僕は森氏の女性差別発言の問題を日本社会に巣食うパターナリズム(父権主義・温情主義)から整理してきた。正確に言うと、女性差別”発言”ではない女性差別の問題だ。
メディアは「女性蔑視と取れる」と言ったり、「解釈の仕方だ」などと問題を曖昧化しようとする。はっきり「女性蔑視・女性差別だ」と言わなければ、問題の焦点がぼやけるのである。日本社会はこのような物事を漠然とすることを行ってきた。このような日本社会の体質こそが、現実を、ここでは女性差別をまっすぐ見ることができなくしてきたのだ。
「森さんに変わる人はいない」程度の発言がある。ここにも文化の政治がある。「女性差別する人間」の問題と「オリンピック運営で重要な役割を果たしてきた」という問題を比べて、「森さんに変わる人はいない」と発言し擁護するという行為は、「女性差別する人間」問題の方を後者より下位の問題として位置付ける振る舞いになってしまう。
コミュニケーションでパフォーマティブな水準で、行為という水準で、「オリンピックの運営」の実績の方が重要だとし、ついには女性差別の問題を軽視してしまうのだ。
今回の問題は女性差別の問題に焦点が当てられたのだから、その意味では、このようなもっともらしい言説は何が問題なのかを後退させるのである。ここに小さいけれど、実は大きな政治が生じてしまう。ゆえに女性差別の問題に焦点を当てることを手放してはいけない。
さらに考えれば、そもそも「森さんに変わる人はいない」との認識評価自体がパターナリズムから発しているのではないかとの疑いが生じる。森氏に代わって他の人物ができない仕事って何だろうか?
そのような森氏にしかできない仕事がこの世にあると信じていること自体が、森氏をトップとして構築したパターナリズムの組織体系や社会から生じている。森氏ではない人物、森氏ではなく女性ができない仕事があるとでもいうのだろうか。いや、トップの力量のみで決まる仕事のありようを今変革することが求められているのではないだろうか。そもそも森氏がオリンピックに関わって行ってきたことで大問題がいくつもあるだろう。
テレビを見ていると、森氏のこれまで行ってきた仕事を評価すると言う識者がいる。その仕事内容自体がなんだかわからない。少なくとも公にはよくわからない。「森さんの手腕」「森さんの交渉力」など内容が不明な言説で表現される。電通や竹田日本オリンピック委員会前会長とアフリカ票をまとめるために買収した手腕だろうか?それとも無報酬と言いながら年6000万円の献金を集める手腕だろうか?まだまだありそうだ。
公の場では本音は言わず、酒の席は無礼講とでもして本音を漏らす。そんな男社会(ホモ・ソーシャル)の文化が批判されているのだ。
(つづく また延びてしまった)