史跡ハンター 臥龍

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初の「沖縄」観光です!

2020年01月31日 | 幕末~明治史跡めぐり
1月31日(金)
さぁいよいよ明日からプロ野球はキャンプインです
今年初めてプロ野球(横浜DeNAベイスターズ)のキャンプを観に…これまた初めて「沖縄」に行きます
野球に関することは明日から…ということで、昨日(30日)は夜、「蒲田」まで出ておきました。

JR蒲田駅近くのネットカフェに泊まりました。

確か以前にも泊まったことあったと思うけど…こんな高級感あったっけ?
よく知らずに鍵付き個室にチェックインしちゃったから、通常より400円くらい高かったわ。
それでも前日から出て来たのは、羽田6:30フライトだったからでさ…家から京急の始発に乗っても空港に着くのが6:00くらいで、羽田から国内線乗るのは初めて(国際線だって1回しか乗ってない)だから何か手間取ったらアウトなんでね。

5:40に羽田空港に着きました…俺、国内線の飛行機乗るの初めてだよ、国際線なら何度も成田空港から乗ってるんだけどさ…

今回乗るのは「スカイマーク」なんだけど…一番端っこに窓口があったわ。
発券したらもう席がほとんど埋まっていて、通路か真ん中しか残ってなかったんで…それならできるだけ前の席を取ったよ。

そしてフライト20分前くらいに搭乗口に着きました~
「那覇」に着くのは9:30くらいなんで約3時間ね…俺は長距離バス移動が多いから、3時間なんて何とも思わないよ。
実際、今回もほとんど寝てて…アッという間に「沖縄」に着いちゃいました。
軽装で来ているから荷物も預けていないし、入国手続きとかも無いんでラクよね。

初の「沖縄」でーす…出発前に「沖縄」に住む知人にメール送ってたんだけど、返事無くてさ。
(帰った後、連絡が取れたけど…その子は中国で一緒に働いてたんだよ)

明日からプロ野球もキャンプインです…「沖縄」でキャンプを行うのは「横浜DeNAベイスターズ」の他に巨人(後半から)、ヤクルト、中日、広島(後半から)、阪神、日本ハムで、沖縄の離島では楽天やロッテも行います。
プロ野球は全球団キャンプインは明日(2月1日)からと決まっているんだけど、せっかく「沖縄」に行くんで少しは観光もしたいと思ってさ…それで前日入りです。
しかも今年は2月1日が土曜で…今日は金曜でしょ、今日と月曜に有休取って、今日は沖縄観光できるというラッキー日程ですわな。

今日の観光はザックリとしか考えてなくて…まずは「ひめゆりの塔」に行って、それから「平和祈念公園」「旧海軍司令部壕」「首里城」に行こうと思っています。

とりあえず「ゆいレール」に乗るために空港向かいの「那覇空港」駅に行きました。
「沖縄」ってもう暖かいかと思ってジャケットくらいしか上に着てなかったんだけど、意外や寒いのね…まぁ今日は天気が曇ってるのもあるけど、風が強いのよ。

切符買ったら、こんなQRコード?が付いてんのね。

次の「赤嶺」駅で下車しました…日本最南端の駅だって後日知ったけどさ。

ココでバスを待ってたんだけど、先に並んでるヤツらが行先違うからスルーしてたバスが俺の乗るバスだったのにさ…誰も乗らないから行っちゃったもんで20分以上待っちゃったよ。

「糸満バスターミナル」で玉泉洞行バスに乗り換え…

「ひめゆりの塔前」で降りました。

入口付近で売られていた花を買ったんで献花しました…塔って感じじゃあないね。

ココは沖縄戦末期に沖縄陸軍病院第三外科が置かれた壕があったトコで…跡には慰霊碑があります。

第三外科壕は深さ14mあり、当時はハシゴで昇り降りしていたそうです。

「ひめゆり平和祈念資料館」にも入ってみました…今度「ひめゆり学徒隊」をテーマにした映画観てみようかな。

この後、そのさらに先の「平和祈念公園」に行こうと思ったんだけど…そっち方面に行くバスが30分近く来ないんで、「旧海軍司令部壕」に行くことにしました。

「糸満郵便局前」でバスを乗り換え…

「豊見城」で降りました…けっこうどこ行くのも乗り継ぎなんだよな~

10分も歩かず「旧海軍司令部壕」に着きました。

ビジターセンター内資料館には、壕内で発見された戦争当時の遺品や戦争関連資料が展示されています。(入館¥450)

壕内に入ってみました。

自決された時の手榴弾の弾痕だって…

司令官室や医療室もありました。

昭和19年(1944年)日本海軍設営隊によって掘られた司令部壕で、当時は450mあったと言われています。
カマボコ型に掘り抜いた横穴をコンクリートと杭木で固め、米軍の艦砲射撃に耐え、持久戦を続けるための地下陣地で4,000人の兵が収容されていました。
こういう地下壕は「象山地下壕」に行ったことあるなぁ…長野県にある「松代大本営跡」で、その延長は約10kmもあるんだよ。
「佐久間象山」に関係あるのか?…なんて思ったけど、そこ「ぞうざん」って読むんだわ。
横須賀にも「貝山地下壕」ってのがあって、一部の一般公開に向けて整備の準備を進めているんだけど…そこは延長約2Kmだよ。
貝山緑地は…昭和5年(1930年)横須賀海軍航空隊海軍飛行予科練習生(通称「予科練」)が設立され、全国から選ばれた若者が優秀なパイロットとして巣立っていきました。
貝山緑地周辺は横須賀海軍航空隊、海軍航空技術廠、追浜飛行場と海軍航空の一大拠点であった場所であり、日本の「海軍航空発祥の地」なんですよ。

…って、地下壕の話はココまでにしといて…コレは慰霊塔です。

何かけっこう天気良くなってきて暑いな。

上の展望台からの景色です。

それから次の目的地へ向けてバス停に行きます…スマホがあるから近くのバス停が検索できて便利になったわぁ。

またバスを乗り継がなきゃならんのよ…面倒だな。

幸い、乗り継ぎに待ち時間がそんな掛からなかったのが救いだったよ。

次は「首里城」に行く予定だったけど、まだ時間もあったんで少し寄り道しました…コレは映画館「サザンプレックス」です。

ココは沖縄県で唯一の「ハイスクール・フリート」上映館でね…映画は観ないけど、グッズが残ってるかな?と思って来てみました。

SDアクリルチャームがまだ残っててさ…最初2個買って1勝1敗でした。
せっかくこんなトコまで来たんで、追加で3個買っちゃった…2勝1敗、トータル3勝2敗かな。

それからまた歩いてバス停へ移動…

途中のコンビニでパンを買い…

バスターミナル?でバスを待ちながら食べてました…コレが今日最初のメシ。

バスは首里城公園入口で降りました。

「首里城」燃えちゃったけど、入れるのかなぁ?

コレは「守礼門」です…2,000円札の絵柄になってます。

コレは「園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)」で、世界遺産に登録されてます。

コレは「歓会門」で、首里城の城郭内へ入る第一の正門です。

コレは「瑞泉門」です。

あらら…城郭の一部なんだろうけど、こんなですよ…で、やっぱり内部には入れなかったわ。

コレは「広福門」で、ココに本来「券売所」があったのかな?

コレは「奉神門」で、首里城正殿のある「御庭(うなー)」へ入る最後の門です。

そしたら急に雨が降ってきちゃってさ…ダブルレインボーが見れちゃったよ。

16:00ごろだったけど、もう今日は「宜野湾」に行く(宿泊)だけだったんで…少し雨宿りして「首里城公園」を出ました。

また来年もキャンプ見学に来るかも知れないけど…数年後、また「首里城」が再建されたら必ず観に来ますよ。

また近くのバス停に行き…

バスを乗り継いで「宜野湾」に行きます…バスも乗り継ぎ停留所が離れてて、場所も分かりづらくて危うく乗りそびれるトコだったわ。

17:45「宜野湾」に着きました…コレがベイスターズの選手も宿泊している「ラグナガーデンホテル」だよ~

「ぎのわん海浜公園」に入りました…ランニングしてる人がいたけど、まぁ選手が走ってるワケないよな。

コレは「宜野湾市立体育館」です。

ココが「ファンサ」エリアなのかな?

「ベイストア」も明日オープンです…ココでしか手に入らないグッズもあるんで楽しみです。

2020の似顔絵です。

「アトムホームスタジアム宜野湾」です…コレがメインスタジアムでオープン戦も行われます。
この掲示板に当日の練習メニューが貼り出されるのかな?

宜野湾のスターマンパネルでーす。

ココがスタンドへの入口かな?

18:40ごろ「南 ’s」という居酒屋?に入ってみました。

今日は金曜で入店60分、生ビールが1杯50円…ってのに引かれてしまった。
寿司も1貫50円…ってことで、最初10貫セット、その後好きなネタのを単品で追加して…60分以内で生ビール5杯飲んだよ。

20:20ごろ近くのネットカフェにチェックインしました…沖縄に来てもネットカフェ。

さぁ明日からキャンプインです…初のキャンプ見学、楽しみだなぁ~


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2018・GW旅「呉の旧海軍史跡めぐり」~広島編④

2018年05月03日 | 幕末~明治史跡めぐり
5月3日(木)
今日の後半は、また「呉」でーす。

13:13「呉」に戻って来ました…そしてスグ「呉港中央桟橋」に向かいました。

13:20すぎ「呉港中央桟橋」に着いて「艦船めぐり」の券を買いに行ったら…もう14:00~のが予約で終わってたよ。
でも「1人だったら入れる」…って、ラッキー あと30分後の回に入れてもらえちゃった…その次だと15:00~になっちゃうからさ。

乗船までの間、近くをブラブラしてました。

左「海上自衛隊呉史料館(愛称:てつのくじら館)」です。

左「大和ミュージアム」です。

「キマリ」と「報瀬」が来た「川原石埠頭」は、ココ「呉港」よりも西の方だね。

昨日「江田島」に行ったときに乗ったフェリーです。

13:50チケット売場前に集合しました。(ちなみにYOKOSUKA軍港めぐりは¥1,400です)

乗ったのは後ろに泊まってる船です…地元でも「横須賀軍港めぐり」があって参加したことがあるけど、果たして「呉」のはどうでしょうか?

戦艦「大和」を建造したドックだね…漫画「アルキメデスの大戦」でも登場しています。

練習艦「かしま(3508)」と練習艦「せとゆき(3518)」です。

建造中なのが分かるね。

コレはさっきの。

コレは何だろう?もうブログ用に縮小しちゃってるから拡大しても字が読めん。

コレは護衛艦「かが」だね…横須賀の「いずも」と姉妹です。

左は読めた…「さざなみ」と「さみだれ」、右の写真のは読めず。

コレは「ちはや」です…潜水艦救難艦なんだけど「蒼き鋼のアルペジオ」の千早群像は、この潜水艦救難艦から取ったんだろうね…パートナーのイオナは「I-401」だし。

俺の祖父も太平洋戦争で潜水艦に乗ってたから、潜水艦には少し思い入れがあるね。

「かが」のオシリ。

今、ドックで建造中なのは…

コレと同タイプのを造ってるのかな?

写真右には「呉鎮守府」の庁舎が見えるね。

この辺の小さい船は何だろう?

「海上自衛隊呉史料館(てつのくじら館)」「大和ミュージアム」「呉中央桟橋ターミナル」が1枚に収まりました。

所要時間35分くらいだったかね…日によって違うのかも知れないけど、観れる艦船の数は「横須賀」の方が多いような気がしたな。

14:35ごろ「呉港中央桟橋」に戻り…そしてスグ「大和ミュージアム」に行き、レンタサイクルを借りました。(返却17時まで)
これから向かうのは「アレイからすこじま」経由「音戸の瀬戸公園」です。

コレは「海上自衛隊 呉地方総監部」です…呉鎮守府庁舎は前回見学しています。

15:05「アレイからすこじま」に着いたけど、遠い「音戸の瀬戸公園」の方を先に攻めないと、もう行けるチャンスが無いかも知れないからスグ出発です。

この橋は「倉橋島」とを結んでいるのかな?

15:45ごろ、やっと「音戸の瀬戸公園」内の「高鳥台」に着いたわ…もうほとんど上り坂で疲れたぞね。(その分、帰りはラクだろうけど)

この景色はそれだけ上がって来たという証だね。

ココでハントするのは「平清盛」に関する史跡だよ。

「平清盛」が夕日を招き返して1日で切り開いたという「日招き伝説」の伝わる名勝地です。

じゃあ、まず「日招き岩」を観に行ってみましょう。

どこ?とパネルを見ながら…位置が分かりました。
「音戸の瀬戸」切り開き工事を急ぐ「平清盛」が日迎山(高烏)の岩上に立って天に祈り、金の扇を開いて西に沈む太陽を中天に招き返し、永萬元年(1165年)7月10日、その日のうちにこの難事業を完成させたという伝説の岩で、清盛公の足跡と杖を突いたという「くぼみ」があります。
それから「平清盛公像」に行ってみると…下に変な建物跡みたいのあるよ。

コレが「平清盛公像」です。

対「宋」貿易と厳島参詣のための海上の捷路「音戸の瀬戸」開削工事を指揮した平相国清盛公が、永萬元年(1165年)7月10日、沈む太陽を中天に招き返して、その日のうちにこの難作業を完成させたという古来の伝説にもとづき、瀬戸開削八百年を記念して、当時四十八才の清盛公の英姿をゆかりの地「日迎山高烏台」に建立してその遺徳を偲び、あわせて海上交通の平安を永世に祈願する所以である…と。

中央に見える大きな橋は「第2音戸大橋」だね。

左側に見える島は江田島市、右側は広島市です。

今、16:00だけど…このくらいの太陽じゃまだ沈む前で「夕日を招き返して…」という感じじゃないから、招き返した後の写真ってことで。

下に下りてみました。

コレは「旧高烏砲台 兵舎」だって…ココにも軍事遺産があるんだ。

俺の目論見では15:30「高鳥台」16:00「アレイからすこじま」に着き、16:30「アレイからすこじま」を出て…17:00までにチャリ返却だったんだけど…16:10ごろ「高鳥台」を出ました。

…やっぱ帰りはラクだったわ…徒歩やチャリだとこんな道も通ります。

コレは「巡洋艦青葉終焉之地」碑です…巡洋艦「青葉」は太平洋戦争のフィリピン沖海戦において昭和19年10月23日ルソン島西方で米潜水艦の魚雷を受けて大破し、呉海軍工廠に帰還しましたが…修理の見込みが立たないため防空砲台として警固屋地区の海岸に繋留されていました。
しかしながら、昭和20年7月24日と28日のアメリカ爆撃機の熾烈な爆撃を受け、「青葉」は大破着底しました…この爆撃により警固屋地区にも死者3名、民家全壊48戸という被害を生じてしまいました。
これら戦争の事実とともに、「命と平和の尊さ」を次世代に伝えるため、「青葉」に乗艦経験を有する「中曽根康弘」元内閣総理大臣にご揮亳いただき、終焉であるこの地に碑を建立しました。

そして16:30ごろ「アレイからすこじま」に戻って来ました。

少し写真は撮ったけど、ココに来たもう1つの目的はやっぱり果たせそうにないな。

…1度チャリを返しに行き、ココへはバスでまた来ることにしたよ。

頑張れば歩いて来れなくもないけど…もうチャリさえ返せば時間に余裕はあるからさ。

コレは「呉鎮守府庁舎」です。

16:50ごろ「大和ミュージアム」にチャリを返却し…歩いて近くのバス停(教育隊前)に行ったけど、ちょうどバスが行ったばかりでさ。
17:10ごろバスに乗り、「潜水隊前」で降りました…Suicaの残金¥190だったんだけど、ピッタリだったわ。
今の時間(17:20ごろ)景色は1時間ほど前と然程変わらないので…夕暮れまで喫茶店に入ります。

「港町珈琲店」ですよー

外はテラス席になってて軍港が見渡せます。

「レアチーズとベリーのワッフル(+アイスコーヒー)」を頼みました…美味しかったです。

ソファー席じゃないけど、場所は「キマリ」と「報瀬」が座ってたトコでしょ?

コレも同じ場所から。

セブンイレブンの上が「港町珈琲店」です…18:10ごろ出ました。

「海上自衛隊 潜水艦桟橋」です…日も落ちてきました。

俺の地元「横須賀」、ココ「呉」、「佐世保」、「舞鶴」は鎮守府があった街として「日本遺産認定」されています。

イイ感じの写真が撮れる時間帯になってきたぞ。

「金曜ロードショー」って古いなぁ…俺も。

子規の詩も奥深いな。

ココから見れる艦船は横須賀の「ヴェルニー公園」より多いかな。

もうそろそろイイかな…

19:00「潜水隊前」からバスに乗り…19:15ごろ「呉駅前」で降りました。
そしてコインロッカーから荷物を取り出し…19:30ごろ駅を出ました。

19:40ごろ「ココス」に入りました。

まだアッサリしたモノが食べたかったんで「いくらと有頭エビとホタテの冷やし麺~ビスクソース~」を食べました…理由は他に、このメニューだけ+¥300で「ミニステーキ丼」が付けられたから。
20:45「ココス」を出て…近くのローソンで買い物してから3連泊になるネットカフェに行きました。
ローソン出た直後に雨が降り出してきてさ…突風も吹いて近くから何かが割れた音も聞こえたよ。
ナイトパックは21:00~なんだけど少し過ぎて行ったら、もう禁煙のフラットが満室で…禁煙はマッサージチェア室しかなかったけど、3時間後にフラットが空いたら移らせてもらうことで最初はマッサージチェア室になりました。

せっかくなんで試してみたけどさ…コースにしたら終わるまで20分近く掛かるのね。
でもネットカフェってけっこう長時間利用する人が多いのに、こんなマッサージチェアなんてほとんど使われていないんだろうよ。
このチェアでも眠れないことはないけど…パソコンが使いづらいんだよぉ、このチェアに座ってキーボード打ちづらいし。
マッサージ終わってから上の風呂にでも入りに行こうかと荷物を整理してたら、さっきローソンで買ったパンや菓子が無いじゃん…
ココに来る途中で落とした?(それは気付くだろう)多分、コンビニから持ち出してない気がするんで…風呂に行く支度も持ってローソンに行ったら、やっぱココでした。(買った商品は棚に戻されてたけどね)
俺もお釣りもらって商品持たずに出ちゃったんだろうけど、そこで店員が「コレ!」ってスグ声出さないかねぇ?商品が目の前に置いたままになってるんだからさ。
俺もまだ頭がボォ~っとしてたのかな?すずちゃんのおかげで熱は大分下がったと思うよ…でなきゃ今日はこんなに行動できてないからね。
ローソンで忘れ物を受け取ってネットカフェの上にある風呂に入りに行ったんだけど…昨日は軽く手首とか?に墨入れてる若いニーちゃんが居たけど、今日はガチの人が居たわ。
バックなんて半ズボン、7分袖シャツ着ないと隠せない…ってか、半ズボン、7分袖シャツの部分は全部入れ墨入ってました。
前面はチラ見すらできなかったけど、さすが広島じゃけぇ…こういう銭湯とか“入れ墨ある人お断り”みたいなトコ多いからさぁ、驚いたわ。
年齢は50~60代くらいの人だったけど…あの刺青面積から考えれば、幹部以上は間違いないだろうね。
あ…昨日、ノックダウン状態でスゲェ寝たから、今日はもう2:00近いけど眠くならないわ…でも明日(もう今日)は6:00チェックアウトだから2:00には横になりまーす。


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2018・GW旅「呉・江田島の旧海軍史跡」~広島編③

2018年05月02日 | 幕末~明治史跡めぐり
5月2日(水)
今日は予報どおり朝からの雨…なんか、また風邪ひいたみたいで体調も良くないよ。
ココ「呉」は亡くなった父の出生地なんだよ…俺もそれを知ったの亡くなるちょっと前くらいだったけどね。
だから2年前に来たときのレポートで、そのことに触れてないと思うよ…知らなかったはずだから。
生まれてからどのくらいまで「呉」に居たのか今となっては分からないけど、昭和16年にこの「呉」で生まれたんだよ。
祖父(戦死)が海軍の軍人だったから、当時は「呉」所属の艦に乗艦していたのかもね…およそ1年半後に生まれた叔父さん(父の弟)が横浜で生まれたらしいから、それまでの間に異動になったのかな。
多分、物心ついたときは「横須賀」で暮らしていたと思うよ…小学校は俺と同じだし。
今回「呉」に来た主な目的は前回行かなかった江田島の「第1術科学校(旧海軍兵学校跡地)」の見学と「砲台山」登山だけど…今日の雨じゃ「砲台山」はムリだな。

8:00ネットカフェをチェックアウトしました…今晩もココに泊まるけどね。

8:15ごろ「呉」駅に着き…コインロッカーに荷物を預けました。
駅に入ったとき、傘をすぼめようとしたら閉じなくなっちゃっててさ…昨日「竹原」の100円ショップで買ったばかりだったけど、もう壊れたよ。

それから駅の反対側に行きます。

「呉中央桟橋ターミナル」と「海上自衛隊呉資料館」です。

「大和ミュージアム」です。

「呉中央桟橋ターミナル」に8:30すぎには入っちゃった。

コレ、呉のアニメ?

ココから「艦船めぐり」ってのが出てるんだね…「横須賀軍港めぐり」みたいなヤツだね。

閉じないビニール傘はココで捨て、セブンイレブンで折り畳み傘買っちゃったよ。

その後、トイレ入ったら傘ありました…って、コレ持って待合室には居られないよな~

9:25発「江田島(小用)」行のフェリーに乗りました…約20分で「小用」に着きます。

おぉ~「霧の艦隊」?が接近して来たぞ。

コレは海上自衛隊の何という艦だろう?

9:45「小用港」に着き…予約してたレンタサイクルをキャンセルしようと観光案内所に行ったら誰も来てなかったよ。

なので来ていた9:52発の路線バスに乗り…10:00ごろ「術科学校前」で降りました。

それから徒歩1、2分で「海上自衛隊 第1術科学校(旧海軍兵学校跡地)」に着きました。
もう雨がけっこう強くなってきたし、自分の体調も良くないし…最悪だね。

受付をしてから「江田島クラブ」に入って待機です。

中には売店もあります。

2階には展示室もありました。

コレは何のアニメなんだろう?

さっき桟橋やフェリー内で見たポスターと同じなのかな?「兵姫ストライク」だって…ゲーム?

10:30から見学が始まったけど…こんな天気でも40人以上参加してたかな?

まず、コレは「大講堂」です。

鉄骨煉瓦石造の大講堂は大正6年(1917年)に兵学校生徒の入校式、卒業式また精神教育の場として建築されました。
外壁には瀬戸内海産の花崗岩を使い、内部はほぼ吹抜けとなっており、約2,000名の収容能力があります。

90年以上経った今日も変わらぬ姿で建っております。
現在は幹部候補生、第1術科学校の学生等の入校式、卒業式等儀式に使用しています。

コレは「幹部候補生学校庁舎(旧海軍兵学校生徒館)」です。
通称「赤レンガ」と呼ばれ、全国的に有名な「幹部候補生学校庁舎」は、日清戦争の前年、明治26年(1893年)に海軍兵学校生徒館としてその生活、教育のため建築されました。

中庭?が見学できました。

この校舎は「ハイスクール・フリート」の横須賀女子海洋学校のモデルなんだよ。

コレは「教育参考館」です…ギリシャ神殿風の鉄筋コンクリート造の2階建てのこの「教育参考館」は、先輩の偉業を偲び「温故知新」によって自己修養と学術研鑽の資とするため、兵学校卒業生の積立金及び一般企業等の寄付をもって、昭和11年(1936年)に建築されました。
「教育参考館」には戦前約40,000点の歴史的資料が保存されておりましたが、終戦時、一部の貴重な資料を厳島神社、大山祗神社等に奉納した他は、進駐軍による没収を恐れ焼却処分とされました。
現在は返却された資料等約16,000点を保存しており、そのうち約1,000点が展示されています。
…でも写真撮影禁止だし…サッと見て、集合にはまだ時間があるんで外に出ちゃいました。

外は撮影できるからね…右側の大きい砲弾は「戦艦大和主砲砲弾」で、左側の小さい砲弾は日清戦争で活躍した「三景艦(松島、橋立、厳島)の主砲砲弾」です。

コレは「特殊潜航艇(甲標的)」です。

この「海龍」は大日本帝国海軍の特殊潜航艇の一種で、敵艦に対して魚雷もしくは体当りにより攻撃を行う2人乗りの有翼特殊潜航艇・水中特攻兵器です。

コレらは何だっけ?

病室で作成してるんで…詳しくレポートできないことをお詫びします。(今5月26日)

さっきの「赤レンガ」中庭にも行っちゃった。


納沙幸子「横須賀女子海洋学校へようこそ」

納沙幸子「コレはOVAのワンシーンですね」

「ハイスクール・フリート」第1話より。


あの海洋実習が終わった後は、こういうシチュエーションもあったでしょう。

スカジャンで記念写真。

楽しい学園生活。

ココは史跡であると共にアニメ聖地?でもあるからね…雨だったけど来れて良かったよ。

横須賀(田浦)には第2術科学校があるけど…この「赤レンガ」みたいに味がある校舎じゃないのよね~

それから「江田島クラブ」に戻り、予定通り12:00ごろ解散となりました…解散後は売店で買い物するも良し、レストランで海軍カレー食べて帰るも良しです。

俺は12:05「海上自衛隊 第1術科学校(旧海軍兵学校跡地)」を出ました…もしかして俺の祖父はココの卒業生だったりするのかなぁ?
ちなみに「呂号102」という潜水艦に乗艦していたそうな…遺影なんて見ると当時の日本人にもこんなイケメンが居たのか?と思えるほどだけど、俺には祖父と父の遺伝子は入って無さそうだわ。

歩いて「術科学校前」バス停に着くと…何と12時台はバスが無いのかよ。

ルートは複雑じゃないけど雨の中、歩いて12:25「小用港」に着きました…少し時間があったんで観光案内所を覗くも、やっぱ開いてなく券売所?にいる…と。
朝、この貼紙に気づかなかったからさ…電話ではキャンセルの件は話してたけど、改めて観光案内所の人と話しました。
やっぱ自転車で「砲台山」へ行くのは、けっこうキビしかったみたい…まぁ過去、かなり過酷な道程をチャリで走っては来たけど、手術前の今ムリすることも無いよな。
そう考えると今日は雨で良かったのかも知れない…体調不良なのにムリにチャリで「砲台山」まで行くことも無くなったからね。

12:45「小用港」発のフェリーに乗りました。

晴れてたら、もっと乗客多いのかなぁ?

コレが行きにも観た艦だな…何て名前だ?写真の元データは家で拡大できないから見えないな。

「呉港」に近づくと海上自衛隊の艦船が霧の先に観えたよ…左端は「かが」かなぁ?

この船は…艦船めぐり?

デカい2隻は商船かね?

天気が良けりゃコレで「艦船めぐり」になるんだけどな…

13:05「呉中央桟橋ターミナル」に着きました…この雨で今日の午後からの予定は中止、自分自身も絶不調なんで内科病院に行こうかなぁ。

「大和ミュージアム」向かいにあるお土産屋に入ってみると…30日に「広島」で買えなかったモノが売ってました
それから駅に向かう途中で病院は探せず…100円ショップで替えの靴下等を買ったよ、もう靴の中ビショ濡れや。

14:10駅の下にあった定食屋でゴハンを食べたんだけど…ちょっとコッテリしすぎたかなぁ。
やっぱ土地勘も無いんで病院に行くのは諦め、ドラッグストアで風邪薬を買ったよ…それからロッカーから荷物を出しました。

その後、向かったのはコインランドリーです…晴れてて予定通りに行動してたら夜に来てたと思う。

俺、コインランドリーって初めてだわ…でも、ちょうどイイ時間に来れてスムーズに洗濯、乾燥も終わりました。
靴もどっかで乾かしたかったなぁ…乾燥機に入れちゃあマズイよね?
それから16:30ごろネットカフェに入っちゃいました…もう雨でどこにも行けないし、早く身体を休めたかったからさ。
とりあえず21:00~のナイトパックまで5時間パックで入店し、21:00以降にナイトパック10時間に継続する形にしました。
もうブースに入ってから身体は熱いのに寒気がヒドく、ブランケットを借りて包まって寝てたよ。

0:10ごろ、どうにか起き上がり…上の風呂に行くことにしました。(2:00まで営業してる)
それから近くのコンビニに行って、晩ゴハン(パンやおにぎり)を買って来たよ…今思えば、昼ゴハンよくあんなの食べれたな…
0:50ごろ自分のブースに戻り…また眠っちゃった。
2:40に起きて、風呂上がりに買って来たパンを食べたけど…身体がダルくていくらでも眠れるわ。
寝たり起きたりを繰り返し、5:10ごろパン1個をどうにか食べて…昨日買った風邪薬を飲みました。
身体の熱さも1度は引いたと思いきや、また熱さが増してきたよ…薬が効いて熱が下がればイイんだけど。

頼むで、すずちゃん


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地元横須賀の軍事施設跡散策~まとめ

2018年03月04日 | 幕末~明治史跡めぐり
3月4日(日)
この“地元横須賀の軍事施設跡散策”は新たな情報が追加更新されたら日付を換えて紹介していきます。
前回、駆逐艦「村雨」の碑を追加したんだけど…アレ、ただの案内の石碑でホンモノの「村雨」碑は奥の方にあるんだってさ。
なので、また機会があれば写真撮りに行きます。
…で、今回の追加は「久里浜」エリアになります。


「横須賀案内記」という本(市が編纂)は幕末以降の地元横須賀市の歴史が分かる本で、市役所や出先機関でまだ買えるかも?(発行2007年)
まずはウチの周りにあった軍事施設とその関連から紹介します。

①横須賀重砲兵連隊 ②横須賀陸軍病院 ③不入斗練兵場 ④東京湾要塞司令部 ⑤横須賀海軍病院 ⑥海軍横須賀鎮守府司令長官官舎

①横須賀重砲兵連隊…我がクソ母校の土地には元陸軍の施設があったんだな。

俺が通ってたころは、この正面にも門があったんだけど、今は塞がれてるよ。

デビュー前の「山口百恵」が通ってたんだぞ。

これは「ちこく坂」と呼ばれています…外出した兵隊が駆け足で通ったので「遅刻坂」の意味だといわれています。

これが当時のまま残っているレンガ塀と営門です。

明治23年(1890年)5月「要塞砲兵第一連隊」が誕生し、その後、大正9年(1920年)に「横須賀重砲兵連隊」に改称されました。
毎年4月には連隊祭が行われ、この日ばかりは一般市民も花見や余興を楽しんだそうです。

門の裏側見てみたら…こんなトコに何故かポストが

坂本坂上にある和菓子屋さん?「突貫」とは敵陣に突き進むことを意味し…数個のダンゴを串に刺すのを「突いて貫く」と掛けたのかな?
最初、ヘンな名前の店だ…と思ってたけど、やっぱ近くに陸軍施設があったという時代背景から付けられた屋号なんだろうね。

桜小学校の校庭の隅には「横須賀重砲兵連隊跡」の記念碑があるよ。

碑の裏側には「横須賀重砲兵連隊」の沿革が彫られていました。

桜小学校の反対側にある「坂本公園」は「横須賀重砲兵連隊」の馬場で、軍馬の訓練場だったそうな。

「将校集会所」があったトコにある「坂本青少年の家」です…ネットで見た当時の「将校集会所」の写真が、小学生のとき遊びに来てた建物だったと思うんだ。

②横須賀陸軍病院…今は「はまゆう公園」です。

「横須賀重砲兵連隊」の前身「要塞砲兵連隊」の医務室を移転して病院としたのが始まりです。

これは4月に撮った写真だよ。

当時からある「桜」なのかは分からないけど…近所じゃ一番「桜」が多く見られるトコだね。

休日はサッカー場に少年チームが練習?試合?に訪れているよ。

③不入斗練兵場…今の「横須賀アリーナ(運動公園)」周辺です。

不入斗公園の一段上に野球場(左側)や弓道場(右側)があるんだけど、正面の丘が子供のころから「ラッパ山」と呼ばれてたんだよ。
やっぱり練兵に使われてたラッパに関係してたんだね…小学生のころは登って遊んでたんだけど、今は登れる感じじゃあなさそう。

球場の奥には横須賀アリーナ(横須賀市総合体育館)があり、写真は無いけどもっと奥には陸上競技場もあるよ。
競技大会のある日に部外者が写真撮ってると怪しいヤツ(女子の体操着フェチ)と思われるからなぁ…

④東京湾要塞司令部…今の「うわまち病院」があるトコ。

戦後、②の横須賀陸軍病院が移って来て横須賀国立病院として診療を続けていた(俺もここ国立病院で生まれた)んだけど、色々あったようで今は横須賀市立うわまち病院です。


⑤横須賀海軍病院…今は「横須賀市文化会館」があります。

文化会館下は今は整備されてるけど、俺が子供のころはただの野原だったよ。

「栗本鋤雲」と「小栗上野介忠順」の胸像です。

これは「横須賀市自然・人文博物館」の増築された部分で、俺が子供のころは今よか小さい博物館だったからね。

これも4月に行ったんで「桜」が咲いてるでしょ。

坂を上がると「横須賀市文化会館」があるよ。

俺らの代はココで成人式やってたんだよ。

「横須賀市自然・人文博物館」は入館無料です。

「ナウマンゾウ」は市内から骨が発掘されてるんだよ。

これは「サケガシラ」という深海魚の標本です。

企画展示「なつかしの道具展」がやってたよ。

俺の親世代のモノかな?

こう見るとモノの進化するスピードは速いんだけど、それを発明した人「ベル(電話)」とか「エジソン(電気器具)」はスゲェよ。

山口百恵「横須賀ストーリー」は分かるけど…キョンキョンの「春風の誘惑」って横須賀に関係あんの?

先週も紹介した「ウィリアム・アダムス」です。

フランス人技師「ヴェルニー(左)」は日本の近代化に大きく貢献してくれました。

「中央公園」にも入ったけど…昔はもっと「桜」がいっぱい咲いてたのに、今じゃ「はまゆう公園」の方が多いよ。

旧日本軍の演習砲台跡(米ヶ浜砲台跡)です…日露戦争ではここから28サンチ榴弾砲が外されて旅順に運ばれ、日露戦争の勝利に貢献しました。

この部分は何だろうね…?通気口?

多分、この下は格納庫だと思うんだけど…

核兵器廃絶と平和都市宣言の意思を内外に示すものとして作られた「平和モニュメント」です。

「龍本寺」と「猿島」…ともに日蓮上人と関係があります。

こう見ると砲台跡っぽいよね。

終戦後の混乱期に横須賀米海軍基地司令官を4年間務め、横須賀の経済発展に大きく貢献したデッカー少将の胸像です。

上町商店街にある古そうな建物です。

⑥海軍横須賀鎮守府司令長官官舎

田戸台分庁舎と呼ばれる今は「桜」の季節のみ?に無料公開されてるよ。
終戦後、アメリカ合衆国に接収され1964年(昭和39年)まで9人の在日米海軍司令官等が居住しました。
1969年(昭和44年)防衛庁に移管され、現在「海上自衛隊横須賀地方総監部」が管理しています。

去年に続き、今年も4月に行って来ました。

長官執務室兼書斎です。

ダイニングルームです。

和室もあるね。

庭園側より…洋館と日本家屋がドッキングしたような造りだよね。

ここも敷地みたいだけど、中にあるのは長官用のシェルターか何かかな?


次は横須賀中央近辺だよ…①横須賀鎮守府 ②海軍機関学校 ③横須賀造船所 ④横須賀市役所 ⑤下士官兵集会所 ⑥逸見波止場衛門

①横須賀鎮守府…今、庁舎は在日米海軍司令部に使われています。

この2代目庁舎は米海軍横須賀基地内にあり、開放日でも見ることができないんだよ…これは“日米親善ベース歴史ツアー”に参加して撮った写真だけど、その後は何度応募しても当選しないわ。
ここの長官が先ほど紹介した「海軍横須賀鎮守府司令長官官舎」に住んでたんだね。

海軍病院(門のみ残ってる)は文化会館んトコにあったのが関東大震災で倒壊した後、この横須賀鎮守府近くに建てられたんだよ。
ちなみに米ヶ浜にある共済病院も昔は「横須賀海軍職工共済会医院」といいました。

②海軍機関学校…今の横須賀学院や歯科大学辺り。

海軍機関学校は「芥川龍之介」も英語教師として教鞭を執った、日本海軍の機関科に属する士官を養成するために設置された軍学校です。

横須賀学院の敷地内に…

「海軍機関学校跡」碑があります。

その先に「三笠公園」があるよ。

記念艦「三笠」です。

③横須賀造船所(横須賀海軍工廠)

日本を近代化に導いた「横須賀造船所」だけど、今は「ショッパーズプラザ横須賀(現在はイオン)」になっちゃった。

もし残ってたら「富岡製糸場」みたいに世界遺産になってたかもよ。

④横須賀市役所

今はヨゼフ病院があるトコに明治40年の市制施行により、横須賀市役所庁舎が建てられました。


⑤下士官兵集会所→在日アメリカ海軍兵員クラブ(EMクラブ)
集会所の設立は明治35年で、戦後は駐留軍のEMクラブとして使用されていましたが、昭和58年10月、日本政府に返還されました。

1983年に日本政府に返還されたEMクラブ跡地に、1993年には「横須賀芸術劇場」と都市型ホテルの複合施設「ベイスクエアよこすか」「メルキュールホテル横須賀」が開業しました。

昭和12年には「ヘレン・ケラー」の講演会も行われてるんだよ。

これは1990年に高校3年生だった俺が撮ったEMクラブの写真だよ。

今じゃ、こんなに変貌してるね…って、25年経ったもんなぁ。

⑥逸見波止場衛門…旧横須賀軍港逸見門の衛兵詰所として明治末期から大正の初期頃に建てられた2つの建築物です。
まず、「ショッパーズプラザ横須賀」からスタートだよ。

「YOKOSUKA軍港めぐり」はここ「汐入桟橋」から出港です。

ヴェルニー公園の奥に停泊してるのは…護衛艦「いずも」です。

「かき小屋」…牡蠣の店みたいよ。

そろそろ「軍港めぐり」が出港かな?

潜水艦が奥に3隻、手前に2隻停泊中。

その前を「軍港めぐり」の遊覧船が通り過ぎました。

この「逸見波止場衛門」は、かつての旧軍港への入口でした…ハルピンで暗殺された「伊藤博文」の遺体は大連から軍艦「秋津洲」で移送され、日本に着いたのは横須賀港なんだよ。

左の方には「逸見上陸場」、右の方には「軍港逸見門」と表示されています。

ヴェルニー公園内から。

これは「ヴェルニー記念館」です。

やっぱ、この「いずも」はデカいなぁ。

周りの人が皆この艦船の写真撮ってたよ。

空母じゃなく、護衛艦ですから。

ヴェルニーと小栗上野介の胸像です。

これは「海軍の碑」です。

これは「軍艦山城之碑」と「國威顕彰」の碑です。

これは「軍艦長門碑」です。

これは「軍艦沖島の碑」です。

これは「正岡子規の文学碑」です…横須賀に遊びに来たときに詠んだ詩みたい。

こんな感じで並んでいます。

2017年3月25日に戦艦「陸奥」の主砲がヴェルニー公園に里帰りしました。

東京の「船の科学館」から移設されて来ました。

次は航空隊に関する史跡だよ。

①横須賀海軍航空隊 ②横浜海軍航空隊 ③浜空神社

①横須賀海軍航空隊

ここは追浜の「貝山緑地」です。

大日本帝国海軍で最初に設立され、終戦まで存続した航空部隊はこの周辺(日産自動車追浜工場がある辺り)にあったんだよ。

「追濱神社」と彫られた石碑だけありました。

昨日は天気良かったんで花もキレイに咲いてたよ。

これは「豫科練誕生之地」碑です。

また少し上がって行くと…

2つの石碑があるよ。

1つ(左)は「海軍甲種飛行予科練習生 鎮魂之碑」、もう1つ(右)は「海軍航空發祥之地」碑です。

大正5年(1916年)3月、海軍航空隊令が発布され、4月に「横須賀海軍航空隊」が追浜に置かれました。

飛行場を作るために海岸を埋め立てたため、夏島は現在のように陸続きになったんだって…追浜海岸には水上機の練習場も建設されました。

貝山緑地には700本の杏があるんだって…この花は杏じゃないよね?

もう少し上がってみます。

この先に行くと…

これが砲台跡でいいの?

なんか今まで見て来た砲台跡のイメージと違うなぁ…

次は展望台に行ってみました。

展望台から見える住友重工や…

日産自動車の追浜物流かな?

「貝山緑地」を出て…

「貝山地下壕」の入口か分からないけど、大きな穴を見つけたよ。
貝山地下壕は「貝山緑地」の下にあり、横須賀海軍航空隊の指揮所や物資の格納庫として使用されたらしいです。
地下壕の全長は俺も行ったことのある「松代大本営」で有名な長野市松代町にある「象山地下壕」の5.8Kmより長いとされているんだって。

②横浜海軍航空隊…昭和11年10月に開設された「横浜海軍航空隊」の水上機基地として、また昭和17年10月から終戦までは飛行艇隊の基地として使用されました。

日本の敗戦により米軍に接収されましたが昭和46年1月に返還され、昭和50年3月「富岡総合公園」として新しく生まれ変わり…今は公園入口に昔の航空隊隊門のみが残っています。

アーチェリー場やテニスコート、運動広場などいろいろな施設があるんでスゲェ広いよね。(約65,000坪だって)

ここを上がって行くと…

「北台展望台」があります。

これは…何?

ここには全海軍飛行艇隊の戦没・殉職者2000柱を合祀した「浜空神社」がありました。

でも…平成20年横須賀(追浜)の「雷神社」に移設され、この跡地には慰霊碑が建立されています。

これが慰霊碑です。

「鎮魂 海軍飛行艇隊」

これは「浜空の碑」です。

碑文「大鵬渡海奏奇功 離島守防意気隆 衆寡難勝嗟惨々 至誠不抜憶濱空」

碑文「この地に原隊を有せし飛行艇隊元横濱海軍航空隊は 昭和十七年八月七日未明 南太平洋ソロモン群島ツラギに於いて米軍の反攻上陸を受け 二昼夜にわたる死闘の末 宮崎重敏司令外五百余名全員玉砕せり これらの人々の冥福と恒久平和を祈念してこの碑を建立す」

献木「山口県松陰神社の銀杏」です。

③浜空神社

平成20年に「浜空神社」は追浜の「雷神社」に移築されました。

慰霊碑の隣の小さな社が移築された「浜空神社」です。

※龍本寺

ここは横須賀市文化会館や中央公園の近くにある「龍本寺」です。

ここの境内には色んな石碑があるんだけど…

これは「横須賀海軍航空隊殉職将士追悼碑」です…「横須賀海軍航空隊」の殉職者を追悼するために龍本寺の境内に建立されました。


①横須賀海軍航空隊 ②海軍水雷学校

①横須賀海軍航空隊…は先ほどレポート済み
②海軍水雷学校

現在「海上自衛隊 第二術科学校」があり、敷地内には「海軍水雷学校跡」碑があります。

その近くにある「海軍通信教育発祥記念碑」です。

新たに久里浜エリアで作ってみました。(2018.03.04)

①海軍通信学校 ②海軍工作学校 ③海軍機雷学校/海軍対潜学校

①海軍通信学校

現在「陸上自衛隊久里浜駐屯地」がありますが、昭和14年「海軍通信学校」として開設、昭和25年の警察予備隊発足当時から続く「陸自久里浜部隊」として受け継がれており…自衛隊としては最も古い駐屯地です。

敷地内には「海軍通信学校跡」碑があります…それと「甲種飛行予科練習生電信術練成之地碑」もあるようなので次回、開放日があったら写真撮って来ます。
②海軍工作学校

現在「久里浜公園」内に「海軍工作学校跡」碑があります。
③海軍機雷学校/海軍対潜学校

長瀬には「海軍機雷学校/海軍対潜学校跡」碑があります。

コレは北久里浜(根岸町)なんだけど…海軍墓地があるよ。
馬門山海軍墓地(横須賀市根岸町1-27)
呉の旧海軍墓地(長迫公園)には行ったことあるけど、地元「横須賀」には無いの?って思ってたら、ありました~

京急「北久里浜」駅から徒歩5分くらいで着きました…「横須賀市営馬門山墓地(旧横須賀海軍墓地)」です。

明治15年(1882年)1月、「馬門山海軍埋葬地」として開設されました。

この墓地には旧海軍軍艦等の殉職者、上海事変戦死者等、海軍軍人の英霊1,592柱が殉職者之碑、個人墓等に祀られています。

昭和24年(1949年)横須賀市が同墓地の維持管理を引き継ぐとともに敷地内に一般墓地を造成し、現在に至っています。

ココに何かがあることは知ってたんだけど、海軍墓地だと知ったのは行ってみた数日前のこと。

コレは「拝霊堂」です…

コチラは下段墓地です…明らかに一般墓との違いが分かるよ。

コチラは中段墓地です。

整然と並んでいます…

上から見たトコ。

最上段には広場があり…

コレは「北京籠城軍艦愛宕戦死者之碑」です…明治33年の「北清事変」において軍艦「愛宕」から陸戦隊員として北京に派遣籠城中、壮烈な戦死を遂げた5勇士を慰霊するため、明治34年、横須賀市天栄寺に建立、昭和7年移設されました。

コレは「特務艦関東殉職者之碑」です…大正13年、暴風雪のため福井県の海岸に座礁した特務艦「関東」の殉職者68名を慰霊するため大正14年建立されました。

コレは「軍艦筑波殉職者之碑」です…大正6年、横須賀軍港において軍艦「筑波」の火薬庫爆発による殉職152名を弔うため大正8年建立されました。

左「特務艦関東殉職者之碑」、右「軍艦筑波殉職者之碑」

コレは何の碑なのか書いてなかったんだよ…

コレは「軍艦河内殉職者之碑」です…大正7年、徳山港において火薬庫爆発による殉職者621名の慰霊のため大正8年建立されました。

コレは「第四艦隊遭難殉職者之碑」です…昭和10年、海軍大演習に参加中、北海道東方海面において台風による遭難殉職の30名並びに室蘭港内において乗艇沈没の際の遭難殉職者6名を慰霊するため昭和11年建立されました。

コレは「支那事変大東亜戦争戦没者忠霊塔」です…昭和12年の支那事変に引き続き大東亜戦争に従軍した横須賀鎮守府管下英霊の忠誠を語り伝えるため昭和28年建立されました。

この右側のお墓?は…

「関口特攻兄弟之碑」です…神風特別攻撃隊に所属して戦死した海軍少佐「関口哲男(24)」と海軍少尉「関口剛史(19)」を慰霊しています。

コレは「上海事変戦死者之碑」です…昭和7年、満州事変後の抗日運動が激化した上海で日本托鉢僧襲撃事件が起こり、これがきっかけとなり日本海軍は陸戦隊を出動させ中国軍と衝突しました。
これが上海事変で、この戦闘で戦死した59柱の英霊を慰霊するために昭和8年に建立されました。

こう見るとけっこう古い(太平洋戦争以前の殉職者の)碑がほとんどだったね…

市内にはヴェルニー公園内の他にも“軍艦の碑”があるよ。
光心寺(横須賀市衣笠栄町1-51)

衣笠の「はまゆう会館」近くにある「光心寺」には…

「軍艦比叡鎮魂碑」がありますよ~


鴨居には駆逐艦「村雨」の碑がありまーす。
…でもコレ、案内板でホンモノ?の石碑はもっと奥の方にあるみたいだわ…今度リベンジします


※陸軍重砲兵学校
今の馬堀小・中学校辺り。

※横須賀海軍刑務所
今の大津中学校辺り。

「横須賀案内記」を読むと他にも多くの軍事施設があった“軍都”であったことがよく分かるよ。
それではご観覧ありがとうございました。


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GW史跡ハント~常陸・陸奥国

2017年05月01日 | 幕末~明治史跡めぐり
5月1日(月)
今日は6:20発のJR水郡線に乗るんで5:00にアラームをセットしたけど、やっぱ必要無かったか…1~2時間しか眠れず、1:00くらいには買っておいた朝ゴハン食っちゃったよ。
その後、短時間の二度寝、三度寝はあったけど…もう4:00くらいには完全に起きてたわ。

6:00すぎにチェックアウトし、昨晩も行った隣のファミマで食料を買っておきました。

まだ少し時間があったんで北口に行きました…って、前回も観てるけどさ。

左の地図の方は(手が)「印籠」のようになってたんだね。

6:20「水戸」発のJR水郡線に乗りました…水郡線なんて初めて乗ったなぁ。

④常陸国~袋田の滝編

7:40ごろ「袋田」で降りました…ココから約4Kmほど歩くんだわ。

赤いの何だろう?(木なのは分かってるよ)遠くから見ても目を引いたよ。

「袋田の滝」の石碑があったけど…まだ3Km以上先だよ。

ちょうど通学時間帯で小学生の集団登校に遭遇したんだけど、ヨソ者のオッサンにもみんな「おはようございます」って挨拶してくれたよ。

袋田温泉「思い出浪漫館」だって。

こうやって歩きながらキレイな景色を撮ってます。

この辺りは蕎麦が名物なの?

店先にいろんなモノが置いてあったよ…通り沿いには「イノシシ」の剥製?もあったし。

もうすぐ「端午の節句」だもんね。

コレは「四度瀧不動明王」だって~

お土産屋のある通りを抜けて…

8:20ごろ「袋田の滝」入場券(¥300)売場に着きました…やっぱ約40分くらい歩いたかぁ。

入場券を買ったら、まずトンネル内に入ります。

コレは「袋田の滝胎内観音」です。

ココも“恋人の聖地”なの?
吊り橋に出られる出入口があったんで行ってみました。

吊り橋の手前から見えた滝。

少し渡ってみると、こんな感じで見れます。

戻って「第1観瀑台」に行きました。

おぉ、コレが“日本三大名瀑”の一つ「袋田の滝」ね…俺は他の2滝「華厳の滝」や「那智の滝」のような一本滝?を想像してたんだけどね。

さっきの吊り橋が見下ろせます。

コレは「四度滝不動尊」です。

そしてエレベーターに乗って「第2観瀑台」に行きました。

高さ120m、幅73m、四段に落下することから別名「四度の滝」とも呼ばれています。

流れ落ちる水量によってハートの形に見える岩肌があるらしいよ…そういうのに縁のない俺はやっぱり見れず?

帰りは吊り橋を渡って帰りました…左に観えるのが「第1観瀑台」です。
この吊り橋のトコにも入場券売場があってさ…今帰るルートから来ることもできたみたいね。

コッチは「渓流散策コース」っていうんだって~

茶屋もありました。

奥に見えるブルーの屋根の小屋が行きに俺が入場券を買ったトコ辺りだよ。

どうやら下に着いたみたいだな…

なるほど…行きは左の「滝見橋」を渡って入場券売場に行ったけど、真っ直ぐ行けば「渓流散策コース」だったんだね。
もうすぐ9:00だけど…「袋田」から乗る列車は10:31発なんで、だいぶ余裕あるなぁ。

だけど他に行くトコもヤルこともないからさ…

また景色を見ながらトボトボ歩いて帰ったよ。

まるで空間に浮いてるような橋だね。

コレは「北條館別館」だって…うなぎが名物なの?

カエルの鳴き声が聞こえてました。

線路に進入したんじゃないよ、踏切から撮ったんだよ。

駅に近づいたけど、まだ早いんで橋を渡ってみました…「友釣り」とはアユ釣りの一方法みたい。

うん…何も無い静かなところだ…
9:40袋田駅に戻って来たけど…まだ列車の時間まで50分くらいあるよ。
待合室で来る前にコンビニで買っておいた朝食をココで食べました。

ホーム向かいには「ミニ袋田の滝」がありました。
10:31「袋田」発のJR水郡線は少し遅れて来たけど無事に出発できました…この先が長いんだよな~

⑤陸奥国~二本松・白河編

12:35すぎ「郡山」に着き、12:42発のJR東北本線に乗り換えました。

そして13:05ごろ「二本松」で下車しました…って、久しぶりの福島県だな。

駅前の二本松少年隊士像「霞城の太刀風」です。
これから約1.3Km歩いて「霞ヶ城公園」を目指します。

コレは「二本松神社」で…旧二本松藩領総鎮守です。

ちょっと境内に上がってみることにしました…何だコレ?と思ったらヘビがいたよ。

コレは「随神門」です…バッテンの印のようなモノが「直違」で、これは二本松藩主・丹羽氏の家紋でもあります。

「神門」と「拝殿」です…どちらも寛政6年の大火で焼失していて、現在のものは文化3年(1806年)に再建されたものです。

境内社と神楽殿です。

13:30すぎ「霞ヶ城」に着きました…右は「旧二本松藩戒石銘碑」なんだけど、写真が切れてる左端の石がそうだったみたい。

「二本松城」は霞ヶ城・白旗城とも呼ばれる平山城で日本100名城の11番目です。

コレは「二本松少年隊群像」です…少年隊といっても「仮面舞踏会」のじゃないよ。

戊辰戦争二本松最大の激戦地・大壇口戦場における少年隊の奮戦姿と、わが子の出陣服を仕立てる母の姿です。

大城代「内藤四郎兵衛」戦死之地碑です…戊辰戦争時、二本松城の大城代だった内藤は落城の際、城門を開き敵軍に切り込んで獅子奮迅の末、壮絶な最期を遂げたそうです。

コレは「箕輪門」です…初代藩主「丹羽光重」が入府間もなく、城内整備のため御殿と共に最初に建造した櫓門です。

「虎口」?を抜けると広場があります。

コレは「山田脩」銅像です…戊辰戦後、明治6年に二本松製糸会社を創立しました。

コレは「相生の滝」です。

コレは「洗心亭」です…城内に唯一残る江戸期の建造物です。

コレは「丹羽霊祠殿」と「霞ヶ城の傘松」です。

コレは「洗心滝」です。

コレは「二合田用水」です…城防備を目的として安達太良山麓より尾根伝いに延々18キロもの距離を城内に引水した用水で幕府には内密だったそうです。

コレは「智恵子抄詩碑」です。

ココは「少年隊の丘」です。

明治百年にあたる昭和43年に命名されました。

ブロンズレリーフ「二本松少年隊奮戦の図」と「二本松大壇口弔少年隊戦死墓」です。

コレは「二本松少年隊顕彰碑」です。

コレは「搦手門跡」です…裏門、今は門台石垣と門柱を立てた左右の礎石が残っています。

やっと本丸(跡)に着いたぞ~

本丸には天守台があります…天守台は造られましたが、天守閣は造られなかったようです。

さっきから雨がポツポツ降り出してきてるんだよ~

天守台に上がってみました…

天守台からの眺めです。
「伊達政宗」の攻撃を受けていた天正13年(1585年)10月、15代当主「二本松(畠山)義継」は政宗の父「伊達輝宗」に降伏を申し出ました。
輝宗のもとに出向いた義継は、輝宗を拉致して二本松城へ連れ去ろうとしましたが、これを聞きつけた政宗に輝宗もろとも射殺されました…コレを「粟之巣の変事」といいます。
しかし、そのとき政宗は鷹狩中で…手勢がなぜ鉄砲で武装していたかを根拠に、政宗による父殺しの陰謀と見る説もあるそうな。

コレは「本丸下南面大石垣」です。

コレは「日影の井戸」です…千葉県印西市の「月影の井戸」、鎌倉市の「星影の井戸」と共に“日本の三井”といわれてるんだって~

コレは「丹羽一学・服部久左衛門・丹羽新十郎自刃の地碑」です。
主戦論の実力者家老「丹羽一学」と副役の2名が第11代藩主「丹羽長国」に代わって戦犯の責任をとり、切腹しました。

あと30分で駅まで戻らないと。

コレは「二本松城大手門跡」です。
14:42「二本松」からJR東北線に乗り、15:07「郡山」で15:30発のJR東北線に乗り換えました。


そして16:05ごろ「白河」で降りました。

それから「白河駅観光案内所」に行き…レンタサイクル(無料)を借りました。

16:15「白河小峰城」に着きました。

東北地方では珍しい総石垣造りの城で「盛岡城」「若松城」と共に“東北三名城”の1つにも数えられています…って、その石垣は今復旧工事してるんだね。
コレも東日本大震災の影響のようで、これから観に行く「三重櫓」も含めて本丸は立入禁止となっていましたが…平成27年4月19日に小峰城復興式が開催され、復興式終了後に入城可能となったそうです。

天正18年(1590年)城主の白河結城氏が「豊臣秀吉」の奥州仕置により改易されるとこの地は会津領となり、蒲生氏、続いて上杉氏、再度蒲生氏が支配しましたが、寛永4年(1627年)に「丹羽長重」が10万石で棚倉城(福島県棚倉町)から移封されると、幕命により寛永6年(1629年)より城郭の大改築に着手、3年の歳月を費やして寛永9年(1632年)に完成しました。

その後丹羽氏、榊原氏、本多氏、奥平松平氏、越前松平氏、久松松平氏、阿部氏と7家21代の城主交代がありましたが、慶応3年(1867年)に最後の阿部氏が棚倉藩に移封された後、白河藩は幕領となり城郭は二本松藩丹羽氏の預かるところとなります。
翌慶応4年(1868年)白河小峰城は「戊辰戦争」で奥羽越列藩同盟軍と新政府軍との激しい攻防の舞台となり、5月1日、大半を焼失し落城しました(白河口の戦い)。

白河小峰城は日本100名城の13番です。

コレは「おとめ桜」の碑です…「丹羽長重」公が寛永年間に城の大修築を行った際、どうやっても石垣が崩れてしまうということで、最初に通りかかった人物を老若男女の区別なく、人柱にしようということになりました。
偶然通りかかった不運な女性がこの桜の名称の由来となった「おとめ」さん…彼女は改修現場で働く父親に弁当を届けに来たところだったそうです。
父は必死に「来るな」と手で合図をしましたが、逆に「来い」という合図と勘違いした「おとめ」は人柱にされてしまったのです。

この「三重櫓」に入れます。(無料)

石落とし?と階段の脇には…

戊辰戦争で撃ち込まれた鉄砲玉の跡がありました。
この三重櫓は木造復元された城郭建築のうち、天守に相当する建物の復元では最初のもので、数少ない木造復元天守の1つです…戊辰戦争の激戦地となった松並稲荷山の杉を使って復元をしているので弾傷が確認できるのです。

ココは「多聞櫓跡」です。

三重櫓と前御門です。

本丸御殿跡です。

石垣は地場産の白河石なんだって。

コレは「二ノ丸茶屋」(お土産屋)です。

「武士の一分(2006年)」のロケ地の1つにもなったんだって。

コレは「白河集古苑」です…歴史資料館だね。

コレは「会津門跡」です。

16:45「白河小峰城」を出ました。

コレはJRの下を通るレンガのトンネルで…鉄道マニアには有名らしい…って、ホント?

コレは「作事稲荷神社」で、小峰城築城の際に工事の成就を願って祀られた神社です。

コレは「長寿院」です。

ココには「慶応戊辰殉国者墳墓(西軍)」があります。

西軍は新政府軍で…コレらは長州・大垣・館林・佐土原藩の戦死者の墓です。

コレは「渋木茶舗」です…明治20年に建てられました。

コレは「ヤマボシ醤油」です。

コレは「石倉煎餅店」です。

コレは「上の片野屋」で…老舗の呉服店です。

コレは「千駒酒造」です。

コレは「ビューティーサロン・オサダ」です…大正時代に建てられた白河石を使った建物です。

コレは「和菓子玉家」です。

ココは「白河県立病院・白河医術講議所跡」です。

コレは「松河屋」と「本町屋台会館」です。

ココは「白河宿本陣芳賀家跡」です。

コレは「天恩皇徳寺」です。

ココに来て知ったけど「小原庄助」と新選組隊士「菊地央」の墓があるんだって~

コレは「戊辰戦争戦死者供養碑」です。

隣にあるのが新選組隊士「菊地央」の墓です…元津軽藩士で慶応3年6月以降に入隊、慶応4年閏4月25日「白河口の戦い」で22歳の若さで戦死しました。

コレは「蒲生羅漢」と「会津塗師久五郎(小原庄助)」の墓なんだけど…「小原庄助」の墓の方は写ってないね。
民謡「会津磐梯山」の歌詞中には「小原庄助」なる人物が「朝寝朝酒朝湯が大好きでそれで身上潰した」とありますが、モデルとなった人物については諸説ありはっきりしないそうです。
「蒲生羅漢」は江戸時代後期の南画家で「小原庄助」のモデルともいわれる「会津塗師久五郎」と連日連夜飲み明かし、ついには久五郎が羅漢の居宅で客死し、そのまま皇徳寺に葬られましたが…3年後に羅漢も没し久五郎の墓に並んで埋葬されました。

この交差点の先には「小峰城」が見えます。

「谷津田川せせらぎ通り」を走り…

コレは「常宣寺」です。

本堂は江戸時代に建てられたそうです。

コレは「会津藩戊辰戦死十二士墓」です。

コレは(復元)水車です。

コレは「妙関寺」です。

赤い山門を入ったスグ右手には推定樹齢400年の紅しだれ桜があります…この桜は「伊達政宗」が桜の苗木を将軍家に献上する途中、住職に所望されてそのうちの1本を現在地に植えていったものと伝えられています。

左は「戦死供養塔(戊辰戦争東軍)」と右「関川寺館跡(城跡)」です。
17:50ごろ「白河駅観光案内所」にチャリを返却しました…今日は「宇都宮」に宿泊するんだけど、この先の沿線上に高校時代の友人が住んでてさ。
一応、事前に連絡してあって友人の仕事が早く終われば「西那須野」、遅ければ「宇都宮」で晩ゴハンを一緒に食うことにしてたんだわ。

まだ連絡が来ないので「西那須野」までの切符を買ってホームで列車を待ってたら友人からLINEが来て…「西那須野」で会うことになりました。
18:05「白河」発のJR東北線に乗り、18:35ごろ終点「黒磯」で下車し、18:47発のJR宇都宮線に乗り換えて発車を待ってたら、同じ車両にいたオッサンが窓ガラス越しに外をカメラで撮ってるんだわ。
「何やってんだ?」と思いつつ、「ココ、トンネルの中だっけ?」と俺も寝ぼけてたのかな…?女子高生も何を騒いでるのかサッパリ分からなかったんだけど、どうやらいつの間にか反対ホームに列車が停まってたみたいでさ。
そっちが先に動き出して分かったけど、俺が乗ってた車両前に食堂車が停まってたようで…でも列車側面がチラッと見えたけど変わったデザインだったのね。
コレ、帰宅した後にニュースとか見て分かったけど、多分「四季島」だったんだよ。
19:00ごろ「西那須野」で降りて友人と合流し、俺がリクエストしていた「宇都宮餃子」を食べに行きました。

友人も言ってたけど「宇都宮餃子」って特に定義が無いから、その辺で食べる餃子と何も変わらないよ…って、確かにそうやね。
俺は去年、父のこともあって飲み会に参加できてなかったから、その友人に会うのも久しぶりだったなぁ。
そして21:20「西那須野」発の宇都宮線に乗り、22:00すぎに「宇都宮」に着きました。
それから歩いて22:30すぎ、前回も泊まったネットカフェに着きました…ココはマットブースが広くてイイんだよぉ、駅から近けりゃもっとイイんだけどさ。
もう遅いんでシャワーは借りず、「極黒のブリュンヒルデ」を3冊読んで力尽きたわ…0時すぎには寝たろうか?翌日は4時起きだぞー


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はいふり in 記念艦「三笠」

2016年10月30日 | 幕末~明治史跡めぐり
10月30日(日)
今日は先週(22日)にも乗艦した(晴風艦内放送公開録音)記念艦「三笠」に再び乗艦して来たよ。
何でまた地元民が2週続けて「三笠」に乗艦したか?と言うと…昨日29日~11月13日まで「VR戦艦大和 竣工記念式典」が三笠で開催されて、それを観に行ったんだわ。

11月23日に発売される同ソフト?の体験イベントのようで…事前にネットでチケット(¥300)を購入して行ったよ。

ヴィルヘルミーナ「今週も三笠公園に何の用じゃい?」

知名もえか「今日はVR戦艦大和を観に来たんですよ」

俺がネット購入したチケットは10:30~12:00なんだけど、何せ詳細が何も分からなかったんだよ…「三笠」内のどこでやるのか?1時間半も掛かるのか?…などね。
だから10:20ごろには「三笠」に乗艦したよ…最初、講堂でスクリーンでも観るのかと思ったけど違うし、どこ行きゃイイのか迷っちゃったよ。

中甲板より下に降りたの初めてだ…このメガネ?とヘッドホンで観たんだけど、5分もしないで終わっちゃったよ。
確かに最初は「わぁ~」って思ったけどさぁ…もうチョット観たかったなぁ、でも体験版だもんね。
コレなら先週もやってれば1回の入艦(¥600)で公開録音(無料)とVR戦艦大和(¥300)が観れたのに、2週続けて「三笠」入艦料掛かっちゃった。
もしかして終わるの12:00か?…と想定してたんで時間が余りすぎ、しかも¥600掛けて5分で出たんじゃもったいないからさぁ、引き続き「はいふり in 記念艦三笠」として艦内めぐりすることにしたよ。
もう何度も観てる(先週も)艦内だけど…「はいふり」キャストにレポートしてもらいましょう。

まずは中甲板からね。

 
宗谷ましろ「仕官室は大尉から中佐までの士官が、担当する砲術、航海、機関などの職務や分隊人事等の事務を行い、会議や食事の場所としても使っていました」

万里小路楓「あら?ラッパがございますわ」


伊勢桜良「狭いお風呂はイヤよぉ」

伊良子美甘「えっ?ココは食器室ですかぁ?」

長官公室は東郷連合艦隊司令長官が隷下の艦隊司令長官、艦長などを召集して会議を行なう際に、また東郷司令長官が来客を接遇する時に使われました。

ココは東郷司令長官が執務された長官室です。

西崎芽依「東郷サンとツーショットよ」

納沙幸子「コチラには東郷サンの遺髪があるようです…」

岬明乃「艦長公室にある屏風だよ」

「筥崎宮敵国降伏御守護」だって~


和住媛萌「コレもユニットバス…なのかなぁ?」

柳原麻侖「おぉ、機関長室もあるじゃねぇか」

柳原麻侖「…って、タンスの上がベッド?で、あとは机があるだけかよ…」


納沙幸子「参謀室ですね…さしずめ私は晴風の参謀といったところですかね」

宗谷ましろ「おいおい…誰が参謀だと?」

宗谷ましろ「あ、ココが副長室です」

知床鈴「ココは航海長室ですけど…今はロシアルームになってますね」


立石志摩「日本の三笠」

姫路果代子「イギリスのヴィクトリー」

松永理都子「アメリカのコンスティチューション」

その3隻が“世界三大記念艦”なんだよ。

揚弾薬筒です…倉庫から弾薬がこの筒から揚げられて…この補助砲で使われたのかな?

特別展「三笠秘蔵 連合艦隊 艦隊コレクション」の一部を紹介します。

航空母艦「加賀」「赤城」はカッコいいなぁ~

知名もえか「武蔵ですね」

「日向」「伊勢」&「榛名」「霧島」だよ。

立石志摩「多摩?」

「摩耶」「高雄」&「伊401」「伊400」です…アルペジオだね。

鏑木美波「病院船の氷川丸だな」

「氷川丸」&「三笠」です…どちらも現存してるよね。(氷川丸は横浜市の山下公園にあるよ)

中央展示室に入ってみました。


知床鈴「こんな大きな舵、回せませんよぉ~」


岬明乃「私も東郷サンのような立派な艦長にならないとね」

ヴィルヘルミーナ「アトミラール・トーゴー、ワシも尊敬しとるぞ」


野間マチコ「私の目だって負けないわ」



八木鶫「いろんなグッズがあるんですね」


知名もえか「先週、ミケちゃんたちが公開録音やった講堂だね」


上甲板に行きまーす


立石志摩「主砲OK」

ヴィルヘルミーナ「30センチ主砲は迫力あるのぉ」

納沙幸子「最大射程約1万mです」

柳原麻侖「やっぱよぉ、主砲ってのは戦艦の顔だよなぁ」

内田まゆみ「ですよねぇ~」


艦橋部に上がります。
 
野間マチコ「昇ってもイイかなぁ?」


勝田聡子「ココは海図室ぞな」

日置順子「コレは60cm信号探照灯です」


岬明乃「艦橋(操舵室)に入ると緊張感が高まるよ」

知床鈴「この舵回してみたいな」

最上艦橋に上がりました…でもスゲェ風だったよ。

宗谷ましろ「この最上艦橋は日本海海戦において東郷平八郎連合艦隊司令長官が戦闘の指揮をとった場所です」


納沙幸子「いよいよ最終決戦の時であーる」

下が艦橋、上が最上艦橋だよ…けっこう狭いよね。

装甲艦橋内にも操舵室と同じ設備があるよ。

武田美千留「コレも信号探照灯よね?」

西崎芽依「撃ちた~い

また上甲板に戻りました。


駿河留奈「ウチの機関長ならどんなトコでも寝れるわ」

立石志摩「ウィ」


小笠原光「一発必中

機械水雷だって~


知床鈴「わぁ…なんか忙しそぉですね…」(15センチ副砲)

万里小路楓「36式無線電信機ですわね」

宇田慧「モールス信号で打電してるんだね」

建造当時の甲板(チーク材)です。

納沙幸子「三笠のスペックです」


山下秀子「後部主砲って目立たない存在ですよね」

鏑木美波「救急室だぞ」


青木百々「右舷の補助砲ッス」

11:50ごろ「三笠」を降りました。

黒木洋美「30ポンドカノン砲よ」

若狭麗緒「コレは鎮遠(清)の砲弾ね」

広田空「やっぱり戦艦は迫力が違うわよね」

等松美海「ぜひ皆さんも三笠を観に来て欲しいわ」



杵崎ほまれ「ようやく私の出番ね…あれ?あかねはまだ?」
 
和住媛萌「サイカヤパーキングって萌えよね」

伊良子美甘「私とは関係無いですから」

杵崎あかね「お昼はモアーズシティ横須賀8階でラーメン食べました~」

俺のブログ内では割とよく登場する「三笠」(三笠公園)だけど、日本海海戦で活躍した戦艦がそのまま観れるってのがスゴイでしょ?
大和ミュージアムだってハコは立派な博物館だけど、戦艦実物じゃあないからね~
横須賀はグルメ(海軍カレー、ネイビーバーガー、チェリーチーズケーキ、まぐろ←三浦市か?)あり、歴史(旧軍港や軍事施設、浦賀)あり、そしてアニメ聖地(たまゆら、蒼き鋼のアルペジオ、ハイスクール・フリート)がある楽しい街ですよ~


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横須賀~江戸城~靖国神社の桜めぐり

2016年04月03日 | 幕末~明治史跡めぐり
4月3日(日)
では、週末に観て来た「桜」をレポートしまーす。

4月2日(土)

まず2日は10時に「たまゆら」第4部の劇場限定版BDなどを買った後…

近くの「ヴェルニー公園」に行きました。

護衛艦「いずも」とサクラだよ。

いつもと変わらぬ光景です。

前にあるのは、メルキュールホテル横須賀です。

キレイだよ、サクラ

コレは「神奈川県立保健福祉大学」です。

コレは安浦公園にある「安浦町埋地殉難者供養塔」です…大正時代の埋立て工事で犠牲になった17名を慰霊しています。

それから「海上自衛隊横須賀地方総監部 田戸台分庁舎」に行きました。

ココも毎年、サクラの季節に5日間ほど解放されていて、家から歩いて行けるんで…ここ3、4年くらい毎年来てるよ。

大正2年、旧海軍横須賀鎮守府長官の住まいとして建てられ…終戦まで34代の長官が居住しました。

コレはシダレザクラかな?

中も見学できます。

第23代連合艦隊司令長官、第37代内閣総理大臣(昭和15年)だった「米内光政」も1935年(昭和10年)第33代横須賀鎮守府司令長官を務めていました。

去年は呉の鎮守府長官官舎(呉市入船山記念館)を見学しているよ。

ココは龍馬の妻「お龍」が荼毘に付された「聖徳寺」です。

子供のころ住んでたトコ…いつもこの辺りで遊んでた。

「中央公園」に行ってみました。

ココは旧日本軍の演習砲台跡を利用して造られた公園です。

お次は横須賀市立中央図書館前の「読書公園」に行ったよ。

ヴェルニー公園、中央公園、読書公園…みな「たまゆら」に登場します。
この日観た第4部でも東京の大学を受験しに来た「楓」が「ちひろ」の家に泊まったので、3年ぶりに2人で一緒に来てたね…あのパンダはいつ設置されたんだろ?

ひね生姜?の遊具。

コウたんの樹。

「はまゆう公園」だよ。

「楓」がお父さんの(形見の)カメラで最初に写真(被写体は「ちひろ」)を撮ったトコと…「楓」が汐入で住んでいたマンション。
ちょっとだけ「たまゆら」とコラボした近所の桜めぐりでした~

4月3日(日)

3日は「幕張」に行った後、京葉線で東京駅に戻ったので丸の内側から出て…

この日まで延長(元々3月31日までで、俺は3月27日に来てる)された「皇居乾通り一般公開」に再び行って来ました。

もう13時なんで…前回(27日)同様、止まることなく進むことは進みます。

コレは「坂下門」です。

天気は1週間前(27日)の方が良かったけど、サクラは今が見ごろ。

でも1週間後、また来ることになるとは思わなかったな。

「宮内庁庁舎」と「富士見櫓」です。

27日のブログ見比べると全然違う(桜が咲いてる)でしょ…だから今日まで延長されたんだけどさ。

山下通りです。

この石垣の反りが…って、もうイイ?

この日は77,350人が来たらしいです。

やっぱ桜イイよね~

この花は何だろ?

1週間前、ソメイヨシノは咲いてなかったもんね。

今日また来たのは単に今日まで延長されたからじゃないんだわ…この前は、ただ「乾門」まで真っ直ぐ歩いて出ちゃっただけでさ。

西桔橋を渡ると「天守台」まで行けるみたいだったんで…

でも公開が延長されなければ来てないし、もちろんコッチに出て来る用事が無きゃ来てないよ。

俺の場合、桜<城 なんだよね。

もうココまで来ちゃうと「乾門」には戻れないけど、絶対コッチ(皇居東御苑)に行くべきだよ

このピンクのもツツジの一種みたい?

そしてコレが「天守台」です…1606年「黒田長政(官兵衛の嫡男)」によって築かれました。

やっぱ俺は「皇居」というより「江戸城」として観ちゃうんだよな~

本丸広場です。

コレは「桃華楽堂」っていうらしいんだけど、何するトコ?

江戸城天守台はこういう一般公開のときじゃないと観れないからね~

本丸広場にもサクラがいっぱいあったよ。

外国人も多く来てたね。

こうやって花見をしてる人も多かったけど…もっと天気が良ければねぇ。

だから写真も暗い感じで撮れちゃってるもんな~

まだ蕾もあったから満開ではないんだね。

明暦3年(1657年)「明暦の大火」により天守を含めた城構の多くを焼失しますが町の復興を優先し、また経済的な理由から天守は再建されませんでした。

コレは何だ?

とりあえず「江戸城」から出ることにしました。

コレは「大番所」です。

石もデカくない?

コレは「百人番所」です。

「江戸城」広いよね…ドコ歩いてるのかよく分からなかったわ。

もうチョット時間を掛けて隈なく散策してみても良かったんだけど…疲れるからやめた。

帰りは「平川門」から出ることにしました。

「平川門」を出ると「丸紅本社」があるよ。

内堀通りを…

「日本武道館」方面に行きます。

「清水濠」沿いを歩いて…

九段下に着いたよ。

「江戸城」の後は「上野」か「六義園」に行こうと最初は考えてたんだけど…もう14時すぎてたから「靖国神社」に行くことにしました。
…って、何か参道が凄いことになってそうなんで入るのやめようかと思ったけど、脇道から渋滞エリアを回避したよ。

靖国神社」も去年の12月19日に来てるんだけどさ…

今回は「遊就館」を見学するために来たんだよ。

おぉ、コレが開花観測に使われる「標本木」だよ(写真左ね)

そして、ついに「遊就館」に入りました…って、今まで何度もチャンスはあったけど入館料¥800だったんでケチって観てなかったんだわ。

玄関ホールの「零式艦上戦闘機」は無料で観れます。

館内の大展示室にある艦上爆撃機「彗星」です。

上のはロケット特攻機「桜花」で…上空から敵艦目がけて体当たり攻撃してたんだって。

人間魚雷「回天」です。

こんなのに人が入って敵艦に突っ込んでたんだよ…

コレは回天四型胴体です。

「遊就館」には「回天」や爆撃機を観るために入館したようなモノだね。

他の展示室には…やはり戦争関連が多いよね、戦国時代の武具や甲冑もあったけど。

遺品など…

日本赤十字の衣装?
時間があればもっとゆっくり観れたけど…18時前には横須賀に戻ってなきゃいけなかったので。

参拝しようかと思ったけど…こりゃダメだ。

日本の首都「東京」で日本の国花「桜」を観賞する…

それも「皇居」や「靖国神社」という日本を象徴するトコでね。

ラッパみたいのが聞こえたと思ったら…帝国軍人がいるぞ。

コレは毎日やってる儀式か何か?

帰りは参道を通ってみたよ…盛り上がってるなぁ。

「大村益次郎」銅像です…今日はアップで撮ってません。

それにしても凄い人出だったなぁ…上野もいっぱいだったろうな。

何かこう天気も良くないから…今週末まだ観れるんじゃないかね?
でも、久々に都内で桜を観たかも…ちゃんと桜を観るために都内まで行ったの2003年以来じゃないかな。
もし今週末も咲いてたら、またどっか(近所)行ってみようかな。


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ぶらり中央区周辺めぐり

2015年12月19日 | 幕末~明治史跡めぐり
12月19日(土)
今日は夏休み以来4ヶ月ぶりに都内に行って来たよ。
ちょっとした買い物ついでに史跡ハントも実行するという、俺のお得意パターンね…だって都内に出る交通費だってバカにならないからね。

まず、8:27「横須賀中央」から特急に乗ったんだけど…何と「京急イエローハッピートレイン」だったよ
コレ、乗るの2度目(2014.5.29以来)だよ…電車通勤になってから見かける頻度は上がった(それでも月に1~2度かな)けど、なかなか自分が乗る列車に当たることは無いからね。

「追浜」で座ることができ…9:35ごろ「東銀座」で降りました。

地上に出るまでの通路…コレ、遺構じゃないよね?

コレは「銀座三越」です。

コレは「銀座和光」です…銀座を象徴する建物だよね。

「俺の揚子江」(中華料理店)だって…「俺のフレンチ」って聞いたことある(実際この日に新橋あたりで見た)けど、それの中華版?

コレは「歌舞伎座」です。

俺、歌舞伎は観たことないなぁ…ザ・グレート・カブキなら観たことあるけどね。

歌舞伎座の向かいにあった「ぐんまちゃん家」だって…今年は3月に「高崎」や「富岡製糸場」に行ったよ。

コレは「新橋演舞場」です。

そして築地場外市場へ…築地って銀座の近くだったんだね。

やっぱ市場だから早いの?10時ごろでも、もう人で溢れかえってるよ。

コレは近くにある「水神社」です…この魚河岸水神社は、天正18年(1590年)「徳川家康」の江戸入府とともに移住してきた摂津国の佃村・大和田村の漁師たちが、大漁・海上安全と子孫繁栄を祈願して「弥都波能売命」を祀った「大市場交易神」がはじまりです。

明治34年には神田神社の境内に「水神社」本殿が建立され、日本橋魚市場は関東大震災以後に築地に移転し、現在地に遥拝所が建立されました。
以来、築地魚市場の守護神として「水神さま」と呼び、魚河岸会の人々の篤い崇敬によって大切に守られています。
この場所は、江戸時代は松平定信庭園跡で、明治維新後は海軍用地となり、境内にある「旗山」の碑は、日本海軍発祥のゆかりを記す貴重な史跡です。

外国人もいっぱい来てたよ。

吉野家が初めてお店を構えた築地一号店だよ…この店は、米国でのBSE発生による牛丼の販売休止の期間中、国産牛肉を使用して牛丼の販売を継続していたんだよね。

時間も早いし、込んでるし…ただブラ~っと見ただけで出たよ。

コレは「波除神社」です…およそ350年前、この築地一帯は一面の海でしたが、埋め立て工事は難航していました。
ある夜のこと、海面を光り放って漂うものがあり、人々は不思議に思って船を出してみると…それは立派な稲荷大神の御神体でした。
皆は畏れて、早速現在の地に社殿を作りお祀りして、皆で盛大なお祭をしました…それからというものは波風がピタリとおさまり、工事はやすやすと進み、萬治2年(1659年)埋立も終了しました。

コレは獅子殿の「厄除天井大獅子」、弁財天社の「お歯黒獅子」、「玉子塚」です。

この辺りに幕末、「軍艦操練所」がありました…安政4年(1857年)講武所内に軍艦教授所として開設されました。

「勝鬨橋」に行ってみたよ。

袂の「かちどき 橋の資料館」(無料)に入ってみました。

建設時「勝鬨橋」は船を通すために中央部が開く構造になってたんだよ…コレは当時の発電設備です。

昭和45年11月29日を最後に開閉を中止しているそうだけど…まだ開けるの?

俺が「勝鬨橋」を知ったのは、かなり昔に「こちら葛飾区亀有公園前派出所」を読んだときだったよ。

「勝鬨橋之記」碑と「海軍経理学校の碑」です。

「勝鬨」の名は明治38年の「日露戦争」勝利を記念して、築地と月島間に設けられた新たな渡し場である「かちどきの渡し」に由来しています。

半分くらいまで渡ってみたよ…別に向こう側の「月島」に用は無いので。

この橋、けっこう揺れるんだよな…ちょうどこの辺が真ん中なんで、せり上がって開くトコだね。

コレは「電信創業之地」碑です…明治2年、我が国最初の公衆電気通信が開始されました。

ココは「あかつき公園」です…園内に「シーボルト」の胸像がありました。
江戸の蘭学発展に貢献(ココが蘭学発祥の地)し、娘「いね」が築地に産院を開業したこともあって胸像が建てられたんだって。

聖路加タワーです。

その近くにある「ヘンリー・フォールズ住居の跡」です…宣教師・医師であった英国人「ヘンリー・フォールズ」(1843年~1930年)は、日本の指印の習慣から「指紋は個人認識に利用できる」ことを発見しました。
それからイギリスでの研究で「指紋は個人によってすべて異なり、遺伝によって受け継がれず、一卵性双生児でも異なった指紋を持つ」ことが立証されます。
ヘンリー・フォールズが上記のことを立証したことで、後に日本の警察が指紋法を採用します。
指紋法によって今日までに多くの犯罪が解決に繋がり、そして指紋法の採用から半世紀後の昭和36年、その功績を称えて記念碑が立てられました。

目の前の「聖路加国際病院」です…ココの売店でちょっと買い物して…

周辺の記念碑をハントします。

コレは「立教女学院 築地居留地校舎跡記念碑」です…湯島より1882年に移転して新校舎を建設し、1923年の関東大震災まで教育事業が継続されていました。

コレは「聖路加国際病院トイスラー記念館」です…昭和8年に聖路加国際病院の宣教師館として建設されました。

トイスラーは1900年1月、聖公会宣教医師として来日…翌年の1901年に聖路加病院を設立しました。

コレは「アメリカ公使館跡石標」です…当初は安政6年(1859年)に麻布の善福寺に開設されていましたが、明治8年(1875年)に築地の外国人居留地内のココに新築されたそうです。

コレは「立教学院発祥の地」碑です。

コレは「日本の近代文化事始の地」碑です。

「慶応義塾発祥の地」碑です…安政5年「福沢諭吉」がココに学塾を開きました。

「女子学院発祥の地」碑、「芥川龍之介生誕の地」看板、「浅野内匠頭邸跡」碑…です。

それから「築地本願寺」に行きました…って、寺っぽくないね。

コレは「陸上交通殉難者追悼之碑」です。

コレは「親鸞聖人」像です。

コレは「九條武子夫人歌碑」です。

コレは「酒井抱一」墓です…江戸時代後期の絵師、俳人です。

「森孫右衛門供養塔」、「間新六供養塔」、「土生玄碩」墓です。
「築地本願寺」を出て「築地」から日比谷線に乗り、「茅場町」で降りました。

コレは「日本橋水門」だって。

そして箱崎公園に着きました…ココには「吉田松陰」像があるんだよ
近くに水天宮ピットという建物があるんだけど、そこに旧東京市箱崎尋常小学校があった昭和12年の末、当時小学6年生だった女子が病気で亡くなったそうです。
その女子は「吉田松陰」の生き方に感銘を受けていて、亡くなる前に貯金で校庭に銅像を建てて欲しいという遺言を残していたんだって…そして昭和13年に銅像が建てられました。
平成22年、ココに移設されて来たらしいんだけど…個人的な理由で建てられる有名人の銅像も珍しくて、今回中央区を散歩するにあたって知った情報だったからね。

それから歩いて「水天宮」へ…って、今ココ工事中なんでホントは箱崎に行くのやめようと思ってたんだけど、箱崎公園の「吉田松陰」先生に会うために来ちゃったからさ。

まぁ仮宮があるらしいんで行ってみました…途中の浜町緑道にある勧進帳の「弁慶」像です。

明治座と道路を挟んだトコに「水天宮」(仮宮)がありました。

平成28年春に新社殿竣工だそうな…って、この「水天宮」ってのは子供が授かるように祈願するトコなの? 妊娠後の安産祈願? 生まれてからの健康祈願?…どれでもイイのかな?

近くにあった明治観音堂です…昭和20年3月10日の大空襲により亡くなられた方々の冥福を祈るために建立されました。

甘酒横丁にはTBSドラマ「新参者」にも登場した手造り小物「ゆうま」や手焼煎餅「草加屋」があったよ…このドラマ、DVDにしてあるから年末年始休みに観ようかな。
「水天宮」が工事中じゃなければコッチの方まで来なかったろうな…そして「水天宮」から半蔵門線に乗って「九段下」で降りました。

コレは「田安門」第一の門(高麗門)です…後ろに見えるのは「日本武道館」だね。

九段下公園には「品川弥二郎」像と…

陸軍元帥「大山巌」像があります。

大山元帥は今年3月の史跡ハントで「那須」に行ったときに墓参りして来たね。

公園?ってくらい小さいんだけど、今までこれらの銅像に気づかずだったんだよね…

この建物は何だろう?

そして「靖国神社」へ。

今年は戦後70年だったんだよね…あの時代、世界が狂ってたんだよ、やらなきゃやられるみたいなさ。
元は1894年に起きた「日清戦争」だよ…元凶は朝鮮で「東学党の乱」ってのが起こり、その内乱を鎮圧するために朝鮮政府は「清」に援軍を頼むんだけど、それに対して日本も軍を派兵してさ。
朝鮮の支配をめぐり清と日本が対立し「日清戦争」が勃発するんだけど、“眠れる獅子”といわれていた大国「清」に勝っちゃったのよね~
その頃の朝鮮半島はロシアにも狙われていたからさ…ここで朝鮮を支配できないと、その後日本も狙われる可能性があったワケなのよ。
今の社会秩序からは考えられないね…世界中のアチコチで侵略が繰り返されていたんだから。
翌1895年には「日清戦争」後の下関条約で得た清の遼東半島に対してロシアがドイツとフランスを仲間にして遼東半島を清に返還するよう言ってきて(三国干渉)、日本は仕方なく遼東半島を手放すことになるのね。
それから清では義和団事件が起こり、ロシアも鎮圧軍を派兵していたんだけど…鎮圧後も満州(中国の東北部)に軍を留めて南下政策を推し進めようとしていたんだわ。
それに対して日本はロシアと対立していたイギリスと日英同盟を結び、ロシアに圧力をかけると3回に分けて撤兵するという約束を1回しか実行せず…満州の権利をロシアに認める代わりに日本の朝鮮支配を認めさせようとするんだけど、これも聞き入れられず…ついに1904年「日露戦争」へと発展しちゃいます。
それに勝利した日本は「日韓併合」で韓国を植民地化し、1914年の第一次世界大戦で日英同盟を理由に中国のドイツ基地を攻撃し…中華民国(中国)に「対華21ヶ条要求」を突き付けます。
その後は1931年に満州鉄道爆破事件がキッカケ(自作自演?)で日中戦争に突入、1932年に清国最後の皇帝「溥儀」を擁立して満州国建国、1941年にはアメリカに宣戦布告して太平洋戦争が始まってしまいます…何て時代だよ

第一鳥居から第二鳥居までの参道ではフリマやってたよ。

今まで「大村益次郎」像は高くてアップで撮れなかったけど、この前買ったズームレンズで撮ったよ。

コレは第二鳥居です。

コレは神門です。

コレは中門鳥居です。

コレは拝殿です。

コレは能楽堂です。

コレは遊就館です…遺品などを収蔵、展示する施設です。

遊就館は入館料¥800もするんで今回も入らなかったよ…でも玄関?までは入れます。
なぜか「C56型31号機関車」が展示されています。

「89式15糎加農砲」と「96式15糎榴弾砲」です。

零式艦上戦闘機の機銃と座席です。

零式艦上戦闘機です。

外にある「青銅八十封度陸用加農砲」です。

特攻勇士之像です。
それから「九段下」から半蔵門線に乗り、「三越前」で降りました。

コレは「日本銀行」だね。

「貨幣博物館」(無料)に入ってみました…中は撮影できず。

「日本銀行(旧館)」向かいの三井住友銀行(左)の建物も古そうな感じ。

確か上から見ると「円」の形してるんだよね?

それから東京駅へ…地下の一番街で買い物して丸の内側に出たよ。

そして有楽町方面に向かって歩いてたんだけど、今日はスゲェ風が強かったなぁ。

丸ビルの辺りかな?これもヒュッテでいいの?

有楽町に着いて、ついに「西銀座チャンスセンター」に行ったんだけど…スゲェ行列だったよ。
2・3・5番窓口で40分待ち…1番窓口で3時間待ちって言ってたかなぁ? もう15時過ぎてたし、40分待ちの方でも並ぶ気にならなかったわ。

ココは「帝国ホテル」だね…まぁ縁の無いトコだわな。

その隣のNBF日比谷ビルは…1883年に国賓や外国の外交官を接待するため、明治政府によって建てられた社交場「鹿鳴館」があった地です。

コレは「日比谷公会堂」だよね。
当初はこの後、省庁街に行ってみようと思ってたけど、疲れたんで「新橋」に戻りました。

「汐留シティセンター」内には「有馬記念」のコーナーがあったよ。

そして「鉄道歴史展示室(旧新橋停車場)」に行きました…地下から行ったからか?場所が分かりづらかったなぁ。
この建物は1872年(明治5年)に開業した日本最初の鉄道ターミナル新橋停車場駅舎の外観を当時と同じ位置に、できるだけ忠実に再現したものです。

コレは「正面階段遺構」です。

コレは「プラットホーム遺構」です。

小さなメリーゴーランドがありました。
企画展示室は撮影禁止で…今の企画展は「駅弁むかし物語」だったよ。

その後「日テレタワー(日本テレビ本社)」の日テレ屋(ショップ)に行ったんだけど…東京駅一番街の方のショップでも売り切れていた商品は、コッチでも売り切れてたわ。
それから「カレッタ汐留」にも行く予定だったけど…もうやめたよ、今日はイベントもあったみたいだけどさ。
「新橋」駅に着いたら、ちょうど16:18発の京急直通の浅草線が来たよ…乗っても空いてる席は無かったけど優先席前で立ってたら20代の女性に席譲られたよ。
でも誰かが降りて座れればイイんで断ったよ…優先席だし、俺は杖を持ってるから譲るのは当然とも言える行為だと思うけど、俺もそこまではヒドくないから悪くてさ。
運良くスグ「泉岳寺」で座れたんで…買えなかった年末ジャンボを「横浜」で買うために途中下車しようかと思ったけど「もうどこで買っても同じだ」って諦めたわ。
なので「横須賀中央」で降りたあと、商店街の中の宝クジ売場で買っちゃった…だから20枚だけにしたけどね。

今日の戦利品は「聖路加国際病院QP」と一番街のフジテレビショップで買った「めちゃイケQP」3種だよ。
結局、また何も食わずに歩き回ってたよ…けど、やっぱ土日の2日休みがあるとどっか行きたくなっちゃうね~


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ちょっと広島→坂の上の雲「松山」編

2015年11月02日 | 幕末~明治史跡めぐり
11月2日(月)2/2
山口県「萩」の史跡ハント後、「新山口」を経由して「広島」に戻って来たよ
うぉ~天気もメチャ良いじゃん 何か昨晩は降ってたみたい?だけど、俺が来るってんで晴れたんだな。

⑧安芸国・広島編

10:57「新山口」発こだま738号に乗り…11:45ごろ「広島」に着きました。
今日の午後は愛媛県「松山」がメインなんだけど、フェリーの時間までの約1時間を「広島」の史跡ハントに使うことにしたんだわ。
ココ「広島」も朝までいた「萩」と同様、9年ぶりなんだよ…そのときは日本語教師として中国に赴任する前に史跡ハントをしながら「下関」に向かってたんだよ。
神奈川(家) 京都 広島 下関 中国山東省青島へと行ったんだけど、そのとき「広島」では「宮島」「平和記念公園(原爆ドーム・広島平和記念資料館)」「広島市民球場(ナイター観戦)」に行ったんだわ。
今回はたった1時間しか無いんで前回は外観しか観ていない「広島城」を観て、次の目的地「松山」まで行くフェリーが出る「広島港」まで行くよ。

最初、路面電車乗って「紙屋町」辺りまで出ようと思ったんだけど、歩いた方が早そうなんで地図アプリ見ながら歩くことにしました。

12:15ごろ周辺に着きました…この像は広島出身の第58-60代内閣総理大臣「池田勇人」です。

廣島護国神社の鳥居を抜けると…

堀や櫓が見えてきたよ。

「広島城」は別名「鯉城(りじょう)」ともいわれ、広島東洋カープはこの「鯉」に因んで名付けられたんだよ。

「広島大本営」は1894年(明治27年)に勃発した日清戦争の指揮のために広島市の広島城内に設置されました。

9月13日に大本営が宮中からこの地に移転し、2日後の9月15日には戦争指揮のために明治天皇が移られました…このため、行宮の役割も果たしました。

明治天皇は日清講和条約(下関条約)調印後の1895年(明治28年)5月30日までの227日間この地で指揮を執った後、東京に還幸しました。

この石は旧天守閣柱下の礎石を掘り起こして原型のまま移されたものです。

玉石排水溝の内側が天守台の大きさです。

「広島城」に入りました。(入城¥370也)
戦国時代「毛利輝元」が築き、関ヶ原の合戦の後「福島正則」が城主になっています。

あんま時間無いんでザッと観てスグ天守閣へ。

天守閣からの景色だよ。

今回は観る時間が無いけど、ココで「原爆ドーム」のドーム部が見えました。

12:30「広島城」を出て…コレは「護国神社」です。

七五三だったんだね。

二の丸を抜けると…

堀周辺の木々も紅葉してきてるね。

コレは太鼓櫓かな?

菊・鯉・城・球場。

御門橋と表御門です。

正面は平櫓です。

左から平櫓・多聞櫓・太鼓櫓です。

12:50…もう時間は無いんだけどチェックしておいた「汁なし担々麺」を食べに行ったんだけど…やっぱ行列できてたんで諦めたよ。

その後スグ、タクシーを拾い…13:10ごろ「広島港」に着きました。
ついに“タクシーカード”(そんなの桃鉄に無いか)まで使っちゃったよ…この路面電車だと立町辺りから乗ることになるのかな?
でも路面電車って信号で停まるし、速度も遅いんだよね…広島港まで40分近く掛かるんだもんよ。
コレも“時は金なり”だよ…約40分掛けて¥150くらいで行くか? 約20分で¥1,750掛けるか?だもん。
時間があれば、ゆっくり路面電車で行くけどさ…俺の旅は余裕が無いもんで。

⑨伊予国・松山編

「広島港宇品旅客ターミナル」で予約しておいた(多分予約はしなくてよかったろうけど)乗船券を発券手続きしました。
スーパージェットの通常¥7,100が、片道割引でそれでも¥6,850だよ…クルーズフェリーだと¥3,600なんだけど、時間がさぁ。
クルーズフェリーは呉港経由で2時間40分も掛かっちゃうんだけど、スーパージェットだと呉港経由無しのこの便で1時間8分で着くんだよ
料金ほぼ倍で時間半分以下か…でもさぁ「広島」から速く「松山」に行かないと松山で何も観れなくなっちゃうからさ、仕方ないわ。
“新幹線カード”に続き“高速フェリーカード”(それも桃鉄に無いよ)まで使っちゃったよ…

コレが¥6,850のスーパージェットだな。

「松山」に行くのに宮島号?

ターミナルビルだよ。

予定通り13:30出航したけど…乗客20人もいないんじゃね?

座席にコンセントがあったんでスマホ充電できちゃった…スグ電池減るんだもん。

船窓からの景色だよ。

雨の予報がこんな快晴になったんだもんな…普段の俺の行いかな。

コレは石崎汽船のクルーズフェリー「旭洋丸」です…もしクルーズフェリーに乗ってたらコレだったのかもね。

この橋は?

本日天気晴朗ナレドモ浪高シ…これは「秋山眞之」が日本海海戦のとき、大本営に向けて打電した言葉。

14:40すぎ「松山観光港」に着いたよ…松山も朝は雨が降ってたみたいよ。

当初、ここから歩いて「高浜(駅)」に行って、伊予鉄道に乗り「大街道」まで出る予定でいたんだけど…「松山観光港」前から「高浜」や市内に行くバスが出ててさ。
ちょうど「大街道」に行くバスがあったんで、それに乗っちゃいました。(¥570也)

バスの車窓から撮りました…俺は路面電車が走ってる街が大好きだぁ~

おぉ「坊ちゃん電車」ってヤツじゃない?どの区間走ってるんだろ?

山の上に「松山城」が見えて来たよ

「大街道」で降りてからスグ、15:30「秋山兄弟生誕地」に着きました。(入場¥300也)

兄「秋山好古」大将像です。

弟「秋山眞之」中将像です…海上自衛隊幹部学校にある胸像の複製です。

この兄弟(と正岡子規)は司馬遼太郎「坂の上の雲」で描かれていますが、ココ愛媛「松山」出身なんだよ。

復元された秋山兄弟の生家です。

中の資料を見学しました。

コレは戦艦「三笠」船体及び蒸気機関模型だって…日露戦争でロシアのバルチック艦隊を破った連合艦隊の旗艦が横須賀にある記念艦「三笠」だよ。

中には入れません。

眞之が書いた「熟慮断行」? 眞之らしい言葉だね。

秋山兄弟産湯の井戸です。

「秋山兄弟生誕地」を出て、15:45ごろ「松山城ロープウェイのりば」に着きました。
運行しているロープウェイやリフトを使って8合目付近まで登ります…俺は天守閣(¥510)とロープウェイ往復(¥510)のセット券を買ったよ。
今回の史跡ハントでは6城目だよ。

荷物や杖なんか持ってるとリフトはムリだね…ロープウェイのガイドさんは最後に「だんだ~ん」って言うんだけど、方言で「ありがとう」の意味なんだって。

15:50ごろ山頂駅に着き、天守付近まで約10分歩きます。

松山城の石垣も見事だな~

工事中なのは何櫓?

この戸無門は築城当時から門扉が無く、敵を防備の要である筒井門へ誘いこむための戦略的な意味合いで設置されたとみられています。

戸無門を通過して目に付くのは筒井門で、その奥にある隠門は分かり難くしています。これは侵入者の注意を筒井門に向けさせ、そこを破ろうとする敵を隠門から打ち出て、背後から襲う戦略とみられています。

松山城の築城に着手したのは、西国大名であった「加藤嘉明」ですが、広大な平山城の完成直前に会津藩へ転封となり、次に藩主となった「蒲生忠知」が二之丸などを完成させましたが、跡継ぎがいなかったため在藩7年で断絶してしまいます。

そして、1635年に「松平定行」が藩主となり、それ以降、明治維新までの235年間に渡り、松山は四国の親藩としての役目も担いました。

俺、天守閣の入城券買ってたのに忘れてて、またココで買っちゃったみたい。

正面が天守だけど、そう簡単には天守には着かないよ。

一ノ門と筋鉄門です。

左側に大天守の入口があるよ。

鎧などの展示があります。

刀の重さ体験ってのがあったよ…やっぱズッシリ感があるよ、鍛錬が無きゃ振り回せないね。

槍や刀の展示です。

伊予松山藩4代藩主「松平定直」の書物みたい。

長持です。

石落としです。

小天守から見えた景色?だよ。

コレは武器?

あれ俺、天守の階段通り過ぎて出口方面に行っちゃってたよ…ってことで引き返しました。

天守からの景色だよ。

この長い白壁は天神櫓南塀かな?

今、16:20…あと1時間ほどで日没だね。

今まで観て来た城の中でも、かなり広い内部だったよ。

コレは天神櫓です。

櫓や門が多くて何だったか分からん…

正面が小天守です。

松山城マスコットキャラクター「よしあきくん」だよ。

本丸広場の土産屋に寄ってから…

16:40「ロープウェイ山頂駅」に戻りました。
ココで復路券を取り出したとき、天守閣の券使わずに新しいの買っちゃったのに気づいたよ…コレ、払い戻せるのかなぁ?

ロープウェイに乗ったらスグ発進し、山麓駅へ。

行きにチケットを買った売場へ行き、天守(¥510)を払い戻してもらいました。
さっき土産屋で小さいの買ったんだけど「道後の姫だるま」は諸説ありますが、日本初の女帝である神功皇后が道後温泉でご懐妊されたことを記念して、奉り作られたのが由来と言われています。

16:45すぎ「松山城ロープウェイのりば」を出て…

「大街道」に戻り、

16:55ごろ「坂の上の雲ミュージアム」に着きました…ココは入館18時までOKなんでさ。(入館¥400也)

司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」は産経新聞(夕刊)に1968年(昭和43年)4月22日~1972年(昭和47年)8月4日にかけて、4年半にわたり連載されました。(計1296回)

俺、小説は読めないんで…NHKのドラマで観たよ。

前半は「秋山好古」「秋山眞之」の兄弟と「正岡子規」の3人を主人公に、松山出身の彼らが明治という近代日本の勃興期をいかに生きたかを描き、後半は日露戦争の描写が中心となっています。

ドラマは2009年11月29日から2011年12月25日まで足掛け3年に亘ってNHKで放送されたんだけど、このミュージアムは2007年オープンだよ。

もうあんま時間無いんでザッと観て17:10ごろ出ちゃったよ。

萬翠荘は大正11年(1922年)旧松山藩主の子孫にあたる「久松定謨」伯爵が、別邸として建設したものです。

「坂の上の雲ミュージアム」は建築家「安藤忠雄」氏による設計なんだって。

17:20ごろ「大街道」から路面電車に乗ったよ~

17:35「道後温泉」で降りました。

道後温泉駅だよ。

坊ちゃん列車です。

「道後ハイカラ通り」に入ってみます。

土産屋がいっぱいあるよ~

「道後ハイカラ通り」を抜けると目の前に道後温泉のシンボル「道後温泉本館」があります
「道後温泉本館」は宮崎駿監督の映画「千と千尋の神隠し」に登場する「油屋」のモデルになったといわれているんだよ。

道後温泉は「日本書紀」にも登場するわが国最古の温泉です。

1895年(明治28年)松山市の旧制松山中学に英語教師として赴任した「夏目漱石」は、当時まだ新築で木の香り漂う「道後温泉本館」に友人の「正岡子規」や「高浜虚子」と連れ立って来ていたそうです。
漱石は毎日のようにココに通い、代表作「坊っちゃん」の中では“住田の温泉”として登場させています…そして吾輩は猫である。

日本三古湯の一つで、他は有馬温泉(兵庫県)、白浜温泉(和歌山県)なんだって。(日本書紀、風土記などに基づく)

ココって中に温泉があって(もちろん有料で)入れるんだね…俺は時間が無いから外観観ただけ。

また「道後ハイカラ通り」を通って駅に向かいます。

ちょうど18:00で「坊ちゃんカラクリ時計」が作動していました。

終了後、マドンナ?だけ再登場してくれました。

18:05…道後温泉駅に戻りました。

路面電車に乗って「大手町」まで出ます。

路面電車の運転席だよ。

1時間後(19:30)ココから出る高速バスに乗るんだけど、もうバスは停まってるね。

少し歩いてJR松山駅に行ってみました。

なぜ松山駅に今治のバリィさんが?

19:00ごろ駅の並びにあったラーメン屋で担々麺食べたよ…昼に広島で「汁なし担々麺」食べ損ねたからというワケじゃなく、担々麺が好きなので。
そしてさっきのホテルから高速バスに乗ったんだけど…コレが横浜に行くんじゃなく、徳島で横浜方面行に乗り換えるんだってさ。
予定通りなら6:15「横浜」着なんだけど、俺、翌3日は出勤なんだよ…海老名だったかな?で5:45ごろ、トイレ休憩があったんだけどヤバくないか?
休日ダイヤで俺が横須賀中央から乗るのは7:16発なんで、逆算すると横浜を6:50くらいに出るのに乗れないと遅刻だよ~
6:15よりチョイ早く着くくらいだったら朝マックでもしてから出勤しようと思ってたのが一転、遅刻のピンチだわ。
ヒヤヒヤしてたけど何とか20分遅れの6:35ごろYCAT(横浜)に着いたよ~
急いで京急の改札に行くと6:48発だったんで、ウンコする余裕くらいはあったわ。

いや~今回の旅は後半(1日・2日)天気が悪いと覚悟していたのが晴れたり、尾道や竹原、萩も時間がギツギツの中、計画を予定通り遂行できたのは大きかったよ。
呉でネットカフェやホテルが満室でも何とか泊まる?トコを見つけ、最後は時間ギリギリで出勤もできたからね。

今回の戦利品です。
会社の同僚へは広島でレモンワッフルを…クッキーは中学時代に山口文(あや)チャンというカワイイ子がいたのを思い出して買っちゃった。
山口(県)の文(杉文/スギフミ)でネーミングされたんだろうけどさ。
扇子は「高杉晋作」と「吉田松陰」の…この幕末偉人トランプも「萩」で購入したよ。
キューピーは6コあるけど3コはダブっちゃった…でも「杉文QP」はワザと持ってるのに買ったんだな。
この「文と萩物語キューピー」は6種発売されてて、うち5種は数ヶ月前に通販で買えたんだけど「高杉晋作QP」だけ欠品しちゃっててさ。
今回、その「高杉晋作QP」を探すのも「萩」に行った理由の一つなんだけど…やっぱどこも売切れてたわ。
なのでパッケージは同じなんで適当に他の1コ買っておいて、通常の高杉QPを入手してから入れ替えようと思ってね。
あとは最後に「松山」で買った姫だるまだよ。
これで当分、史跡ハントには行かないんじゃないかなぁ…もしどっか行くなら次は九州(佐世保、唐津、高千穂など)、沖縄、函館、台湾かな。
…って、まだ候補地いっぱいだけど強い気持ちはまだ無いんでね…どっか行きてぇ病がいつ出るか?だな。


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幕末史跡めぐり・其之二十九~花燃ゆ、9年ぶりの「長州・萩」編

2015年11月02日 | 幕末~明治史跡めぐり
11月2日(月)1/2
さて、「呉」12:33発の呉線に乗り、13:15「広島」に到着

「広島」13:27発の新幹線さくら555号に乗りました…って、この旅でとうとう“新幹線カード”使っちゃったよぉ。
「さくら」なんて知らなかったけど…JR西日本とJR九州の共同で開発され、新大阪~鹿児島中央間を運行してるんだって。
サイコロが5個になった 新幹線でドコ行ったかって?

今回《シークレット》にしてた目的地への中継地「新山口」に13:58着きました
速く目的地に着くためには大金払うしか手段は無いんだわ…まさに“時は金なり”ってことよ。

「新山口」新幹線口より14:10発の防長バスに乗りました…乗り継ぎに約10分しか無くて焦ってたけど、新幹線と在来線が分かれてたから混雑も無くスグにバス停に着いたよ。

⑦長門国・萩(長州)編/1日目(11月1日)
15:40ごろ山口県「萩」(萩バスセンター)に着きました。
《シークレット》は9年ぶりの長州「萩」だよ 今回、山陽・瀬戸内の史跡ハントを計画してたときに、さすがに山陰の「萩」は1日休みを追加しなきゃムリなんで諦めてたんだわ。
それを「竹原」を31日のみにし、「呉」も11月1日の午前中で終わらせ、“新幹線カード”を使うことで「萩」を組み込むことができたんだよ。
もうこの最終手段でも使わないと在来線じゃ「萩」に着くの夜になっちゃうもんよ…ちなみに翌日は朝発たなきゃならないんで帰りも“新幹線カード”使うけどね。
午前中「呉」にいたのに、15:40「萩」にいるなんて奇跡だな(な~んて)…これでこれから約2時間史跡ハントできるぞ~
萩バスセンターに着いた後は近くの貸自転車店で自転車を借りました…ちょっと曇ってて雨が心配だけど行って来ま~す。

まず向かったのは藩校「明倫館」だよ…コレは「観徳門」で藩校時代の聖廟の中門です。

萩市立明倫小学校の門です。

「南門」は藩校「明倫館」の遺構で、新明倫館の正門として建てられたものです。

隣りの「中央公園」にある「山県有朋」像です。

コレは9年前も観てるんだけど、今年「久坂玄瑞」の像もできてたんだよ…どこだ?

どこか分からず、とりあえず先に「晋作広場」に行きました。

ココ9年前もあったっけ?

晋作広場にある「高杉晋作立志像」です コチラは2010年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」放送時に除幕されたんで、初対面だよ。

そして「高杉晋作誕生地」に行きました…ココは9年前来たとき公開されてなかった(たまたま?)んでね。(入場¥100也)

晋作の妻と息子の写真がありました。

初湯の井戸です。

入れない奥の方。

東行先生誕生地之碑です。

外から観るだけで中には入れないんだよ…

この辺りも「萩城下町」として世界遺産登録されたんだよね。
さて、時刻は16:05…ほぼ予定通りだな、この後は自転車を借りた最大の目的地に向かいます

16:35ごろ県道32号萩秋芳線にある道の駅「萩往還」に着いたよ…ほぼ上りでメチャ疲れたわ。

1993年に「道の駅萩往環公園」としてオープンしました。

ココには「松陰記念館」(¥無料)が併設されているんだけど…入館は16:30まででさぁ、それを何とか入れてもらえました。

松下村塾を実物大で再現したコーナーだよ。

松陰先生は黒船来航時には横須賀「浦賀」にも来ているんだぞ~

松陰先生の「留魂録」です

周布政之助に宛てた「高杉晋作の書状」だって~

外に出ると…

「高杉晋作」「吉田松陰」「久坂玄瑞」の像があります

松陰先生を中央に「松下村塾」の双璧「高杉晋作」と「久坂玄瑞」が脇を固めております

「天野清三郎」「野村和作」です。
天野は16歳の時に松下村塾に入り、明治維新後は長崎造船所の創設に貢献…松陰門下生の中で最も長命で97歳まで生きました。
野村(靖)は16歳の時に兄の「入江九一」とともに松下村塾に入塾しました…維新後は政府高官となり、内務大臣を務めました。

「山県有朋」「木戸孝允」「伊藤博文」です。

木戸は言わずと知れた“維新三傑”の1人で、山県と伊藤は内閣総理大臣も務めているよ。

「品川弥二郎」「山田顕義」です。
品川は慶応元年(1865年)木戸孝允(桂小五郎)と共に上京して情報収集や連絡係として薩長同盟の成立に尽力しました。
山田は明治22年、日本大学の前身である日本法律学校を創設し、次いで翌年、國學院(現在の國學院大学)を設立しました。

「見蘭牛ダイニング 玄」だって…見蘭牛とは国の天然記念物に指定されている「見島牛」と「ホルスタイン」を掛け合わせたものなんだって。

「松陰記念館」や銅像は9年前もあったんだろうけど、萩城下町から離れてたし…当時は知らなかったんだよ。
萩城下町から5Km走って来たのかぁ…でも帰りはほぼ下りなんでラクちんだったけどね。

萩のマンホールだよ。

17:15ごろまた「中央公園」に戻って来ました…コレは明朝行く予定の“花燃ゆ大河ドラマ館”「文と萩物語」です。

それから再度「中央公園」内を散策し…見つけました「久坂玄瑞進撃像」です

コレも明倫小の校舎かな?

小さな神社がありました。

貸自転車店と萩バスセンターです…って、バスセソターに見えない?
17:30ごろ貸自転車店に戻り、東萩駅の方の貸自転車店に自転車を返却しようと思ったら…もう東萩店の方は閉めちゃったみたいでさ。
聞くと俺がこれから行く旅館はココからでも東萩駅からでも大して距離は変わらないっぽいんで、ココから歩いて向かうことにしました。

旅館までの道中近くにあるんで寄ってみた「野山獄」です…松陰先生は士分を入れるココ「野山獄」(上牢)に入れられました。

向かいのコッチは庶民を入れる「岩倉獄」で…松陰先生と一緒に囚われた「金子重輔」はココで病没しました。

俺が今晩宿泊する旅館近くにあった「萩グランドホテル天空」のロビーだよ…ちょっと土産店を見に入ってみたんだけど、イイなぁこんなホテルに泊まってみたいわ。

旅館近くで写真を撮ると何故か右下に黒いモノが映るんだよ…

旅館「芳和荘」です…築100年ほどらしいよ。

18:00に着いても誰もフロントに居ないんだわ…呼んでも反応無いし。
5分以上経って主人が下りて来てくれたんだけど…俺はチェックイン19:00予定で予約してたから部屋に布団敷きに行ってたんだって。

部屋は4.5畳、素泊まりで¥4,500でした…萩にネットカフェが無かったんでさ。

でも味のある旅館に泊まれるならソレもいいかな…と。

また明朝に写真撮ります…もう外は真っ暗で、「萩往還」から城下に戻ったころもポツリと降り始めていた雨が強くなって来てるよ。

でも主人が言うには明日はそんな強雨じゃないみたいなんで…でも明日行く「広島」や「松山」もまだ雨予報になってるよ。

19:00ごろ旅館裏手の大通りにあったファミレスに行ったんだけど、けっこう降って来たんで主人に傘を貸してもらったわ。

旅館に帰った後20:30ごろ風呂に入りに行きました…池みたいに浅い風呂だったね。

ファミレスで食事後、店員に近くにコンビニあるか聞いたら、遠いらしくてさ…「薬屋があります…」って言われても俺病気じゃないしなぁ、と自販機で飲み物だけ買うか…と少し歩いたらドラッグストアがあったんだよ。
薬屋ってドラッグストアじゃん…コンビニよかコッチの方がスーパーみたいに安いから助かったわ。
朝食やオヤツを買い込んだよ…今晩は暖房入れて暖かくした部屋の布団で寝れるよ~

この「萩」のレポートは11月1日(日)と2日(月)の分をまとめちゃいまーす…って、2日合わせても「萩」で活動してた時間は5時間にも満たないんだモン。
9年前のレポートは西回り東回りをご覧ください。

⑦長門国・萩(長州)編/2日目(11月2日)
2日は6:00前に起床したよ…

朝食は昨晩買ったパンと「呉」のアンケートでもらってた「うどん」です…このガスコンロは主人が貸してくれました。

トイレも別です。

1部屋洋式だ…と思ったら和式に洋式の便器を被せただけでボットン便所(汲み取り式)でした。

今日はチト風が冷たいかな。

俺が宿泊した部屋「小松江」。

回廊になった趣のある旅館でしょ。

元遊郭の建物だっていうんだから風情あるよね~

萩市の景観重要建造物に指定されているんだって…納得。

下の中庭に降りてみたいと戸を開けようとしたら、主人が「開かないんです」と…建物が古くて戸が引けなくなっちゃったらしいよ。

7:10ごろ旅館を出ました…雨は降ってるけど、傘は差さなくても大丈夫そうだな。
主人が親切にビニール傘持って行ってイイよ…と言ってくれてたんだけどさ。

まぁ築100年…部屋を歩いてもミシミシ音がして床抜けないか怖かったけど、主人が話好きのイイ人でとてもイイ旅館だったよ。
俺は1人旅もあって滅多にホテルや旅館には泊まらないんだけど、やっぱ泊まるならこういう歴史のある宿がイイね。

近くの民家?も趣があるんだよ。

旅館の近くには小川が流れています。
これから「松陰神社」に行き、9:00に“花燃ゆ大河ドラマ館”「文と萩物語」に行くよ。

コレが昨晩、中を見た「萩グランドホテル天空」だよ。

途中にあった「弘法寺」です。

コレは「大和国之助誕生地」だって…帰ってから調べたら、1862年「久坂玄瑞」らと横浜外国人居留地焼き討ちを計画しますが未遂に終わり、禁門の変後、藩内の恭順派に捕らえられ、元治元年12月19日に斬首されました。(30歳)

コレは「前原一誠旧宅地」です…明治新政府では参議に任ぜられるも辞職し、「萩の乱」を起こし刑死しました。

まだアチコチに旧家があるよ。

松本大橋を渡り…

松本川を越えると…もうスグで「松陰神社」だよ。

コレは「松浦松洞誕生地」です…最期を予期した松陰は江戸送りの前日、松浦に肖像画を描いてくれるように頼みますが、そのときの正座した姿の肖像画は今でも残されています。

7:45「松陰神社(松下村塾)」に着きました…「松下村塾」は“明治日本の産業革命遺産”として世界遺産に登録されたんだったね。

入口付近にあるのは…

「薩長土連合密議之處」碑です…文久2年(1862年)土佐藩士「坂本龍馬」が「武市瑞山」の書簡を持って「久坂玄瑞」を訪ね来萩し、この場所にあった旅館に泊まりました。
たまたま薩摩藩士「田上藤七」も来ており、後日の薩長土連合を暗示する前兆となりました。

コレは「吉田松陰歴史館」です…9:00開館なんで今回も入れず。

「明治維新胎動之地」碑です。

山県有朋と伊藤博文の人形?がありました。(ガラスの反射のせいでこの角度でしか撮れなかった)

左に描かれてるのは萩市出身の元長州藩士「飯田俊徳」です…日本の鉄道の父といわれる「井上勝」らと共に日本の鉄道敷設に努めた明治時代の官僚、技術者です。

「親思う心にまさる親心けふのおとずれ何ときくらん」…親思う心にまさる親心とは、子が親を思う気持ち以上に、親の子に対する慈愛の気持ちはさらに強いものだということ…「吉田松陰」が29歳で処刑されたときに詠んだ辞世の句です。

天皇・皇后夫妻や皇太子・皇太子妃の行啓の碑です。

9年ぶりに母校?「松下村塾」に帰ってまいりました

天保13年(1842年)に松陰の叔父である「玉木文之進」が自宅で私塾を開いたのが始まりで、後に松陰の外伯父にあたる「久保五郎左衛門」が継ぎ、安政4年(1857年)に28歳の松陰がこれを継いで主宰することになりました。

木造瓦葺き平屋建ての50㎡ほどの小舎で、当初からあった8畳の一室と、後に松陰が増築した4畳半一室、3畳二室、土間一坪、中二階付きの部分から成っています。

松陰は身分や階級にとらわれず塾生として受け入れ、わずか1年余りの間でしたが「久坂玄瑞」「高杉晋作」「伊藤博文」「山県有朋」「山田顕義」「品川弥二郎」などが明治維新の原動力となり、明治新政府に活躍した多くの逸材を育てました。

裏から。

松陰は家族からの薦めもあり幽囚室で孟子などを講じるようになりました。

次第に多くの若者が参加するようになり、やがて松陰は松下村塾を主宰するようになりました。

全体の感じ。

2009年10月27日に松陰先生の遺墨や遺品類などを展示し、松陰先生の思いを現代に伝える「至誠館」がオープンしています…これも9:00開館なんでスルーです。

「松陰神社」を参拝します。

明治23年(1890年)に「吉田松陰」を祀って建てられた神社です…松下村塾改修時に松陰の実家である杉家により私祠として村塾の西側に土蔵造りの小祠が建立され、その後、門人の「伊藤博文」「野村靖」などが中心となり、神社を公のものとして創設しようという運動が起こり、明治40年(1907年)県社の社格の神社創設が許可されました。
現在の社殿は昭和30年(1955年)に完成したものです。

コレは「勧学堂」です。

「松陰神社」の旧社殿は「松門神社」として、松陰の門人であった人々の霊を祀っています。

コレは「吉田松陰幽囚ノ旧宅」(松陰の実家 杉家旧宅)です。

幽囚室は東側にある3畳半の一室です。

「吉田松陰」は安政元年(1854年)3月27日に伊豆下田でアメリカ軍艦による海外渡航に失敗して江戸伝馬町の牢に捕らえられ、ついで萩に送られ野山獄に入れられました。
翌年に釈放となりましたが、父「杉百合之助」預けとなり、この実家である杉家に帰され謹慎生活を送り、読書と著述に専念しました。

旧宅は国指定の史跡で、木造瓦葺き平屋建て214㎡のかなり大きい建物です。

8:15土産屋を出て…「東光寺」に向かいます。

コレは「片山東熊別邸跡」です…奇兵隊に入隊し、戊辰戦争にも参戦した明治期に活躍した建築家で、代表作には「旧東宮御所(赤坂離宮、現・迎賓館)」「日本赤十字病院」「奈良国立博物館」「京都国立博物館」「東京国立博物館 表慶館」があります。

ココが「吉田松陰誕生地」ではなく、この先300mのトコにあるという道標だよ…ソコは9年前にも行ってるし、今日は時間が無いんで行かないよ。

その前にある「玉木文之進旧宅(松下村塾発祥之所)」です。

松陰の叔父で松下村塾の創始者ですが、萩の乱で多くの門下生が参加した責任をとり自刃しました。

8:30ごろ「東光寺」(総門)に着きました。(入場¥300也)

三門と鐘楼です。

大雄宝殿です。

総門、三門、鐘楼、大雄宝殿はいずれも国の重要文化財に指定されています。

もう時間が無いんで急いで「毛利家廟所」に向かいました。

ココには殉難十一烈士墓、維新志士慰霊墓八基などがあります。

その中の左端に「周布政之助」の墓があります…元治元年(1864年)「高杉晋作」とともに長州藩士の暴発を抑えようとしましたが失敗、その結果起こった禁門の変や第一次長州征伐に際しても事態の収拾に奔走しましたが、次第に椋梨ら反対派に実権を奪われることとなり、同年9月、責任を感じて山口矢原の庄屋「吉富藤兵衛」邸にて切腹しました。(享年42)

毛利家墓所は国指定の史跡で、吉就から11代までの奇数代の藩主とその夫人及び一族、関係者の墓があり、墓前には藩士が寄進した500余基の石灯籠が立ち並びます。

知ってる名前が無い…

毎年8月15日に行われる「萩・万灯会」の送り火では、約500基の石灯篭に灯が入るんだって。

時間が無いんで奥まで行かなかったよ。

8:40ごろ「東光寺」を出ました…って、20分じゃ「明倫館」には着かないよぉ。

この路、何か名前が付いてなかったっけ?

川沿いのイイ雰囲気の路なんだわさ。

ホテル「萩本陣」です…ココの土産屋も覗いてみたかったんだけどな。

9:00…やっと松陰大橋を渡りました。

西郷と晋作だね。

9:10ごろ「旧萩藩校明倫館」に着いたよ~

「有備館」は旧明倫館の剣術場と槍術場を移して拡張したもので、木造平屋建入母屋造桟瓦葺、桁行37.8m、梁間10.8mの南北に長い建物です。
土佐の「坂本龍馬」も来萩し、ここで試合をしたといわれています。

“花燃ゆ大河ドラマ館”「文と萩物語」前に着くと、ラッピングバスが停まってて係員が点呼みたいのしてるんだよ。
俺は9:30発のスーパー萩号という交付金により半額になってるバスで「新山口」に戻るんだけど…まさか予約が必要でもういっぱいか?と訊いてみるとコレはスーパー萩号じゃなくて良かったよ。

取り急ぎ“花燃ゆ大河ドラマ館”「文と萩物語」に入りました。(入館¥500也)

文(井上真央)と久坂玄瑞(東出昌大)の婚礼衣装と高杉晋作(高良健吾)の衣装です。

松下村塾のセットです。

キャストの紹介です。

吉田松陰(伊勢谷友介)と杉文と久坂玄瑞の衣装です。

ホログラム?で映像を投影しています。

出演者たちのサインです。

今、このレポートを編集してる15日が「花燃ゆ」第46回の放送で、あと4~5回で終わりかな?

大河は視聴率の低下が毎回話題になるんだけど…俺みたいな歴史好きは誰が主演(役者)とか、誰の話(歴史人物)とか関係なく1年観続けてるからさ。

松陰先生、久坂、晋作のように短命な人物が多い長州を題材にするには文のような人物を主役に描くのが一番だと思うけど…「八重の桜」のように明治に入ると退屈しちゃうのは確かなんだよね。

駆け足でめぐり、9:20すぎ“花燃ゆ大河ドラマ館”「文と萩物語」を出ました。
そして9:30発のスーパー萩号に乗ったんだけど、“花燃ゆ”のラッピングバスじゃないのかぁ…でも、昨日の行きに乗って来たバスの半額(¥1,030)なんだよ。
上下1日4便ずつしかないんで、行きは時間が合わず通常便で通常運賃払って来たんだわ。
10:30ごろ「新山口」に着き、構内の土産屋を散策してから…

「新山口」10:57発こだま738号に乗りました。

幕末史跡めぐりも其之二十九まで完了し…其之三十で「函館」をいつか巡って完結させたいって考えてるよ。
今回の史跡ハントも今日が最終日…残るは「広島」と「松山」だね。
どうやら天気も前日に雨が降って、今日はもう快復してるみたいだよ


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男たちの大和~帝国海軍・軍港「呉」編(後編)

2015年11月01日 | 幕末~明治史跡めぐり
11月1日(日)
次は9:00開館の「大和ミュージアム」に行くよ~

コレは呉中央桟橋ターミナルです。

後で行く「海上自衛隊呉資料館(てつのくじら館)」です。

呉中央桟橋ターミナルの隣りが「大和ミュージアム」だよ(入館¥500也)

1F「大和ひろば」に展示されている全長26.3mある10分の1サイズの戦艦「大和」だよ

戦艦「大和」と…

「長官艇」の模型です…艦隊司令長官が旗艦から上陸するときなどに専用で運用されていたそうです。

コレは石坂浩二サンが「鑑定団」で自ら購入して寄贈した…

戦艦「長門」軍艦旗だよ 3.6m×5.4mだって~


まず、大型資料展示室に入りました。

コレは特殊潜航艇「海龍」(後期量産型)です。

「海龍」は飛行機のように翼を使って自由に潜航・浮上する事を目指して呉海軍工廠などで潜航実験や研究・開発が行われた小型潜水艦です。

コレは「九三式魚雷・二式魚雷」

「九三式魚雷」内部。

コレは特攻兵器「回天」十型(試作型)です…人間魚雷とも言われ、平均年齢21歳の100名以上の尊い命が失われました。
こんなのに人が入って海中から敵艦に特攻するんだよ…信じられんわ。

コレは「零式艦上戦闘機六二型」です。

映画「永遠の〇」では「零式艦上戦闘機二一型」の原寸大模型が制作されたんだよ。

俺は過去にはワシントンのスミソニアン博物館でもゼロ戦は観てるんだけど…ソコには「晴嵐」もあったのに当時そんな詳しく知らなかったから観てない(観てても覚えてない)んだよね。

コレはドラマで使われたセットみたい。

戦艦「大和」などで使用された46センチ主砲弾や、戦艦「陸奥」などで使用された41センチ主砲弾をはじめとした各種砲弾や火薬缶などが展示されています。

次は「呉の歴史」展示室に行ってみます。

東郷平八郎の鉄瓶や懐中時計がありました。

大正時代の資料です。

戦艦「金剛」と、金剛搭載のヤーロー式ボイラーです。

戦艦「長門」模型。

航空母艦「赤城」模型。

一等巡洋艦「最上」模型。

現在は航空自衛隊ってのがあるけど、戦時中、航空機ってのは全部海軍所有だったのかな?

零式水上偵察機。

艦上爆撃機「彗星」。

伊号第16潜水艦模型(左上)、伊号第37潜水艦模型(右上)、伊号第52潜水艦模型(左下)、伊号第400潜水艦模型(右下)

「蒼き鋼のアルペジオ」でもお馴染みの「伊400潜」型だよ~

特殊攻撃機「晴嵐」を3機搭載し“海底空母”と呼ばれました。

徳之島沖に沈んでいる大和…

戦艦「日向」軍艦旗です。

東洋一の軍港・日本一の工廠となった「呉」は、横須賀の俺からすると追い抜かれた嫉妬心のようなモノがあるんだけど…呉軍港空襲では「榛名」「日向」「伊勢」などが沈没されてるよ。
横須賀は現在、米海軍横須賀基地が置かれていて旧鎮守府庁舎が在日米海軍司令部庁舎になってるだけに…そんな爆撃せずに残しといてくれたのかなぁ?

探照灯(反射鏡)と、現存する「大和」の設計図面です。

ミュージアムショップで買い物して9:50ごろ「大和ミュージアム」を出ました。
これなら「アレイからすこじま公園」に行ってから、9:30ごろ「大和ミュージアム」に入っても遅くはなかったなぁ。

ミュージアム前で呉の観光課?がアンケートやってて、景品がもらえるみたいなんで参加しました。

ミュージアム前のレンガパークに展示されている…戦艦「陸奥」艦尾旗竿と主錨です。

フェアリーダーって何?

41Cm主砲身(四番砲塔左砲)です。

戦艦「陸奥」の引き上げ品、殉職将兵の遺影や遺品の多くは山口県周防大島町の「陸奥記念館」に展示されています。

スクリュープロペラです。

主舵です。
戦艦「陸奥」は1921年10月24日に竣工した戦艦「長門」型2番艦で横須賀海軍工廠で建造されましたが、主砲身など主要な部材は呉で建造され運搬されました。
1943年6月8日正午過ぎ、山口県柱島泊地にて三番砲塔(主砲火薬庫)付近が突如爆発事故を起こし沈没…乗員1,121名の方が死亡しています。
来年には横須賀に現在「船の科学館」に展示されている41Cm主砲身が譲渡されて来るよ

「海上自衛隊呉資料館(てつのくじら館)」は次の「呉地方総監部 第1庁舎(旧鎮守府庁舎)」見学の後に行くからね~

さぁ、またさっきの地方総監部前まで行くよ。

ココが一般的にはゲートなんじゃない? でも集合場所は上の地方総監部前です。

10:15ココで家から持って来ていた体力回復アイテム?を使用…寝不足な上にまだ飲まず食わずだからね。
もう既に見学希望者(要事前予約)も集まっていて、10:20ごろから受付が始まったよ。

さっきは門越しだったけど、中に入って写真を撮りまくれます。

職員の方が説明してくれます…現庁舎は二代目で1907年竣工だよ。

明治19年(1886年)「海軍条例」が制定され、全国の海岸・海面を5海軍区に分かち、各軍港に鎮守府を設けることにしました。

第一海軍区鎮守府の「横須賀」に続き、第二海軍区鎮守府を「呉」に設定し1889年に開庁…同年「佐世保」、1901年には「舞鶴」に開庁しています。
ただ、当初予定されていた「室蘭」への設置は1903年に取り止めとなっています。
海上自衛隊では、かつての海軍区・鎮守府に相当するものとして地方隊・地方総監部(現在は横須賀・舞鶴・大湊・佐世保・呉地方隊)が置かれています。

こっちの建物も庁舎なのかな?

これらも築100年以上経っているのかね?

レンガ造りなのが味があるんだわ。

庁舎裏(海側)の大階段です…呉鎮守府ができた当初、明治天皇がおこしになることが決まり…海側から船に乗って来られるということで、急遽作られた階段です。
でも上陸して、階段前で馬車が停まるはずが…工事用に作られた脇の細道を登って来てしまい、この大階段は実際に使われることが無かったそうです。

この呉地方総監部(旧呉鎮守府)の建物は、陸側・海側両方が表となるようにデザインされているんだよ。

10:40ごろ…もう解散のようです。
…庁舎の周り1周して終わり?中も見学できないの?
見学時間10:30~11:30ってなってたんで1時間取っておいたのにコレだけかよ…意外すぎてガッカリ感も無かったわ。
ちなみに「艦艇一般公開」もあったんだけど、時間も無いし…地元・横須賀で護衛艦とかよく観てるから申し込まなかったんだよ。
11:30に鎮守府見学が終わってから「海上自衛隊呉資料館(てつのくじら館)」に行く予定だったけど、50分早く終わっちゃったからね…行けないと思ってた「入船山記念館」に先に行ってみることにしたよ。


10:45「入船山記念館」に着きました。

「旧東郷家住宅離れ」です…東郷平八郎が呉鎮守府参謀長(階級は海軍大佐)として呉に在任中に住んだ家の離れ座敷で、昭和55年に移築されました。

「旧呉海軍工廠塔時計」は大正10年に呉海軍工廠造機部庁舎屋上に設置されていたモノです。

番兵塔とガイドさんの控室?

これより先は有料ゾーンです。

コレは「旧高烏砲台火薬庫」で…明治35年に陸軍が音戸の瀬戸に近い休山に建設した高烏砲台の跡地から昭和42年に移築して復元したモノです。
総石造りの火薬庫は全国的にも珍しいんだって…今は資料館かな?

中の展示品です…手榴弾もあるね。

銃弾や薬莢です。

コレは郷土館です…ココで「入船山記念館」の入館券(¥250→俺は大和ミュージアムの半券持ってたんで¥200也)を買いました。

2階は展示室です。

旧呉鎮守府司令長官官舎及び長官関係の資料が展示してあります。

コレが「旧呉鎮守府司令長官官舎」ね…鎮守府開庁の翌年に建てられましたが、明治38年(1905年)の芸予地震で崩壊してしまいました。
その後、建て替えられましたが…平成7年に明治38年の資料をもとに建築当初の姿に復元されています。

和館部から入って内部(洋館部も)が見学できます。

コレは「大和」…?

品のある椅子だね。

壁面や天井の壁紙には「金唐紙」が各所に見られます。

応接所です。

食堂です。

客室です。

和室です。

コレは地元・横須賀の「旧横須賀鎮守府司令長官官舎」だよ…毎年、桜の季節に一般公開されます。

旧海軍燃料タンク基地にあった水畜式油槽鉄蓋です。

屋根に使われている天然スレート(粘板岩)の魚鱗葺きです。

明治17年に建てられた石燈籠が移築されています。
11:15「入船山記念館」を出ました…

あと約1時間あるけど…やっぱり「アレイからすこじま公園」は諦めて「海上自衛隊呉資料館(てつのくじら館)」に向かいました。

また「大和ミュージアム」前を通り…

11:35「海上自衛隊呉資料館(てつのくじら館)」に着きました。

近くに停まってた車は「艦これ」?(あんま「艦これ」は詳しくないので)

先に近くのお土産屋に入ったんで、11:40「海上自衛隊呉資料館」に入りました。(¥無料)

実物の潜水艦を陸上展示した日本唯一の資料館だよ

コレはペルシャ湾で掃討した機雷だって。

ロシア製機雷とイタリア製機雷です。

掃海艇の活躍を展示しています。

コレは水面に浮上した機雷を銃撃で処分する機関砲です。

コイツは?

潜水艦の活躍を展示しています。

これはヘリ?

展示用潜水艦「あきしお」に入りました。
昭和60年に進水した「ゆうしお」型潜水艦「あきしお」は様々な任務を遂行し、平成16年3月に除籍…同年18年9月に国内最大の起重機船(クレーン船)で陸揚げされ、呉資料館に展示されました。

2004年(平成16年)3月3日に潜水艦「あきしお」は除籍になりました…最後に電機担当者が電源を切った時間、午後1時45分18秒で時計は止まり、艦もその一生を終えました。

トイレとシャワーです。

ハッチだね。

操舵室?と潜望鏡です。

レーダーだって。

艦橋の説明です。

第2次世界大戦中に日本海軍の潜水艦(伊400型)が装備していた双眼鏡です。

第2次世界大戦中に米海軍の潜水艦が装備していた双眼鏡です。

12:00「海上自衛隊呉資料館(てつのくじら館)」を出ました…潜水艦の腹?なんてフツー見れないよね。

まだ30分くらい時間はあるけど…「ヤマトギャラリー零」は行かず、駅に向かったよ。

12:33「呉」発の呉線に乗ったよ…呉駅の着メロは「宇宙戦艦ヤマト」なんだよ。

駅には早く着いてたんで昨晩宿泊?した「大和温泉物語」が入ってるビルの中の100円ショップに行って買ってたパンとオニギリを車内で食ったよ。

13:15「広島」に着きました…コレ、RedWing号だって カープカラー?でカッコいいね

広島に着く前に「マツダスタジアム」見えたよ~
俺の今季の優勝予想「カープ」だったんだけどな~

今回、旅程に組み込めなかったけど呉港や広島港からフェリーで渡れる江田島には「旧海軍兵学校」があります。
9月19日に地元・横須賀(田浦)の「海上自衛隊第2術科学校」に行って来たけど、この江田島に「海上自衛隊第1術科学校」があるんだよ。(俺も今回の史跡ハントのためにガイドブック見て知ったけど)
今回は時間が無いから行けないけど、海上自衛隊第1術科学校は元「海軍兵学校」で明治21年に東京築地から移転してきたんだって…主に砲術、掃海、航海、通信などを訓練しています。
ちなみに術科学校は第1~第4まであるよ…第3術科学校は下総航空基地にあり、航空機の整備、基地運用、施設工事に関する術科教育を行っています。
第4術科学校は舞鶴にあり、経理、調達、保管、補給、給養及び業務管理に関する教育訓練を行っています。
横須賀の第2術科学校では機関、電機、工作、情報、外国語等に必要な知識及び技能を修得させるための教育訓練を行っています。

この「広島」から向かったトコが今回の旅の《シークレット》だよ さて、どこに行くのやら…お楽しみに~


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男たちの大和~帝国海軍・軍港「呉」編(前編)

2015年11月01日 | 幕末~明治史跡めぐり
11月1日(日)
6:15ごろ「大和温泉物語」をチェックアウトし…今日は午前中いっぱい「呉」の史跡ハントするよ。
ココ「呉」も海軍の鎮守府があり、軍艦の造船所があり、今は海上自衛隊の総監部があり…と、きっと「横須賀」と似た街なんだろうな~
だから今回の旅では「竹原」に次いで楽しみにしていた地だよ…って、その割にゃどっちも半日しかいないんだからハードだよなぁ。
当初、この日の中国地方の天気予報は曇り/雨だったんだけど、悪いのは明日だけになったみたいだよ。

⑥安芸国・呉編
ついに三国志の一国「呉」(ゴ)にやって来たよ…じゃなくて、ココは広島県「呉」(くれ)だよ

昨晩はほとんど眠ってないけど、この「大和温泉物語」が駅チカ(近)にあって助かったわ…とにかくスマホとデジカメ(バッテリー)の充電ができて良かった~

呉駅です…こんな早く街に出て今日は何をするかって? 午前中「呉」に時間を取ってるんだけど、予定は…
①長迫公園(旧呉海軍墓地)→②アレイからすこじま公園→③歴史の見える丘→④入船山記念館→⑤9:00~大和ミュージアム→⑥10:30~旧鎮守府庁舎見学→⑦海上自衛隊呉資料館(てつのくじら館)→⑧ヤマトギャラリー零→⑨呉駅12:33発です。
地図を見ながら最初の目的地「長迫公園」に向かうんだけど、ちょっと遠いんでさ…7:00着を目安に銭湯を出たワケです。
そんで7:30ごろ「長迫公園」を出て、バスを利用しながら8:00ごろ「アレイからすこじま公園」→「歴史の見える丘」→「入船山記念館」→9:00「大和ミュージアム」というのが目標だよ。

で、「長迫公園」までもうスグ…ってトコで地図アプリ見ないで「休山トンネル」ってのに入っちゃったんだわ。
コレ出たら「長迫公園」だろ?…って、いつまで歩いても出口が見えん…このトンネル、1,706mもあるんじゃん。
7:10ごろトンネルを抜けたけど…コリャ相当先まで来ちゃったよ。
もう歩いてトンネルを戻るのもイヤ…タクシー拾おうにも通らないし…でも、少し先に行くと安芸阿賀駅があるようなんでタクシーを探しに歩くことにしました。
地図アプリ見て心が折れそうになったね…俺、こんなトコまで歩いて来ちゃったの?って、マジで「勘弁してくれせん(呉線)」(堂郷ギャグ)
そしたらバス停を見つけたんだけど、ちょうどバスが来てさ…運転手に「トンネルの先に行きますか?」と訊くと本通り8丁目方面に行くと言うんで路バスに乗りました。
バスはトンネルを通らなかったけど、ちょっと回り道しながらもトンネルの先(俺が入った側)に戻れたんで良かったよ…本通り8丁目で降りたら「長迫公園」の道案内もあったしさ。
何でトンネル入る前に地図アプリで確認しなかったんだろ…体力と時間と金(バス代)をムダにしたわ。

7:35ごろ「長迫公園(旧呉海軍墓地)」に着いたよ…予定よか30分オーバーだけど、30分オーバーで程度で着けたのもまた奇跡かも。
しかもまた道間違えて?上から下へ墓地を見ることになっちゃった。
片っ端から撮っていった写真を紹介していきまーす。

64.駆逐艦秋風慰霊碑

65.軍艦隼鷹慰霊碑

66.軍艦熊野慰霊碑

67.呂号第百四潜水艦之碑

68.伊号第十一潜水艦之碑

69.善本野戦高射砲中隊戦歿者慰霊碑

70.海防艦稲木戦歿者慰霊碑

71.工作艦明石慰霊碑

72.第31潜水艦基地隊戦没者慰霊碑

73.駆逐艦天津風之碑

74.駆逐艦叢雲慰霊碑

75.ソロモン方面第十二防空隊慰霊碑

76.工作艦朝日,山彦丸,山霜丸合同慰霊碑

77.第一〇三海軍工作部戦没者之碑

78.軍艦初鷹慰靈碑

79.軍艦三隈戦歿者慰霊碑

80.軍艦球磨慰霊碑

61.呉海軍設営隊顕彰慰霊碑

60.軍艦古鷹戦没者慰靈碑

59.軍艦鬼怒慰霊碑

57.駆逐艦浜風戦歿者慰霊碑

58.第17駆逐隊之碑(谷風、浦風、浜風、磯風、雪風、初霜)

90.航空母艦飛鷹の碑

18.呉鎮守府潜水艦戦没者之碑

俺の祖父は潜水艦「呂102」に乗艦してたんだけど、横須賀だからかな?この中には入ってないよ。

19.第六三四海軍航空隊慰霊碑

20.駆逐艦初風慰霊碑

21.駆逐艦白雲慰霊碑

25.第百十三號輸送艦慰霊碑

26.駆逐艦磯波戦没者慰霊碑

27.駆逐艦呉竹慰霊碑

22.第十六防空隊戦没者慰霊碑

23.駆逐艦浦波慰霊碑

24.軍艦衣笠慰霊碑

29.第参号輸送艦戦没者慰霊之碑

これは個人の墓碑だね。

30.軍艦信濃戦歿者之墓

42.軍艦青葉戦没者慰霊碑

43.レンドバ島派遣隊戰没者慰霊碑

44.伊三六三潜殉職者之碑

45.伊二九潜戦没者慰霊碑

46.駆逐艦椿戦没者慰霊碑

47.軍艦神通戦没者慰霊碑(奥)

48.第三十四号駆潜艇戦歿者慰霊碑

49.軍艦矢矧殉職者之碑

50.第四艦隊遭難殉職者之碑

87.大東亜戦争海軍戦歿者柔道部員之碑

88.上海満州事変戦歿者之碑

81.大東亜戦争戰歿者之碑

86.軍艦大井戦没者慰霊碑

85.第六三四、第九三四海軍航空隊慰霊碑

84.驅逐艦桑戦没者之碑

83.呉六特バラレ島戦没者慰霊碑

82.潜水母艦長鯨戰歿者慰霊碑

51.駆逐艦島風戦没者之碑

52.伊號第八潜水艦之碑

53.伊号第122潜水艦戦没者慰霊碑

54.第三十三警備隊戦歿者慰靈碑

55.呉鎮守府第17防空隊慰霊碑

56.軍艦加古戦没者慰霊碑

35.軍艦高砂戦死下士卒墓

91.駆逐艦東雲慰霊碑

38.呉海軍看護合葬碑

37.軍艦吉野戦死者之碑

39.駆逐艦早蕨殉職者之碑

40.第15駆逐隊(夏潮、早潮、親潮、黒潮、陽炎)慰霊碑

89.英国水兵の墓碑

41.駆逐艦深雪殉難者之碑

33.駆逐艦綾波戦歿者之碑

32.軍艦日向慰霊碑

呉海軍墓地案内図

呉海軍墓地の沿革

15.戦艦大和戦死者之碑

5.軍艦伊勢慰霊碑

11.第三十二特別根拠地隊戦没者慰霊碑

4.第五三一海軍航空隊慰霊碑

1.重巡最上戦没者慰霊碑

2.第八十二号海防艦戦没者慰霊碑

3.戦艦扶桑戦歿者慰霊碑

6.軍艦鈴谷戦没者慰霊碑

9.軍艦廣丙遭難哀悼碑

7.特務艦間宮戦没者慰霊碑

10.軍艦天龍遭難死者紀念碑

8.軍艦鹿島有終之碑

13.駆逐艦陽炎之碑

14.ショートランド島戦没者慰霊碑

17.特設駆潜艇第十八日東丸戦没者慰霊碑
16.昭和十五年徴募主計科戦歿者慰霊碑 

12.巡洋艦阿賀野慰霊碑

全部写真に撮れたかなぁ?
呉海軍墓地は1890年(明治23年)に海軍軍人の戦没者、殉職者等の埋葬地として設置されました。
1971年(昭和46年)3月より管理が呉市に移管され、「長迫公園」として整備されており、現在、個人碑157基、合祀碑91基が建立されています。

8:10「長迫公園」を出たけど…予定通りのルートで回れるだろうか…?
本通りに出てから路線バスに乗り、四ツ道路で降りて少しだけ時間短縮できたかな?

美術館通りへ…このチンコ出して楽器演奏してるオッサンはどっかでも立ちスタイルを見て、このブログでも紹介したことがあるんだけど…この全裸演奏をシリーズで製作してる芸術家?がいるのかな?

海上自衛隊呉音楽隊だよ…この前、横須賀パレードもココから来てくれたのかなぁ?

コレのタイトルは?

「入船山記念館」は9:00開館なんで…今回はパスかな。

地方総監部前だよ…って、旧鎮守府庁舎見えてるじゃん…10:30~の見学予約をしてるけどさ。

8:45ごろ「歴史の見える丘」に着いたよ~

「噫戦艦大和之塔」です…塔は「大和」の艦橋を象っています。
左側は「戦艦長門主砲徹甲弾」で、右側は「戦艦大和主砲徹甲弾」です。

この石段があった船渠は海軍工廠創設の当初から1971年まで使用されてきました。
写真右の「旧呉海軍工廠礎石記念塔」のレンガは開庁当時の呉鎮守府(現在地方総監部)のモノをそのまま使っています。

子規句碑です。

「澤原為綱翁之像」だって…でも像は第二次世界大戦のときに供出されたようです。

戦艦「大和」を建造したドックのある港湾を一望できます。
「JMU」はJapan Marine United(ジャパンマリンユナイテッド株式会社)という造船会社です…前身というかココにあった「呉海軍工廠」で戦艦「大和」が建造されました。

このドック、今造船してるトコなんじゃない?艦底の材料っぽいのが置かれてない?

ドライドックだね…大和が造られたのはどのドックだろう?
もう8:50になるんで…この先の「アレイからすこじま公園」に行くのは止めたよ。
そこは横須賀で言えば「ヴェルニー公園」のように潜水艦を間近で見ることができます。

では、字数の関係上、前編はココまで…後編は「大和ミュージアム」から始まりまーす


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幕末・神奈川宿の領事館跡めぐり!?

2015年09月05日 | 幕末~明治史跡めぐり
9月5日(土)
今日は映画「たまゆら~卒業写真~ 第2部・響-ひびき-」を観に桜木町に行って来たよ。
まぁ映画については明日の週報?で話すとして…前作(第1部)も公開2週目初日の初回(土曜)に同じく桜木町に観に行ったんだけど、そのときまだ有休持ってなかったんで午後から出勤するためにスグ帰ったんだわ。
今日は元々休みだったんでね…じゃあ、映画観た後(まだ10時半にもならないんで)真っスグ帰るのももったいない…ってことで周辺の史跡ハントをすることにしたんだよ。
映画は10:10すぎに終わり、映画館を出てスグ「桜木町」から京浜東北線に乗って「新子安」で降りました。
それから歩いて横浜駅方面に戻る形で史跡ハントをしていきます。


これは大口通にある「足洗川の碑」です…ココに流れていた川で「浦島太郎」が足を洗った言い伝えがあるんだって。

これは「相應寺」です…通りがかりだったんで寄ってみました。

これは本堂です。

これは…サル地蔵?

これは「蓮法寺」です。

ココには…

「浦島太郎」に関する史跡があります…写真右は戦前まで浦島丘の頂上にあった「白幡の碑」です。

今、auのCMでも注目を集めている「浦島太郎」ですが…ココ横浜市神奈川区には浦ちゃんにまつわる伝説が残ってるんだよ。
お伽話で子供のころから知ってる「浦島太郎」ですが…助けたカメに連れられて竜宮城に行き、乙姫様のもてなしを受けるんだよね。
そして、いつしか3年の歳月が流れ…父母恋しさに暇を告げると、乙姫様は別れを惜しんで「玉手箱」と「聖観世音菩薩」を太郎に与えました。
神奈川区に伝わる話では、故郷の土を踏んだ太郎には見るもの聞くものすべて見知らぬものばかりでした…ついにこの玉手箱を開くと、中から白い煙が出てきて白髪の老人になってしまいました。
3年と思ったのが実は300年で既に父母はこの世の人ではなく、武蔵国白幡の峰に葬られていると聞いて尋ねてみると…二つの墓石が淋しそうに並んでいました。
太郎は墓の傍らに庵を結んで菩薩像を安置して父母の菩提を弔いましたが、この庵がのちの「観福寿寺」で、通称「うらしま寺」と呼ばれました。
残念なことに明治5年、神奈川の宿は大火により焼失し、本尊の聖観世音菩薩は「慶運寺」に移され、遺物は丘のふもとにあるココ「蓮法寺」にも移されました。

これは「浦島太夫・太郎父子の供養塔」と「亀塚の碑」(どちらも写真左)です。

これは本堂です…「亀化大竜女の石像」があるんだって。

寺紋もカメだね。

それから浦島町に行ってみました…周囲には亀住町や浦島丘といった「浦島太郎」に関連する地名が多いんだよ。
この辺りも国道15号線の先はスグ海で…運河?を隔てた新浦島町なんかは埋立地なんでしょ?

この辺は路地が狭くて…よく見ると路地の奥に「白山神社」を発見
でも、この付近にある「浦島の足洗井戸」は探せなかったわ。

これは「浦島町浜公園」に描かれている壁画だよ。

日本全国に浦島太郎伝承地は150ヶ所以上あるとも言われてるんだって…

これは「神奈川通東公園」です…ココは昭和40年(1965年)に移転するまで「長延寺」という寺が建っていたそうで、この寺は開港当時「オランダ領事館」に充てられていました。

ここまでの主なルートだよ。


これは「良泉寺」です。

開港当時、諸外国の領事館に充てられることを快しとしなかった寺の住職は、本堂の屋根を剥がして修理中であるとの理由を口実にして幕府の命令を断ったと云われています。

京急のガードの先にも神社がありそうなんで寄ってみました。

これは「笠のぎ稲荷神社」(「のぎ」は禾偏に皇)です。

元寇に当たっては「北条時宗」より神宝を奉納されたという古社であります。

左側のキツネ様は巻物みたいの咥えてるね。

これは阿弥陀を主尊とする「板碑」だそうです。

これは“浦島寺”こと「慶運寺」です。

ココは開港当時「フランス領事館」として使われていました。

龍の口から流れる水をカメが受けている手水鉢です。

これは本堂です。

これは「浦島父子塔」です。

コレ、もしかして乙姫様?ただの菩薩様?

この中に太郎が乙姫様より賜った「聖観世音菩薩像」が安置されているんだって…乙ちゃ~ん

これは「成仏寺」です…ココは幕末期には外国人宣教師たちの宿舎となりました。

ヘボン式ローマ字を創始したことで有名なアメリカ人宣教師・医師の「ジェームス・カーティス・ヘボン」もこの寺に滞在しました。
「JIN-仁-」の2巻と15巻では、幕末期の横浜が舞台の回があるよ。

この「滝の川公園」には「明治天皇行在所之蹟」碑がありました…かつては神奈川宿として天皇も訪れるほど栄えていたってこと?

これは「浄滝寺」です…幕末期の横浜開港時には「イギリス領事館」に充てられていました。

妙湖尼が営んでいた庵に「日蓮聖人」が立ち寄り、妙湖尼が日蓮聖人に感服して寺院としたといいます。

それから京急線(写真)とJR線を横断して国道1号線へ…

これは「本覺寺」です…幕末の横浜開港時には「ハリス」が自ら見分け、横浜港が一望できることから「アメリカ領事館」となりました。

「横浜開港之首唱者 岩瀬肥後守忠震」の碑です。
「岩瀬忠震」は幕末に海防掛目付に任ぜられた後、外国奉行にまで出世し、開国論の中心的存在として活躍した人物です。
日米修好通商条約においてはアメリカ総領事「ハリス」に対し、下田奉行「井上清直」と共に交渉にあたり、ハリスの要求した江戸・品川・大坂などの開港希望地をしりぞけ、幕府百年の計のためにと横浜の開港を首唱したのです。

当時、山門はペンキで白く塗装され、この山門は後も震災・戦災を免れて現存しています。

「生麦事件」では負傷者(ウッドソープ・クラークとウィリアム・マーシャル)が逃げ込み、治療を受けました。

地蔵堂のお地蔵さま。

これは…子宝の観音様かな?

「慶運寺」以降のルートでーす。


それから「反町」から東急東横線に乗り「白楽」で降りました。

六角橋商店街・ふれあい通りを抜け…

これは「宝秀寺」です。

「日本武尊(やまとたけるのみこと)」が東征の時、ココの「大伴久応(おおとものきゅうおう)」という者の庵に泊り、翌朝「日本武尊」が五位木という木の六角の御箸を用い、これを久応に賜りました。
久応はこの箸に天照大神・日本武尊と書いて日夜礼拝したことから、村名を「六角箸村」と称し、後に「六角橋村」と改称したといいます。

「大伴久応」の庵が、現在の「宝秀寺」です。

これは「杉山大神社」です。

ココも「日本武尊」が御祭神になってるよ。

これは拝殿と本殿です。

これは舞殿です。

これは稲荷社です。

石仏です。

これは「祐天地蔵尊」です。

また「六角橋ふれあい通り」に戻り…

昼飯は「焼小籠包」(3個¥300)を食べたよ…中にスープがタップリ入ってて美味かった~
他に担担麺とかもあったんで食べてみたかったけどさ…どうも1人だと飲食に金かける習慣が無くて。

15時ごろ地元に戻り、献血してから家に帰ったけど…脚がヘロヘロになってたわ。
やっぱ長距離を歩くのは危険なのか


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幕末史跡めぐり・其之二十八~東京都荒川区→千葉県流山市「新選組」編

2015年08月09日 | 幕末~明治史跡めぐり
8月9日(日)
彼女から何も返信が無いまま、俺も1時半ごろには眠ってしまったけど…2時すぎに、ようやく返信が来て無事にホテルに着いてたことが判ったよ。
やっぱ今は彼女1人で来てる(18日から夫と娘が来る)からさ…何か事故でもあったら俺が夫に対して責任を感じちゃうもん。
今日、彼女は南千住のホテルをチェックアウトして新宿のホテルにこの先帰国(27日)まで滞在して…俺も一緒に行動できる間は同居?するんだわ。
俺が横須賀から毎日往復してたら交通費もバカにならんし…香港人はお金持ってるし…俺らが付き合ってたのも10年以上も前のことで…もうお互いをビジネスパートナーとして見てるんで同室に居ても何ら問題無いのです。


俺は6時半ごろ家を出て、8時半に南千住で1人の教え子(中国人)と待ち合わせしてました。
彼は大学(留学)卒業後も日本で就職している数少ない教え子の1人で、近くの綾瀬に住んでるんで来てもらったんだよ。
今日、彼女は10時にチェックアウトするんで、それまでの間「南千住」で行ってみたいトコがあったからさ…教え子を呼んで散歩しがてら話そうと考えたんだわ。
彼と会ったのも何年ぶりだったろう?下手すりゃ昨日会った(今日もこれから会う)彼女よりも会ってなかったかなぁ?
俺がココ南千住でピックアップしたのは2ヶ所で、その後行くトコも含めて「幕末史跡めぐり・其之二十八」に認定?することにしました。

まず教え子と向かったのは「円通寺」です。

境内に入ってスグ目に入るのが「黒門」だよ。

慶応4年(1868年)5月15日、上野東台において、彰義隊と官軍の激戦が展開されました。

激戦地だった「寛永寺」の八門のひとつがここに下賜され、保存されてるよ…無数の弾痕が残ってるね。


本堂です…この「円通寺」も曹洞宗だったのかぁ。

これは「吉展地蔵」です…1963年3月31日、台東区下谷で誘拐され殺害された「村越吉展ちゃん(当時4歳)」の供養の為に建立されたもので、この寺は遺体の発見現場だったんだって。


“八幡太郎”「源義家」が奥羽征伐して賊首四十八をこの地に埋め、この「四十八塚(首塚)」を築き…これにより、この地が「小塚原」と呼ばれるようになったそうな。
首塚の上に建っているのが、この寺の由緒「重興圓通寺記幵塔銘」が刻んである「七重の石塔」で、脇にあるのが三代将軍「徳川家光」の“鷹見の松”なのかと思ったら…

ここに松があったみたいだけど…枯れたか?

板碑4基も石塔の台座脇にあります。



彰義隊の墓所に入ってみました。(柵が開いてたんで知らずに入っちゃったけど、見学は寺務所に声を掛けなきゃいけなかったみたい)

「死節の墓」(左)…彰義隊の供養に尽力した「三河屋幸三郎」が向島の別荘に秘かに立てて、鳥羽、伏見、函館、会津などの各藩士の戦死者の氏名を彫って供養をしていたものが移築されました。
土方歳三、近藤勇、など九十七の名前と「神木隊二十八名」と彫ってあるそうな。
「彰義隊士の墓」(右)…上野東台において戊辰戦争で戦死した彰義隊士の遺体を二十三世「大禪佛磨大和尚」の決死の覚悟にて供養した事により官許が下り、遺骸二百六十六体を上野山内(西郷銅像の後方)にて火葬し、ここに埋葬しました。

中央は「大鳥圭介追悼碑」です。

江戸の町火消の大親分「新門辰五郎碑」もあります。

幕臣「永井尚志」の追弔碑や…

「彰義隊後藤鉄次郎追吊碑」

彰義隊八番隊長「木下福治郎」、遊撃隊長「鷹羽玄道」の追悼碑です。

左の方にある変な形の墓は「小芝長之助の墓」で…元「公儀御庭番」だったらしいよ。
函館戦争で戦死した「土方歳三」の遺体を五稜郭より引き取りに出向き、いずこかへ埋葬した人なんだって。

その他大勢の彰義隊士の墓や碑が建っています。


それから「小塚原回向院」に行きました…ここは江戸時代より“小塚原の御仕置場”と呼ばれた場所です。

ここにも「吉展地蔵尊」がありました。

これらも志士の墓?

それとも一般のお墓?

このレリーフ?は、前野良沢・杉田玄白・中川淳庵らがこの地で奉行所の許可を得て腑分けに立ち会い、オランダの医学書である「ターヘルアナトミア」の挿絵等の正確さに驚愕しながらも…その後 当時としては難解なオランダ語の翻訳に勤しみ「解体新書」を完成させたことを伝えています。

史蹟エリアの方に入ります。

「磯部浅一・妻 登美子の墓」です…磯部浅一は「二・二六事件」を起こした青年将校のひとり。

これは「梅田雲濱の墓」です…幕末の儒学者ですが“安政の大獄”で捕らえられて獄中で病死しました。

奥にあるのが「吉田松陰の墓」だよ…萩、京都、松陰神社(世田谷区)などでハントして来たけど、ここにもあったの知らなかったんだわ。

近くにある「頼三樹三郎の墓」です…“安政の大獄”で捕らえられて斬首されました。

これは「橋本左内の墓」です…同じく“安政の大獄”で捕らえられて斬首されました。

これは「景岳橋本君碑」です…左内の墓は福井市「善慶寺」に隣接する左内公園でもハントしてるよ。

写真右の4基の…

一番左は「鼠小僧の墓」で、右から2番目は「高橋お伝の墓」です…お伝は強盗殺人の罪で斬首刑に処せられた「明治の毒婦」と呼ばれた女性。

それから隣の「延命寺」(小塚原刑場跡)に行きました。

この「首切り地蔵」は刑死者の菩提を弔うため寛保元年(1741年)に造立されたものです。

史跡ハントを終えて10時前にはホテルに着いちゃったけど、彼女が時間前に出て来ることなんてほぼ有り得ないんでね…教え子と2人でロビーで待ってたんだけど、ほとんどチェックアウトして出て行く客は中華圏か韓国の人だったよ。
15分以上経ってから彼女が下りて来たよ…今日から新宿のホテルに俺もチェックインするんだけど、まだインまでに時間あるし滅多にこっち(荒川区とか足立区とか)に来ないんで、それまで史跡ハントを継続させてもらってます。
南千住から常磐線に乗り、教え子とは綾瀬で別れ…俺と彼女は「馬橋」で降りました。

それから流鉄流山線に乗り換えて、俺だけ「流山」で降りて史跡ハントに出たよ…だって徒歩10分以内で、ただ写真だけ撮って帰って来るのに、何も興味ない香港人を暑い中歩かせるのも悪いじゃん。

そこが1人でいつも行ってる史跡ハントと違って面倒なのよね…

この流鉄流山線は初めて乗ったけど、5色あるみたいよ。

駅から歩いて数分で着いたよ

「新選組流山本陣・近藤勇陣屋跡」です。

流山は「近藤勇」が最後に陣営を敷きますが、情報を得た官軍の先鋒隊に包囲されてしまいます。
近藤勇は「大久保大和」と名乗り出頭し、幕府公認の治安隊であると主張しましたが…その後、新選組の「近藤勇」であることが露見し、板橋にて処刑されました。
この地は、近藤勇と土方歳三の最後の別れの地となったのです。

流山では醸造家長岡屋を本陣としていました…この建物は後に建てられたものだし、入館とか無いです。

陣屋跡の先にも行ってみると…

「閻魔堂」って何だろう?と入ってみることに。

袴みたいの着たガイドさん?も居てさ。

中には、確かに閻魔様がいるね…ガイドさんが言うには、この閻魔堂は古くからあり「近藤勇」も訪れたんじゃないか?って。

まぁ確かに目と鼻の先に陣屋はあるけどさ…

4月1日に総勢200余名で流山へ来て…4月3日には包囲され、近藤は出頭しちゃってるんだけどね。

この「秋元稲荷大明神」もそう…新選組が陣立ての際、近藤勇、土方歳三らが戦勝祈願をしたと伝わっています。
新選組関連の史跡も調布・日野、板橋、京都、会津、勝沼(山梨)とハントして、ようやく流山に来れたんで…最後は高校の修学旅行以来の函館「五稜郭」に行かなきゃな。


次は史跡ハントとは関係無いけど…「流山」から流山線で「小金城趾」で2人で降りました。

まず彼女が「昼ゴハン食べたい」と言うので昼食にしたよ…これも俺1人の史跡ハントなら有り得ないよね、昼ゴハンなんて史跡ハント中にほとんど食べたこと無いモン。
しかし…何も無い駅だわな…たまたま見つけた洋食店で昼食にしたよ、ご老人2人で?やられてるお店だったけど美味しかったね。
目的地は線路の反対側だったことが判り、もう一度駅を通って逆側へ…

まず来たのは「女躰神社」だよ…地図でこの周辺を調べてたとき「怪しい神社があるぞ…」って思ってさ。

でも女躰をイメージさせるモノは何も無し…



それから「横須賀中央公園」へ…って、この辺りは松戸市横須賀町っていうんだよ。
俺が住んでるトコは神奈川県横須賀市…ココは千葉県松戸市横須賀町…ただそれだけで流山の帰り道だったんで途中下車しただけのこと。

でも、駅のこっち側は開けてたな。

やっぱ1人じゃないから時間が押してるなぁ…「小金城趾」から流山線で「馬橋」、常磐線に乗り換えて「金町」で降りてからも「冷たいモノが飲みたい」ってことで駅前のマックで休憩よ。

京成線「金町」から「柴又」に向かったのも、もう16時過ぎてたからね…

「柴又」に来たの初めてだよ…昔、営業で「金町」にはよく来てたけど、京成線で1駅で「柴又」だったんだね。

「おもちゃ博物館」には入らなかったけど、1階の駄菓子屋には懐かしいモノがいっぱいだよ。

これは「渥美清」さんが寄贈したのかな?

俺、「男はつらいよ」って1作品も観たこと無いのよね…

「柴又帝釈天」までの参道には多くの飲食店やお土産屋があるよ。

下町情緒あふれる風景だね。

これは「二天門」です。

「二天門」の裏側。

これは「大鐘楼」と御神水の「浄行菩薩」です。

これは「帝釈堂」です。

また柴又駅に戻ります。

「寅さん」じゃないけど…男はつらいよ…って、女もだよね。
また京成線で「金町」→常磐線で「南千住」に戻ったよ…今日は南千住のホテルにスーツケース等を預けていたんでね。
最後は「綾瀬」にも1ヶ所史跡があったんで計画してたけど…予定よか3時間は押してたからさ、もう諦めたわ。
コレ、朝に教え子と散歩で回ったのも含めて国内の史跡ハントじゃ初めて帯同者がいたことになったかもな…友人と出掛けてた先に史跡がたまたまあって観たという前例は「鎌倉」「小田原」「大山」であったけどさ。
う~ん…やっぱハシゴして行く史跡ハントは1人に限るなぁ、ましてや女子と行くモンじゃないね。

その後は南千住から上野→山手線で新宿に出てからタクシーでホテルにチェックインしたよ。
これから俺は14日か15日ごろまで一緒に居るんだけど、その後18日からは同じホテルに夫と娘も泊まるんだからね…フロントの人、変なふうに思うだろうなぁ。
ホテルに荷物を置いてから焼肉食いに行ったよ…(外食で)久しぶりに焼肉食べたなぁ、約10ヶ月ぶりじゃね?
こういうのも友人と一緒だからだもんな…いつも1人が多いし、滅多に外食もしないからさ。
今晩からはおよそ10年ぶりに彼女と一緒かぁ、別にもう恋愛感情も無いし、人妻だからさ…そういう問題は無いけど、明日から彼女のペースで動かなきゃならないのが疲れそうだわ。


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北関東史跡ハント~群馬・埼玉編

2015年03月15日 | 幕末~明治史跡めぐり
3月15日(日)
今日は3:30すぎに起床したよ…6時に店を出ればイイんでアラームを5時半にセットしてたけど、近くのブースのヤツの鼾(いびき)が煩くて起きてしまったみたい。
まぁでも約4時間眠れたのは大きいし、昨晩ここ(ネットカフェ)に来てから続いてた「しゃっくり」が止まって良かったわ。
何といっても夕飯食べ過ぎた…ラーメンだけであのボリュームだったのに、セットのミニ麻婆丼と餃子(3ヶ)も食べちゃったからね。

①群馬県高崎市内編

5:55分ごろネットカフェをチェックアウトし、駅西口側へ向かいます。

昨晩食べたラーメン屋だよ…他には中華料理店、インド料理店などがあったけど、あのラーメン屋で良かったと思うよ…今日は何も食べなくても大丈夫そうだもん。

高崎市のマンホールだよ…高崎祭りの山車と花火をデザインしてるんだって。
今日は7:39発の上信電鉄に乗るまでの約1時間半、少し市内を見て行くよ。

ここは「大信寺」です…昨晩、ネットカフェに行く途中で見つけたんだよ。

残念ながら中には入れないけど、門には徳川の「三つ葉葵」家紋があるよね…

何とここには「徳川忠長」公の御廟所があるんだよ…って、俺も最初この看板?を見たとき「誰?」って思ったさ。
「徳川忠長」は第二代将軍「徳川秀忠」の三男として江戸城西の丸にて生まれ…幼名は「国千代(国松)」といい、父の秀忠や母の江(織田信長の姪)は病弱で吃音であった二男の「竹千代」(家光)よりも容姿端麗・才気煥発な「国千代」を寵愛していました。
それは生まれたころより「竹千代」が乳母「春日局」の手で育てられていたため、自らが育てた「国千代」に情が向けられたのは当然なんだろうけどね。
そのうち「竹千代」擁立派と「国千代」擁立派による次期将軍の座を巡る争いがあったとされますが、のちに「春日局」による家康への直訴により「竹千代」派の勝利で終わります。
忠長は松平姓を与えられ将軍職継承権を失い…改易など不遇のまま幕命により、この「大信寺」において自刃しました。(享年28)
映画「柳生一族の陰謀」(1978年・深作欣二監督)は、この三代将軍位争奪戦が描かれているよ。


それから「城址公園」に行きました…って、高崎城址には櫓も何も無かったっけ?

目の前は「高崎市役所」だよ。

高崎城は慶長3年(1598年)「徳川家康」の命を受けた「井伊直政」によって築城されました。

これも土塁かなぁ?

これが堀でしょ?

ここは「高崎公園」です。

ここは「頼政神社」です…祭神の「源頼政」は「平清盛」から信頼され、晩年には武士としては破格の従三位に昇り公卿に列しました。

これは「内村鑑三記念碑」です。

境内に入ってみました。

このように立ち上がってる狛犬って珍しくない?

鳥居をくぐったトコにいるけど、飛び掛かって来そうだね。

これが「拝殿」です。

さらに奥にも神社があったよ。

また公園を抜けて…この高崎シティギャラリーの辺りや、もっと奥が本丸だったみたいよ。
俺、あんま下調べしてなくてさ…この「城址公園」に櫓でもあるかと思ってたら無くて、そのもう少し先に「乾櫓」があったのに知らずに帰っちゃった。(またやっちまった?)
つまり「城址公園」と「高崎城址(乾櫓)」は別モノだったのかぁ…紛らわしい。

もう観るトコ無いんで(ホントはあったのに)駅に行くよ。

葉山一色亭だって…ここ高崎だけど。

6:50ごろ駅に着いちゃった…今日、さっきの市役所に「May J.」来て無料ライブやるんじゃ~ん。
昨日だったら時間を調整して観れたかも知れないのに…残念。

②群馬県富岡市「富岡製糸場」編

7:39発の上信電鉄にはまだ40分くらいあるんだけど…もはや高崎に居ても仕様がないんで、その1本前の7:18発に乗ることにしたわ。
昨日「達磨寺」に行く前に時間があったんで「富岡製糸場見学往復割引乗車券」を買っておいた(いつでも買えるけど)んで、高崎駅~上州富岡駅間1往復電車賃(1,580円)+富岡製糸場見学料(500円)がセットになって通常2,080円のところ1,640円なんだよ。

0番線だって…昔、一時期住んでた「北綾瀬」を思い出すなぁ。

初めて乗る上信電鉄だよ。

8:01「上州富岡」に着いたけど…やっぱ他の駅より立派だね。

駅からは道案内も多いんで迷うことは無いでしょう。

途中にあった「富岡諏訪神社」です。

まぁ特に何も無いフツーの神社だね。

拝殿です。

ようこそ、とみおかへ…いえいえ、こちらこそどうも。

モテ期。

ここは宮本町蔵広場です。

おぉ、レトロな建物だぞ。

通りにはお土産屋や飲食店が並んでいます。

フグ?…じゃなくて蕎麦屋?

9:00開場なんだけど、8:20に着いちゃったよ…

早く着きすぎたんで敷地の周りを歩いてみたよ…この建物は社員住宅だったみたい。

富岡市のマンホールは町の木「もみじの葉」と町の花「ふじ」がデザインされてるんだって。

これがフランス積みレンガの建物だな…入場してから詳しいことは解るでしょう。



8:45ごろ正門前に戻ったら、もう2~30人の列ができてたよ…さっき俺が着いた20分ほど前は1人くらいしかいなかったのに。

9:00開門したよ~
「富岡製糸場」は1872年(明治5年)フランスの技術を導入して設立された日本初の本格的な器械製糸工場で、当時世界最大級の規模を持っていました。

2014年6月に世界遺産登録の可否が審議され、6月21日に日本の近代化遺産で初の世界遺産リスト登録物件となりました。
同年代の「横須賀製鉄所」(→横須賀造船所→横須賀海軍工廠)だって残ってれば世界遺産になってたかもよ。

これは「行啓記念碑」です。

券売所(左)と見学ポイントマップに載ってた水飲み場…当時のモノ?

この真正面の建物が「東繭倉庫」で入場可能です。

中は展示場になってるよ…天井の板は当時のモノなのかなぁ?

これはフランス式繰糸機(復元)です。

小学生のころ授業でマユを茹でて絹糸を取り出したことがあったなぁ。

蚕にもいろんな品種があるんだねぇ。

「東繭倉庫」を出ると見えるのが「乾燥場」の煙突です。

この乾燥場辺りは工事中なんだね。

乾燥場の「蒸気釜所」辺りです。

この小屋は?

これは工場長の社宅だよ。

これは役職者用の社宅みたい。

解説集合場所です。

ミニ神社?と自販機んトコにあった休憩所?

「西繭倉庫」は中に入れないよ…さっき入場前に外から見たのが、この「西繭倉庫」の反対側だったんだね。

ここは「東繭倉庫」の裏側。

また「東繭倉庫」の正面に戻って来たよ。

これは「検査人館」です…生糸の検査を担当したフランス人男性の住居でした。

これは隣にある「女工館」です…日本人の工女に器械による糸とりの技術を教えるために雇われたフランス人女性教師の住居で、木骨レンガ造2階建て回廊様式のベランダ付き住宅風建築物です。

ここ玄関?


これは「繰糸場」です…ここは入場できます。

内部見学できるのは「東繭倉庫」と「繰糸場」の2ヶ所です。

小屋組には「トラス構造」という従来の日本には無い建築工法を用いています。

操業停止(1987年)時の機械がそのまま置いてあるんだよ。(昭和40年代以降に設置された自動繰糸機)

ここは繭から生糸を取る作業が行われていた場所で、創業当時はフランス式の繰糸器300釜が設置された世界最大規模の製糸工場でした。

俺が持ってたイメージって田舎の女子が家族を養うために奉公のような感じで親に出されて働いてた…なんだけど、誤解?

ブリュナが導入した操業当初の器械を含む過去の器械類は、岡谷市の市立岡谷蚕糸博物館に寄贈されたことから、そこに保存されているそうです。

これは「診療所」です。

これは「ブリュナ館」です…指導者として雇われたフランス人「ポール・ブリュナ」が家族と暮らしていた住居です。
ブリュナは製糸場の設計のために「横須賀製鉄所」のお雇い外国人だったエドモン・オーギュスト・バスチャンに依頼して設計図を作成させました。
彼が短期間のうちに主要建造物群の設計を完成させられた背景としては、木骨レンガ造の「横須賀製鉄所」を設計した際の経験が活かせたからです。

後にこの建物は寄宿舎や工女に読み書きや裁縫などを教える夜学校として利用されました。

この下は「かぶら川」です…レンガ積み排水溝があるんだって。

これは「寄宿舎」です。

「繰糸場」の側面だよ。

また「東繭倉庫」前に戻って来たよ。

場内見取図です。

9:50すぎ「富岡製糸場」を出ました…帰りの上信電鉄は「上州富岡」10:45発だから、どっかで時間ツブせるかなぁ?

帰りは商店街も開き始めてたよ…あのレトロな建物は時計屋で、お土産も売ってたんでチョット店の中に入って店主と少し雑談してたよ。
俺は15年ほど前、時計メーカーに勤務しててこのような時計屋にも営業してたからね…当時の所長が高崎から栄転して来た人で、その店主も知ってたはずなんだけど、名前が思い出せなくてさ。(数時間後に思い出したけど)

お土産屋「お富ちゃん家」です…いろんなお土産売ってたけど、もう「工女QP」は生産中止っぽいなぁ、製糸場内の売店にも無かったし。

「お富ちゃん」だよ。

レトロな外観の建物も多いけど…この後、埼玉で行くトコもレトロだぞ。

ほぼ駅前なんだけど、もうここに遺構があるの?って最初思ったよ。

その前にある「富岡市役所」だよ。

何だかんだ時間をツブして10:35「上州富岡」に戻りました。

旅に出る前の天気予報は曇りだったけど、今日も天気が良くてサイコーでーす。

10:45発の高崎行に乗りました。
今回の史跡ハントのメインはここ(富岡製糸場)だったからね…と言うのも、来月(4月)から入場料が¥500¥1,000に上がるんだわ、それで群馬周辺の史跡ハントを企画したんだよ。

③埼玉県川越市「小江戸川越」編
11:24「高崎」に着き、次は11:30発の高崎線に乗るけど、乗り換えに6分しか無いんで杖をつきながらも急いで上信電鉄の改札を出てJRに向かったよ。
さぁ高崎線は何番ホームだ?と掲示板を見ると…「チョット待って、チョット待って、高崎線、48分て何ですの?」
11:48分って20分後じゃんよ…どういうこと?俺、調べ間違えた?と思い、ホームの時刻表を見てみたら「2015年3月14日改正」って昨日付でダイヤ変わったのかよぉ。
家を出る直前まで入念に時刻表は調べていたんだけど…特に日付を入力して検索するサイトじゃないからねぇ。
これから上の妹一家が住む「川越」に行くんで、前日に義弟(と言っても同じ歳)に連絡したところ「ゆうてる(甥2人)」も「会いたい」って言ってくれて一緒に史跡ハント?することになってたんだよ。
これじゃ当初の合流時間に着かないのと、遅れて何時になるのか?も分からないんで調べておいてもらい…13:13「大宮」着で13:17発の川越線に乗り換えて13:35「南古谷」で降りました。

「川越」の1駅前で降りたのは、車で来る妹一家が「南古谷」の方が拾いやすい…と言うのでね。
俺は妹の家には行ったことあるけど、「川越」駅は今回初めてだから知らないけど…確かにこの駅(南古谷)なら確実に込まないな。
でも…数分遅れて妹一家登場…って、俺は17分の川越線に乗れた後すぐメールしたんだけど…俺が「大宮」で4分間の乗り換えは脚が悪いから厳しいだろう…と20分後を想定してたみたいでさ。
たまたま高崎線が「大宮」に着いたとき、扉がホーム階段の前だったんでさ…それで俺の脚でも間に合った…って、そんなヒドくないよぉ、走れないけど速歩きはできるからね。
まぁでも年末年始以来のYUYA&TERUYAに会えたよ~
帰りは「川越」16:22発に乗りたいんで約2時間半で何が観れるかなぁ?

まずは車で「本丸御殿」に連れて行ってもらったよ。(これは側面)

これが正面…入館料は¥100です。
天正18年(1590年)「豊臣秀吉」の小田原征伐に際し、北条氏の宿老「大道寺政繁」が守る川越城は「前田利家」に攻められて落城しました。
やがて同年8月「徳川家康」が一族家臣を従えて関東に移るにおよび、川越には「酒井重忠」が1万石をもって封じられ、ここに川越藩の基礎が成立しました。
本丸御殿大広間が現存しているのは、日本では川越城の他には高知城のみで貴重な遺構なのであります

この杉戸絵は「朝日に松」という題がつけられており、赤々と登る太陽と太く荒々しい木肌で表現された松が描かれています。

それでは中の一部を紹介しましょう。

これは「使者の間」です。

これは「物頭詰所」です…物頭とは足軽頭(足軽隊を率いた指揮官)のことなんだって。

これは「東廊下」で長さは40m近くあります…ドラマ「JIN‐仁‐」の撮影も行われたんだよ。

鬼瓦です。

川越城は関東七名城・日本100名城に数えられているよ…ちなみに七名城は他に忍城・前橋城・金山城・唐沢山城・宇都宮城・多気城(または太田城)で、行ったことあるのは同じく埼玉県内にある忍城で、前日行きそびれたのが宇都宮城だよ。

庭園もキレイに整備されています。

ここ何の間だったっけ?

便所と…あれ?この行灯、電気使っちゃってるよ…

これは「鎗の間」だって…鎗は無かったような。

14:25ごろ「本丸御殿」を出たよ…所要時間はあと1時間半くらいかな。

すぐ近くの「三芳野神社」に行ってみたよ。

信号機の音楽で有名な「とうりゃんせ」の唄発祥の地なんだとさ。

ここは天神様なのかぁ、そういや「とうりゃんせ」の歌詞にも「天神さまの細道じゃ~」ってあるけど、この参道が舞台といわれてるみたいよ。

川越市のマンホールだよ。

ここは「中ノ門堀跡」です。

旧城内に残る唯一の堀跡です。

川越市役所前を通り、札の辻交差点を左折すると…

「蔵づくりの町並み」があります…一番街の大沢家住宅(写真右)は1792年(寛政4年)に建てられ、国の重要文化財になっています。

これは「川越まつり会館」です。

現在の蔵造りの多くは川越大火(1893年)後に建てられたもので、今も30数棟が残っているそうです。

情緒あふれる「蔵づくりの町並み」を台無しにする交通量だな…歩行者天国にできないのかなぁ?

これは「時の鐘」で、ちょうど15時の鐘を聴くことができたよ。

ホント、タイムスリップしたかのような町並みだね…車さえ通らなきゃ。

天気の良い日曜日…人もいっぱいだわ。

これは大正7年に建築された洋館で、埼玉りそな銀行なんだって。

なんか歩道も狭いせいで、ゆっくり観れる雰囲気じゃないんだよな~

これは「山崎美術館」です。

川越商工会議所もレトロな造りになってるねぇ。

それから「大正浪漫夢通り」へ。

え ホントに大正ロマン?

ここは「熊野神社」です。

なんか、お囃子につられて入って行くと…

銭洗い弁天があったよ。

これは拝殿です。

お囃子はここから聴こえてたのかぁ。

こういうのって大抵オッサンさんかオバサンがやってるのに珍しく若い子がやってるね。

「本丸御殿」からずっと歩きだから「ゆうてる」は疲れちゃったかな?

ここは「成田山」です。

最後に向かうのは「喜多院」だよ。

慈覚大師が830年(天長7年)に創建した天台宗の名刹です。

江戸時代初期、名僧「天海大僧正」も住職をつとめました。

これは「多宝塔」です。

「徳川家康」の信任を得ていた「天海僧正」が第27世住職になると幕府からの厚い庇護を受け、江戸城から豪華な壁画や墨絵で装飾された「客殿」と呼ばれる家光誕生の間や三代将軍家光の乳母として知られる「春日局」が使用していた「書院」と呼ばれる春日局化粧の間などが移築されました。
ただ…もう時間があまり無いのと拝観料が¥400ということもあり、それらは観なかったよ。

これは「鐘楼門」です。

ここは「喜多院」の南側に隣接する「仙波東照宮」です。

東照宮といえば「徳川家康」を祀っているけど、ここは日光久能山と並ぶ“日本三大東照宮”の一つなんだって…じゃあこれで制覇だね。

元和2年(1616年)駿府で「徳川家康」が没し、その遺骸を静岡(久能山)から日光山へ移葬する途中「天海僧正」によって「喜多院」で四日間の法要が営まれたことから、寛永10年(1633年)建立されました。

あれ 門の中に誰もいないのね。

こっちが「喜多院」の山門よ。

「南光坊天海」大僧正だよ。

朝は高崎の「徳川忠長」で始まり…最後は「春日局」と「徳川家光」関連で終わるとは…家光・忠長兄弟の因縁か?
もう時間は16時近く…これから歩いて「本丸御殿」(駐車してる)に戻って、車で「新河岸」に16:20くらいまでに着くだろうか…?
できれば横浜まで1本で出られる東武線に乗りたいんで、そこで妹一家とは別れて歩いて川越駅まで行くことにしたよ。

クレアモールってのがけっこう長くてさぁ、16:20「川越」に着いたよ…またギリで間に合わないかと思ったわ。
今回「川越」は史跡ハント帰りに“立ち寄った”みたいな感じになっちゃったんで…また機会があればゆっくり観てみたいね。
そのときはヨロシクね~ 今度「ゆうてる」がウチに来るのはGWだね、待ってるよ~
その後「横浜」から京急に乗り換えて18:45ごろ家に着いたよ…「横浜」から1本で「川越」まで行けるのってラクだよね。

この史跡ハント2日目のレポートが更新できたのが21日なんだけど…帰って来てからの1週間、仕事の影響もあると思うけど左脚の状態は過去最悪かも。
それでも…史跡ハンターは死なず またどこかの史跡に出没するでしょう。
次回はいつ、どこになるか分からないけど…再見


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