前回は数学者の岡潔の言葉を紹介した。岡先生は、現代は知性が衰えた時代だという。そういう時代は損得、功利主義が跋扈する。そういう人間を作った一因は、試験目当ての勉強では、人間の情が作られないという。
少し僕なりに、岡先生の考えを援用して考えて見たいと思う。
例えば、マズローの欲求の五段階説を取り上げよう。このブログでも、取り上げたことがある。参考までに
https://blog.goo.ne.jp/meix1012/e/02bf4c21690aea9918bf71da52d62567
マズローは人間の欲求には、どのようなものがあるのかと探索した。そこで彼は5つに欲求に分類した。「生理的欲求」「安全の欲求」「社会的欲求」「承認欲求」「自己実現の欲求」の5つの階層になっていると分析した。欲求の階層説である。
なぜマズローはこのような“説”を作ったのか。難しいことではない。「心とは何か」という一点である。そこを欲求という切り口から接近したのである。つまり、欲求は方法論的に要請された概念である。だから、違う切り口で「心とは何か」に接近する方法もあるはずである。フロイトやユング、アドラー、僕が敬愛するアルノ・グリューンなど数多くいるのであって、マズローは一つの説を提示したのである。マズローの場合は、当時隆盛であった行動主義批判があった。
ところが、欲求の五段階説はあたかも行動心理学のように利用されるし、経営に用いられることがある。例えば、あるライフスタイルが自己実現の欲求にかなっていると考え、あるライフスタイルをブランド化し、スタイル化し、広告戦略で宣伝する。あるブランドを身に付けることが、自己実現のように見なされる。まさに功利主義的利用である。岡先生はこれを知性の劣化としたのだ。
実はマズローは、自己実現の欲求で最高に価値ある人間のありようを、超越的なものとの交流であるという。これを岡先生の言葉で置き換えれば、人間が真善美に開かれていることである。マズローが「心とは何か」という問いの前に立ち見出したのは、人間の真善美、超越的世界への開かれに接することになったのである。そこに人間の真の自己があるという結論を導き出している。
人の欲求を満足させていく方法として、五段階説を提示したとは言い難いのである。転倒しているのだ。そこに岡先生の言葉で言うと、情が要求されるのである。基本的欲求を満足させている人はより健康で、幸福であるのだが、マズローは基本的欲求を産業が利用することを考えただろうか。
基本的欲求は資源ではない。