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我的三国演義~第九巻『決戦!長坂坡』

2012年07月28日 | 我的三国演義
我的三国演義~第九巻『決戦!長坂坡』
この巻の主な出来事です。

207年(建安12年) 『劉備』、「三顧の礼」で『諸葛亮』を迎える。
208年(建安13年) 『曹操』、「荊州」を攻め、「劉」が降伏。
             『諸葛亮』、『孫権』と会見し、同盟を結ぶ。
             
 劉備玄徳(161年 - 223年)
さて“三顧の礼”で『諸葛亮』を得た『劉備』ですが、2人の親交が深まるにつれ、『関羽』や『張飛』が不満をぶつけます。
それに対し『劉備』は「私に諸葛亮が必要なのは、魚が水を必要とするのと同じようなものなのだ」と語り、なだめました。

(四川省綿陽市「富楽山」にある『魚水君臣』像です)

 諸葛亮孔明(181年 - 234年)
「三国志演義」では「博望坡の戦い」という『諸葛亮』のデビュー戦が描かれています。
まだ実力未知数の『諸葛亮』にベッタリの『劉備』に嫉妬する『関羽』と『張飛』でしたが…『曹操』が「新野」に「夏侯惇」「于禁」「李典」らを出陣させました。
『曹操』軍は10万、対する『劉備』軍はわずか1万でしたが、『諸葛亮』が諸将に授けた作戦は「新野」の東北にある「博望坡」に敵を誘い込むというものでした。
当初『諸葛亮』の指図などに従えるか!といった感じの『張飛』や『関羽』でしたが、作戦通りに『曹操』軍を打ち破り、以後『諸葛亮』の実力を認めることになったのでした。

三国史跡紹介・其之三十九~博望坡(未到達)
所在地は「河南省南陽市方城県博望鎮博望村」です。
周囲が畑のど田舎に「博望坡」の石碑が立っています。
地図で見ても、かなり辺鄙な場所な上に、石碑が1つあるのみ…
    …以上


『劉備』らが世話になっている「荊州」の“牧”「劉表」は高齢で健康がすぐれず、しかも今は『曹操』の脅威にもさらされていました。
「劉表」には2人の息子がいましたが、嫡男の「劉」は病気がちでした。
後妻(蔡氏)との間にできた「劉」は、母(蔡氏)や蔡氏の弟で「劉表」の家臣「蔡瑁」らが擁立を企んでいました。
そのため「劉」は『諸葛亮』に助言をもらい、後継争いから身を引き、空席だった“江夏太守”を志願し、「夏口」へと去りました。
この「夏口」は“太守”であった「黄祖」が、父「孫堅」の仇討ちに燃える『孫権』軍に敗れたため、“太守”の座が空いていたのです。
そんな「劉表」は病床に『劉備』を呼び寄せ、「荊州をさしあげたい」と申し出ましたが、『劉備』はこれを辞退したといいます。
そして208年8月、『劉表』が息を引き取りました。

 曹操孟徳(155年 - 220年)
翌9月、『曹操』みずから兵を率いて「荊州」に攻めて来ました。
しかし、この情報は「樊城」に駐屯していた『劉備』らには一切知らされておらず、『劉備』が気付いたときには『曹操』軍は近くの「宛」まで迫っていました。
『劉備』らは急ぎ南を目指して逃走しました。
「劉」のいる「襄陽」に着いたとき、『劉備』は「劉」に会見を求めましたが、このとき「劉」は迫り来る『曹操』軍におそれをなして席を立つことすら出来なかったといいます。
『劉備』は、「蔡瑁」ら降伏派と反降伏派の争いを見かねて、更に南下して行きました。
このとき『諸葛亮』は「劉を討てば荊州を手に入れられます」と進言しましたが、『劉備』は「自分には忍びない」と言って却下したといいます。
その後「劉」は「襄陽」を無血開城し、あっさり『曹操』に降伏してしまいました。
これは「蔡瑁」らの主張を受け入れたのですが、後に「劉」は“青州刺史”に任ぜられるものの、「青州」に向かう途中「蔡氏(母)」と共に『曹操』軍に殺害されてしまうのでした…。

『劉備』を慕って多くの民間人も南下していました。
「当陽」に着いたころには10万余りの人々、数千台の荷物がつき従ったため、1日の行程は10里あまりにしかなりませんでした。
 関羽雲長(生年不詳 - 219年)
『劉備』は『関羽』に数百艘の船を支度させて民間人の多くを船に乗せ、『関羽』とは「江陵」で落ち合うことにしました。
それでも船に収容しきれなかった民間人は多く、彼らは『劉備』と共に陸路を進みました。
ある人が『劉備』に「民間人は足手まといになります。ここはすみやかに江陵に向かわれては」と助言しましたが、『劉備』は「自分に身を寄せてくれているのだ。見捨てることができようか!」と反対しました。
そして…「襄陽」で「劉」を降伏させた『曹操』は、『劉備』を討つ絶好のチャンスとばかりに夜を日についで追撃…ついに「当陽」の「長坂」で『劉備』に追いつきました。
『諸葛亮』は「夏口」の「劉」に援軍を求めに行き、『張飛』、『趙雲』らも『劉備』とはぐれてしまいました。

 趙雲子龍(生年不詳 - 229年)
この時『趙雲』は、『劉備』の妻子の警護をしていました。
しかし、『曹操』軍の攻撃の中はぐれた事に気付き、単騎戦場へと引き返して行きました。
これを見て「趙雲は曹操に寝返った」と言う者がいましたが、『劉備』は「趙雲は私を捨てて逃げたりしない!」と叱りつけました。
『趙雲』は、まず避難民の中に「甘夫人」を見つけ、救出しました。
その後『曹操』軍に捕らえられ護送される「麋竺」を救出、そして『曹操』の側近「夏侯恩」と出会い、討ち取ります。
それから「阿斗」を抱いた「麋夫人」を橋の下で見つけました。
しかし、足に傷を負った「麋夫人」は、足手まといになると言い『趙雲』の制止を振り切って古井戸に身を投げてしまいました。
その後『趙雲』は「阿斗」を胸に抱きながらも、50人以上の『曹操』軍の兵を倒したといいます。

三国史跡紹介・其之四十~長坂坡公園(詳しくは2008年2月4日のブログを参照してね)
所在地は「湖北省当陽市長坂坡」で、恐らく市内の中心部にこの「長坂坡公園」があります。

入場料は無料で、公園内には「長坂坡の戦い」を再現した像が点在しています。

『趙雲』ファンには堪えられない史跡の一つであることは間違いないでしょう。
到達難易度は「C」かな…当陽市内に出られれば容易に着けると思います。

三国史跡紹介・其之四十一~太子橋(詳しくは2008年2月4日のブログを参照してね)
同じく当陽市内で「長坂坡公園」から徒歩でも行くことができます。

「阿斗」を抱いた「麋夫人」が身を潜めていたのがこの「太子橋」です。
到達難易度は「C」かな…ちょっと道に迷ってしまいましたが、事前に正確な場所を調査できていれば難しくはないでしょう。

三国史跡紹介・其之四十二~娘娘井(詳しくは2008年2月4日のブログを参照してね)
「太子橋」からさらに歩くと「娘娘井」に辿り着きます。

『趙雲』に「阿斗」を託し、「麋夫人」が身を投げた井戸です。
ちょっと場所が分かりづらく、見つけるのに苦労したので到達難易度は「B」ってことに。
   …以上

 張飛益徳(165年 - 221年)
「阿斗」を抱きながら『曹操』軍の中を一騎で駆ける『趙雲』はようやく「長坂橋」に辿り着きました。
そこで殿を務めていた『張飛』があとを引き受け、『曹操』の大軍を待ち受けます。

三国史跡紹介・其之四十三~張翼徳横矛処(詳しくは2008年2月4日のブログを参照してね)
所在地は当陽市の外れの方かも知れません。

殿を務めた『張飛』は「長坂橋」に仁王立ちし『曹操』軍を一喝
『曹操』軍はその雄たけびに身動きも取れず…そしてその豪傑が『張飛』だと知ると退散してしまいました。
ここは「当陽站」に出て輪タクで行きましたが…面倒なんで到達難易度「B」にしておきます。
   …以上

(「赤壁古戦場」にある長坂橋の『張飛』像です)

その後『張飛』は「長坂橋」を破壊し、『曹操』軍の追撃を阻んで『劉備』の下へ戻ります。
そして「漢津」で『関羽』と「劉」の軍勢1万と合流し、「江夏」に辿り着いたのでした。
「劉表」の息子「劉」が太守を務めていたのが現在の「武漢」です。

三国史跡紹介・其之四十四~武漢・亀山公園(詳しくは2008年2月11日のブログを参照してね)
所在地は湖北省武漢市で武漢長江大橋の「黄鶴楼」がある方の反対岸です。(漢陽区)

到達難易度は「D」ですね…武漢は「漢口」「武昌」「漢陽」と3つの区があり、バスやタクシーも区を越えて行かない場合もあって面倒ではありますが公園だから到達困難ではありません。
   …以上

 孫権仲謀(182年 - 252年)
こうしたなか『孫権』は幕僚の1人「魯粛」を「劉表」の弔問に派遣しました。
 魯粛子敬(172年 - 217年)
そこで「魯粛」は『劉備』と会い、『劉備』は『諸葛亮』を「呉」へ派遣しました。
「呉」には『曹操』からの書状が届いていました。
共に協力して『劉備』を討とうという内容でしたが、応じれば服従を意味し、応じなければ攻め込まれる…「呉」内部では開戦派と非開戦派に別れ論争が続いていました。
そこに「呉」と「魏」を戦わせて天下三分を実現させようと目論む『諸葛亮』が現れます。
『諸葛亮』は「呉」の重臣たちと舌戦を繰り広げ、ついに『孫権』と会見します。
『諸葛亮』は『孫権』に「勝ち目が無いと思うなら降伏すべき」と進言します。
「ならば、なぜ劉備は降伏せぬ?」という問いに「劉豫州は王室の後裔です、もし事が成就しなかったならそれは天命、なぜ曹操ごときに降伏などできましょう」と答えました。
一度は怒りで席を外した『孫権』でしたが再び『諸葛亮』と話し、『劉備』と同盟して「魏」と戦う決心をしたのでした。
しかし、非開戦派の重臣に諌められてしまい、水軍提督の「周瑜」に委ねることにします。
兄「孫策」は死に際に「国内の問題は張昭に、外からの混乱は周瑜に相談するように」と言い残していたのです。

 周瑜公瑾(175年 - 210年)
『周瑜』は『孫権』の兄「孫策」の大親友で、「孫策」の妻は「大喬」、『周瑜』の妻は「小喬」という姉妹を娶っていたのです。
『諸葛亮』は『劉備』『孫権』同盟の鍵を握る『周瑜』とも面会をします。
降伏すれば戦火を免れるであろうが、君主『孫権』はどうなるのか…?
それに対して『諸葛亮』は「戦わず、降伏もせず曹操軍を引き上げさせる方法がある」と告げます。
それは「一艘の小船と2人の人間を贈り物とすればよい」ということでしたが、その2人とは「大喬」と「小喬」姉妹のことだったのです。
『曹操』は美人姉妹の噂を耳にし、それが手に入れば兵を引き上げるというのです。
それを聞いて激怒した『周瑜』は開戦を決意…「呉」は『劉備』と同盟し、『曹操』軍を迎え撃つこととなるのです。
  -第十巻へ続く-

今回の「第九巻」は映画「レッドクリフ」の前編にあたりますかね。
この「我的三国演義」も凄く久々の更新になりました…まるで「バガボンド」のように無期休載になってましたよね。
まぁ待ち望んでいた読者もいないと思いますが、次回の更新はなるべく早くできるように頑張ります。

次回「第十巻」では、「赤壁」にて劉備・孫権連合軍と曹操軍が対決します


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我的三国演義~第八巻『三顧茅廬』

2008年10月15日 | 我的三国演義
我的三国演義~第八巻『三顧茅廬』
この巻の主な出来事です。

202年(建安7年) 『袁紹』病死。
207年(建安12年) 『曹操』河北を平定する。
             『劉備』“三顧の礼”で『諸葛亮』を得る。

 袁紹本初(生年不詳 - 202年)
さて『官渡の戦い』に破れた『袁紹』が「202年」に病死し、その後『曹操』によって「袁」一族は滅ぼされました。
「江東」では『孫策』が“呉郡太守”「許貢」の食客に襲われたた傷がもとで「200年」に亡くなりました。
「覇権」の行方は「河北」を平定した『曹操』、「江東」を継いだ『孫策』の弟『孫権』、“荊州”の「劉表」、“益州”の「劉璋」、“漢中”の「張魯」、“涼州”の「馬騰」「韓遂」といったところに絞られてきました。


 孫権仲謀(182年 - 252年)
三国史跡紹介・其之三十~龍門古鎮(詳しくは2008年8月2日のブログを参照してね)
『孫策』の弟『孫権』の故里である「龍門古鎮」は、現在は『孫権』の末裔が暮らす村として観光地化されています。

所在地は「浙江省杭州市富陽市龍門」です。
アクセスは「富陽」の「汽車西站」から「龍門」行きの「バス」に乗り、2~30分で着きます。
入場料は破格の「68元」です。
「富陽市」内には「東呉文化公園(入場無料)」もあり、ここの「三孫堂」の方が『孫堅』『孫策』『孫権』の像などがあり“三国志”色が出ています。
「龍門古鎮」への到達難易度は「C」ですね。
「史跡アタッカーさん(仮)」のサイトでは、この付近にまだ『孫権』関連の廟などがあるようだったんですが…

三国史跡紹介・其之三十(追加)~孫氏宗祠(詳しくは2011年7月24日のブログを参照してね)
所在地は「浙江省杭州市富陽市」で同じく「富陽」の「汽車西站」から「大田」行きの「バス」に乗り、30分で着きます。

管理人のジイさんに鍵を開けてもらって見学できました。
ジイさんの話じゃ、こっちが「孫権」の故里で、「龍門」は「孫策」の故里だと。
到達難易度は「B」かな…凄い田舎まで行くのでミニバスの運転手に目的地を伝えておかないと降りれないかも。
   …以上

三国史跡紹介・其之三十一~袁紹墓(詳しくは2007年9月23日のブログを参照してね)
「202年」に“鄴”で病死した『袁紹』の墓なんですが…
一般的に『袁紹』墓と伝えられているのが「河北省滄州市滄県高川郷前高龍華村」にあります。(未到達)
…が、山東省の電子地図を見ていたら「山東省濰坊市高密市」にも『袁紹』墓が記されており、行ってみました。

『鄭玄』墓と同じく「双羊鎮」にありますが、地元人民に連れて行ってもらいました。
ただの丘で墓石も何もありません…それは「河北省滄州市」も同じなんだけどね。
でも「山東省高密市」よりは「河北省滄州市」の方が信憑性はありますが…
到達難易度「A」ですね…地元人民に聞かなきゃ分かりませんから。
   …以上



 劉備玄徳(161年 - 223年)
さて『劉備』はと言うと「201年」に「劉表(142年 - 208年)」を頼り“荊州”へ逃れました。
「劉表」は『劉備』らを歓迎しました。
『劉備』は「劉表」に、『関羽』に“漢中”の「張魯」及び『曹操』、『張飛』に“南越(ベトナム)”、『趙雲』に「江東」の『孫権』…と国境を守らせようと提案しました。
しかし「劉表」の妻「蔡氏(正室)」の弟「蔡瑁」が動き、「蔡氏」の進言により『劉備』らは「新野」に駐屯することになります。
あるとき「劉表」は『劉備』に後継問題を相談しました。
「劉表」には「劉」と「劉」という2人の子がいましたが、前妻の子「劉」は病気持ちで体も弱く、「劉表」や後妻「蔡氏」は「劉」を可愛がっていました。(劉は蔡氏の実子)
しかし『劉備』は長子(劉)に跡を継がせるのが筋と進言し、「劉表」も納得していました。
…が、それに納得しないのが「劉」を跡継ぎにさせたい「蔡氏」と弟「蔡瑁」です。
「蔡瑁」は『劉備』を暗殺しようと宴会に呼び出しました。
「劉表」の配下「伊籍」から「蔡瑁」に企みがあることを知らされると、『劉備』は厠に行くフリをして愛馬「的盧」で逃げます。
しかし急流に阻まれピンチに陥りますが、「的盧」は一気に河を飛び越え、『劉備』の危機を救いました。
その前にも「蔡瑁」は『劉備』が“荊州”を奪おうとしていると「劉表」に思わせる策を失敗しています。

三国史跡紹介・其之三十二~馬躍檀渓遺址(詳しくは2008年2月3日のブログを参照してね)
愛馬「的盧」で飛び越えたという「馬躍檀渓遺址」は「湖北省襄樊市襄城区環山路」にあります。

到達難易度は「C」ってことに。
「襄樊市」の地図があれば「路線バス」などで近くまで行かれると思います。
   …以上

『劉備』が「新野」駐屯中には、こんなエピソードもあります。
あるとき「劉表」の酒宴から席を立ったとき、自分の太ももについた贅肉を嘆き、涙をこぼしたといいます。
これは今も“髀肉の嘆”という言葉として残っています。
『劉備』は「劉表」のもとに身を寄せてから、馬に乗って戦地を駆け巡ることもなくなり、太ももにはすっかり贅肉がついてしまったことを嘆いたのです。
時は「207年」…“荊州”に身を寄せてから7年の月日が経とうとしていたのです。
ちなみに、この年に「劉禅(阿斗)」が生まれていますが、「劉封」という養子も取っています。
『劉備』は「蔡瑁」の暗殺から逃れた後「新野」へ向かう途中で童子に道を尋ねると、童子は「劉備玄徳様ではありませんか?」と。
「何故私の名前を知っているのだ?」と『劉備』が尋ねると「私の先生がいつも貴方様のお話をなさるのです」と言います。
『劉備』は「是非とも、その先生に会ってみたい」と言い、童子に案内してもらいました。

三国史跡紹介・其之三十三~水鏡庄(詳しくは2008年2月3日のブログを参照してね)
「水鏡先生」こと「司馬徽(?-208?)」が隠居していたのは「湖北省襄樊市南漳県城関鎮洞坪村」です。

ここには「水鏡庄」があります。
「南漳」の汽車站から歩けますね…入場料は30元です。
到達難易度「D」にしとこうか…俺は地図持ってなかったから「輪タク」使ったけどさ。
   …以上

「司馬徽」は『劉備』に会うと、「貴方には関羽・張飛・趙雲といった豪の者は臣下にいますが、激動する時代の流れを読み、臨機応変に対応出来る人物がいない…だから機を逃しているのです」と言いました。
『劉備』は「そのような人物がまだ野にいるのですか?」と問うと「“臥龍”か“鳳雛”か…そのどちらかでも得れば天下も獲れるでしょう…」と「司馬徽」は言いました。
そして、ある日「新野」の『劉備』のもとに『単福(徐庶)』という男が訪ねて来ました。
『劉備』は『単福』を優れた人材と見抜き、“軍師”として用いました。

三国史跡紹介・其之三十四~徐庶故里(詳しくは2008年2月3日のブログを参照してね)
「徐庶廟」は「湖北省襄樊市南漳県城関鎮徐庶路」にあります。

隣りの博物館にいる管理人に鍵を開けてもらわなければならないようなのですが、博物館も閉まってました…
…って言うか、この博物館は閉館してるんじゃないか?という気もしました。
…という事で入れませんでした。
到達難易度は「D」かな…「水鏡庄」と同じで「南漳」の汽車站から歩いて行けます。
   …以上

 曹操孟徳(155年 - 220年)
その頃『曹操』は南方侵攻の準備を進めていました。
まず“荊州”国境近くの「樊城」に「曹仁」を大将に「李典」「呂曠」「呂翔」の三将を置き、“荊州”をうかがわせていました。
“三国演義”では、ここで『徐庶(単福)』の活躍を描いています。
「曹仁」は「呂曠」「呂翔」に5,000の兵を与え、「新野」を攻撃させました。
『劉備』軍は2,000の兵で立ち向かいました。
『徐庶』の指示のもと、「呂曠」は『趙雲』に、「呂翔」は『張飛』に討ち取られ、「曹仁」軍は「樊城」に逃げ帰りました。
この敗戦の報せに激怒した「曹仁」は全戦力を「新野」に向かわせました。
『徐庶』は「曹仁」の陣形を“八門金鎖の陣”と見破り、『趙雲』の騎兵隊を突入させて粉砕しました。
その夜、夜襲に出た「曹仁」軍ですが、それも見破られ、逆に「樊城」を『関羽』に奪われ、やむなく「許都」に軍を引き揚げたのでした。

三国史跡紹介・其之三十五~新野(未到達)
『劉備』が約7年間駐屯した「新野」にも史跡が残っています。
「漢桑城」「漢議事台」「掛剣樹」「新野文化広場」「漢文化街」などがあります。
どれも「新野」の中心から近いと思うので、市内地図さえあれば楽に行けると思いますよ。
   …以上

『劉備』軍に『徐庶』ありと知った『曹操』は、『徐庶』を自身の陣営に迎えたいと考えました。
『徐庶』の弱点は母親思いという点です。
『曹操』の幕僚「程」は『徐庶』の母親を人質にとり、「そなたが来てくれなければ殺される」というニセ手紙を『徐庶』に出します。
驚いた『徐庶』は『劉備』のもとを去り、「許都」へ向かいました。
去り際に『徐庶』は『諸葛亮』を『劉備』に推薦し、『劉備』が『徐庶』に呼びに行かせようとすると『徐庶』は、「あの人は、こちらから行けば会えますけれども、無理に連れて来ることは出来ません」と言い残して去りました。
「許都」で『徐庶』は母と再会しますが、母は『徐庶』の顔を見るなり、「良い主君(劉備)を得たと思っていたのに、主君を捨てるとは何ごとですか」と叱りつけ、自ら命を絶ちました。
その後も『徐庶』は「許都」に留まりますが、ほとんど『曹操』には献策せず「234年?(生年不詳)」に「彭城」で病死したと記されているようです。

三国史跡紹介・其之三十六~徐母墓(詳しくは2008年4月29日のブログを参照してね)
その『徐庶』の母の墓が「河南省許昌市許昌県蒋李集鎮劉庄村」にあります。

この近くには「歇馬殿」もあります。(中には「徐母殿」もあります)

その「徐母殿」の中の『徐庶』の母の塑像です。
アクセスは「許昌汽車南站」から「301路バス」の「繁城」行きに乗り「劉庄」の入口で下車します。
でも俺は道路工事で「301路バス」が運行してなかったため、「3路バス」で「蒋李集鎮」で降り、「輪タク」を拾い「歇馬殿」に行きました。
到達難易度は「C」かな…一応「輪タク」とかも拾えるし、「301路バス」があればもっと楽に行けただろうし。
   …以上

『徐庶』が去り、『劉備』『関羽』『張飛』は『諸葛亮』を得るために「隆中」に向かいます。
しかし2度までも『諸葛亮』は不在で、3度目にようやく在宅していたものの、『諸葛亮』は昼寝の最中でした。
『劉備』は長い時間外で立ったまま待ち、ようやく面会が叶いました。
『張飛』は外で待っている『劉備』を見かね、「俺が叩き起こしてやる」と息巻きますが、『劉備』が制止したのです。
そして『劉備』と面会した『諸葛亮』は「今、この国は『曹操』と『孫権』が強大になっていますが、『曹操』は対等に戦える相手ではなく、『孫権』は敵対してはならない相手です。貴殿は『孫権』と手を結び、“荊州”と“益州”を手に入れなさい。さすれば『曹操』『孫権』と将軍とによる天下三分もかないましょう」と語りました。
これが“天下三分之計(隆中対)”と呼ばれる策でした。

(写真は山東省臨沂市沂南県にある「諸葛亮文化旅遊区」内の「諸葛茅廬」にある塑像です)
しかし『諸葛亮』は『劉備』に“天下三分之計”を説いたものの、“晴耕雨読”の生活を続け、仕える気は無い…と。
涙ながらに国の乱れを憂う『劉備』に打たれた『諸葛亮』は『劉備』の力になることを決意したのでした。

三国史跡紹介・其之三十七~古隆中(詳しくは2008年2月3日のブログを参照してね)
“三顧の礼”の舞台となった『諸葛亮孔明』が隠居していた「古隆中」は「湖北省襄樊市襄城区隆中路」にあります。

「襄樊站」前から「512路バス」に乗り「終点」まで行きます。
およそ45分で着きますが、バス下車後は門まで10分くらい歩きます。
入場料は40元です。
到達難易度は「C」かな…市内じゃないからね。

三国史跡紹介・其之三十八~南陽武侯祠(詳しくは2008年2月2日のブログを参照してね)
「古隆中」の他に“三顧の礼”の舞台と言い伝えられているのが「南陽武侯祠」です。
所在地は「河南省南陽市臥龍区臥龍路」です。

入場料は40元です。
俺はタクシーで行ったけど「南陽武侯祠」は市内にあるので、地図があれば「路線バス」で行けるでしょう。
到達難易度は「D」ですね。
『諸葛亮』の隠居地って考えると、やっぱ「南陽武侯祠」より「古隆中」の方が「それっぽい」感じがします。
しかも「河南省南陽市」は当時『曹操』の勢力下でしたしね…。
   …以上

次回「第九巻」では、“三顧の礼”で『諸葛亮』を得た『劉備』ですが、「新野」に『曹操』軍が迫って来ます 
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我的三国演義~第七巻『千里走単騎』

2008年08月28日 | 我的三国演義
我的三国演義~第七巻『千里走単騎』
この巻の主な出来事です。

200年(建安5年) 『曹操』、『劉備』を攻撃。
             『劉備』、“冀州”の『袁紹』のもとに身を寄せる。
             『官渡の戦い』で『曹操』が『袁紹』を破る。
201年(建安6年) 『劉備』、“荊州”の「劉表」のもとに身を寄せる。
202年(建安7年) 『袁紹』病死。
207年(建安12年) 『曹操』河北を平定する。



 曹操孟徳(155年 - 220年)
200年、ついに『曹操』みずから『劉備』討伐に出陣して来ました。
「小沛」にいた『劉備』と『張飛』らは敗走し、『劉備』は“冀州”の『袁紹』の下に逃れ、『張飛』は行方不明になりました。
一方「下邳」の城を任されていた『関羽』も城外の山に追い詰められます。
かねてより『関羽』の人柄と武勇に惹かれていた『曹操』は、何としても『関羽』を配下に加えたいと考えていました。
“三国演義”では、かつて『呂布』の部下であった『張遼』が、『曹操』に『関羽』説得を願い出ます。
『張遼』は『呂布』と共に『曹操』に捕らわれ、処刑されそうになった時に助命を懇願したのが『関羽』だったのです。
『張遼』が「生きていれば、いつか劉備殿とも再会できよう」と心を尽くして説得すると、『関羽』は「劉皇叔の行方が分かり次第、自分はただちに辞去するであろう」と3つの条件を『曹操』につきつけ、降伏しました。
①自分は曹操に降伏するのではなく、漢の皇帝に降伏するのである
②劉備の夫人たちに十分な禄を出すこと
③劉備の居場所が分かり次第、自分は曹操のもとを去る
『曹操』は、この『関羽』の条件をすべて受け入れました。

三国史跡紹介・其之二十四~土山関帝廟(詳しくは2007年8月16日のブログを参照してね)
この『張遼』が『関羽』を説得した地に建つのが「土山関帝廟」です。
所在地は「江蘇省邳州市土山鎮」です。

「土山鎮」から「関帝廟」までの交通手段が無さそうだったので「タクシー」で行きました。
入場料は10元です。
到達難易度は「B」にしておきます。
「土山鎮」からそこそこ遠いし、タクシーをチャーターしていないと帰れないぞ~。
    …以上

 関羽雲長(生年不詳 - 219年)
『曹操』に降った『関羽』は『曹操』の推挙で「献帝」から“偏将軍”に任命されました。
『曹操』は3日に1度は宴会を催し、『関羽』の歓心を買おうとしますが『関羽』は少しもなびきません。
立派な屋敷も与えましたが『関羽』はそこに『劉備』の夫人たちを住まわせ、自分は外で警備にあたりました。
美しい綾絹や錦の布、金銀の器、10人の美女も『関羽』の気持ちを動かせません。
ある時、『曹操』は『関羽』の馬がひどく痩せているのに気付き、その訳を尋ねると、体が重いので馬が耐え切れず痩せてしまうとのこと。
『曹操』はすぐに部下に命じて「赤兎」を引かせて来ました。
顔をほころばせ礼を言う『関羽』に、『曹操』も「初めて貴公に喜んでもらえたな」と嬉しげに言うと、「千里を走るこの馬なら、兄上(劉備)のもとへもすぐにとんで行けましょう」と『関羽』が答えたので『曹操』は後悔しましたが、あとのまつりでした。
こうして「赤兎馬」は『董卓』→『呂布』→『曹操』→『関羽』へと渡っていったのです。

三国史跡紹介・其之二十五~春秋楼(詳しくは2008年2月1日のブログを参照してね)
『関羽』が「許」に移ってから住んでいた地には「春秋楼」が建っています。

内院に「甘・麋」両夫人を住まわせ、『関羽』は外院に住んでいたと言います。
所在地は「河南省許昌市魏都区文廟街」です。

入場料は25元で、到達難易度は「D」です。
許昌市内ですし、駅からも歩いて行けますよ。
    …以上

 袁紹本初(生年不詳 - 202年)
200年2月『袁紹』は「顔良」「淳于瓊」「郭図」らを「白馬」に派遣して「劉延(曹操の麾下)」攻撃にあたらせました。
『曹操』は「劉延」を救援しようと進軍し、4月に両軍は「白馬」で衝突しました。(白馬の戦い)
当初『袁紹』軍の「顔良」に手も足も出なかった『曹操』軍でしたが、『曹操』はついに『関羽』を投入します。
義理堅い『関羽』は『曹操』に恩を返し、『劉備』の消息が分かり次第去ってしまうと思った『曹操』は『関羽』に功を立てさせないように従軍させていなかったのです。
『曹操』は軍を西に向かわせると見せかける策を取ります。
『袁紹』は「白馬城」攻撃を「顔良」に任せ、自身は主力軍を率いて「延津」に向かいます。
『袁紹』は『曹操』の策にはまり、兵力を二分してしまったのです。
これを見た『曹操』はすかさず兵を率い、「白馬」へ急行します。
『関羽』は敵陣の中に「顔良」を見つけると、大軍の中に飛び込んで馬上から「顔良」を突き落とし、首をかき斬って悠然と引き返して来ました。
『曹操』はこれを喜び、『関羽』を“漢寿亭侯”に任じて恩賞を与えました。

 劉備玄徳(161年 - 223年)
「顔良」を討ち取ったのは、『曹操』軍の『関羽』によるものだ…という目撃情報で『袁紹』軍に従軍していた『劉備』が尋問を受けます。
実は『劉備』は『曹操』と内通して、『関羽』に「顔良」を討たせたという疑いをかけたのです。
しかし『劉備』と『関羽』は“徐州”ではぐれて以来、お互いに消息を知りませんでした。
それが今『劉備』は『袁紹』軍、『関羽』は『曹操』軍として戦っていたのです。
『劉備』は『袁紹』に、自分は『曹操』に攻撃され『袁紹』を頼っていること、『関羽』が『曹操』に付いているなど知る由もないことを説きます。
そして“三国演義”では、「顔良」の仇を討ちたいと志願してきた「文醜」も『関羽』に討たれたことになっています。

『曹操』軍にいたのは、まぎれもなく『関羽』だと確信した『劉備』は、『関羽』宛に手紙を託します。
『劉備』からの手紙を受け取った『関羽』は、ようやく『劉備』の消息を知ることが出来たのです。
「顔良」「文醜」を討ち取り、『曹操』への恩義を果たせたと考えた『関羽』は『曹操』からの贈り物には手もつけずに封印します。
そして『曹操』に別れを告げてから『劉備』のもとへ向かおうとした『関羽』でしたが、『曹操』の屋敷には連日「避客牌」が掛けられ、面会することが出来ません。
『曹操』はわざと『関羽』に会わないようにしていたのです。
『関羽』は業を煮やし、『曹操』に手紙を残して、『劉備』の妻「甘夫人」「麋夫人」を連れ、『劉備』がいる“冀州”へと向かったのです。
『曹操』の部下たちは『関羽』を追跡しようとしますが、『曹操』は「関羽は義を貫いたのだ」と説き伏せます。
それに、これは『曹操』自身が呑んだ条件でもあるのです。
しかし“三国演義”では『曹操』は何度も屋敷に足を運んでくれた『関羽』を返してしまった自分を大人気なかったと悔やみ、『関羽』と別れをするために追いかけます。
そして“灞陵橋”で『関羽』一行に追い着きました。
『関羽』は「甘・麋」両夫人らに橋を渡らせ、1人『曹操』らを待ち受けます。
『曹操』は『関羽』に別れを言い、路銀を渡しますが『関羽』は受け取りません。
せめてと差し出された衣服を『関羽』は「青龍偃月刀」で受け取り、礼を述べ去って行ったのです。
馬から下りずに、贈り物を刀で受け取るとは…と『曹操』配下の武将は『関羽』の無礼さに怒りを露にしますが、『曹操』は「我々を警戒してのことだ」となおも『関羽』を追い掛けようとする配下を止めます。

三国史跡紹介・其之二十六~灞陵橋公園(詳しくは2008年2月1日&4月30日のブログを参照してね)

『劉備』のもとへ向かう『関羽』と、『曹操』が別れた“灞陵橋”があるのは「河南省許昌市魏都区許継大道」の「灞陵橋公園」内です。
市内の5路バスで「灞陵橋公園」で下車します。
入場料30元(関帝廟込み)です。

この「関帝廟」内には“灞陵橋原貌”が残っているので、必見です。
「灞陵橋公園」の到達難易度は「D」ですね。
市内にあって、路バスで行ける史跡は本当に「ありがたい」です。
    …以上

そして『関羽』ら一行は『劉備』のいる“冀州”を目指しました。

三国史跡紹介・其之二十七~歇馬殿(詳しくは2008年4月29日のブログを参照してね)

『関羽』一行が「許昌」を出て、最初に宿をとった場所にあるのが、この「歇馬殿」です。
場所は「許昌県蒋李集鎮劉庄村」です。
許昌汽車南站から「301路バス」の「繁城」行きに乗り「劉庄」の入口で下車します。
でも俺は道路工事で「301路バス」が運行してなかったため、「3路バス」で「蒋李集鎮」で降り、「輪タク」を拾い「歇馬殿」に行きました。
入場は無料でした。
到達難易度は「C」かな…一応「輪タク」とかも拾えるし、「301路バス」があればもっと楽に行けただろうし。
   …以上

 張飛益徳(165年 - 221年)
『関羽』一行が“冀州”に辿り着くまでには五つの関所があります。
しかし関所を通るには『曹操』が書いた告文が無ければ通れません。
「東嶺関」「洛陽関」「沂水関」…といった関所を突破した『関羽』は途中で山賊のリーダーであった「周倉」を配下に入れました。
この「周倉」は“三国演義”にしか登場しない(つまり正史には登場しない)架空の人物です。
そして“冀州”に差し掛かった古城で『張飛』にも再会しました。
『張飛』は『関羽』が「許昌」で『曹操』に仕えていた事を知っており、『劉備』を裏切ったと勘違いし、『関羽』を襲います。
必死に誤解を解こうとする『関羽』。
そこに『曹操』配下の追っ手が来ましたが、『関羽』はそれを討つことで『張飛』の誤解を解きました。

 趙雲子龍(生年不詳 - 229年)
『関羽』『張飛』が“冀州”国境まで来ていることを知った『劉備』は『袁紹』に提案をします。
『袁紹』は今『曹操』と戦闘中ですが、『劉備』は“荊州”の「劉表」を味方につける交渉役を『袁紹』に願い出たのです。
承諾した『袁紹』は“荊州”に『劉備』を派遣しましたが、これは“冀州”を出るための『劉備』の作戦でした。
そして『劉備』は『関羽』『張飛』と再会し、“荊州”の「劉表」のもとに身を寄せることにしたのでした。
その道中で『関羽』は「関平」を養子にし、『劉備』は「公孫瓚」の死によってその下を去った『趙雲』を配下に加えています。

 孫策伯符(175年 - 200年)
さて200年4月「白馬の戦い」に勝利した『曹操』は、『袁紹』軍の「許攸」「張郃」などの寝返りにより、圧倒的な兵力差がありながら『官渡の戦い』に勝利しました。
『袁紹』は「江東」の『孫策』と同盟し、『曹操』の背後を襲わせようとしましたが、『孫策』はかつて滅ぼした「許貢」の食客に襲われます。
『孫策』は「華佗」の治療により回復に向かっていたものの、「于吉」という仙人を殺したことにより、呪い殺されたとされています。
逆に『曹操』は『孫策』の後を継いだ弟の『孫権』と同盟し、背後を固めたのでした。
『孫権』はこの時まだ19歳でした。
『官渡の戦い』に敗北した『袁紹』は「鄴」に逃走しましたが、202年に病死しました。
『曹操』は家督争いで分裂する『袁紹』の息子「袁譚」「袁尚」らを討ち、「袁」氏を滅ぼして「河北」を平定したのでした。

三国史跡紹介・其之二十八~官渡古戦場(詳しくは2007年12月2日のブログを参照してね)

「官渡古戦場」址は「河南省鄭州市中牟県官渡鎮官渡橋村」にあります。
俺は「鄭州」から「中牟県」に行くバスが無くて、タクシーで行ってしまいました。
有料施設であった「古戦場芸術宮」が閉館してしまい、特に見所はありません。
ここら一帯で『官渡の戦い』があったんだ…と偲ぶくらいですね。
到達難易度は「C」かな。
帰りは「路バス」で「開封」まで出られました。

三国史跡紹介・其之二十九~碣石山(詳しくは2008年6月7日のブログを参照してね)

206年『曹操』は“青州”の海賊「管承」を討伐した際、この「碣石山」に登り“観滄海”の詩を賦したとされています。
所在地は「山東省濱州市無棣県大山鎮」です。
「無棣」から「大山鎮」行きのバスに乗ります。
「大山鎮」に入ると車窓からも左手に「碣石山」が見えてきます。
入場料は10元です。到達難易度は「C」かな。
   …以上


「劉表」が統治している“荊州”は『孫策』『孫権』の父『孫堅』の死をめぐり確執があり、『曹操』の脅威に晒されているとはいえ、いまだ戦乱には巻き込まれず人々は平和に暮らしていました。
「劉表」は同姓のよしみもあって『劉備』を歓迎し、「新野」の城を与えました。
『曹操』が河北を平定している間、『劉備』は平穏な日々を過ごしていました。

次回「第八巻」では、平穏な“荊州”にも『曹操』の脅威が迫ります 


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我的三国演義~第六巻『劉備敗走』

2008年07月16日 | 我的三国演義
我的三国演義~第六巻『劉備敗走』
この巻の主な出来事です。

196年(建安元年) 『曹操』、「献帝」を「洛陽」に迎え、「許」を都とし、
             「献帝」を「許」に移す。
             『劉備』、『呂布』に“徐州”を奪われ、『曹操』のもとへ。
198年(建安3年) 『曹操』、「下邳」で『呂布』を処刑する。
199年(建安4年) 『袁術』死亡。
200年(建安5年) 『曹操』軍により『劉備』敗走。『袁紹』を頼る。

 曹操孟徳(155年 - 220年)
196年「献帝」(後漢第14代皇帝)は17歳の時、『曹操』により「許」に迎えられました。
その年『呂布』は『劉備』から“徐州”を奪いました。
『劉備』は和睦した『呂布』から「小沛」を任されましたが、『張飛』が『呂布』の馬を盗む事件が起きました。
『劉備』は『呂布』の報復を恐れ、「許都」の『曹操』の下に逃れました。


 劉備玄徳(161年 - 223年)
『曹操』は「許」で『劉備』を「献帝」に拝謁させました。
「献帝」は『劉備』の素性を知らず、『劉備』に尋ねました。
『劉備』は「漢」の「景帝」の子「中山靖王・劉勝」の後裔にあたります。
すなわち皇室の一族…というわけです。
「献帝」は系譜を調べさせ、従者に読み上げさせました。
『劉備』はその読み上げられる祖先の名を聞きながら、諸国の乱で家門を失い、土民に落ちぶれていった両親…むしろを売って生計を立てていた自分を思い出し、涙しました。
「献帝」は『劉備』が一族だと知り、以後『劉備』を“劉皇叔”と呼び、慕うようになります。
そして『曹操』が『劉備』を警戒し始めるようになりました。

 張飛益徳(165年 - 221年)
三国史跡紹介・其之十八~張公祠(詳しくは2008年4月30日のブログを参照してね)
『劉備』『関羽』『張飛』が「献帝」に拝謁する際に駐屯したとされる地には『張公祠』があります。(入場料なし)
所在地は「河南省許昌市張藩鎮門道張村」です。

この「三姓柏」に『劉備』『関羽』『張飛』が馬を繋いでいたらしいです。
なぜ主君の『劉備』では無く『張飛』を祀る『張公祠』しか無いのか…
アクセスは「汽車東站」より201路バスに乗り「段庄」で下車します。
それから農道を「10~15分」直進します。
「張公祠に行きたい」と車掌にでも言っておけば、その農道の前で降ろしてくれるはずです。
到達難易度は「C」かな。
案内標識も何も無いから、バスの車掌に聞いたり…と中国語を使わなきゃならんから。

三国史跡紹介・其之十九~毓秀台(詳しくは2008年4月30日のブログを参照してね)
ついでに「汽車東站」より201路バスに乗り「古城」で下車する(段庄よりも更に先)と『漢魏許都故城遺址』『毓秀台』があります。(入場料なし)
ここも「河南省許昌市張藩鎮」です。

『毓秀台』は『曹操』が「献帝」の為に造った祭壇です。
「献帝」は毎年秋分に文武百官を引き連れて天に祈りを捧げたと言います。
到達難易度は「D」ですね。
ちゃんと201路バスにさえ乗れれば、道路沿いに『漢魏許都故城遺址』の門が見えるしね。
そして、その先に『毓秀台』も見えますよ。
  …以上

 関羽雲長(生年不詳 - 219年)
ある時、『曹操』は「献帝」らを誘い、「許田」へ狩りに出ることになりました。
目の前に現れた大鹿を『曹操』は「献帝」の矢で射止めました。
「帝がしとめられた!」と勘違いした人々が万歳を叫ぶや、『曹操』は「献帝」の前に立ちはだかり、「その鹿を射たのは余であるぞ!」と言いました。
帝の面目は丸つぶれであり、「献帝」は宮殿に戻って悔し涙を流したと言います。
その時の『曹操』の振る舞いに腹を立てた『関羽』が、刀の柄に手を掛けたところを『劉備』に隠されています。

三国史跡紹介・其之二十~射鹿台(詳しくは2008年5月1日のブログを参照してね)
その狩りをした「許田」が現「許昌県陳曹郷射鹿台村」です。

今では、ちょっとした高台に、この『射鹿台』と彫られた碑があるのみ。
アクセスは「客運東站」から202路バスの「尚庄」行きに乗り「射鹿台」で下車します。
到達難易度は「D」かな。
『射鹿台』はこの202路バス道沿いなので、ちゃんとバスにさえ乗れれば行けます。
     …以上

199年「献帝」が『曹操』の本拠地「許」に遷って3年が経ち、帝は20歳になっていました。
「献帝」の周囲には常に『曹操』の目が光っており、一挙手一投足、一語一語が監視されていました…。
「献帝」は189年に『董卓』によって、10歳で「後漢」の第14代皇帝になりました。
190年には「洛陽」から「長安」へ移され、192年『董卓』が『呂布』に暗殺されると、195年には「李カク」「郭」による乱に巻き込まれました。
196年「洛陽」に逃れた「献帝」を『曹操』が救った形で、廃墟だった「洛陽」から「許」に移されました。
しかし「許」では『曹操』の専横…。
「献帝」の心は沈んでいました。
このままでは政が『曹操』1人によってなされ、いずれは「漢」王朝が滅んでしまうだろう…と。
「献帝」はいつしか『曹操』に対して憎悪を抱くようになっていきました。

ついに帝は指を食いちぎり、その血で『曹操』誅殺の密詔を書いて帯の間に縫いつけました。
密詔を託せる人間は義理の叔父にも当たり、日ごろ「献帝」が“国舅”と呼び信頼している“車騎将軍”の「董承(生年不詳 - 200年)」をおいてほかにありません。
「献帝」は「董承」を呼び、これまでの働きを感謝して、帯と上衣を下賜します。
帯に密詔が縫い込まれている事など、「董承」は知りもしませんでした。
が、あるとき「董承」は拝領した帯の上に灯心を落としてしまいます。
その帯の焼け焦げから出てきたのは、血でしたためられた詔でした。
「董承」は“工部侍郎”の「王子服」、“長水校尉”の「種輯」、“昭信将軍”の「呉子蘭」、“議郎”の「呉碩」など信頼できる者を同志に加えました。
そして『劉備』もこの計画に名を連ね、“三国演義”では“西涼”の「馬騰(馬超の父)」も加わったことになっています。

 呂布奉先(生年不詳 - 198年)
198年の『呂布』討伐後、『劉備』は『曹操』のところに客将としてとどまっていました。
『曹操』は『劉備』を“豫州刺史”に加えて“左将軍”とし、同じ輿で外出し隣り合って座る、といった下にも置かぬ扱いぶりでした。
『劉備』は「董承」らの計画に名を連ねてからは『曹操』に疑われないように言動に注意し、『曹操』の目をはぐらかすため庭に野菜を植えて育てたエピソードもあるほどでした。
野心が無いことを『曹操』に思わせるためです。
あるとき『曹操』は『劉備』を呼び、酒を酌み交わし、当世の英雄について論じ合いました。

(写真は許昌「灞陵橋公園」内の「青梅亭」にある“煮酒論英雄”像です)
『曹操』は『劉備』に問います。
「当世、英雄と呼べる者は誰か?」と。
『劉備』が「袁紹はどうでしょうか?」と答えると、『曹操』は「袁紹は肝がすわっておらず、策謀を好むが決断力がない。大事にあっては我が身を惜しむ」と。
「それならば袁術は?」と答えると、「あんな者は墓場の朽ち骨だ」と。
「では孫策はどうでしょう?」と言うと、「孫策は父、孫堅の名声と威光のおかげだ」と。
次々に『劉備』が名を挙げますが、「劉表は評判は高いが実質が伴わない」「劉璋は漢王室の一族だが、番犬にすぎない」「張魯、張繍、韓遂などは吹けば飛ぶような小者だ」と…。
『劉備』が「それなら他に誰が英雄と呼べましょうか?」と尋ねました。
すると『曹操』は「今英雄といえば貴殿と自分だけだ」と言ったとき、『劉備』はギョッとして箸を落としてしまいました。
『曹操』はそれほど自分を有力視している…。
ちょうどその時、雷が轟いたので雷に怯えたフリをしてごまかしました。
『曹操』は「英雄も雷を怖がるのか?」と言い、上機嫌で笑いました。

199年「寿春」の『袁術』が『袁紹』を頼って北上を始めました。
197年『袁術』は皇帝を名乗ってからも奢侈はますます酷くなり、色とりどりの薄布をまとった数百人の女たちを後宮に囲って、余るほどの上質の食料を口にしていました。
皇帝が住むにふさわしい宮殿や町を造ろうと莫大な費用を掛け続け、そのため民には重税が掛けられました。
かつて『袁術』の下に身を寄せていた『孫策』も、これを聞いてついに絶縁状を叩きつけました。
しかし、ニセ皇帝であるため、『曹操』に攻撃され大打撃を受けていました。
そして199年に『劉備』は『曹操』に『袁術』討伐を願い出て“徐州”に入ります。
『曹操』は『劉備』に5万の兵を与えました。
これは『袁術』と『袁紹』の合体を阻止する名目でしたが、『劉備』としては『曹操』の目が届かない所に出て行きたい、という理由もあったのです。

『袁術』らの一行は「寿春(淮南)」を捨て、河北に移動を始めました。
皇帝の御物財宝、宮内の調度品だけで数百両の車を要し、後宮の女人や一族を乗せるロバだけでも延々数里に渡り、さらに兵士、その家族と従っていくため、とてつもない大行列になりました。
その報せが“徐州”に入ると、『劉備』軍はすぐさま出陣しました。
『袁術』一行は日中は『劉備』軍、夜は財宝目当ての山賊に襲撃され『袁術』一行は散り散りバラバラとなっていきました。
『袁術』が「江亭」に辿り着いたとき、従っている者は一族の者や女子供でした。
しかも季節は最も暑い6月…水や食料が底をつき餓死者が続出しました。
餓死寸前の『袁術』は民家を見つけて水を所望しますが、民は「水は無いが、私の血ならありますが」と言いました。
木の寝台に腰を下ろし、大きな溜息をつくと「袁術ともあろうものが、こんな様になるとは…」と大声で叫び台にうつぶせになると、その場に1斗あまりの血を吐いて息絶えました。

三国史跡紹介・其之二十一~袁術墓(未到達)
「安徽省長豊県淮南市孤堆回族郷蔡圩村」には「袁術衣冠塚」とされる「厳氏孤堆」があります。
元々は「袁氏孤堆」でしたが、口述変化で「厳氏孤堆」になったとされます。
     …以上

その後『劉備』は“許都”に兵を返さず、“徐州刺史”の「車冑」を襲い“徐州”を奪い取り、『関羽』に「下邳」の城を任せると、「小沛」の城に入りました。
“三国演義”では、「車冑」は『曹操』から『劉備』討伐の命を受けていましたが、「車冑」はそれを「陳登」に相談したため、「陳登」から『関羽』らに話が伝わってしまいました。
「陳登」は『呂布』討伐でも『劉備』に協力していましたが、これにより「車冑」は『関羽』『張飛』らの急襲を受けて殺されています。
これを聞いた『曹操』は激怒し、すぐさま「劉岱」と「王忠義」を派遣して『劉備』を攻めますが、『劉備』軍はこれを破りました。
そして『曹操』暗殺計画も『曹操』に発覚してしまい、「董承」「王子服」「種輯」「呉子蘭」「呉碩」及び一族も皆殺しにされました。

三国史跡紹介・其之二十二~董貴妃墓(詳しくは2008年5月1日のブログを参照してね)
「董承」の娘であり「献帝」の妻であった「董貴妃」の墓があるのは「河南省許昌市魏都区八一路東段」です。

「董妃苑」という公園内にありますが、入園は無料です。
到達難易度は「D」です。(市内地図に載ってるから簡単に行けます)
    …以上

 袁紹本初(生年不詳 - 202年)
そして『曹操』がみずから軍を率いて『劉備』討伐へ動きました。
『曹操』陣営では“徐州”の『劉備』を討ちに行けば『袁紹』がつけこむのではないか?という意見も出ましたが、『曹操』は「袁紹は機を見るに敏ではないから事態を看過するだろう」と読み、“徐州”に向かったのです。
やはり『曹操』の読み通り『袁紹』が手を下すことはありませんでした。
“三国演義”では、『袁紹』の末子が病気になったため動かなかった、としています。
『曹操』は対『袁紹』のために「官渡」にいると思っていた『劉備』に、『曹操』率いる大軍が“徐州”に向かっているとの報せが届きました。
今の『劉備』軍が『曹操』に敵うわけがありません。
“演義”では「陳登」が『袁紹』に力を借りるよう『劉備』に提案します。
今『曹操』と互角に渡り合えるのは『袁紹』だけですが、先ほど『劉備』は『袁紹』の弟である『袁術』を討伐したばかりです。
そこで「陳登」は「鄭玄」という人物に『袁紹』への仲介を頼む手紙を書きました。
「鄭玄(127 - 200)」は「後漢」時代の学者です。
かつて『袁紹』と「鄭玄」は宮中で同じ役目を務めており、『袁紹』は「鄭玄」を尊敬していました。

三国史跡紹介・其之二十三~鄭玄廟・鄭玄墓(詳しくは2007年9月23日のブログを参照してね)
「鄭玄廟・鄭玄墓」があるのは「山東省濰坊市高密市双羊鎮后店村西(鄭公村)」です。

「双羊鎮」までは「高密市」から「バス」で行けますが…この「鄭玄廟・鄭玄墓」まで行くのは一苦労ですよ…
ド田舎でタクシーや輪タクも掴まらないし…
入場料は2元、到達難易度は「A」です。
    …以上

「小沛」にいた『劉備』と『張飛』は敗走し、『関羽』が守っていた「下邳」も『曹操』軍に追い詰められます。
“正史”では『劉備』は『袁紹』の長男で“青州刺史”を務めていた「袁譚」を頼り、“青州”に落ち延びます。
「袁譚」はかつて『劉備』に推挙されて茂才になったことから、『劉備』には好意を抱いていました。
『劉備』はその後『袁紹』に迎えられ、“冀州”の「鄴」に落ち着きました。

「第7巻」では、“冀州”の『袁紹』の下にいる『劉備』、「下邳」で『曹操』に降伏し「許都」に行った『関羽』、行方不明の『張飛』…バラバラになった三兄弟はどうなったのか?
お楽しみに~
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我的三国演義~第五巻『呂布の最期』

2008年05月29日 | 我的三国演義
我的三国演義~第五巻『呂布の最期』
この巻の主な出来事です。

195年(興平2年) 『曹操』、「定陶」と「鉅野」で『呂布』を破る。
             『呂布』、『劉備』を頼り“徐州”へ。
196年(建安元年) 『曹操』、「献帝」を「洛陽」に迎え、「許」を都とし「献帝」を「許」に移す。
             『劉備』、『呂布』に“徐州”を奪われ、『曹操』のもとに身を寄せる。
198年(建安3年) 『曹操』、「下邳」で『呂布』を処刑する。

192年『董卓』が『呂布』「王允」らによって暗殺された際、「李カク」「郭」らは遠征していましたが、軍師の「賈詡」の進言を容れて『董卓』の報復に乗り出し、「王允」を殺害して「長安」を奪回しました。
そして、「李カク」と「郭」は共に中央政治を思うがままに牛耳りました。
この2人の専横は、かつての主君『董卓』をはるかに凌ぐ悪政で、「長安」では多数の死者、流民が出たと言われています。

同僚で幼馴染の「李カク」と「郭」は酒宴を開いたり、お互いの陣営に宿泊する仲でした。
しかし、「李カク」が「郭」に妾を与えているのではないかと疑った妻に謀られ対立、抗争を繰り広げるようになります。
この2人が争っているのを見て、195年「張済」は2人の争いを仲裁し、「献帝」を「弘農」に送ることとなりました。
「弘農」は「洛陽」からも比較的近いところにあり、望郷への思いを断ち切れずにいた「献帝」はすぐに「弘農」に向け出発しました。
ですが、「郭」は「献帝」の護衛中に乱心して官軍に対して攻撃を仕掛けます。
「李カク」や「張済」を巻き込んで官軍を壊滅状態に追い込みましたが、「献帝」を捕らえる事は出来ませんでした。
その後、錦の御旗を失った「郭」は衰退し、山賊に身を落とし部下の「伍習」に裏切られて殺されて、その首は『曹操』のもとへ送られました。

“三国演義”では「献帝」は自力で脱出し、「李カク」と「郭」が和睦して「献帝」を追いかける事になっています。
帝の一行は執拗な追撃を振り切るため、御車に積まれた衣類、装飾品、財宝などをばら撒きながら敵兵の注意をそらしました。
その後「献帝」救援に駆けつけた『曹操』軍に惨敗するということになっています。
黄河を渡った「帝」の一行は、ひとまず「安邑」に落ち着きました。
ところが「安邑」ではこの年、いなごの大群が押し寄せたほか、干ばつの被害があり、食糧が底をついてしまったのです。
そこで「帝」の側近の「董承」は「帝」を「洛陽」までお連れすることにしました。
こうしてようやく「帝」一行は「洛陽」に到着しました。
しかし「洛陽」は『董卓』に焼き尽くされてからというもの昔日の面影をとどめてはいませんでした。
「帝」が雨をしのぐ場所すらなく、飢えで死ぬ者も多くいたといいます。

 曹操孟徳(155年 - 220年)
196年8月『曹操』は腹心の「董昭」の進言で「献帝」を迎えるため、自ら「洛陽」に向かいました。
そして新たな都を「許」に定め、『曹操』の掌中に「献帝」という切り札が握られたのです。


 呂布奉先(生年不詳 - 198年)
さて『曹操』に“兗州”を奪い返され、“徐州”の『劉備』を頼った『呂布』はどうなったのか?
194年『劉備』は“徐州牧”になりました。
『呂布』らが『曹操』に敗北して“徐州”に転がり込んで来たのは、195年のことでした。
初め『関羽』や『張飛』は『呂布』を迎え入れることに大反対しましたが、『劉備』は領地を持たない侘しさを分かっていました。
『劉備』も「安喜県」の“尉”の職を捨ててからというもの、流浪したり、「公孫瓚」など親交のある諸侯の世話になったりしていたのです。
譲られて“徐州牧”になったとは言え、『劉備』にとっても、ようやく落ち着くことが出来る領地を手に入れられたのです。
対『董卓』軍の時は敵対していた『呂布』でしたが、『劉備』は『呂布』を厚くもてなし、『呂布』に「小沛」を任せました。
そして、196年「寿春」の『袁術』が“徐州”を奪おうと兵を向けてきました。
『劉備』は『張飛』を「下邳」に残し、『袁術』軍と「淮陰」の「石亭」で対戦しましたが、飢饉で兵糧が調達できず苦戦します。

 劉備玄徳  関羽雲長    袁術 in 淮陰

 張飛益徳(165年 - 221年)
そこへ『張飛』がやって来て、「下邳城」を『呂布』に奪われたことを報告しました。
留守を言いつかった『張飛』は酒の誘惑に負け、酒癖が悪かったため「曹豹」(同じく『劉備』配下の武将)に酒を無理強いし、体罰を与えます。
「曹豹」は『張飛』への恨みから寝返り、『呂布』を城内に入れたのでした。
『劉備』はその後、「徐州」に戻り『呂布』と和睦しました。
『呂布』は『劉備』を「小沛」の城に入れると、みずから“徐州刺史”を名乗りました。
実質上『呂布』は“徐州”を奪い取ったのです。
かつて『呂布』を厄介者扱いした『袁術』ですが、今度は態度を豹変させ兵糧や武器を提供して『呂布』を喜ばせました。

『呂布』を懐柔した『袁術』は配下の「紀霊」に3万の兵を与え、『劉備』を再び攻撃したため『劉備』は『呂布』に援軍を求めました。
板挟みになった『呂布』は「紀霊」の陣を訪ねると門番に1本の戟を掲げさせ、「わしがここからあの戟を1発で射当てたら、兵を引いてくれないか?」と言いました。
いくら『呂布』でもケシ粒ほどしか見えない的に射当てるのは無理だろう、と「紀霊」は承諾しましたが、『呂布』は見事に射当て、両軍とも兵を引き上げたのです。

三国史跡紹介・其之十四~呂布射戟台&呂布射戟雕像(詳しくは2007年8月16日と2008年4月4日のブログを参照してね)

まず「呂布射戟台」は「江蘇省徐州市沛県東風路57号」の「沛県文化館」内にあります。
『呂布』は『劉備』軍と「紀霊」軍を仲裁するために、この円形の台に乗って弓を射たと言われています。
「呂布射戟台」の到達難易度は「C」かな。
この「沛県文化館」がどれだか分かりませんでした。
この記事を見て行かれる方は「沛県文化館」の写真を載せたので分かり易いと思います。

「江蘇省宿遷市泗洪県魏営鎮」の「農機大院」の中庭には、「呂布射戟雕像」があります。
後の調査で『劉備』軍と「紀霊」軍が対峙した「淮陰」は「宿遷市泗洪県」に近いので、案外『呂布』が『劉備』と「紀霊」を仲裁した地は、こっちかも知れません。
この「呂布射戟雕像」への到達難易度は「B」かな。
「魏営鎮」に行くミニバスは「泗洪汽車站」と違う場所から出ているのと、「農機大院」は終点(魏営鎮)から2~3分歩くんですが、どの建物か知らないと行けないしね。
「農機大院」の写真も掲載したので、行かれる方は参考にしてくださいね。
     …以上。

 夏侯惇元譲(生年不詳 - 220年)
『呂布』の計らいによって救われた『劉備』でしたが、しばらくして『張飛』が『呂布』の馬数百頭を盗むという事件を起こします。
『劉備』は『呂布』の報復を恐れ、『曹操』の下に逃れました。
その後『劉備』は“豫州牧”に任命されますが、『曹操』の策で再び「小沛」に戻ることになりました。
198年『袁紹』が北方を平定しようとしている隙をみて、『曹操』は『劉備』と共に『呂布』討伐計画を立てますが、計画が『呂布』に洩れ、ついに『呂布』が「小沛」に攻めてきました。
『劉備』軍は『呂布』軍の猛攻に敗走を余儀なくされました。
『劉備』は『曹操』に助けを求め、『曹操』はこれに応じ「夏侯惇」を援軍に遣わしますが、『呂布』の武将「高順」に敗北します。
「夏侯惇」はこの戦で左目に矢を受けてしまい、矢を抜くときに目玉まで抜けてしまいましたが「夏侯惇」は「親からもらった目玉、捨てられるか」と叫び、食べてしまったというエピソードが“三国演義”に記されています。
同族で同じく『曹操』配下の「夏侯淵」と区別するために“盲夏侯”とあだ名されました。
そして『曹操』も自ら兵を率いて進軍し、「梁」国の国境付近で敗走した『劉備』軍と合流し、ともに「下邳」に向かいました。

“三国演義”では「徐州城」にいた『呂布』は『曹操』軍と戦うために城を出ました。
そこで『呂布』は「陳珪」「陳登」親子の策にはまり、まず妻子を「下邳城」に移しました。
そして「徐州城」の留守を預かった「陳珪」に城を取られ、「小沛城」も「陳登」に取られてしまいました。
元々「陳珪」「陳登」親子は「陶謙」に仕えており、その「陶謙」が『劉備』に託した「徐州」を奪った『呂布』を許せなかったのです。
「陳親子」の策により『呂布』は「下邳城」にしか行き場がなくなり、「下邳」に立てこもったのです。

『呂布』は『曹操』の出撃の報せに降伏を決めますが「陳宮」が反対します。
そこでやむなく『袁術』に援軍を頼むことにしましたが、『袁術』は「娘をよこさなければ援軍を出さない」とのことでした。
以前より『袁術』は『呂布』との軍事的結びつきを強くする目的で、息子と『呂布』の娘との縁談を申し入れていたのです。
しかし『袁術』と『呂布』の同盟を快く思わなかったのが「陳珪」と「陳登」の親子でした。
「陳珪」は『呂布』に「袁術は近頃天子を僭称しているとか。これは天下の逆臣であり、今袁術と組むことはためになりませぬ」と説得していました。
『袁術』は『孫策』から受け取った「玉璽」を手に、197年みずから「皇帝」を僭称していました。
しかし『呂布』もこうなっては『袁術』を頼るほかなく、娘を綿でくるみ、夜にまぎれて『袁術』のもとに送り届けようとしましたが、『曹操』軍に気付かれ、大量の矢を浴びせられたため、『呂布』は娘を連れて城に引き返します。

198年11月『袁術』からの援軍もなく、「下邳」の『呂布』は孤立無援となりました。
「陳宮」は「今曹操軍は疲れており持久戦は不可能です。まず将軍が城を出て曹操軍と戦い、私が城を守ります。そして将軍が攻められたら私が敵の背後をつき、城が攻められたら将軍が外から救援してください」と進言しました。
『呂布』はその意見に賛同し、出陣しようとすると『呂布』の妻がそれを止めました。
「陳宮はあれほど曹操に大事にされていながら、彼を裏切ったではありませんか。そのような男に城を任せるなど、とんでもありません」と。
『呂布』は妻の一言で、「陳宮」の計画を断念したのです。

『曹操』軍は「荀」、「郭嘉」らの進言により、近くを流れる泗水と沂水を決壊させ、水攻めにする作戦で『呂布』軍をじりじりと締め上げました。
城内にいる『呂布』の諸将は次第に上下の気持ちが離れ離れになっていきました。
「三国演義」では『呂布』が禁酒令を出したにも関わらず、猪肉と酒で兵の鋭気を養おうとした「侯成」が『呂布』の逆鱗に触れました。
そして『呂布』の有力な将軍らが「陳宮」を縛り上げ、その軍勢を率いて降伏してきました。
『呂布』は直属の部下とともに城門の楼に登り、防戦しようとしましたが防ぎきれず、戦闘を断念して『曹操』に降伏したのでした。
かつて「丁原」、『董卓』を裏切ってきた『呂布』でしたが、最期は部下の裏切りによって人生の幕を閉じることとなったのです…。
生け捕りにされた『呂布』は『曹操』の前に引き出されると、「縄目がきつすぎる。少し緩めてくれ」と頼みました。
「虎を縛るのだから、緩めるわけにはいかない」と言う『曹操』。
『呂布』は「もう降伏したのだから心配する必要ないでしょう。それより私に騎兵隊を与えたなら、天下平定はもっとたやすくなるでしょう」と言いました。
このとき『曹操』の顔に迷いの色が現れましたが、側にひかえていた『劉備』が「曹操どの、この男はかつて丁原、董卓に仕えながら、2人を裏切りました。その事実をお忘れなきように」と進言したのです。
これを聞いた『呂布』は「この男こそ、いちばん信頼できないのだぞ!」と声を荒げ、叫びました。
『曹操』ははじめ『呂布』の武勇に未練がありましたが、『劉備』の一言でためらいを払拭します。
そして部下に処刑を命じました…。

三国史跡紹介・其之十五~下邳古城・白門楼(詳しくは、2008年4月5日のブログを参照してね)
『呂布』が『曹操』に捕らえられ、処刑された「下邳城」址が残るのは、「江蘇省徐州市睢寧県古邳鎮」です。

俺は前日に宿泊していた「江蘇省宿遷市」から「江蘇省徐州市睢寧県」までバスで移動し、「睢寧県」から「古邳鎮」行きのバスに乗り換えて行きました。
「睢寧県」(終点)で下車後は輪タクを使いましたが、行き方が分かれば歩けなくもない…かな。
到達難易度は「C」かな。
   …以上

『曹操』はまた、かつての部下「陳宮」の参謀としての才能を惜しみました。
かつて『董卓』暗殺に失敗し、「洛陽」を追われた『曹操』を助けた「陳宮」でしたが、その後『呂布』と組み『曹操』と敵対した「陳宮」も『呂布』と同じく絞首刑にされ、首がさらされました…。
198年12月、「後漢」末の戦乱期、最強と言われた『呂布』が消え、『曹操』勢力が拡大し始めることになります。
ちなみに、このとき『呂布』軍の騎兵隊長であった『張遼』は刑を免れ、その後『曹操』軍の一将軍として活躍することになります。

三国史跡紹介・其之十六~呂布墓(未到達)
『呂布』の墓は「河南省焦作市修武県郇封鎮蘭封村」にあるそうです。
“正史”によれば「陳宮、高順らとともにさらし首にされて「許」に送られ、その後埋葬された」とあるようですが、具体的な埋葬地には触れられていないらしく、この墓陵も本物かどうか微妙ですね。
墓碑・墓石なども無いので、やっぱ“言い伝え”でしょうか…?

三国史跡紹介・其之十七~呂布像(未到達)
“三国志”の最強武将「馬中赤兎、人中呂布」と言われた『呂布奉先』が生まれたのは、現在の「内蒙古自治区巴彦淖尓市五原県」です。

この「五原県」には高さ8mの『呂布』像(写真は中国のサイトから)があります。
「内蒙古」に行く機会があれば、ぜひ「五原県」に行って、この『呂布』像を見てみたいですね…。
    …以上


『呂布』が殺され、『袁術』が脱落し、天下争奪の有力候補は「北方」に勢力をはる『袁紹』、「中原」に勢力をはる『曹操』、および“荊州”に拠る「劉表」、“益州”に拠る「劉璋」、“揚州”に拠る『孫策』、そして“豫州牧”の『劉備』といったところに絞られてきました。

「第六巻」では、196年『曹操』が「献帝」及び“都”を「許」に遷都した頃にさかのぼります。
では、お楽しみに 
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我的三国演義~第四巻『流浪の英雄、呂布』

2008年04月23日 | 我的三国演義
我的三国演義~第四巻『流浪の英雄、呂布』
この巻の主な出来事です。

191年(初平2年) 『袁紹』、「公孫瓚」を破り“冀州”を手に入れる。
             『曹操』、「東郡」の“太守”となる。
192年(初平3年) 『呂布』「王允」、『董卓』を暗殺。
             『孫堅』が暗殺され、『孫策』が跡を継ぐ。
             『曹操』、“青州”の“黄巾賊”を降伏させ“兗州牧”になる。
193年(初平4年) 『曹操』、“徐州牧”「陶謙」を攻め、領民十万を殺す。
194年(興平元年) 『曹操』が“徐州”遠征中、“兗州”で『呂布』「張邈」らが反乱する。
             『劉備』、「陶謙」没後“徐州牧”となる。
195年(興平2年) 『曹操』、「定陶」と「鉅野」で『呂布』を破る。
             『呂布』、『劉備』を頼り“徐州”へ。

さて、『董卓』が暗殺された後、各地の群雄たちはどうなったのか…。

 呂布奉先(生年不詳 - 198年)
『董卓』を暗殺した『呂布』は「李カク」らに「長安」を追われ、「南陽」の『袁術』を頼ろうとしますが拒否されました。
その後「張燕」ら黒山賊と戦う河北の『袁紹』に助太刀しました。
『呂布』の軍は強く、精強を誇った黒山賊を撃破しました。
しかし『呂布』はその後『袁紹』に兵力の補充を要求し、『呂布』の引き連れる兵も略奪などを行いました。
これが『袁紹』の忌むところとなり、『呂布』もそれを察して『袁紹』の下を離れました。
さらに『袁紹』は『呂布』に刺客を送りますが、これは失敗しました。
『呂布』は河内の「張揚」を頼りましたが、『呂布』を恐れる『袁紹』が大軍を出して駆逐し、他の勢力も『呂布』を畏怖して保護しようとはしませんでした。
そういった逃亡の中で、ある日『呂布』は「陳留」を通過し、『曹操』の旧友であり、信頼の厚い“太守”「張邈」に厚くもてなされました。
まもなく「張邈」は時の権力者『袁紹』がお尋ね者とする『呂布』を歓待したことで、『袁紹』の命令の下『曹操』に攻撃されることを恐れました。
193年には、『曹操』の部下でありながら彼に不満を持つ「陳宮」に説得され、『呂布』を盟主として“兗州刺史”とし、『曹操』に反旗を翻しました。

 孫堅文台(156年 - 192年)
191年『孫堅』は「荊州」の「劉表」を攻撃しました。
これは『袁紹』と『袁術』兄弟が仲違いしたために、「袁」兄弟の代理戦争として起こったものです。
“冀州”を手に入れた『袁紹』に対し、『袁術』は馬1000頭を要求しますが、これを無視されたことで仲が悪くなったと言われています。
『袁紹』-「劉表」『袁術』-『孫堅』という構図で始まったこの戦は『孫堅』が「劉表」軍の将「黄祖」が放った流れ矢に当たって死ぬという思いがけない結末で幕を引きました。
『孫堅』の死因については異説もあります。
『孫堅』は武装も固めず、騎馬で「劉表」の武将「呂公」を追って山伝いに進んでいましたが、「呂公」軍の兵士が落とした大石が頭に当たり、即死したともいわれています。
これにより息子の『孫策』が17歳で跡を継いでいます。

 劉備玄徳(161年 - 223年)
『劉備』は191年「公孫瓚」に加勢し、『袁紹』軍と戦い、その後「平原」の“相”になりました。

 曹操孟徳(155年 - 220年)
『曹操』は、191年「東郡」“太守”に任命されていました。
192年“青州”の“黄巾賊”100万が“兗州”に侵入すると、“兗州”を統治していた「鮑信」は、『曹操』に応援を要請し、見返りに“兗州牧”の地位を約束しました。
『曹操』はこの“黄巾賊”の精鋭30万を「青州兵」として配下にし、彼らを降伏させたのでした。
この兵力増強は『曹操』躍進の原動力となりました。

 袁紹本初(生年不詳 - 202年)
『袁紹』は「第三巻」に書いた通りですが、191年に“冀州”を奪い、「公孫瓚」と抗争を続けていましたが、とりあえず『董卓』の仲裁によって「公孫瓚」と和睦しました。


“青州”の“黄巾賊”を降伏させ、“兗州牧”におさまった『曹操』は、193年に父「曹嵩」をはじめ一族を呼び寄せることにしました。
その頃の「曹嵩」は「瑯邪国」に疎開していました。
「瑯邪国」は今の「山東省臨沂市」辺りで『諸葛亮』の故里もこの「瑯邪国」なのです。
『諸葛亮』は192年に父「諸葛珪」を亡くし、194年(14歳の時)に弟の「諸葛均」と共に従父の「諸葛玄」に連れられ南方へ移住しています。
それは後に書きますが、『曹操』の“徐州”侵攻も大きな原因だったのでしょう。

“徐州牧”の「陶謙」は「曹嵩」一行の護衛にと200名(“三国演義”では500名)ほどの兵をつけました。
「曹嵩」一行は途中で激しい雨のため、とある古寺に立ち寄りました。
一族と従者は堂内で休んだのに対し、「陶謙」の兵は回廊で休まされました。
このとき、ずぶ濡れになった兵士たちの不満が爆発しました。
この兵士たちは元は“黄巾賊”の出の者であり、彼らは「陶謙」の命に背き、一行を皆殺しにして財物を奪って逃走しました。
「曹嵩」は便所に隠れていたところを殺されたといいます。

三国史跡紹介・其之十一~曹嵩墓壁(未到達)
「山東省沂南県磚埠鎮汪家庄」には「曹嵩墓」は既に無いものの、「墓壁」は残っているようです。
『諸葛亮』の故里から北西に約3Kmの地にあるらしく、「曹嵩」はそこで殺害されたんでしょうかね?
     …以上。

この報せを受けた『曹操』の怒りは凄まじく、即座に100万の兵を率いて“徐州”攻撃に向かいました。
『曹操』軍はすべての兵卒が白装束で、大旗には“報讐雪恨”と記されていました。
“徐州”で『曹操』軍が通過したところでは、多くの罪のない住民が殺害されたそうです。
194年、このとき『劉備』は“青州刺史”の「田楷」とともに「斉」(恐らく今俺が住んでる所に近いと思う)に駐屯していましたが、「陶謙」からの報せを受けた『劉備』は「陶謙殿に責めはないはず」と「田楷」とともに救援に向かいました。
“三国演義”では、このとき『劉備』は「公孫瓚」から2000の兵と『趙雲』を借り受けたことになっています。
『趙雲』は元は『袁紹』の配下でしたが嫌気がさし、故郷“冀州”に帰る途中で『袁紹』軍と交戦中の「公孫瓚」を救い、食客として「公孫瓚」に力を貸していたのです。

三国史跡紹介・其之十二~趙雲故里(詳しくは2008年1月29日のブログを参照してね)
『趙雲子龍』(生年不詳 - 229年)の故里は「河北省石家荘市正定県」です。

「石家荘市正定県」には「趙雲廟」があります。
石家庄火車站前から201路バスで正定まで行けます。
正定の汽車站からは1路バスに乗って、終点近くで下車します。
俺は石家庄火車站前から201路バスが見つけられず、「趙雲廟」までタクシーで行くハメになってしまいましたが…
所要時間は石家庄火車站から1時間あれば行けます。
「趙雲廟」の入場料は15元です。
到達難易度は「C」かな。
1路バスで降りる場所さえ分かれば簡単ですが、「廟」前を通らないので運転手に「趙雲廟」付近で降ろしてもらえば良いでしょう。
正定汽車站から「趙雲廟」までの途中の公園には、『趙雲』像があります。
降りるバス停名は分かりませんが、ここの『趙雲』像はカッコいいぞ
     …以上。

『曹操』が“徐州”の城を次々に落としていたとき、『曹操』の根拠地“兗州”では一大事が起きようとしていました。
「陳留郡」の“太守”「張邈」と『曹操』は盟友ともいえる間柄でしたが、“徐州”での『曹操』の蛮行を耳にするにつれ、「張邈」は友に恐怖心を抱くようになってきました。
そこへやって来たのが『呂布』でした。
「張邈」と『呂布』はすっかり意気投合しました。
これに目をつけたのが「陳宮」でした。
「陳宮」は「張邈」に「向かうところ敵なしの呂布と立てば、天下も夢ではありません。まずこの兗州を奪うのです」とささやきました。
「陳宮」は『曹操』が『董卓』暗殺に失敗して逃走していた際に『曹操』を助けて以来、『曹操』の幕閣として手腕を発揮していましたが、「陳宮」自身に天下を取る野望はありませんでした。
しかし「陳宮」には、覇王を意のままに操りたいという野心がありました。
ですが『曹操』は「陳宮」が操れるような男ではありません。
そこに『呂布』という豪傑が現れたのです。
「呂布なら思いのままに操れる」と考えた「陳宮」は、野望を実現するため「張邈」と『呂布』を誘い込んだのです。
「張邈」はさっそく『呂布』を迎え入れて“兗州牧”に任命すると「濮陽」に立てこもりました。

「横山光輝」の“三国志”では、“徐州”に援軍として入った『劉備』は、圧倒的な兵力の差で勝ち目は到底無いので、停戦の使者を『曹操』に出しました。
私怨による進軍を止め、まず国難を救うべき…という書状を『張飛』に託しました。
それを読んだ『曹操』は怒りましたが、ちょうどその時“兗州”に『呂布』軍が攻め込んでいる情報が入りました。
『曹操』は『劉備』が提案した停戦に応じたふりをして、すぐ“兗州”に引き返しました。
『呂布』は『曹操』が“徐州”に進軍している間に、「陳宮」の入れ知恵で空き家同然の“兗州”を奪おうとしていたのです。
その年(194年)「陶謙」没後、『劉備』は“徐州牧”になりました。
  
  
  『呂布』  VS  『曹操』
194年、『曹操』は『呂布』軍がこもる「濮陽」を包囲し、『呂布』の騎馬隊と激突しましたが、さすがに『呂布』は強く、『曹操』自慢の“青州兵”も突き崩される有様でした。
“三国演義”では、雨のように射られる矢の中で『曹操』軍の「典韋」は命からがら『曹操』を救っています。
ところが「濮陽」の豪族「田」氏が『曹操』に内通して開城させました。
『曹操』軍は中に入ると門に火をつけ、自ら退路を絶ちました。
城内は激しい戦になりましたが『曹操』は『呂布』の騎兵に捕らえられてしまいました。
『曹操』が観念したとき、敵兵が『曹操』に向かって「曹操はどこか?」と尋問しました。
『曹操』はとっさに「黄色の馬に乗って逃げて行くのが曹操だ!」と言い逃れ、ようやく城を出ることが出来ましたが、『曹操』はこのとき火傷を負っています。
こうして100日あまりにわたって「濮陽」城をめぐる激しい攻防戦が繰り広げられました。
ところが、そこに“いなご”の大群が発生しました。
稲も畑の作物もすべてを食い尽くされ、穀物は高騰し、植えた人々は互いの肉を食い合うほどだったと“正史”はその惨状を伝えています。
こうなっては、戦どころではなくなり「濮陽」で対峙していた『曹操』と『呂布』も一時休戦になりました。
“三国演義”では、この戦のさなか「許褚」という武将を得ています。
賊から村を守っていた「許褚」と『曹操』の親衛隊長「典韋」はぶつかり合いますが、終日戦い続けても決着がつきませんでした。
それを見た『曹操』は一目で「許褚」を気に入り、策を用いて「許褚」を捕らえました。
以後『曹操』は、虎のような武勇と質朴な「許褚」の人柄をこよなく愛し、「虎痴」と呼んで重用しました。

翌195年、『曹操』は再び兵を挙げると、「定陶」と「鉅野」で『呂布』を破り、“兗州”を奪還します。
勝ち目がないと見た「陳宮」や『呂布』らは夜にまぎれて逃走し、“徐州”の『劉備』を頼ることにしました。
194年『劉備』は「陶謙」の病死によって“徐州牧”になっていました。
『劉備』はこの“徐州牧”の要請になかなか応じませんでしたが、「陶謙」の部下の「麋竺」らに根負けして承諾したのです。
このとき『劉備』は「麋竺」と「孫乾」という2人の逸材も譲り受けています。
後に「麋竺」の妹は『劉備』の妻になっています。

 孫策伯符(175年 - 200年)
一方、父『孫堅』の突然の死(191年)から3年の歳月が経ち、「孫」家を継いだ『孫策』は、「寿春」に拠点を移したばかりの『袁術』を頼り、その配下に加わっていました。
「孫策のような息子がおれば、いつ死んでもよい」と言われ、一時は『袁術』に大変気に入られていました。
しかし『袁術』は『孫策』に「九江」の“太守”を約束していたにもかかわらず、他の者を任命したりしたため、『孫策』は『袁術』にすっかり幻滅し、密かに独立の機会をうかがうようになりました。
さて『袁術』が拠点としていた「寿春」は、もともと“揚州刺史”の役所が置かれていた所でしたが、そこを『袁術』が占拠したため、“揚州刺史”に任命された「劉繇」はやむなく長江を渡った「曲阿」に州都を構えていました。
このとき「劉繇」は「曲阿」の南「丹陽」にいた『孫策』の叔父「呉景」と、従兄弟の「孫賁」に圧力をかけて2人を追い出し、さらに配下の将を長江の岸に配置して『袁術』の南下を牽制していました。
そこで『孫策』は『袁術』に「劉繇」討伐を願い出ました。
「横山光輝」の“三国志”では、父『孫堅』が以前「洛陽」で手にした「玉璽」との交換を『孫策』が提案し、『袁術』から兵3000、馬500頭を借りています。
その後「張昭」と「張鉱」という二賢人を味方に付けています。
『孫策』が江東(呉)へ軍を挙げると(194年)『周瑜』もこれに付き添って功績を挙げています。
そして「劉繇」軍との戦で「太史慈」を捕らえ、配下にしています。
それからは着々と江東に独自の地盤を築き、江東の小覇王と呼ばれるまでになりました。

三国史跡紹介・其之十三~劉備廟(詳しくは2008年1月30日のブログを参照してね)

この「劉備廟」があるのは「山西省陽泉市郊区蔭営鎮坪上村」です。
「陽泉市」内から5路バスに乗り、「車管所」で下車します。
「劉備山」の頂上に、この「劉備廟」があります。
言い伝えによれば、『劉備』『関羽』『張飛』が卜占を行った地とされ、後世になって「劉備廟」が建てられたそうです。
ここ「山西省陽泉市」が「後漢」の時代には“冀州”に属していたか“并州”に属していたかは、よく分かりませんが、『劉備』らがここに来たとしたら『劉備』が“徐州牧”になる194年以前の事だろうと思います。
「陽泉市」内から5路バスで「車管所」まで約30分、山頂までの登山に約1時間半掛かります。
到達難易度は「B」かな…。
「車管所」までは簡単に行けますが、麓からちゃんとした登山路が無いので山頂に見える廟を頼りに崖をよじ登ったのと、下山するときは最後まで登山路を下りて行ったら「車管所」では無く、全然分からない所に辿り着いてしまったという恐怖の登山でありました…
「劉備山」は、1272.6mあるらしいですが…そんな高さの山をよじ登って…1時間半は無理だと思うけどな…。
俺は超人じゃないし…

下山時に見たこの岩ですが、ブログ掲載時(2008年1月30日)には何か分かりませんでしたが、後の調査でこれは「関公試刀石」という事が判明しました。
『関羽』が「青龍偃月刀」で真っ二つに斬ったのか 

さて「第五巻」では、“徐州”の『劉備』の下に身を寄せた『呂布』、そして『呂布』から“兗州”を取り返した『曹操』、『董卓』亡き後「長安」を治める「李カク」と「郭」、そして『袁紹』『袁術』『孫策』…まだまだ群雄が割拠していた時代を綴っていきます。

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我的三国演義~第三巻『美女連環の計』

2008年04月01日 | 我的三国演義
我的三国演義~第三巻『美女連環の計』
この巻の主な出来事です。

190年(初平元年) 『董卓」、「献帝」を擁立し、「少帝」を殺害する。
             「献帝」を「洛陽」から「長安」へ移す。(遷都)
191年(初平2年) 『袁紹』、「公孫瓉」を破り“冀州”を取る。
192年(初平3年) 『呂布』「王允」、『董卓』を暗殺する。
             「王允」、「李カク」「郭」に殺害される。

190年(初平元年)『袁紹』を盟主として“反董卓連合軍”が成立すると、『曹操』もまた父「曹嵩」の援助を受け、駆けつけました。(“三国演義”では曹操が首謀者ですが)
しかし、『董卓』打倒を目指して集結したはずの“連合軍”は、『董卓』の軍を目前にしながら毎日宴会を催し、誰も積極的に攻めようとはしませんでした。
やがて諸侯はお互いを牽制し始めます。

「水関」は「洛陽」と「官渡」の中間くらいです。

 孫堅文台(156年 - 192年)
その中で先陣を切ったのが「長沙」の“太守”『孫堅』でした。
『孫堅文台』は“孫子”の兵法で知られる「孫武」の末孫といわれています。
『孫策』『孫権』の父で、「呉」建国ののち「武烈皇帝」と諡されました。
「水関」で『孫堅』軍と、『董卓』軍の「華雄」は激突します。
『孫堅』には「程普」「黄蓋」「韓当」「祖茂」の四武将がおり、「華雄」には「胡軫」「李粛」「趙岑」らがいました。
『孫堅』軍は緒戦で「華雄」軍の「胡軫」を討ち取るという大きな戦果をあげました。
『孫堅』は深追いをせず、全軍を休息させることにしましたが、兵糧が到着しません。
兵糧の補給を任されていた『袁術』が、『孫堅』を後々油断ならない人物になると見て、わざと補給をしなかったのです。
味方に兵糧攻めにあい、空腹で戦意が上がらない『孫堅』軍に「華雄」軍が襲い掛かり、『孫堅』自身もあわやというとき、「祖茂」が『孫堅』の赤い頭巾を奪い取ると、敵を引き付けるために走り去りました。
この戦で『孫堅』は大切な将であった「祖茂」を失ったのです。
その後“連合軍”の陣に戻った『孫堅』は諸侯が集まっている席で『袁術』への怒りをぶつけると、『袁術』は部下の首を斬り、その者に責任をなすりつけたのです。

 関羽雲長(162年? - 219年)
『孫堅』軍は撤退し、「華雄」軍は勢いづいて“連合軍”に襲い掛かります。
「華雄」に戦いを挑んだ武将も次々に討ち取られてしまいます。
ひるむ“連合軍”に、総大将の『袁紹』も「ここに、これだけの諸侯がいながら「華雄」を討つ大将も持っていないのか!」と言います。
その中で「私にやらせてください」と志願する者がいました。
『劉備』と共に足軽として「公孫瓉」軍に加わっていた『関羽』でした。
『関羽』はあっという間に「華雄」の首を下げて戻って来たため、その武勇は諸侯の間に知れ渡りました。

 VS 
  『呂布』      『張飛』    『劉備』    『関羽』 の「三英戦呂布」
“三国演義”では、その後の「虎牢関の戦い」が記されています。
実は「水関」と「虎牢関」は同一の場所だという話ですが…。
「虎牢関」で『董卓』軍の先鋒を務めたのが『呂布』でした。
名馬「赤兎」に跨り、“連合軍”の諸侯をなぎ倒していきました。
「公孫瓉」も『呂布』に殺されかけたほどでした。
これを見て『張飛』が『呂布』に挑みました。
勝負は互角で、すかさず『劉備』と『関羽』が加勢しますが、それでも『呂布』は倒せませんでした。
しかし、さすがに疲れた『呂布』は「赤兎馬」を駆って退却していきました。

三国史跡紹介・其之七~虎牢関(詳しくは2007年12月2日のブログを参照してね)
場所は「滎陽市水鎮虎牢関村」です。
「河南省鄭州」の長途客運西站から「滎陽上街」行きのバスに乗ります。
そして「上街」から「水」行きのバスに乗って行くのですが、全然「水」行きのバスが来ないので、俺は「上街」からタクシーで行きました。(所要時間30~40分)

「虎牢関村」に着くと、この「虎牢関」の石碑と、奥に「三義廟」があります。
「三義廟」は見学無料ですが、この辺りに着くと、ガイドのジイちゃんがいます。
ガイド料30元ですが、「呂布城」やら「絆馬索」を案内してもらえます。
ちなみに俺はチャーターして来たタクシーに乗って移動しましたが、足が無いと歩いて遺跡を回ることになるので、全ての見学に数時間掛かることを覚悟してくださいね。
そして、そのジイちゃんがいないと、何が何の遺跡だかも分かりませんから、旅行者のみで散策するのは無理でしょう…。
到達難易度は「虎牢関村」までは「C」。
しかし「呂布城」などの遺跡を見る場合はガイドがいないと無理なので「A」かな。
          …以上。

 曹操孟徳(155年 - 220年)
激しい戦いの後、『董卓』は「長安」への遷都を決意します。
『董卓』は「洛陽」を焼き払い、数百万にのぼる住民を強制的に「長安」に遷都させました。
『曹操』は盟主の『袁紹』に好機だと迫りましたが、前述のような諸侯の打算により、攻撃命令は下されませんでした。
業を煮やした『曹操』は単独で『董卓』を攻撃しました。
しかし『曹操』の軍は『董卓』配下の「徐栄」との交戦により壊滅的な打撃を受けました。
『曹操』は連合に見切りを付け、故郷に戻って軍の再編を始めました。
“三国演義”では『董卓』が焦土作戦をとったため補給が困難になったこともあり、「長安」遷都後に“連合軍”は内部の不一致などもあって自然解散となり、有力者は各自の勢力拡大に走りました。

そのころ、焼け落ちた都「洛陽」の消火活動や歴代皇帝の墓の清掃、修復にあたっていた『孫堅』は古井戸から小さな「玉璽」を見つけました。
この「玉璽」は「少帝」拉致の混乱で紛失したものでした。
「玉璽」とは「秦」より伝えられた皇帝のしるしです。
この「玉璽」を手にすると天下を取れるといわれていました。
しかし『袁紹』の耳に「玉璽」を手にしたことが漏れてしまい、『孫堅』は『袁紹』の追っ手を振り切って「長沙」へ帰還しました。

 袁紹本初(生年不詳 - 202年)
“反董卓連合軍”が解散したのち、『袁紹』は華北への勢力拡張を始めました。
『袁紹』は「公孫瓚」には共に“冀州”を攻め、領土を分けようと持ちかけ、一方で“冀州”の“刺史”「韓馥」には、「公孫瓚」が“冀州”に攻めてくるので力になってやろう…と。
『袁紹』は、191年に「韓馥」より“冀州牧”の地位を譲り受けました。
「公孫瓚」は「韓馥」が『袁紹』に“冀州”を譲ったと知り驚きました。
“三国演義”では「公孫瓚」は従弟の「公孫越」を遣わし、『袁紹』に土地を分与するように申し入れます。
『袁紹』は「ならば公孫瓚自身が来られよ」と述べたので「公孫越」はその足で兄の下へ向かいました。
しかし「公孫越」は途中で無残にも『袁紹』の配下に殺されてしまいました。
「公孫瓚」は激怒し、大軍を率いて「磐河」まで兵を進めました。
そこで「公孫瓚」は『袁紹』軍の「文醜」に危うく殺されかけたところを『趙雲』に救われています。
それから『劉備』らも「公孫瓚」に加勢し、『趙雲』と出会っています。
そして、192年の「界橋の戦い」後、お互い消耗した『袁紹』と「公孫瓚」は『董卓』の仲裁によって和睦しました。

三国史跡紹介・其之八~平原(詳しくは2007年10月13日のブログを参照してね)
191年『劉備』は「平原」の“相”に任ぜられました。

ここは「山東省徳州市平原県」の「三国文化広場」です。
平原火車站からタクシーで10分くらいだったかな。
ただの公園なので入場料はありません。
一応『劉備』が「平原」にいたときの古事を描いた壁画が8枚あります。
到達難易度は「D」かな。
俺は市内地図を持ってなかったからタクシーで行ったんだけどね。   …以上。

 董卓仲穎(生年不詳 - 192年)
『董卓』は遷都の際、「洛陽」の歴代皇帝の墓を暴いて財宝を手に入れたといいます。
そして「長安」遷都後も暴政を布き、銅貨の五銖銭を改鋳して貨幣価値を落としたため、インフレを招きました。
「長安」近くの「郿」に難攻不落の城塞を築き、30年分の食糧を蓄えていたといいます。
『董卓』の暴虐ぶりは相変わらずで、『董卓』に逆らった捕虜が舌を抜かれ、目をえぐられ、熱湯の煮えた大鍋で殺害されました。
熱湯で苦しむ捕虜の泣き叫ぶ声は天にこだましました。
『董卓』はそれを見て笑い、平然と酒を飲んでいたといいます。

 貂蝉(生没年不詳)
しかし、192年(初平3年4月)、『董卓』は“司徒”「王允」と『呂布』により暗殺されました。
親子の契りを結んだ『呂布』が『董卓』を殺害した原因について、“正史”では、小さな過失から『呂布』は『董卓』に殺されかけたことがあり、それ以来恨みを持つようになったため、あるいは『董卓』の侍女と密通したことの発覚を恐れたためなどの記事があります。
“三国演義”では、これを元に「王允」の養女「貂蝉」を、『呂布』と『董卓』が奪い合うよう「王允」が仕向けた「美女連環の計」が描かれています。
「王允」はまず『呂布』に「貂蝉」を謁見させ、その美貌に惚れさせます。
ですが、次に「王允」は『呂布』とは別に「貂蝉」を『董卓』にも謁見させ、『董卓』に「貂蝉」を渡してしまいます。
怒った『呂布』が「王允」に詰問すると、「董卓には逆らえない」と言い繕い、その場を円く納めました。
その後、『呂布』と「貂蝉」が度々密会し、「貂蝉」が『呂布』の下に居たいという意思表示をします。
2人が密会していることに『董卓』はいったん怒りましたが、腹臣の「李儒」の進言により「貂蝉」を『呂布』の下に送るように言います。
ですが、一方で「貂蝉」は『董卓』にも「乱暴者の呂布の元には行きたくない」と泣きつき、『董卓』の下を動こうとしません。
それに怒った『呂布』が「王允」と結託し、『董卓』を殺害しました。
「連環の計」の成立後、「貂蝉」は『呂布』と共に行動し、198年に『呂布』と共に『曹操』に捕らえられたとされます。
その後の展開としては、「貂蝉」を巡り『曹操』と『関羽』が争いますが、『曹操』が降りて『関羽』に譲る、または『関羽』が心の動揺を鎮めるため「貂蝉」を斬ってしまう、など話によって展開が異なっています。
ほか、「連環の計」遂行後に「貂蝉」が自害して果てるという展開も多くあります。(横山光輝“三国志”など)
ですが、中国においては「貂蝉」を架空の人物とする説と実在の人物とする説の両方が唱えられています。
「貂蝉」は、「楊貴妃」「西施」「王昭君」と並び、“古代中国四大美人”の一人に数えられていますがね。

三国史跡紹介・其之九~貂蝉墓(未到達)
「貂蝉墓」があるのは「貂蝉」の故郷とされている「山西省忻州市木芝村」です。
陵園内には「貂蝉墓」、「貂蝉像」の他に、「貂蝉」の一生を人形で紹介する「貂蝉彩塑館」があるらしいです。
でも、観光客もほとんどいないようで、園内は羊の住まいと化しているそうな…
    …以上。

事件後「長安・郿」に居た「董旻」、「董璜」をはじめとする『董卓』の一族は、全員が『呂布』の部下や「袁」一族の縁者らの手によって殺害され、90歳になる『董卓』の母親も殺されました。
また、『董卓』によって殺された「袁」氏一族に対しては盛大な葬儀が行われる一方、「董」氏一族の遺体は集められて火をつけられました。
『董卓』は肥満してたっぷりと脂肪が付いていたらしく、夜営の兵が戯れにへそに挿した灯心が数日間は燃えていたと書かれています。
また、“御覧引董卓別伝”には 百姓(人民)は向かい合って喜び、舞い踊り、家中の指輪・衣服などを売ってお酒とごちそうを買い、お互いに祝い合い、そのため「長安」の酒と肉の値段は急騰した、とあります。
後になって、『董卓』の部下だった兵士が死体の灰をかき集めて郿城に葬っていますが、“三国演義”ではこの葬儀の場面を脚色しています。
・・・、「李カク」ら四将は、『董卓』の遺体を命令を出して探索させますが、ほんのわずかの骨や皮の切れ端しか見つけられなかったので、香木を彫って『董卓』の像を造り、遺体の代用としました。
郿宇城に持って行き、大々的に葬儀を行い王者の衣冠・棺を用いてこれを埋葬したところ、雷鳴がとどろき、豪雨によって平地は数尺の水におおわれ、落雷が『董卓』の遺体を粉々にしました。
「李カク」は三度、埋葬し直しましたが、その都度雷鳴はとどろき、雷によって『董卓』の遺体は、もはやこの地上には何も残りませんでした。
『董卓』に対する天の怒りの甚だしさといえよう…と、死後も『董卓』に鞭打っています。

192年(初平3年4月)、『董卓』が『呂布』「王允」等に暗殺されると、「王允」は「李カク」討伐の令を出しました。
『董卓』の軍事力の基礎であった「郭」「李カク」ら「涼州」の軍勢が復讐の名の下に首都「長安」に侵入します。
『呂布』はしばらく応戦するものの支えきれず、数百騎とともに武関から逃亡しました。
「李カク」の襲来を察知した「王允」は、『董卓』の旧将「胡軫」「徐栄」らに「李カク」を迎撃するよう命じます。
しかし、「徐栄」「胡軫」は惨敗、「徐栄」は「李カク」に討たれ、「胡軫」は「李カク」に寝返りました。
同5月、長安城は「李カク」に包囲されてから8日で陥落。
「李カク」は「王允」を八つ裂きにし、『呂布』一党を「長安」から叩き出します。
その後『董卓』の遺灰を集め、香木で『董卓』の像を作り葬儀を行いますが落雷が起こり断念しています。

三国史跡紹介・其之十~王允墓(衣冠塚は未到達)
「王允子師(137年 - 192年)」は「長安」にて『董卓』軍残党の「李カク」によって殺されてしまいました。
衣冠塚は「王允」の故郷である「山西省祁県西北修善村西」にあります。
「王允墓」は「河南省許昌市北郊外清異河西岸」にあります。

「王允」の死を悼んだ「献帝」の手によって「長安」から「許昌」に墓が移されたといいます。
2路バスで「北站」行きに乗り、「菅庄」で下車します。
川にかかる橋を渡り、川の西岸に沿って北上すると、10分ほどで着きます。

でも、このように道から外れています。
到達難易度は「C」かな。
     …以上。

さて『董卓』亡き後、各地の群雄たちはどうしたんでしょうか?
それは「第四巻」にて 
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我的三国演義~第二巻『暴君、董卓登場』

2008年03月20日 | 我的三国演義
我的三国演義~第二巻『暴君、董卓登場』
この巻の主な出来事です。

189年(中平6年) 「霊帝」没する。「少帝」即位。
             『董卓』、「少帝」を廃し、「献帝」を擁立。
             『曹操』、「陳留」で挙兵。
190年(初平元年) 『董卓』、「少帝」を殺害。

189年「霊帝(後漢12代皇帝)」が重体に陥りました。
「霊帝」には2人の后がいました。
1人は「何皇后」で、息子に「辯」皇子がいました。
もう1人は「王美人」といい、息子に「協」皇子がいました。
「霊帝」は兄の「辯」皇子よりも弟の「協」皇子の資質を愛し、胸中では「協」皇子を次の皇帝にと考えていました。
しかし、「辯」皇子には、母「何皇后」と、「何皇后」の兄で“大将軍”の「何進」が暗躍します。
一方「協」皇子には、皇子を養育した「霊帝」の母「董太后」と、「蹇碩」を中心とした「宦官」らが、それぞれのバックについて画策したため、宮中では熾烈な後継争いが繰り広げられることになりました。
「王美人」は「何皇后」に毒殺されていたので、「董太后」が「協」皇子を養育していたのです。

 袁紹本初(生年不詳 - 202年)
あるとき「蹇碩」が「協」皇子のために「何進」を誅殺しようと「霊帝」に持ちかけますが、これを知った「何進」が「蹇碩」らに反撃しようとした矢先に「霊帝」が崩御してしまいました。
このとき「何進」は居合わせた『袁紹』に兵を与え、宮中に押し入り、力づくで「辯」皇子を13代皇帝(少帝)に立ててしまいました。
(この時期の『袁紹』は“司隷校尉”として「洛陽」の治安維持の担当でした)
そして「何進」らは「蹇碩」を斬殺し、「宦官」の皆殺しを計ります。
しかし、身の危険を察知した「宦官」らは、すぐさま「何皇后」に命乞いをします。
「何皇后」は「宦官」のおかげで入内したことに恩を感じていたので、兄の「何進」をなだめました。
そして「宦官」らは命拾いしたのです。

 何進遂高(134年? - 189年)
この「何進」は「南陽(宛)」出身で屠肉屋の子として生まれましたが、母の違う妹(何皇后)を、「宦官」に賄賂を贈って宮中に入れたところ、「霊帝」の寵愛を得ました。
このおかげで「何進」は、184年に“黄巾の乱”が勃発すると“大将軍”となり、乱の鎮圧に当たりました。
しかし「何進」自身は戦地には赴かず、“黄巾の乱”後の各地の反乱でも、常に「洛陽」にあり、実質的な指揮者は「張温」「皇甫嵩」「朱儁」「盧植」「董卓」「周慎」らでした。
“大将軍”と言えば、将軍の最高位で、軍隊を統率し征伐の任にあたる…という重要職ですが、ただの屠肉屋の主人が、美貌の妹がいたおかげで大出世できたというわけなんです。
所詮は成り上がりの能無しだったので、判断力、決断力に欠け、妹の「何皇后」にも頭が上がらず、最期は『袁紹』の忠告も聞かず、のこのこ宮中に出向いたところで「宦官」によって殺害されるんですから…

さて、189年に17歳で「少帝」が即位しましたが、後見の座をめぐって「何太后(←太后になりました)」と「董太后」が反目し合いますが、「何太后」が「董太后」を毒殺し、皇帝の“執政”として権力を掌握するようになりました。
そして再び「何進」は妹の「何太后」に「宦官」誅殺を提案しますが、受け入れられません。
焦った「何進」は「宦官」を討ち取らせようと“并州牧”の『董卓』ら地方の軍閥を召し寄せることにしました。
ですが、これを知った“十常侍”(権勢を振るっていた「宦官」グループ)の「張譲」と「段珪」は宮中に「何進」をおびき寄せ、「何進」を斬り捨てたのでした。
この報せを聞いて怒り狂った『袁紹』らは、宮殿に火を放ち、「宦官」と見れば片っ端から斬り殺していきました。
その数は2000あまりにのぼったといいます。
この混乱の中、「張譲」と「段珪」らは「少帝」と「陳留王(協皇子)」を連れて「洛陽」の北門から逃れました。
一行が「黄河」のほとりに着いたときには追手が迫っており、観念した「張譲」らは川に飛び込んで自殺してしまいます。
残された「少帝」と「陳留王」の2人は夜道を励まし合いながら歩き、ようやく民家に保護されました。

 董卓仲穎(生年不詳 - 192年)
「何進」の呼びかけに応じて「洛陽」へと軍勢を進めていた『董卓』ですが、「少帝」が「洛陽」北郊の「北芒山」にいるとの情報を得ると、急遽北に向かい、強引に「少帝」を自軍に迎え、「洛陽」に入城しました。
『董卓』は2人と会話をしながら帰路につきましたが、この時「少帝」は満足な会話さえ十分に出来なかったのに対して、「陳留王」は乱の経緯など一連の事情を滞りなく話して見せたことから、「陳留王」の方が賢いと思ったといいます。
そして「少帝」廃位を企むようになります。
「洛陽」に乗り込んだ『董卓』は、部隊を夜陰に乗じて郊外に移し、翌日改めて陣太鼓を打ち鳴らして入城させ、これを4、5日繰り返しました。
そして、その度ごとに「董卓の軍がまた到着したぞ」と触れ回り、人々はそのからくりに気づかず、『董卓』の軍はすごい人数だと噂し合いました。

 呂布奉先(生年不詳 - 198年)
『董卓』が「洛陽」に入った時は3000ほどの兵力しかなかったので、「何進」の軍勢を吸収して軍事力で政権を手中に収めようとしましたが、遅れて都に来た「丁原」がその野望を阻止しようと立ちはだかりました。
“三国演義”で「丁原」は“荊州刺史”として登場しますが、“并州”出身者らしく、“荊州刺史”であったというのは考えにくいようです。
『董卓』は「丁原」を暗殺しようとしましたが、「丁原」の部下には武勇の士として名高い『呂布』がいて、暗殺は失敗してしまいます。
『董卓』は部下の「李粛(呂布とは同郷)」から提案された、「赤兎馬」を贈呈して寝返らせるという策を実行し、『呂布』はその見返りに上司の「丁原」を殺害して、『董卓』に帰順しました。
『董卓』は「丁原」軍の兵をも吸収して大兵力を握りました。
その後『董卓』は「呂布」を養子にし、兵力を背景に“司空”となりました。
(“司空”とは皇帝の下に置かれた役職で、“司徒”“太尉”と合わせて「三公」と呼ばれていました)
そして「少帝」の生母である「何太后」を脅して「少帝」を廃させ(弘農王)、「陳留王」を皇帝としました(第14代皇帝:献帝)。
「献帝」が即位したとき、年齢はわずか10歳でした。
また、「何太后」が「霊帝」の母である「董太后」を圧迫したことを問題にし、権力を剥奪しました。
『董卓』は「何太后」を永安宮に幽閉し、まもなく「弘農王(廃帝)」とともに殺害しました。
「少帝」は在位期間半年にも満たずに、190年、18歳で殺害されたのでした…

『董卓』は、その後“太尉”に、ついで“相国”となり(“三国演義”では“太師”と呼ばれています)、朝廷でゆっくり歩くことと剣を帯びること(注:中国においては、臣下は宮中を早足で歩かなければならないとされていた。また、剣を持つことは禁じられていた)を許されました。(強引にそうさせたんでしょうが…)
位人臣を極めた『董卓』は暴虐の限りを尽くし、「洛陽」の富豪を襲って金品を奪ったり、村祭りに参加していた農民を皆殺しにしたり、色香に飢えた『董卓』の蛮兵が毎夜ごとく女官を凌辱したり悪道非道を重ねました。
『董卓』に逆らったり諫言する者は獄につながれたり、首を斬られたため、誰もが『董卓』の言いなりでした。
暗殺を謀る者がいても『呂布』に阻まれてしまうのです。

 曹操孟徳(155年 - 220年)
こうした中、“司徒”の「王允」は私邸に信頼できる人だけを集め、思わず『董卓』への憤懣を口にしてしまいます。
すると居合わせた『曹操』が『董卓』暗殺を志願しました。
喜んだ「王允」は暗殺に役立てて欲しいと、玉をはめ込んだ宝刀「七星剣」を『曹操』に渡します。
ところが『曹操』がその宝刀で『董卓』を斬ろうとした時、鏡に姿が映ってしまったために失敗します。
とっさに宝刀を『董卓』に献上すると、あとは一目散に郷里まで逃げ帰ったのでした…

しかし、これが暗殺未遂とバレてしまい、『曹操』逮捕の命令が下ります。
これは“三国演義”の話ですが、『曹操』は「中牟県」で捕らえられますが、志を共にした「中牟県」の“県令”「陳宮」に救われます。
2人は逃走の途中で「呂伯奢」という『曹操』の知人の家にかくまってもらいました。
2人を持て成すと言って買物に出掛けた「呂伯奢」ですが、帰りが遅い…。
すると、外から刃物を研ぐ音が聞こえてきました。
これを自分らを捕らえるための罠だと思った『曹操』は「呂伯奢」の家族や召使を殺害してしまいます。
しかし、彼らは本当に夕飯の準備をしていただけだったのです…
もうここには居られないと、「呂伯奢」宅を出た『曹操』と「陳宮」でしたが、途中で「呂伯奢」に出くわします。
そして『曹操』は「呂伯奢」をも口封じのために殺害し、逃走を続けることになります。
この時「陳宮」は『曹操』の、そのあまりの身勝手さに呆れ、『曹操』の寝込んだ隙に暗殺しようと考えますが思いとどまり、その後も『曹操』に仕えます。

三国史跡紹介・其之六~安徽省亳州市(詳しくは2007年8月15日のブログを参照してね)
『曹操』の故里は現「安徽省亳州市」です。
「後漢」の人物批評家「許劭(許子将)」は、『曹操』のことを「治世の能臣、乱世の奸雄」(「子治世之能臣亂世之姦雄」)と評しました。

「曹氏公園」内の「曹操紀念館」と「亳州站」前の『曹操』像です。
「亳州市」内の『曹操』或いは「曹」家に関する史跡として挙げられるのが「曹氏公園」です。
「亳州市魏武大道」にあり、「亳州站」から徒歩10分くらいでしょうか。
「曹氏公園」は俗に「曹四孤堆」と呼ばれていて、『曹操』の祖父「曹騰」や父の「曹嵩」らが葬られている墳墓があります。
しかし、この「曹四孤堆」にも、『曹操』が都をおいた「河南省許昌」にも「曹操墓」はありません。
これほどの大物の墓が中国に存在していない(発見されていない?)のもミステリーの一つですね。
「曹氏公園」は入場無料ですが、中の「曹操紀念館」は入場料10元です。
「曹氏公園」の隣りには「三国攬勝宮」という蝋人形館があります(入場料28元)が、「曹操紀念館」も「三国攬勝宮」も中の人形がショボすぎ…
「曹操運兵道」は人民中路と人民南路が交差する所にある、『曹操』が用いたとされる地下兵道です。
俺は前日の雨による地下道浸水のため見れませんでしたが、実は「宋代」末の遺跡らしく、『曹操』が用いたというのは言い伝えか…?
この兵道の出口の交差点には『曹操』像があります。
「魏武故里」(未到達)は、「亳州市譙城区賈店村」にあります。
当時、ここに『曹操』の邸宅があったようですが、今は石碑があるだけのよう…。
それと「魏武故里」の横には、「曹」家の者が植えたと言われている樹齢千年以上の二株の古銀杏があります。
ちなみに後世で『曹操』は「魏武帝」「魏武」と呼ばれています。
子供の頃の『曹操』のエピソードがあります。
何かと父親に告げ口をする叔父に仕返しをしようと考え、わざと「麻痺にかかった」と告げました。
この話は叔父から父の「曹嵩」の耳に入ると、「曹嵩」が心配し「麻痺はもういいのか?」と聞くと『曹操』は「私は麻痺になどかかっていません。叔父がでまかせを言っているのでしょう」と答えたため、以後「曹嵩」はその叔父の言うことを信用しなくなったといいます。
『曹操』は文章家でもあり、兵書“孫子”を現在残る十三篇に編纂したのは『曹操』である(“三国演義”では、“孫子”に倣って十三篇に編纂した自著の兵法書である“孟徳新書”を「張松」に笑われた事で怒り焼き捨てていますが、これが恐らく“孫子”の注釈書の事ではないかと言われています。勿論焼き捨てられてはいません)。
そして現在の日本の酒造業界において尚行われている「段掛け方式」という醸造法は、『曹操』が発明した「九蒕春酒法」のことです。
『曹操』が「後漢」の「献帝」に上奏した「九蒕春酒法」の上奏文は、今日も現存しています。
「曹操の話をすると曹操が現れる(説曹操、曹操就到)」という、ことわざもあります。
講談などで、『曹操』打倒の陰謀を図ると必ずといっていいほど露見してしまうことから、日本語での「うわさをすれば影がさす」と同じ意味で使用されています。
史跡の到達難易度は「D」ですね。
市内地図さえあれば、 路バスや徒歩で回れるでしょう。    …以上。

『曹操』は郷里である“兗州”「陳留」に帰り、父「曹嵩」に挙兵の支援を頼みます。
いまや「洛陽」は暴力と略奪の巷と化し、人々は生きた心地がしませんでした。
このような中にあって『袁紹』は『董卓』の誘いを断り“冀州”へ逃れ、一族の『袁術』も「南陽郡」に逃れていました。
皆、『董卓』に荷担するのを避けたのです。
この専横に反発した『袁紹』『袁術』などの有力者は、「橋瑁」の呼びかけ(“三国演義”では『曹操』)で“反董卓連合軍”を組織するに至りました。
「橋瑁元偉」(150年?-191年)は「北海郡高密県」出身で、若い頃の『曹操』を高く評価していたといいます。
189年、『董卓』が実権を握ると、「橋瑁」は「三公」の公文書を偽造し、“反董卓”の挙兵を呼びかける檄文を作りました。
「鄭玄」以外にも現「山東省高密市」出身の人がいたんですね。
でも、俺が行った「山東省高密市」には「橋瑁」に関する史跡などは無さそうでした…って、ただ出身地ってだけだから
(「高密市」は2007年9月23日に訪問していますのでブログ参照してね)
やっぱ“反董卓連合軍”結成の主役を“三国演義”では、『曹操』に取られてしまったので、マイナーな人物に落ちてしまったのでしょうか…。

190年1月“三国演義”では『曹操』による檄に呼応した主な諸侯です。
「橋瑁」…“兗州”「東郡」の“太守”
『袁紹』…“冀州”「渤海」の“太守”
『袁術』…“荊州”「南陽」の“太守”(袁紹の従弟)
『孫堅』…“荊州”「長沙」の“太守”(孫策・孫権・孫尚香の父)
「公孫瓚」…“幽州”「北平」の“太守”
「孔融」…“青州”「北海」の“太守”
「陶謙」…“徐州”の“刺史”
「劉岱」…“兗州”の“刺史”
「劉虞」…“幽州”の“刺史”
「孔伷」…“豫州”の“刺史”
「馬騰」…“涼州”「西涼」の“太守”(馬超の父)
「韓馥」…“冀州”の“刺史”
他にも多数いますが、省いて紹介しました。

これが各州の地図です。
そのとき、『劉備』『関羽』『張飛』らも駆けつけ、「公孫瓚」軍に加わっています。

 VS 
 『董卓』  『呂布』       『袁紹』    『曹操』 ら “反董卓連合軍”
“反董卓連合軍”は『董卓』のいる都「洛陽」を目指して進軍しました。
その数は20万にのぼり、“連合軍”の総大将に『袁紹』を、軍師に『曹操』を決め、「洛陽」の手前70Kmの「水関」あたりまで迫りました。

この地図上では「洛陽」と「官渡」の間あたりが「水関」です。
さて、この後『董卓』軍Vs“反董卓連合軍”の戦いはどうなったのか!?
暴君『董卓』を倒し、「洛陽」に平和は訪れるのか?

それは「第三巻」にて 

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我的三国演義~第一巻『桃園の誓い』

2008年03月12日 | 我的三国演義
我的三国演義~第一巻『桃園の誓い』
この巻の主な出来事です。

167年(建寧元年) 「霊帝」即位。
184年(中平元年) “黄巾の乱”が勃発。

「霊帝」(156年-189年 在位167年-189年)は中国「後漢」の第12代皇帝です。
では、なぜ「後漢」と言うのか?
それは“漢”という王朝が「前漢(紀元前202年-紀元後208年)」と「後漢(紀元後25年-220年)」に別れているからなのです。
ちなみに「前漢」と「後漢」の間には「新(8-23年)」という王朝が建国されています。
「前漢」は高祖『劉邦』によって建てられた中国の統一王朝で、「漢」王朝と総称される一連の王権のうち、成立から「外戚」の「王莽」による簒奪(新王朝建国)までを指します。
そして「光武帝(劉秀)」による再興から「魏」朝に滅ぼされるまでを「後漢」と呼びます。
しかし、この「光武帝」政権も各地の大豪族の協力によって争覇戦に勝利したために、政権樹立後もそれらの大豪族が大きな勢力を持つに至っています。

さて、その「後漢」王朝なのですが、徐々に衰退していきます。
その原因はどの皇帝も短命だったことと、幼少の皇帝が次々と即位したことが挙げられます。
この167年に即位した「霊帝」も12歳で皇帝に即位しているのです。
このような場合、皇帝が成人するまでの間、皇帝の母(皇太后)が摂政となりますが、政治の実権はしばしば皇太后の身内(外戚)に握られました。
「外戚」らは私腹を肥やし、機会があれば帝位を脅かそうとうかがっていたため、このような「外戚」に対し皇帝も「宦官」の力を借りて排除しようとしたため、「外戚」と「宦官」との間で陰湿な権力闘争が繰り返されたのです。

「宦官」とは、去勢が施された官吏のこと。
中央の政治は皇帝の「外戚」と宮中の「宦官」に牛耳られ、政治は省みられず、各地で盗賊が跋扈しましたが、もはや朝廷には制圧する力がありませんでした。
「霊帝」は政治はもっぱら「宦官」に任せ、官爵を売り出し、金儲けに情熱を傾けていました。
私財を蓄え、全国から珍奇の品を集めることに熱中していました。
官吏も民衆から搾り取れるだけ搾り取るありさま…。
おまけに連年の災害によって、農村は大きな飢饉に見舞われて社会不安は増大しました。
このような時、農民の心を掴んだのが“太平道”と称する民間宗教でした。
指導者の名は『張角』といい、「大賢良師」と自称し、多くの弟子を集め、各地に高弟を派遣して教えを広めました。
そして、甲子の年(184年)に決起し、各地の役所を一斉に襲撃して世直しを図る…という計画が洩れ、“冀州”にいた『張角』らに逮捕が命じられました。
『張角』は即刻、各地に蜂起を命じ、184年“黄巾の乱”が勃発します。
蜂起軍は黄色の布を頭に巻いて目印としたため、彼らは“黄巾軍”“黄巾賊”と呼ばれるようになったのです。
この“黄巾の乱”をきっかけに「後漢」王朝は急速に衰退していき、やがて「軍閥」同士が相争い、中国は分裂の時代へと突入します…。


“黄巾軍”は各地の役所を焼き払い、町や村で略奪を行いました。
また、これに呼応する農民が続々と“黄巾軍”に参集して、反乱は燎の火のごとく広まり、天下は大いに乱れたのでした。
“幽州”では“太守”「劉焉」が兵力増強のため、住民から“義勇軍”を募ることにし、「涿郡」の街角にも高札が立てられました。
その高札を見て立ちつくす1人の若者がいました。
彼こそ『劉備玄徳』でした。
そして、『関羽雲長』『張飛益徳』と出会います。

三国史跡紹介・其之一~劉備故里(未到達)
『劉備玄徳』の故里として石碑が建っているのは、現在の「河北省涿州市大樹楼桑村」です。
『劉備』の家の前には、5丈(約11.5m)あまりにもなる大きな桑の木があり、遠くから眺めると、あたかも車の蓋(かさ)のように見えたと言います。
ある人がこの木を見て「この家からはきっと貴人が出るだろう」と予言しました。
『劉備』は幼いとき、よくこの木の下で遊び、「いつかきっとこんな車蓋の付いた車に乗るんだ」と語っていたと言います。
それは天子の車を指しており、それを聞いた大人たちは、その言葉の大胆さに驚いたと言います…。
でも残念ながら、史跡紹介~其之一なのに未到達です…。
2008年1月31日に「河北省涿州市」をハントしていますが、「大樹楼桑村」までは行かなかったんです…
詳しくは、『張飛』故里と合わせてブログを参照してくださいね。
「大樹楼桑村」には、桑の木も…記念館とか廟すら無く、“漢昭烈皇帝劉備故里”と彫られた石碑が1つあるのみのようです。
でも、今年中か来年には必ず行って、ここに写真を載せることを誓います!

三国史跡紹介・其之二~関羽故里(詳しくは2007年10月5日のブログを参照してね)
『関羽雲長』の故里は「山西省運城市常平郷常平村」です。

「常平村」にある「関帝祖祠」とも呼ばれている「常平関帝家廟」です。
「解州関帝廟」から輪タクで30分くらい掛かりました。
入場料は20元ですが、中は撮影禁止の塑像が多かったです。(盗撮してるけど)

これは「運城市解州鎮」にある「解州関帝廟」です。
(写真は出口側ですが、バスを下りると目に入るのが、この門なのです)
ここへは運城火車站前から11路バスに乗り、終点で下車します。
所要時間は約45分くらいです。入場料は43元でした。
“三大関帝廟”の中のひとつが、この『関羽』の故郷に建てられた「解州関帝廟」です。
出身地は中国最大の塩湖である「解池」の近くにあり、その出身地から塩の密売に関っていたといわれています。
また、暴利をむさぼる塩商人を殺したともいわれています。
官吏に追われて“幽州”に逃げ、その後『劉備』『張飛』と出会い、終生『劉備』に忠誠を尽くしました。
地元・山西省の研究では、『関羽』は『劉備』より年上ながら、『劉備』を兄として仕えたといいます。
到達難易度ですが、「解州関帝廟」は「D」ですが、「常平関帝家廟」までは「C」かな。
「常平関帝家廟」からの帰りには苦労しましたが、「到達」ということで「C」にしておきました。

三国史跡紹介・其之三~張飛故里(詳しくは2008年1月31日のブログを参照してね)
『張飛益徳』の故里は、『劉備』故里と近い「河北省涿州市忠義店村」です。

『張飛』故里には「張飛廟」があります。   
「張飛廟」へは、涿州火車站前から16路バスに乗り、「忠義店」で下車します。
俺は車掌に「張飛廟へ行きたいんや」と言っておきました。
所要時間は約20分でした。入場料は20元です。
到達難易度は「D」です。

三国史跡紹介・其之四~三義宮&三義広場(詳しくは2008年1月31日のブログを参照してね)

涿州火車站前から7路バスで楼桑廟村路口で下車すると、この「三義広場」があります。
(恐らく所要時間は30分くらいだと思います)
俺は「張飛廟」から30分ほど国道107号線を歩いて「三義広場」に到達しています…
タクシーをチャーターするか、レンタルチャリでも使わない限り、「涿州火車站」→16路バス→「張飛廟」→徒歩30分→「三義広場」→徒歩15分→「三義宮」→(タクシー?)→「大樹楼桑村(劉備故里)」へ…というルートがいいのかも。
俺は前にも触れていますが、「三義宮」を出た後、国道107号線でタクシーが拾えず、「大樹楼桑村」へ行くのを断念しましたけど…

「三義広場」から歩いて10~15分ほどで「三義宮」に着きます。
場所は「河北省涿州市楼桑廟村」です。
入場料は30元でした。
到達難易度は「D」です。
道さえ間違えなければ「三義広場」から「三義宮」には着きます。
    …以上。

『劉備』『関羽』『張飛』の出会いは、2008年1月31日の「張飛故里」編で触れていますが、その後意気投合した3人は『張飛』宅で酒を酌み交わします。
そこで『劉備』は自分の素性を話し、「漢」王朝の衰退、世の乱れを嘆きます。
『劉備』は自ら「前漢」の第六代皇帝「景帝」の第八子の中山靖王「劉勝」(生年不詳 - 紀元前113年没)の末裔だと打ち明けました。
「劉勝」は「劉貞」を初め、孫も含めて120人以上の子を残しており、『劉備』の直接の祖とされる「劉貞」は、紀元前117年に「涿郡涿県」の列侯として爵位を賜りました。
しかし、紀元前112年の年始(正月)頃に、皇族のみに課された「漢」朝への上納金を納めなかったために、叔父の「武帝」の逆鱗に触れてしまい、侯の地位を取り上げられ、そのまま「涿」に住居していたといいます。
そのため、系図もそこで止まっており、『劉備』との系図の繋がりを確認することは出来ないそうです。
その一方で、当時の「後漢」では「前漢」以来の歴代皇帝の末裔に対して幅広い税の減免が認められていたため、一般の住民が勝手に「漢」の皇帝の末裔の証しとも言える「劉」姓を名乗る事は重大な違法行為であり、もちろんそのような事を行なうことは困難であったとされています。
ですから『劉備』の主張を単純に嘘と決め付ける事は出来ないでしょう。
また、中山靖王「劉勝」は淫色に耽った王として有名であり、子は50人以上もいたため、約三百年後の当時には中山王の末裔は中山国を初め、「涿郡」や「常山郡」などに拡がっていたと思われます。
仮に『劉備』が中山王の末裔だとしても、あまり価値は無く、『劉備』同様に没落して庶民同様に零落した家は珍しくなかったと思われます。
逆に言えば、『劉備』が中山靖王の末裔だった可能性も充分にあると言えるでしょう。
ですから『三国演義』で「献帝」(後漢14代皇帝)の前で、「劉貞」から「劉雄(劉備の祖父)」までの間の13代を読み上げられるシーンが書かれていますが、これはもちろん創作です。

その頃の『劉備』は、幼くして父に先立たれたため、家計は苦しく、母親と“むしろ”を織って生計を立てていました。
皇族の末裔として「漢」王朝復興のために尽くしたいのに、今の自分には何の力も無い…。
そう嘆き、涙を流す『劉備』に、2人の豪傑『関羽』と『張飛』も心を打たれます。
そして『劉備』の家の裏にある桃園に祭壇を築き、「生まれた日も姓も異にするとはいえ、心はひとつ。願わくば同年同月同日に死なんことを!」と義兄弟の誓いをしました。

(写真は「赤壁古戦場」の「桃園三義結」像です)
これが“三国演義”でよく知られている「桃園の誓い」です。
『劉備』が長兄、『関羽』が次兄、『張飛』が末弟として、共に「漢」王朝復興と世の乱れを正すために立ち上がるのでした。
『劉備玄徳』24歳のときでした。

挙兵した『劉備』が“義勇軍”として“黄巾賊”討伐に加わるときには、通りすがりの商人「張世平」と「蘇双」が挙兵の費用を援助しています。
『劉備』には何か人を惹きつける魅力があったのかも知れません。
この資金をもとに武器を整え、故郷の若者数百名を引き連れ、“義勇軍”として「劉焉」の軍に加わることが出来たのです。
『劉備』ら“義勇軍”の活躍は前回の「まえがき」でも触れています。
「涿郡」、そして“青州”の“黄巾軍”を鎮圧し、休む間もなく、かつての師であった「盧植」が“冀州”の「広宗」で苦戦していると聞き、「盧植」の加勢に向かいました。
この「広宗」で『劉備』軍は、『董卓』をたまたま通りがかりに救出しています…。
この『董卓』、後に「漢」皇室に災いをもたらす事になるんですがね…

三国史跡紹介・其之五~盧植墓(未到達)
『劉備』の師「盧植」も「涿郡涿県」出身。
「盧植墓」は「河北省涿州市盧家場村」にあります。
涿州火車站前より4路バス(影視城行き)に乗り、「盧植故里」にて下車。
盧氏宗祠内で入場無料のようです。
ここも、2008年1月31日には時間の都合で行きませんでした。
今度は「劉備故里」「影視城」と合わせてハントするつもりです。
  …以上。

『劉備』は15歳のとき、同郷の大学者「盧植」のもとで学んでいます。
後に“幽州刺史”の「劉虞」を滅ぼし、群雄として割拠する「公孫瓚」もそこで一緒に学んでいました。
「盧植」と久々に再会しますが、“司隷”洛陽に近い「潁川」で“官軍”が苦戦していたため、「盧植」は『劉備』に“官軍”1000人をつけて援軍に向かわせました。
しかし、一足早く到着した『曹操』軍が敵将を敗走させた後でした。
このときの『曹操』は30歳で、朝廷の“近衛騎兵隊司令”として“黄巾賊”討伐に赴いていました。
『劉備玄徳』と『曹操孟徳』…2人の最初の出会いでした。

『劉備』軍は「盧植」の陣に戻る途中で、「盧植」の送檻の列に出くわしました。
宦官の「左豊」が要求した賄賂を断ったため、「盧植は戦おうとしない」と讒言され、罪に落とされて官職剥奪の上で処罰されてしまったのです。
“三国演義”では『張飛』が力ずくで自分(盧植)を救おうとするのを叱咤して止める、などの見せ場があります。
「盧植」は、後に「皇甫嵩」の取り成しによって許されて、再び尚書となりました。
その後『袁紹』に招かれて軍師となり、192年(初平三年)に病死しました。
『曹操』は「盧植」の死を聞いてひどく悲しみ、子の「盧毓」らを官職につけています。

“官軍”や『劉備』軍の活躍により各地の“黄巾賊”も鎮圧されていきましたが、何よりも首謀者の『張角』がその年(184年)に病死してしまい、『張角』の弟の「張宝」も「皇甫嵩」率いる“官軍”に大敗し、「曲陽」で討ち取られました。
“三国演義”では『劉備』軍の策によって同士討ちを始めてしまい殺害されました。
「横山光輝」の“三国志”では『劉備』に首を弓矢で射られて殺されています。
…まぁ、どっちみち殺されちゃうんだけどさ。
『張角』は反乱を起こしたときにはすでに病に倒れていたため、実質的には「張宝」が指揮を執っていたといわれています。
“三国演義”では「張宝」は妖術を使うことを得意とし、その妖術をもって「後漢」王朝が送り出した“官軍”を何度も撃破していますが、“正史”においては、「張宝」は「左慈」のような方術士だったのではないかとも、あるいは本物の妖術士だったのではないかとも言われており、真相は謎に包まれています。
もう1人の弟の「張梁」も「広宗」で「皇甫嵩」によって討ち取られています。

“黄巾の乱”が平定され、朝廷は功があった諸侯に新しい役職を任命しましたが、無名の『劉備』は「中山郡安喜県」の“尉”(治安担当官)に任ぜられました。
あるとき視察のために1人の“督郵”(役人を監察する役人)がやって来ました。
暗に賄賂を要求する“督郵”に『張飛』が怒り、馬つなぎの杭に縛り上げ、“督郵”を激しく鞭打ったのです。
それを見た『劉備』は『張飛』を叱るどころか、息も絶え絶えな“督郵”の首に印綬(官位を示す印)をかけて官職を捨て、『関羽』『張飛』を連れて逃走します。
“三国演義”では「安喜県」から逃れようとする『劉備』たちに領民たちが思い留まるよう懇願するのが描かれています。


(写真は涿州市楼桑廟村「三義宮」にある「張飛鞭督郵」像です)

事の発端は、なかなか賄賂(あからさまに要求してないが)を持って来ない『劉備』に対し、“督郵”が村人を脅して嘘の書状(劉備は税金を搾り取るとか、百姓をいじめるとか…)を書かせ『劉備』を陥れようとしたのです。
これに怒った『張飛』が“督郵”を鞭打ったというものです。
でも“正史”では、元々『劉備』を追放するためにやって来た“督郵”が、会見を申し入れても会ってくれず、『劉備』はそれに腹を立てたそうです。
どうやら“督郵”を鞭打ったのは『劉備』本人のようで…。
本当は殺すつもりだったらしいんだけど、泣いて命乞いするんで、そのまま立ち去った…と。

さて、「中山郡安喜県」の“尉”の官職を捨てた『劉備』の消息ですが、あまり細かく書かれていません。
旧知の「公孫瓚」の元へ身を寄せた(いつから?)らしいのですが、その後『劉備』の名が登場するのは、190年の“反董卓連合軍”結成のとき。
それまでの空白の5年間はどうしてたんでしょうか…?
一方『曹操』は、“黄巾の乱”鎮圧の功績によって「済南」の“相”に任命されました。
「済南」では汚職官吏の罷免、淫祀邪教を禁止することによって平穏な統治を実現し、後に「東郡」“太守”に任命されますが、赴任を拒否し、病気を理由に故郷に帰ってしまいます。
その後、188年“黄巾の乱”平定に功のあった者が選ばれた“西園八校尉”に任命されました。
「霊帝」に寵愛された「宦官」の「蹇碩(“三国演義”では十常侍の一人とされる)」を最上官とし、乱の平定などで手柄を立てた若手7人を、その下に置いたのです。
『曹操』は“議郎・典軍校尉”、『袁紹』は“虎賁中郎将・中軍校尉”として、「洛陽」に赴くことになったのでした。

それでは、「第二巻」もお楽しみに。

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我的三国演義~まえがき『三国演義と青州』

2008年03月04日 | 我的三国演義
我的三国演義~まえがき『三国演義と青州』
さて、2007年7月21日から始まった“三国史跡ハント”ですが、2008年2月12日をもちまして一段落しました。
そこで、“我的三国演義”と題しまして、“三国演義”の世界に沿って、俺が今まで旅してきた(ハントしてきた)史跡を紹介したいと思います。

まず“三国志”は、中国の「後漢」末期から「三国」時代にかけて群雄割拠していた時代(180年頃 - 280年頃)の興亡史の通称です。
この時代の歴史物語が“三国志”と呼ばれるのは、ほぼ同時代の歴史家「陳寿」(233年 - 297年)がこの時代の出来事について記録した歴史書の書名が、“三国志”であることにちなんでいます。
“三国志”は名の通り、「魏」・「呉」・「蜀」の三国の興亡を筋とし、三国の名を冠する作品は歴史書であれ物語であれ、そこに違いはありません。
しかし、内容を大別すると、「陳寿」の歴史書は撰者の「陳寿」が「魏」から皇位を禅譲されて成立した「晋」に仕える人物であったことから、「魏」が「後漢」を継承した正統王朝であり、正統な皇帝が支配する王朝は「魏」のみであったとする立場なのに対し、“三国演義”をはじめとする物語の多くは、朱子学的な血統による正統の継承を重んじる意識から、「漢」の皇室劉氏の血を引く者が皇帝として支配した「蜀」こそが「後漢」の正統な後継者であるとしています。
このような違いから、これらは同じ事実に対してもまったく反対の解釈をとっていることがあります。
一般に“三国志”として理解されている“三国演義”の逸話の多くは、講談や小説の作者の創作を盛り込んだ物語を含み、これを歴史事実として受け取ることはできません。
また物語の登場人物が使用する武器についても歴史的に見て誤りであるものが見られるのです。
中国が3つの勢力に分かれて抗争した「三国」時代は、中国では古くから講談や演劇の雑劇の題材として好まれ、その取材元として利用されたのが“後漢書”と「陳寿」の“三国志”でした。

「陳寿」自身の撰述した本文は民間伝承のように信憑性の乏しい情報の利用を抑制し、非常に簡潔な内容であることから歴史書としての評価が高く、また、「南朝宋」の「裴松之」が施した注が、「陳寿」の触れなかった異説などを“三国志”が高い評価を受けたために省みられず散逸してしまった多くの当時の歴史書からの豊富な引用によって紹介しており、講談作者は“三国志”の本文・注や、“江表伝”などのその他の歴史書から自由に素材を取捨選択して利用することができ、彼らの脚色によって様々なエピソードが作られていきました。

「北宋」の頃には、三国物の講談、説話等は、中国を舞台にした戦記のなかでも圧倒的な人気の高さを誇り、繰り返し上演されました。
「南宋」から「元」の頃にはこれらの物語は書物にまとめられ、“三国志平話”と呼ばれる口語体による三国物小説が生まれました。

その後、「明」代に「施耐庵」あるいは「羅貫中」が三国物語をまとめ直し、“花関索伝”や“三国志”などの歴史書から小説の筋に適合する情報を取捨選択して加えたものが“三国演義(三国志通俗演義)”です。
ややもすれば聴衆への受けやすさを狙って荒唐無稽に語られた三国物語を、文学として優れた作品の域まで引き上げた“三国演義”は、「明清」代の中国で広く好まれ“四大奇書”のひとつに数えられました。

“三国演義”が人気を博す背景には儒教的倫理観に裏打ちされ、『劉備』という人物の人柄と、民衆の熱狂的共感を受けやすい粗野な豪傑『張飛』に加えて、『諸葛亮』『関羽』といった半ば神格化されたヒーローたちを主人公に据え、小説の読者である知識人たちが好むように物語を改変したことがあげられます。
また、『曹操』のような魅力的な敵役の存在は大きかったと思われます。

ちなみに“四大奇書”とは“三国演義”“水滸伝”“西遊記”“金瓶梅”以上四作品です。
ですが、本場中国では「清」王朝中期になってから“金瓶梅”の代わりに“紅楼夢”を加えたものを“四大名著”と呼ぶようになり、“四大奇書”よりこちらの方が一般的になりました。

さて、俺の“我的三国演義”ですが、基本的には歴史物語としての“三国演義”を元に構成していきます。
ただ、俺は小説を読むのが苦手でして…この“三国演義”も「横山光輝」の漫画作品“三国志”で読んだくらいです。
なので、展開の中心は「横山光輝」の“三国志”からで、それ以外に百科事典やら解説本などで調べた内容を盛り込んでいくつもりです。
中国中央電視台製作の“三国演義”(1994年放送の連続ドラマ)のDVDも持っているんですが、日本語字幕が無いので細かい部分まで理解出来てないんですよね…


ちなみに、これが三国時代の地図です。
今まで俺の旅行記を見ていて、全く地名と場所が一致しない方が多かったと思いますので…
そして今俺が住んでいる“青州市”という町はどこなのか?
上の地図で言えば…右上の方に青字で“黄河”と書かれていますが、その「河」の字の右側辺りが“青州市”ですかね。(大体ですけど)
俺はこの約7ヶ月の間に、この地図上の主な“三国史跡”をハントして来たワケなんですよ。


これが「後漢」末期の頃の中国地図です。
現在の中国は“直轄市”“省”“自治区”“特別行政区”などの行政区画がありますが、「後漢」末期はこの地図上の字に“州”を付けたモノが大きく分類される地方で、“州”には“刺史”(または牧)、その中の“郡”には“太守”、更にその中の“県”には“県令”が置かれていて、これらの行政官はいずれも中央の“司隷”から派遣されて統治にあたっていました。
なので、今俺が住んでいる“山東省青州市”は、「後漢」時代は“青州”という大きな一地方に属していたワケですね。
その頃の“青州”の“刺史”の居城は、今俺が住んでいる“青州市”では無く、隣りの“淄博市臨淄区”にあたります。
ま、この“淄博市臨淄区”というのは、紀元前1046年 - 紀元前386年に渡り“斉”国の首都があった地です。
この“斉”は「周」建国の功臣『太公望』によって建てられた国であります。
ちなみに『呂尚』(太公望)は、紀元前11世紀ごろに活躍した「周」の軍師、後に“斉”の始祖太公。
姓は姜、氏は呂、名は尚または望、字は子牙または牙。謚は太公。
「斉太公」、「姜太公」とも呼ばれますが、一般的には『太公望』という呼び名で知られています。
『太公望』という別名は、「渭水」で釣りをしていたところを「文王」が「これぞわが太公(祖父)が待ち望んでいた人物である」と言われ召し抱えられたという話に由来する、と言われています。
中国で「太公望の魚釣り」(太公釣魚)と言えば、「下手の横好き」と言うニュアンスらしいです。
この故事にちなみ、現在でも釣り好きを『太公望』と呼んでいます。
また、「明」代の娯楽小説“封神演義”においては「姜子牙」と称し、殷周革命を指揮する「周」の軍師かつ崑崙山の闡教の道士として主役格で登場しています。
なので、“淄博市臨淄区”は「後漢」以前からも城下町として発展していたのでしょう。
今の“淄博市臨淄区”はと言うと…この“斉”国の遺跡が残る町ですが、特に発展している町のイメージはありません…

これは、2007年9月16日に行った“臨淄東周墓殉馬坑”です。

まだ“斉”国に関する遺跡はこの“臨淄東周墓殉馬坑”しか見ていないので、いずれ暖かくなったら、今度は同僚の中国人男性教師「M先生」を連れ出して“臨淄”に行くつもりです。

それでは“三国演義”のなかで“青州”はどう取り扱われているのか?なのですが…ほとんど「蚊帳の外」的な感じですね…
『劉備』は24歳のときに挙兵し、184年“黄巾賊”の討伐に立ち上がりました。
“黄巾賊”とは新興宗教“太平道”の信者で、中国各地で反乱を起こしており、“青州”も“黄巾族”と“官軍”の戦いの地になっています。
『劉備』『関羽』『張飛』らは、「涿郡涿県」にて「程遠志」率いる黄巾軍に大勝利し、翌日には“青州”からの援軍要請に応え、「鄒靖」と共にこれを鎮圧しています。
これが1度目の登場です。

192年『董卓』が『呂布』に暗殺され、内政が乱れると、蜂起した“青州”の“黄巾賊”100万が“兗州”に侵入しました。
“兗州”を統治していた「劉岱」と「鮑信」は100万もの“黄巾賊”の大軍と対峙することとなりました。
「鮑信」は持久戦を主張するものの、「劉岱」は討伐を主張し、あえなく討死します。
そこで「鮑信」は『曹操』に“兗州牧”の地位を見返りに応援を要請します。
初めは苦戦した『曹操』ですが、昼夜を問わず攻め続けると同時に和睦交渉も進めていました。
『曹操』の提案は、信仰を認める代わりに“黄巾賊”の一部の精鋭は自分の配下に帰属すること、そして『曹操』軍の指令に従うことでした。
こうして『曹操』は“青州黄巾賊”の精鋭30万人を配下にし、一気に兵力で他を圧倒しました。
後に“青州黄巾賊”の精鋭は各地で目ざましい戦いぶりをし、“青州兵”と恐れられるようになったと言います。
これが2度目の登場です。

“兗州牧”におさまった『曹操』は193年秋に父「曹嵩」をはじめ一族を“兗州”に呼び寄せることにしました。
そのとき“徐州牧”の「陶謙」は一行の護衛に200名(三国演義では500名)ほどの兵をつけたのですが、彼らは一行を皆殺しにし財物を奪って逃走してしまったのです。
報せを受けた『曹操』は怒り狂い、“徐州”に大軍を率いて攻撃に向かいました。
このとき『劉備』は“青州刺史”の「田楷」とともに“斉”(今俺が住んでる辺りかも?)に駐屯していましたが、「陶謙」からの報せを受け、救援に向かっています。
その後『袁紹』と同盟関係にあった『曹操』により、『袁紹』の子「袁譚」が“青州刺史”に任命され、「田楷」は「袁譚」によって追い出されてしまいました。
これが3度目の登場です。

194年『劉備』は「陶謙」の死後“徐州牧”になりました。
その後196年『劉備』は『呂布』に“徐州”を奪われますが、198年『曹操』に協力し『呂布』を討ちます。
そして『曹操』の計らいで“豫州刺史”を務めましたが、『袁術』討伐を理由に兵を率いて“徐州”に入りました。
ところが『袁術』が病死し、本来なら“許都”に兵を返さなければならないのですが、“徐州刺史”の「車胄」を襲い、“徐州”を奪ったのです。
この一件と『曹操』暗殺計画に名を連ねていたことが発覚し、200年『曹操』軍により攻撃されます。
『劉備』は“徐州”を捨て、「袁譚」を頼り“青州”に落ち延びました。
そして「袁譚」(三国演義では“徐州”の「鄭玄」)の取り成しで『袁紹』に迎えられ、“冀州”の「鄴」に落ち着きました。
これが4度目の登場です。

その後、200年の“官渡の戦い”で『袁紹』が『曹操』に敗れ、202年『袁紹』が病没します。
205年に『曹操』は「袁譚」を殺し、「袁尚」を北方の異民族の地へ追いやり(ともに袁紹の子)、“青州”“兗州”“冀州”“并州”の四州を支配しました。
207年には烏丸を征伐して華北を平定しました。
『劉備』は201年に『袁紹』の下を去り、“荊州牧”の「劉表」を頼っていました。
そこで『劉備』は「新野」の城を与えられ、約7年を過ごすこととなります。
ですが208年「劉表」が病死し、後を継いだ息子の「劉」は、華北を平定して“荊州”に攻め込んで来た『曹操』軍に対し、“襄陽”を無血開城してあっさり降伏してしまいました。
“三国演義”では、「劉」は『曹操』より“青州刺史”に任ぜられ、母「蔡氏」らとともに“青州”へ向かう途中暗殺されました…。
これが5度目の登場です。

これらは“我的三国演義”の本編で詳しく語っていくつもりです。
他には「横山光輝」の“三国志”には出てこないんですが、「孔融」(153年-208年)も“青州”に関係しています。
「孔融」は「孔子」20世の孫に当たります。
出身地も遠祖の「孔子」と同じく“青州”魯国の「曲阜県」です。

これは「曲阜」“孔廟”の“大成殿”です。(2007年1月2日訪問)

「孔融」は若年期より英明の誉れ高く、そのまま「後漢」の朝廷に仕えました。
一時逼塞しますが、「後漢」の最混乱期に「北海国」の“相”となり、さらに“青州刺史”として“黄巾賊”で荒れる山東地域を支えました。
また、そうした中でも「鄭玄」を招聘して学校を開くなど、儒学の教布に努めました。
また「鄭玄」の紹介で『劉備』と親交し、後に「陶謙」の遺託で、“徐州刺史”に強く推挙したといいます。
また、「孫乾」を『劉備』の参謀とすべく計らったともいいます。
その後、一時的に“青州”は安定しますが、今度は近隣で『袁紹』が急速に勢力を拡大し、「孔融」も『袁紹』の長子「袁譚」に攻められ、「許昌」に逃亡しました。
その後は中央の朝廷に仕え、「孔子」の子孫という立場と威厳ある風貌、さらには類まれなる文才で文人サロンの中心的存在となりました。
後に「建安の七子」の一人に挙げられています。
「孔融」は、時の権力者の『曹操』と、事ある毎に対立していました。
「孔融」は『曹操』の施政の中で納得いかない事があると、前例に喩えて厳しく詰りました。
しかし、当てつけがましく、屁理屈が多いため、『曹操』は「孔融」を嫌悪していました。
南方への遠征を目前の208年に、激怒した『曹操』はついに「孔融」と孔氏一家を逮捕し、一家揃って処刑しました。
『曹操』が聖人「孔子」の子孫を殺害したことは、後々まで『曹操』が非難される理由の一つとなりました。

これは同じく「曲阜」“孔府”の入口です。
「孔子」の子孫が暮らしていた邸宅です。
ここに「孔融」も住んでいたことがあるのか知りませんが…。

これは“孔林”の入口です。
「孔子」をはじめとする孔家歴代の墓所です。
でも、この“孔林”に「孔融墓」は無く、“淄博市臨淄区”にあります。
そこは一度ハントに失敗(それ以前の問題かな…)しており、リベンジを目論んでいるところです。

ちなみに“濰坊市”の「孔融廟」も、ずっと工事中でハントに失敗しています。(2007年9月10日訪問)
この「曲阜」の“孔廟”“孔府”“孔林”を合わせて“三孔”と言い、『世界文化遺産』に認定されています。
「曲阜」から近い「泰山」は『世界文化・自然(複合)遺産』に認定されていて、どちらも訪問(2006年12月30日~2007年1月2日)していますので、ブログを参照してみてください。

「孔融」が“青州刺史”として“黄巾賊”を討伐していた頃、「太史慈」(166年-206年)との話もあります。
「太史慈」は初め「東莱郡」の官吏を務めていましたが、ある上奏文を取り上げたために上司から疎まれ、「遼東郡」に逃走しました。
その留守の間、彼の母の面倒を「孔融」がみたといいます。
その恩に報いるため、「孔融」が黄巾軍の残党である「管亥」に攻められていたとき、「太史慈」は救援に駆けつけました。
しかし、「管亥」の攻撃は激しかったため、「太史慈」は単騎で敵の包囲網を突破し、当時は「平原」の“相”を務めていた『劉備』への救援要請の使者として赴いているのです。

まぁ他にも登場していると思いますが、“三国演義”と“青州”のつながりなんて、このくらいです。
だから、ここ“青州市”や“淄博市臨淄区”に“三国史跡”は残っていません。

このように「後漢」末期から「三国」時代にかけて、群雄割拠していた時代って日本の戦国時代とよく似ていますよね。
だから、シミュレーション・ゲームとして「信長の野望」や「三国志」は古くからのシリーズが今も根強い人気を持って続いているんです。
そして、2008年秋には映画「赤壁-RED CLIFF-」が日本でも公開されます。
どうやら二部構成(二部は2009年春ごろ日本公開かな?)になるようですが、「呉宇森(ジョン・ウー)」監督作品だし、“三国演義”の中の“赤壁の戦い”が映画化されるんですからね。
これは期待せずにはいられません。
キャストだって、「梁朝偉(トニー・レオン)」や「金城武」、俺が最も好きな中国人女優の「趙薇(ヴィッキー・チャオ)」が出演するんですからね。
恐らく、中国公開の方が早いので「日本語字幕が無くても見に行っちゃおう!」って思ってるんだけど…“青州市”に「赤壁」を公開する映画館があるだろうか…
…って言うか…“青州市”に映画館あったっけ? 

それでは、“我的三国演義”は不定期の更新なので次の「第一巻」はいつ更新するか未定です。
でも、それを読んでもらえれば、少しずつでも“三国演義”の世界と俺がハントしてきた“三国史跡”が分かってもらえると思います。

                      “三国史跡ハンター 臥龍”


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