東京メトロの丸ノ内線・南阿佐ヶ谷駅で、駅員の居眠りによる駅舎の開閉館業務に係る不祥事案がありました。
世間では“遅刻”という表現と解釈になっているようですが立派な不祥事です。
鉄道事業法の第17条(運行計画)に抵触する行為であると私は感じます。
また、旧国鉄(国)と東京都による管理下にある鉄道会社であることを考えれば、都民ならず国民のためにその責をなすべきと考えます。
受け止め方について問題としているのは勿論ですが、しっかりと“公共の交通機関”であることを認識して欲しいと考えます。
駅員が寝坊したことによって少なくとも運行計画に定められた営業開始時間が遅れ、はっきりしているだけで34名の方が始発列車に乗車できなかったのです。
また、電車から降車した2名については駅舎から出られない事態になっていたのです。
それも真っ暗で・・・。
この人たちは理由があって早朝の始発に乗車しているのです。
私が人生の中で始発に乗る理由は2つありました。
1つはお酒を朝まで飲んで家に帰るとき。
これは電車の時間なんてどうでもよくて、ただそれに乗って帰るだけの目的。
2つめは羽田空港に朝7時前に到着したい目的からです。
これに間に合わないと仕事に影響が出るので少しでも早めの電車、つまり始発に乗車して羽田空港に向かうのです。
しかしどちらの理由が重要であるかではなく、その時間に動くことが公的機関として約束されていることが重要なのです。
公共の交通機関は、乗車すること、降車すること、これらにその理由を求めていません。
“何人も平等なのです”
当然なにかの理由によって電車はダイヤが乱れることはありますが、駅員自ら寝坊なんて失態をしてはならないのです。
これは担当駅員だけじゃなく、運行管理者(指令すべきところ)の各駅舎の業務開始前における従来からのチェック業務が疎かになっている証拠かと考えます。
2人一緒であっても、になにかの理由で死んでいることも十分考えられます。
ですから業務開始前に事前チェックを体制化するのは当たり前ではありませんか。
業務を疎かにした理由を聞かれて目覚ましが悪いように伝え、「寝坊」、「2度寝」なんて平気で説明することも理解に苦しみます。
“お友達との待ち合わせに遅れた”のとは訳が違います。
誰でもその職に就けないくらい敷居が高いのには「理由」があるはずです。
その理由は「学歴」だけでないことを自覚させることから初めて欲しいものです。
謝って済む問題ではありません。
時は戻らないのです。
東京メトロとして重大な「汚点を歴史に残した」ことを反省し、すべての社員が繰り返さないことを国民に約束して欲しいと感じます。
世の中には1分遅くなった“程度”ても、その人の、その会社の“在り方”を変えてしまうことがあるのです。
1つの些細なことが、最後には人命にまで影響するという危険も知ってほしいと感じます。
最近のニュースでどこかの「重要な施設」が問題になっていました。
その問題は、たかが「監視カメラ」の故障です。
監視カメラは本来「付ける」ものではなく「監視」するものです。
それがないと、どうなるのでしょうか。
駅舎に駅員が居なくとも駅舎設備を無人で開放したり、閉鎖することは理論的に可能です。
ご存知のとおり、銀行のATMを初めとするキヤッシュコーナーは昭和55年以降、無人稼動しています。
つまり、詳細は言えませんが、なんらかの手法によってすべての物理的制御とその全般的な管理を原則、無人で行っているのです。
遠隔で管理すべきところから、その都度誰かが制御している訳ではありません。
また、これらの異常については監視カメラからの情報で認識し、スピーカーを通して意志の疎通を図ることも可能です。
ですから、駅員はなぜそこに必要なのかという重要性について知って欲しいのです。
シャッターの上げ下げなんて、無人化稼動の中でも簡単そのものなのです。
私は機械化は可能であっても、そこに“人の暖かさ”があって欲しいと願う一人です。
既にモノレールは一部で無人運行となっていますし、自動車も無人運行計画がはじまっています。
これからの日本において人員削減は何をもたらすのでしょうか。
機械は便利です。
しかし突然壊れ、どんな対応を施してもいつか壊れます。
最終的な判断は、人間の五感の作用をもって行動するべきです。
今一度、公共の交通機関ということに対して問題意識を我々がしっかり持つべきです。
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