正月、映画「イチケイのカラス」のテレビ放送を見た。年末から続く、テレビの再放送の延長戦である。
ある特定地域が基幹産業に依拠しているがゆえに、住民皆が嘘に加担している。真実を追求する司法の場で、まさに真実を追求するがゆえに、住民の嘘を暴いていく。
そこには、真実と幸福(僕は頽落していると考えるけれど)が両立しない矛盾があるとはいえ、真実に向かっていく、そんなストーリーである。実際は映画であるので多面的ではあるから、僕の視点にすぎないのであるのだが。
僕は真実はそのまま幸福であると考えるというか、それこそ真理であるのかとも考えるが、人々は欺瞞を抱えていることに気づかず、それを幸福とする、そんなねじれた幸福観で生きているのだと思う。それが社会システムを構成してしまっている。
幸福とは「よく生きる」それ自体であるのだが、そうとは知らず生きていく、そのような心理的社会的状況を僕は頽落しているとみなしている。その意味で「よく生きる」と問われ続けて生きていくこと、倫理それ自体なのであろう。
さて、この映画では、住民はみんなの生活のために嘘を重ねている。皆で嘘をつくのは皆のためである。だからといって、他者のためであるわけではない。なぜなら誰もが住民のためでもあるのだから、自分のためである。環境汚染は罪のない子供に病気をもたらすが、その原因を語るわけにはいかない。
いわゆる善意の嘘であるのだが、その善意は病気の子供にはもたらせられない善意であるから、悪意である。
人が嘘をつくのには、それなりに理由がある。自分のためとか、他人を傷つけないためとか、名誉を守る、国を守る、組織を守るため、社会の安定のためとか、色々だろう。
だから、なんだか嘘にも理があると思ってしまうのだが、ちなみにカントは嘘は嘘であり、これを容認しない。これを理性という。理性主義者は真に厳しい態度で生きる。これが定言命法につながる。
そもそも嘘という言葉には、それ自体が価値であるからである。嘘は悪いという意味が含まれている。嘘はそれゆえ悪いことである。どのような理由であっても、嘘は否定されるべき価値を有している。僕たちの心の中には、不思議なことに、嘘の根源的価値が保存されている。
そういう嘘という言葉の意味を子供の頃から学んでいるし、これ以上に学ぶべきことがないほど根元的事実として宿っている。当然、嘘の反対になる本当、真実も同時に学んでいる。大人になるとは、それを異なる論理でごまかしていくことであろうが、それでもなお必ず根元的事実として残っていて、我々の倫理を刺激する。
これが言葉に宿る価値である。
そんなことに思いを巡らせる映画であったのだろうかとも思っている。