。
私の髪も、私の顔も、私の足も、私の爪も全て私である。しかし実は「実態」はない。
これが「諸法無我」の意味だと。
(注)この法話は日泰寺の村上円竜様のYouTube法話から、わかりやすく説明したものである。
仏教は奥深く、理解するまでに、かなりの説明は必要だな、と思いました。
私も色々、言葉の意味など調べて解説してみたが、んー😐、まだまだだなぁ〜(*≧∀≦*)