アントニオ猪木の「闘い」を頭に描くと、僕は創世記のヤボクの渡しを思い出す。
聖書に描かれる族長ヤコブの物語の一片である。ヤコブは夜中の間、天使と格闘する。この格闘は英語でwrestlingである。天使はヤコブの脚に傷を負わせ、しかしながら、ヤコブは明け方まで闘い続け、ついに神から祝福を得る。このヤコブの苦闘と忍耐が祝福の源ようだ。ヤコブはイスラエルという名前を授けられる。イスラエルは神と戦う者という意味だ。
人間は神と闘っている。神とは「なにがしか」である。「生老病死」と闘うのかも知れないが、「なにがしか」としか言いようのない存在者である。天使はヤコブがそれと闘わなければならない謎である。その現象は森羅万象であるが、人間に苦闘と忍耐を強いる。それが「闘い」である。
そこに人間の、生命の神的(スピリチュアル)な側面が開かれる。一応断っておくが、僕は友人から唯物論者と言われるような近代人であるから、世にはびこるスピリッチャルは大嫌いである。
この闘いで、ヤコブは傷を負う。この負傷を通して、ヤコブが聖なる土地にあることを確信する。そこで彼はイスラエルと名付けられ、その土地をぺニエル(神の顔)と名付ける。人間は神の顔を見ることはできないはずだが、ここに生命の神的な側面として、垣間見得たように思えたのだろう。
アントニオ猪木の「闘い」はヤコブのような「闘い」の現代的な表現である。猪木はリングで闘っていた。リング外でも闘っていた。プロレスに対する偏見とも闘っていた。国会議員になってもイラクの人質解放、北朝鮮での平和イベント開催と常に闘っていた。
猪木さんは何と闘っていたのだろうか。「プロレスは八百長」「どうせプロレスラーだろ」との偏見は、あたかもヤコブの足の傷のようである。それでも闘うしかない。猪木さんは自己が立ってしまった土地をぺニエル(神の顔)として発見するために、闘い続け、傷を負い続けなければならなかった。生きることは、すなわち神と闘うことのなである。アントニオ猪木は、そのような神的な「闘い」を具現化する存在であった。
そして、今もまた病魔と闘っている。このヤコブの物語は実は闘病の心理学的理解に用いられることがある。病との闘いは、このような神的な「闘い」を我々に気づかせてくれるというのだ。
この僕なりの理解は誇大妄想的なところがあるかも知れない。だから、近い将来きっちり考えを熟成させ、表現してみたいとは思う。
アントニオ猪木は我々大衆に「闘い」がなんであるのかを気づかせてくれた存在である。その「闘い」の苦闘と忍耐が、その意味を正確に言葉にすることができないにしても、なぜか届いている。
「闘い」の媒介者(巫女)がアントニオ猪木である。そして、それを受容するのが、ファン(熱狂者)である。