先日、都内の地下鉄での出来事になります。
ある駅に着いたら、ひとりの若い女の子が誰かに引率されて乗車しました。
ところが引率者は乗車せず、女の子だけでした。
良く見ると「杖」を片手に方向が分からずに戸惑っている様子でした。
近くにいた3名くらいがすぐに通路を開けましたが、そこからの様子が変でした。
椅子に座っていた女性は席を立ち、5mほど遠くに立ち去って様子を見ています。
みんな何かをしてあげたいという気持ちはあるものの、どうしていいのか戸惑っているのがわかりました。
涼風は、それを一瞬ですが傍観していることに気づき、「あっ、しまった」と感じたものの、今どうするのか、また1,2秒考えてしまったのです。
彼女にどうするかということ、どうにかしてあげて良いかということ、周りの目、杖を引くのか、手を引くのか、声を掛けるのか。
瞬間ですが迷いました。
自分では大体のことが、どうにか出来るとこれまで自負していました。
自惚れですね。
このパターン、電車あまり乗らないから完全に想定外でした。
電車が走り出す瞬間、体が勝手に動き出しました。
彼女の手と肩をサポートして「椅子に座りましょう」と声を自然に掛けていたのです。
そして椅子の前に来たとき、また問題です。
180度方向変えないと駄目じゃないか・・。
その時も「座るので方向変えましょうと」言って、「真後ろに回りますね」と話しかけて方向を変換して、「ゆっくり座ります」と言って、背中に手をまわしていた自分がいました。
彼女は不安な様子でしたが、座った時に「有難うございます」と言ってくれました。
私は彼女が何処まで行くのか、いつも乗車してて慣れているのかについて疑問が次から次に・・。
そうしていると、いつの間にか私の目的地に到着したので降りようとすると、彼女も立ち上がりました。
この瞬間、また、私は躊躇したのです。
先ほどの駅から人がかなり乗車しており、完全に通路を塞がれています。
ぼけっとしていると降車が出来なくなるのですが、なんか体が人で塞がれている通路を開けようとしており、「目の不自由な人が降りますので道を開けてください」と言いながら、彼女の手と肩を支えて下車しました。
無事に降りることが出来てほっとしましたが、彼女は駅のホームでまた立ち止まっていました。
今度は迷いませんでした。
どっちに行きたいのかな?
改札口までなら一緒に行けることを告げ、同様に一緒に歩きました。
駅員さんを見つけ、あとはお願いしました。
なんか自然に言った最後の言葉は、「がんばってねー」という、何を?というような変な言葉でした。
ただ、彼女は「ありがとうございました」と笑顔で応えてくれました。
私は、一歩、一歩と、歩きながら考えました。
おら、いつも歩いてて、特段、何も考えないんだけど、彼女は目が見えないから歩くだけでも大変なんだって・・。
おら、歩いてて、目に飛び込んでくる色々な物を見てるから、少し歩いても退屈しないんだって・・。
おら、歩いて何かを探していても、遠くが見えるから、その道で間違いないって、目で確信できるから・・。
おら、前が見えるから疲れるくらい、歩く速度をあげられるって・・。
おら、目が見えるから、自分の容姿がどうかなって・・。
おら、・・・・・。 おら・・・・・・・・・。 おら・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
可哀想だと思っちゃダメなんだけど・・・・・・・・・・。
しかし、手を差し伸べるって大変なんだなって・・・・・。
医療の進歩によって、目がみえない人に対して目がみえるような現実がそこまで来ていることは知ってます。
でも「目が不自由な人」って言い方が、それで良かったのか少し後悔しています。
何もそれに触れずに、「みなさん、協力してあげて下さい」って言い方でも良かったのか、人によっても捉え方が違うでしょうが、相手の気持ちについて考えさせられました。
そして、これも私たちの社会なんだと改めて考えさせられた貴重な1日でした。
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