Drマサ非公認ブログ

芦原さんのことで少しばかり

 もう色々な事が語られているとは思うので、繰り返しになってもとは思うのだが、漫画家の芦原妃名子さんの事で少しばかり。

 僕は最近漫画やアニメを見ることも少なくなってきているので、『セクシー田中さん』のストーリーなどは知らない。テレビで実写化している事は知っていた。テレビでもちらっと見た気がしている。その程度であるから、作品や作者に対して意見するだけの知見はない。

 とはいえ、指摘されるように、原作者の意向をテレビ局側が軽視しているようには見える。そして、それ自体が本当に原作がある事がどのような意味があるのかを理解していないように思えてならない。

 原作、オリジナルと言い換えたほうがいい感じがするが、例えばものまねをあげてみよう。

 テレビを見ていると多くのモノマネ芸人が活躍している。コロッケを代表に独自の世界を構築し、素晴らしい芸を披露してくれている。とはいえ、ものまねはモノマネされる本物がいるからこそ、ものまねが可能な世界である。

 だから、自明な事だが、本物(オリジナル)に依拠して、モノマネをするのだから、本物に対して敬意が生じる。あまりにふざけたものまねであっても、本人の前では恐縮してしまい、それを乗り越えていくというプロセスが生じていく。そこに敬意が存在するだろう。

 少し脱線するが、非常に歌の上手いものまね芸人を見かける事が多くなった。僕はそこに本物に対する敬意、つまり本物ではないという意識が希薄になっているような気がしてしまう。自分の歌のうまさにただ酔ってしまっているものまねタレントがいるように思えるのだ。

 僕たちは『本物(オリジナル)』という概念を持ってしまっている。という事は、本物ではないという事は本物ではないという「引け目」のような感覚が生じるはずである。だからこそ、本物に対して敬意が生じる。仮に本物より歌が上手くても、本物がいるからこその芸であるという自覚があるはずだ。

 そのような自覚を忘却する事がある。

 『セクシー田中さん』も同様に、原作がなければ、当然テレビ化することもできないし、メディアミックスもできなければ、グッズでさえ作る事ができない。あらゆる現象が『セクシー田中さん』のオリジナルに依拠している。その自明の事実を知った上で、行動する、それが当然の規範である。

 テレビ関係者には、そういう規範が欠けているのは、誰もが感じることではないか。二次創作をするアマチュアは原作や原作者に対して敬意を抱いている。

 日本ではファウンダー(創始者)を軽視する傾向があるように感じるのは僕だけだろうか。

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