Drマサ非公認ブログ

小我にとらわれる世界がしんどい

 西欧が江戸後期明治に入ってきて、徐々に人々の生活に浸透しました。

 おそらくその頃日本人は大きく変わって行ったのだと思います。前回無明について触れてみました。ブログなので、きちんと考察した文章ではありませんが、僕なりの人間理解の雛形が見えていると思います。

 ちょうどテレビを見ていると、ゴールデンウィークで人手が凄いとか渋滞が・・・とやっています。コロナが終わって、やっと日常が戻ってきた・・・ということなのでしょう。それを喜んでいるわけですから、人々の欲望の解放を喜んでいるということでしょうね。これは無明を喜んでいるわけです。まあほどほどにと思いますが、大衆的行動様式は皆無明に流れていくでしょう。

 で、西欧が・・・という話に戻ると、無明を無批判に肯定するのが西欧の考えのように思えるのです。異なる仏教用語で言い換えてみれば、西欧では小我を私自身と思うことを基底にして打ち立てられてきたのでしょう。

 小我というのは、個人に閉じこもっている心の有り様、凡夫のあり方です。自己を他者と区別することで、世界を理解し、そこで自我を規定しています。他者が重要ではなくなる、そんな人間の有り様でしょう。そうすると、自己の欲望を満たすことに、そういう狭い領域に自己を押しとどめようとするわけですから、簡略化すれば、生存競争になります。

 とすると、生存競争として世界が自我の前に現れるので、生存競争を勝ち抜くことが、人間に求められる規範になるというか、善行為にまで見えてしまうわけです。善は言い過ぎですが、大我が小我を覆ったり、後退させる機会をもありますから、そちらの方が善そのものの方に近づく感じでしょう。

 そもそも日本人には個人なるもの、自我なるものはあまり存在しないような思想がありました。ちなみに僕が好きな数学者の岡潔先生は、生存競争を当然視する世界観を獣の思想のように行っていたと思います。それは人類を滅ぼすだろうとも。小我はそもそも煩悩と繋がるのですから、煩悩をただ肯定するなどということは、そもそもなかったことを思いまします。

 なので、人に勝つということが文化の基底にならないように、抑えた方がいいように思うのです。

 ネットでもテレビでも、勝ち負け、優劣を規範とするような人が多いので、しんどいですよ。

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