最近ネットで人気のコンテンツなどを見るときが多くなってきたが、多くの人が知っているように人を蔑んだり、ばかにしたりするものが多くなったというか、そういう人の心理がおもてに出てきたように感じられる。
何かしでかしたり、言い争いになっていたり、そんな相手に「無能!」「頭が悪い!」と言葉をぶつけたりしている。人によっては言葉が突き刺さる人もいるのではないかと心配になるほどだ。
でも「無能!」「頭が悪い!」と言葉を発する人間の醜悪さを感じてしまう。もちろん養老孟司が「バカの壁」と「バカ」という言葉を使い、社会の方向性を批判するのは、そこに皮肉というかユーモアがある。つまり養老孟司という(一昔前で言う)知識人の鋭い人間理解や観察力があるからに他ならないので、醜悪さなど微塵もない。
僕はこの「無能!」「頭が悪い!」などと同等のの言葉を発する人間の醜悪さに対して、次の言葉が頭に浮かんでくる。
無明。
仏教用語である。真理に暗いことであるが、真理に背を向けるという意味だと思う。だから醜悪になるのである。心理の内実を問うのははやめておこう。ただ真理があるという生き方であるが、その真理を人間が簡単には掴めないという謙虚さをもつ。
無明はだからおそるべき一面がある。無明を最も素朴な言葉に変換することが許されるなら自己中心である。自己中心として世界を知ろうとして、感じてしまい、そして行為する、そういう人格である。ある意味で本能的ともいっていい。特に個性と言われるものは自己中心で位置付けられているが、本来はより深いところからくるものだろう(これについてはまたいつか語ってみよう)。
彼らの欲望が向かうところは、自己中心であるから、他人より上位優位であることを示そうとすることである。だから真理とは無関係で、法的に正しいとか、金儲けにはこちらが正しいとか、そういう枠組みで行動する。そして、実はこのような価値観を日本社会では広がっている、そういうことなんだろうと思う。
無明を抑え、自己中心を脱去することの方が、やっていることを面白くさせていくのである。ということで、僕は淡々と生活をしていこうと思う。当たり前のことを当たり前にやる。
一応名付けて、暮らしの哲学、そうしておく。