なんだか頭に出てきたことを。
約束を守るというのは、社会の基本的ルール。いまさらですが。誰かからお金を借りたら返すということが前提としてある。これは約束ですが、同時にお互いが信頼しているから約束をする。
だから太宰の『走れメロス』を読むことで、そこに描かれているというか、その余白に表現されている約束と信頼を知るとか、体験し、我々の社会がこのルールで成立していることを学ぶ。約束を破ったって、その場はなんとなく終わるかもしれない。しかしながら、そこで失うものは信頼であり、友情であり、お互いの共同性であり、社会性である。
裁判で「賠償せよ」となったのに、賠償をしなければ、そこで信頼を失う。そんなことをしてしまっては、社会性が後退していることを人々は意識もせず理解していた。ところが賠償を怠っても、社会の側がなんとも思わないようになっているとしたら、社会という考えが稀薄化していることであるし、信頼もまた後退していることになるだろう。
もう随分時間が経つが養老孟司さんが『バカの壁』で、約束を守るということを学校でも言わなくなったし、子供達も友達同士で言わなくなって来たという、と書いていたのを記憶している。当時「そんなものかなあ」と漠然と思っていたのだが、確かに社会全体から約束が軽く扱われるようになってきたことは間違いない。『走れメロス』では約束を守るか否かは命がけの問題だったのに。
もちろん政治家の発言なんて、約束という考えをいつも無意味なものにしているのは、ご存知の通り。責任の重い人は口が固かったのは、約束を守れないことが、社会からの信頼を失われることを知っていたからだろう。それが今現在は・・・
そういえば、もう40年前になるが、当時付き合っていた彼女と待ち合わせをしていたが、なかなかやってこなかったことがあった。当時は携帯がない。だから「そのうち来るだろう」と思い待っていた。「なんかあったかな」などとも。一応公衆電話で電話をしたが、つながらず。
結局2時間近く経ってから彼女がやってきた。彼女は「病院に行かなければならなくなって」とその理由も話してくれた。その後、二人は普通に食事をしてデートを楽しんだ。何もなかったかのように。僕が彼女を待っていたのは、彼女が約束を破るような人ではないと信頼していたから、彼女が2時間近く遅れても待ち合わせ場所にやってきたのは、僕が待っていると思ったから。信頼があるように思う。
現在であれば、スマホで連絡を取り合えばいいので、こんなことは起きない。確かに便利であるが、約束を守るという行為が社会の中から失われ、意識などしないけれども、2人の間の信頼を作る機会が減じていると考えるのは、考え過ぎだろうか。これが社会の基本的ルールだとしたら、それを意識する意識しないに関わらず、学ぶ機会がなくなっている。