この記事は1年以上前に書いたものですが、心中複雑で取り下げました。
いくつかの理由があるのですが、メイプル記事、らんぽむさんの記事に訪れた人たちには関係のない話題かと思いました。
でも、期間限定で公開することに決めました。
意図するところは、同じ過ちを繰り返さないこと、自分が今ある意味、本当の自由という意味、命の尊さについて考えて欲しいと思ったからです。
以下が記事になります。
今回は、今ある幸せに感謝する意味について、真面目にお話します。
私が日々の生活を、人並みに過ごせるのは誰のお陰なのだろうか。
自分のやりたいことを自由に選択できること。
例えば、映画を観たり、テレビを観たりすること。
好きな食べ物を食べること。
好きな服を着ること。
好きな釣りをすること。
暇だと感じること。
苦労が無いわけではないが、確かな自由を感じる。
学校に行って、法を守り、大人になったら仕事をして、税金を払い、多少のマナーさえ身につけとけば、間違いなく自由はそこにある。
これは私達の権利でもあり、何の疑いも抱く必要さえ無い。
ただ私は問いかけます。
その自由は、いつ頃からであるのかということを。
終戦記念日になると、年寄りが「戦争」を反対する意見は年寄りの戯言なのでしょうか。
私は戦後の生まれで、戦争という言葉しか知りません。
平和のために海の向こうでは戦闘服を着た軍人が、テロリスト相手に日々銃撃戦をしていることはニュースを通じて実感しています。
ただ過去にも紹介した通り、生命の尊さについては多少知っているひとりです。
その瞬間に1つの命を断つことの意味としてです。
しかしそれは人間ではありません。
戦争は正義と正義のぶつかりあいです。
皆、国家の幸福、思想のために、それを信じて国民が戦い。
その戦いを後方から応援する家族も国家の幸福、思想を信じ、自分の身内を国家の“盾”としました。
今、生きている我々が在るのは、これらの失敗を乗り越え、明るい未来を信じて乗り越えた、自分の祖先がいたからです。
そんなことを聞いてもピンとこないかもしれませんが、私達の同級生や知り合いが、今後の法改正によって戦闘地域の中で物資等の補給を行います。
いつ死んでもおかしくない世界が、一歩ずつ私達の生活に忍び寄っています。
これらを実現するためには常に必要な人材確保が求められます。
大義名分の下、徴兵制度が始まることが十分考えられます。
ニュース等では“点”でしかわかりませんが、その背景を捉えて線とすれば意味がわかります。
意味がわからずとも、命が大事であることだけは理解し、我々はこの先どうすべきかを認識してください。
ただし、不正な侵害に対して自国を守ることは当然必要です。
だからこそ、自衛隊の存在が必要なのです。
でも、どちらが正義か良くわからないまま、世界警察の如く、その戦火に飛び込むことは代償が大きいのではないでしょうか。
その代償が常に“人の命”なのですから。
戦争に進むような道だけは、国民の一人して止めて欲しいと願います。
前置きが長くなりましたが、「シベリア抑留の名簿」は現在において、ほぼ意味をなさない過去の産物になっているかもしれません。
戦争の記憶が薄らいだ今だからこそ、公表できたのでしょう。
そのことに良くも思い、悪くも思います。
私達は、お腹いっぱいで食べられないということに何の違和感も持たず。
部屋が欲しい、狭いという、親への当たり前の意見。
今の時代が幸福と感じることもないでしょう。
ただ、シベリアの抑留者が何をさせられ、何を食し、手足を伸ばしてゆっくりやすみたくても出来ずにいたことを、未来を担う我々は、一瞬でもいいから知っておくべきなのではないでしょうか。
8月でも降雪を観測し、これまでの最低気温が-73度という異常な世界。
極寒のシベリア、少ない食事、強制重労働の三重苦であったこと。
今の私達は、暑い寒いに空調で対応でき、残すほどの食事、強制労働(強制勉学)もなく、三重楽です。
【抑留者の夕飯画像】
右のパンと汁だけです。
これで体力を維持できるはずもなく、病気になって死ぬことも想像でき、いつか日本に帰還するという、サムライ魂で気力を維持して生存していたことが伺えます。
タコ部屋どころじゃないです。
犬小屋程度の広さです。
私のご先祖様は、この先、生まれてくる私たち(涼風)の幸福をただ願い、今生きていることの意味を自分に問いかけながら、極寒の地で死に絶えたこと。
その礎になった祖先のお陰で、現在の“私”がいることだけは間違いないということです。
聞いたところでは、私のご先祖様は、抑留引揚船の航海中に潜水艦により撃沈されたような話も聞きました。
開放を約束されたのに、背中から撃たれて死んだも同然で、なおさら無念に思えます。
数字の整合性が取れないのはこのような理由からです。
シベリアの抑留名簿のニュースが流れた時は、無関係なこととせず、私の言葉を思い出してください。
そして戦争を耐えき、自分に未来を託した先祖様に少しでいいから感謝しましょう。
未来の子どもたちから見れば、私達は“先祖・祖先”という立場になりますからね。
自分がこの世を去った後、彼らが私たちを恨むのか、感謝するのか、その答えは私たちの進む道のあり方、進む方向次第です。
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