史跡ハンター 臥龍

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バガボンド史跡ハント~姫路編&源平史跡・須磨編

2011年02月10日 | バガボンド史跡めぐり
2月10日(木)1/2
さて、9日の22:10ごろ出発した「高速(夜行)バス」ですが、山梨県と三重県でトイレ休憩があり、三ノ宮(兵庫県)を経由し、6:15ごろ「姫路」に到着しました。
今回、なぜ「姫路」に来たか?と言うと、当初「姫路」に住んでいる(東京から移った)教え子に会うためだったんです。
でも、春節で中国に帰ってしまって会えないので、ついでに調べておいた“史跡ハント”をするために「姫路」まで来たんです。
…とは言ってもハントする史跡は「姫路」ではなく、その先の「網干」という駅から歩いて行きます。
とりあえず「姫路」で降りて「網干」に行く時刻表を見ると6:26にあったんだけど、まだ駅のコンビニが開いていない…
実は「姫路」で「宮本武蔵キューピー」が買いたくてさ…帰りは「姫路」をスルーして「神戸」方面に行ってしまうのでね。
次の電車は6:32…開店が6:30なので、すぐ探せれば間に合うかも…って売って無いじゃん。
買ってすぐ電車に乗ろうと思って、改札入った中のコンビニで探したけど無い…どうせもう6:32にも乗れないので、駅員に言って一度改札を出て別のコンビニで見たり、さらには新幹線ホームに向かう所のコンビニでも探したけど無い。
次は7:03の電車だけど、もう周りに店が無いから(知らないから)諦めざるを得なくなってしまいました。
生産中止になったのか、生産が間に合わないのか、単にどの店も発注を出してないのか…それは分からないけど、去年の福井県で「佐々木小次郎キューピー」が無かったのと同じ結果になってしまったよ…奇しくも「武蔵」と「小次郎」で。

そのせいで30分もロスしてしまい、「網干」に7:15ごろ着きました。
駅からは大体の地図しか無く、とりあえず近くまで行けば分かるだろう…って感じだったんだけど、これがかなり遠い。

それも分かっちゃいたけど、自分の足で行くしか手段が無いんだもん…
やっと案内標識が出てき始めました。

何とか7:55ごろ「宮本公園」に着きました。

公園の奥にある「宮本武蔵生誕之地碑」です。

「宮本武蔵」の生誕地には「播州高砂」「播州太子」「作州大原」の3つが有力な生誕地説となっています。
俺は2009年2月7日のブログで「岡山県美作市大原町(作州大原)」の“バガボンド史跡”(宮本武蔵故里)を紹介しましたね。
ただ、その時のブログを見てもらえれば分かるように、「岡山県美作市」の方は町を挙げてPRしてるけど、こっちは何も無いからね。
だって「岡山県美作市」は駅名が「宮本武蔵」だったもん。
…そうなるとやっぱ出生地は「美作市」の方になっちゃうよね…
負けるな「兵庫県揖保郡太子町宮本」

これが「石海神社」で、境内には椋の木「逆さ椋」があります。

ここが「宮本武蔵の生家跡」です。

その中にある「武蔵の産湯井戸」です。

最後に公園内にあったモノを紹介します。

これは「力石」です。
「ちからいし」ですよ…「力石(りきいし)徹」じゃないよ~
昔の若者が力試しに抱え上げていた石らしいです。
これで68Kg?意外と重いんだね。

これは「飯事(ままごと)」で、この石を「まな板」のように子供が使ってたらしいです。

こんな風に公園の脇に放置されています…

8:05ごろ「宮本公園」を出ました。
また「網干」駅まで戻るのか…

8:30ごろ「網干」駅に着き、次は途中の「塩屋」で山陽電鉄に乗り換え…

10:05ごろ「須磨浦公園」駅で降りました。

駅を背に右側に歩いて行くと「敦盛塚」があります。

これが「敦盛塚」です。
駅方面に戻り、今度は逆側を歩いて行くと…

これは「みどりの塔」(昭和59年、天皇・皇后両陛下のご来神記念)で、

これは「戦の濱」碑です。
この周辺は「源平一ノ谷合戦場」でした。
平安時代後期「平清盛」が京都から福原(現在の兵庫区)に都を移しますが、源氏に追われ「一ノ谷合戦」で「源義経」に破れるなど、神戸は源平の物語の舞台となりました。

この辺りも昔は浜辺だったのかなぁ?

目の前の海には…何があるんだろう?
10:25ごろ「須磨浦公園」駅に戻り、

次は「須磨寺」駅で下車しました。

「智慧の道」という商店街?があります。

「知慧の輪くぐり」だって~

10:45「須磨寺」に着きました。
これは「仁王門」です。

門の「仁王」像です。

門を出ると左手に「源平の庭」があります。

左側が「平敦盛」で、

右側が「熊谷直実」です。
「平敦盛」は「平清盛」の弟「経盛」の末子で、「一ノ谷合戦」の西城戸(にしきど)の戦いで破れました。
合戦が終わろうとする中、源氏の武将は何とか功名を立てようと、死に物狂いで名だたる平家の武将を探していました。
「熊谷次郎直実」もその中におり、平家の名のある武将を探していたのです。
一方、平家の武将たちはこの頃、岸から少し沖にはなれた船へと皆で向かっていました。
「平敦盛」も馬を海に入れ、沖の船を目指していました。
その時、背後から呼び止める者がいました―「熊谷直実」です。
「熊谷」は「敵に後ろを見せて逃げるのは卑怯、戻れ」と「敦盛」に言いました。
その言葉を聞いた「敦盛」は馬首を返し、「熊谷」との一騎打ちに応じたのです。
しかし若干16歳の「敦盛」は「熊谷」にあっという間にねじ伏せられます。
「熊谷」は首を切ろうとして、兜を上げてみるとその顔は自分の息子と同じくらい…
「敦盛」は名を名乗らず「唯首をとれ、自分は名のある公達だ、首をとって手柄にせよ」の一点張りでした。
「敦盛」の気品のある立ち振る舞いに、この少年は名のある若殿かと思いを巡らせました。
そして「熊谷」は「一人を逃しても戦局には関係あるまい、子のある自分にはこの公達の父の悲しさも分かるから」と、逃がそうとしました。
まさにその時、土肥・梶原の軍勢が来てしまったのです。
もはやこれまでと思った「熊谷」は自分が今討ち取ったほうが弔いも出来るし、他の者の手にかかるのならと泣く泣くその公達の首を取りました。
その後、「熊谷」が首を包もうとしたとき、一本の笛を見つけました。
合戦の前日にも心にしみいる横笛の音色が響いていたことを思い出し、昨夜の笛の音はこの少年であったか…と感心しました。
「熊谷」が本陣に戻ってこの首を見せると、居合わせた人々はこれが「平敦盛」であると涙ぐみました。
「熊谷」は「敦盛」を弔うために、後に法然上人の下で出家するのでした…。

「唐門」をくぐって右手に「弁慶の鐘」があります。

これが「本堂」です。

これは「義経腰掛の松」です。

頭を触ると動く猿の置物です。

これは「あつもり首塚」です。
さっき「須磨浦公園」で見たのは「胴塚」って事になるのかな?

これは「シベリヤ満蒙戦没者慰霊碑」です。
白クマが可愛らしいんだけど。

「きんほとん童子」と「三重塔」です。

戻って「宝物館」へ。

「弁慶鐘」と「敦盛の鎧」?

境内には変わったモノがいろいろあります。

11:10ごろ「須磨寺」を出て、歩いてJR「須磨」駅に行きました。
11:30ごろ「須磨」駅に着き、11:45ごろJR「兵庫」駅で降りました。

では、続きは「源平史跡~兵庫・神戸編」にて。


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「バガボンド」史跡めぐり~下関編

2009年02月20日 | バガボンド史跡めぐり
2月20日(金)2/2
さて、14:10『功山寺』を出てから、「国道9号線」を「下関」に向かいました。
しかし…今日は凄い「強風」ですよ…ここが海沿いだから?

やっと「関門橋」が見えて来たぞ…

そして14:45「みもすそ川公園」に着きました。
実は「長府」から「下関」もけっこうな距離あるのよね…

『長州砲』です。

ここは「壇の浦古戦場跡」です。

「源義経像」と大河ドラマ「義経」で義経を演じていた「タッキーの手形」です。

こっちは「平知盛」で、ドラマでは「小泉孝太郎」が演じてたそうな。

「安徳帝御入水之処」碑です。
1185年「壇の浦の合戦」にて敗退し、「安徳天皇」は「二位の尼」に抱かれ「馬関海峡」に身を投じました。

「もみすそ川公園」を出て少し行くと「立石稲荷神社」がありました。

そして「赤間神宮」前を通り…

『春帆楼(日清戦争講和記念館)』前を過ぎ…

「亀山八幡宮」で「世界最大のふくの銅像」を見て…って誰も競って大きな「ふぐの銅像」なんて造らないだろ…

15:05「カモンワーフ」に着きました。
これは「聖フランシスコ・ザビエル下関上陸の碑」です。

これは「唐戸市場」です。

それから「関門汽船(15:30巌流島行き)」の切符を購入しました。(往復¥1,000)
あまりの強風なんで運休だったらどうしよう…って心配してたんだけどね。
さっきスルーして来た「赤間神宮」や『春帆楼』など、「下関」は2006年5月20日のブログで詳しくレポートしています。
その時は『巌流島』に行って無いんでね…最後のバガボンド史跡ハントです。

この「PIER1」から『巌流島』行きの「フェリー」が出ています。

この「伊織号」で、15:30出発しました。
俺以外の乗客は、家族連れ(夫婦と小さな子供が2人)のみ。

15:40『巌流島』に着きました。

「関門海峡」に浮かぶ周囲約1.6Kmの小さな島です。
正式な名称は「船島」といいますが、『武蔵』に敗れた『小次郎』の流派「巌流」をとって『巌流島』と呼ばれるようになりました。

これは『巌流島文学碑』と『決闘の地木碑』です。

『宮本武蔵』『佐々木小次郎』が闘ったのは、慶長17年(1612年)4月13日でした。

これは『武蔵・小次郎像』です。

三尺一寸の太刀を持つ『小次郎』と、船の櫂を削った「木刀」を振りかざす『武蔵』です。
一刻遅れてやってきた『武蔵』は、「擢の木刀」をひっさげ素足で浅瀬に降り立ちました。
いらだつ『小次郎』は「故意に約束の刻を違えて敵の虚をつくのは汝のよく用いる兵法だ」となじり、長刀を抜き放ち「鞘」を波間に投げ捨てました。
すかさず『武蔵』は「小次郎っ、負けたり」「勝つ身であれば、なぜ鞘を投げ捨てむ」と応じるのでした。

『武蔵』が乗って来た「小船」まで再現されている浜辺です。

「海峡ゆめタワー」と「ゆうとぴあ号」が見えますね。

これは『佐々木巌流之碑』と「船島神社」です。
そして、あまりの強風のため10分早い16:05「フェリー」が来ました。
もう俺しか「島」に居ないんだって…じゃあ、「あの家族連れは?」と訊くと、強風なんで乗って来た「フェリー」から降りずに引き返したんだと…
あんな「乳飲み子」連れて、しかも『巌流島』に行く家族なんて変だよな…
何も分からない「乳飲み子」と「2、3歳の子」を連れてだぜ…
16:15「カモンワーフ」に戻り、16:35「ホテル」にチェックインしました。
そして17:00再び出発し、「門司港」に行くことにしました。
さっきの「みもすそ川公園」前に「関門トンネル人道」があって、「自転車(¥20)」で「関門海峡」を渡れるんだって。

ちょっと行き過ぎて「平家の一杯水」に来ちゃった。
「壇之浦の戦い」で深手を負って岸に泳ぎ着いた「平家の武将」が水溜りを見つけ、飲んでみると「真水」でしたが、もう一口飲もうとしたら「塩水」になっていたという伝説があります。

17:30「関門トンネル人道」入口に着きました。

780mの「歩行者用海底トンネル」です。
「自転車」や「原付」は押して歩かねばなりません。

そして17:40すぎ「門司(福岡)」側に着きました。

ちょっと「門司港」の遺構を見てました。

18:50ごろ「門司港」を出て、「下関」に帰りました。
19:45「ホテル」に戻り、コンビニで買った「弁当」や「ラーメン」などを夕飯にしました。

長かった旅も明日で終わりです。
明日は午前中1ヶ所出掛けてから、12:00発の「フェリー」で「青島(中国)」に行きます。
では、また明日。


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「バガボンド」史跡めぐり~天草編

2009年02月16日 | バガボンド史跡めぐり
2月16日(月)1/2
今日は18:20発の「高速バス」で「鹿児島」に行くんだけど、昨日熊本市内を回り切れたんで、今日は『田原坂』しか行く所が無かったんです。
さすがに『田原坂』で1日は掛かるワケも無く、昨晩夕飯を食べに出掛けた時に本屋で「熊本のガイドブック」を立ち読みして他に行く所が無いか探してみました。
「熊本」から「フェリー」に乗って「島原」に行くか、「電車」に乗って「天草」に行くか…の2案に絞られたんだけど、「天草」に行くことに決めました。
6:00起床し、7:00すぎ「ホテル」をチェックアウトして出ました。

7:30に「自転車」をバッグにしまい、不要な荷物はコインロッカーに預けました。
「天草」に行くには「JR三角線」に乗って、終点「三角駅」まで行きます。
史跡はそこから「自転車」で行きます。

7:26発が行ったばかりで、8:04発の「三角線」に乗りました。

そして9:00「三角(みすみ)駅」に着きました。
ずっと「三角(さんかく)」だと思ってたよ…駅が「三角形」だったらどうしよう…って少し期待してたんだけどね。
「自転車」を組み立て、9:05出発しました。

これは「天門橋」です。

「天門橋」から見えた景色です。

「天門橋」を渡った所にある「天門橋展望所」です。

さらに「自転車」で走り続け…9:45ごろ「あまくさ村(お土産屋?)」に着きました。

ここには巨大な『天草四郎像』があります。

ここは「カリフォルニア」の「フィッシャーマンズ・ワーフ」みたいだね。

これは『天草四郎教会跡』です。

9:55やっと「天草四郎公園」が見えてきました…

これが『天草四郎メモリアルホール』です。(入場料¥600)

なんか「葬儀場」みたいな名前だけど、『天草四郎』の資料館ですね。
10:40『天草四郎メモリアルホール』を出ました。

「愛の鐘」ってこれじゃないよな…

裏に何かありそうなんで行ってみました。

「愛の鐘」と『天草四郎像』と…

な、なんと『天草四郎之墓』がありました。
10:45「天草四郎公園」を出て、「天草パールセンター」まで行ってみようと「自転車」を走らせてたんだけど…もう無理
11:00その地点から引き返しました…
なんたって今日は「風」が強い

いや~いい天気ですね~
見えるのは何だろう?「雲仙普賢岳」では無いよね?

しかし…こんな所でも車の交通量はけっこう多かったんで驚いたけどね。

12:00「三角駅」に戻りました。
多分、往復20Kmくらい走ってたと思います…けっこう疲れましたよ。
この「三角港」にある「?」が駅だったら面白かったのに…これはお土産屋?
12:10「自転車」をバッグに収納し、準備完了しました。
そして12:29発の「JR三角線」に乗りました。

今回は『宮本武蔵』は出て来ないけど、『武蔵』も「天草島原の乱」には「小倉」の「小笠原藩家老」だった養子『伊織』の要請で、乱の鎮圧に参戦しています。
まぁそれで「バガボンド史跡」に入れちゃいました。
ちょっと余談になるけど、「深作欣二」監督の『魔界転生(1981年)』は傑作ですよ。
『天草四郎』… …沢田研二
『柳生十兵衛』 … 千葉真一
『宮本武蔵』… …緒方拳
『柳生宗矩』… …若山富三郎
『細川ガラシャ』 …佳那晃子
『宝蔵院胤瞬』……室田日出男
『伊賀の霧丸』……真田広之
…という豪華キャストで、このバガボンド史跡ハントで関わってきた歴史人物が出てきますからね。
「島原の乱」に敗れた『天草四郎時貞』が「魔界」から甦り、幕府転覆を目論みます…それを阻止する『柳生十兵衛』というアクション映画です。
機会があったら是非観てみてください。

それでは続きは「幕末史跡めぐり(田原坂)」にて。


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「バガボンド」史跡めぐり~熊本編Part.2

2009年02月15日 | バガボンド史跡めぐり
2月15日(日)2/2
続きでーす。
12:50着いたのは…

『千葉城跡』で、『宮本武蔵旧居跡』なんです。

これは『武蔵使用の井戸』です。
『千葉城跡』は現在「NHK熊本放送局」でした。
そして『熊本城』前の公園?を見ると…

『横井小楠と維新群像』を発見しました。
左から『坂本龍馬』『勝海舟』「横井小楠」『松平春嶽』「細川護久」です。
まさか「熊本」でも『龍馬像』をハント出来るとは思いませんでしたね。

これは『谷干城像』です。
『谷干城(1837-1911)』は同じ「土佐藩」出身者である『坂本龍馬』を厚く尊敬し、慶応3年(1867年)に『龍馬』が暗殺されたときには、真っ先に現場に駆けつけ、瀕死の状態にあった『中岡慎太郎』から龍馬暗殺の経緯を聞きだし、生涯をかけて『龍馬』の暗殺犯を追ったといいます。
『谷』は犯人は『新撰組』と決めつけていたといいます。
「流山」で捕らえた『新撰組』局長であった『近藤勇』を斬首・獄門という惨刑に処したのも『谷』であり、彼にとっては龍馬の敵討ちでした。
明治33年(1900年)、かつての「見廻組」の一人であった「今井信郎」が「龍馬を暗殺したのは俺だ」と言いましたが、『谷』は「お前ごとき売名の徒に坂本さんが斬られるものか」と逆に非難したといいます。
1873年から「熊本鎮台司令長官」などを務めていました。

これは「熊本大神宮」です。
ここに「自転車」を停めて…

13:10ごろ『熊本城』に入りました。(入場料¥500)

『宮本武蔵』は、1640年から「細川家の客分」になっています。

天守閣内部には「加藤家」「細川家」『西南戦争』の資料が展示されています。

天守閣から見たこの辺りは『西南戦争』の激戦地だったんだって。

「二様の石垣」です。

これは『西南の役回顧之碑』です。

これは「加藤清正像」です。
「加藤清正(1562-1611)」は1588年「隈本城(古城)」に入城しました。
そして14:00『熊本城』周辺を発ちました。

先程天守閣から見た段山には『西南の役激戦地跡』碑が建っています。

そして14:20『島田美術館』に着きました。(入場料¥700)
でも『武蔵』に」関する展示なんて、ほんの少しですよ…それで¥700は入らなきゃよかった…
こんな大金払ったんで、従業員のオネーちゃんにその他の史跡の行き方を詳しく教えてもらい、14:35出ました。

少し道を間違えたりしながら、15:05『西の武蔵塚』に着きました。

『武蔵塚公園』のを“東の武蔵塚”と呼ぶのかは知らないけど、ここのは『西の武蔵塚』なんです。
15:05『西の武蔵塚』を出て、次は『霊巌洞』を目指します。
今日、この『霊巌洞』をハントしてしまえば、熊本市内のバガボンド史跡も終わりです。
しかし…これが「地獄の始まり」でした…
『西の武蔵塚』は『霊巌洞』に向かう途中だったんだけどね…

15:30「本妙寺公園?」で見つけた「加藤清正像」です。
ここまでで約30分なんだけど…まだまだ掛かりそうです…

こんな山道になっちゃいました。
「自転車」で走ってるのなんて俺くらいだよ…
…と言うより上り坂が多くて、「自転車」を押して歩いてるのが多かったかも。
16:15『霊巌洞』まで5Kmの標識から下り坂になりました。

何とか下まで着きました…あともう少し。

これが周囲の風景ですよ…って、とんでもない「田舎」に来てしまったもんです。(しかもチャリで…)

そして16:35『雲巌禅寺』に着きました。
あのまま上りが続いてたら、17時までに着かなかったかもね…

「宝物館」も付いてる入口から入ります。(入場料¥200)

少し歩くと「五百羅漢」があります。

更に進むと『霊巌洞』があります。
上に上がってみると「岩戸観音」が祀られています。
『武蔵』はここで『五輪書』を書いたのです。
この「デカい岩」は何だったっけ?
17:00『雲巌禅寺』を出ました。

上にある駐車場には『宮本武蔵先生所修錬之処』碑がありました。

これは「勝ち運を呼ぶ武蔵像」だって…もうちょっとカッコ良く作ってよ…
そして17:05発ちました。
行きは寄り道もしたけど『西の武蔵塚』から1時間半掛かってるんだけど、ほとんど上りだったからね。
帰りはさっきの「残り5Km地点」まで40分掛かった(上りだから)けど、そこを越えたらほぼ「ノンストップ」で18:00熊本市内まで出られました。

そして18:20「ホテル」にチェックインして近くに「熊本ラーメン」を食べに行きました。
実は「熊本ラーメン」が一番好きかも。
この記事を編集したのが「3月10日」なんだけど、その前日に一緒に食事したM君は「熊本」出身で、この日のことを話してたら「あそこ(霊巌洞)は自転車で行くような所じゃないですよ」だってさ。
でもさ…途中でバス停見たら、ほとんど「バス」が走ってないんだもん…
今日は午前中に「熊本」に着いたし、頑張って『霊巌洞』まで行ったんでね…明日1日はどうしよう?
半日は予定が入ってるけど、次の「鹿児島」に行く「バス」は18:20発だしな…とりあえず今晩中に考えなきゃな。
じゃあ、また明日。


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「バガボンド」史跡めぐり~熊本編Part.1

2009年02月15日 | バガボンド史跡めぐり
2月15日(日)1/2
昨日「熊本」行きのバス時刻を変更したので、今日は5:50起床して、6:55「ホテル」をチェックアウトしました。
てっきり7:20発と思ってたんだけど、昨晩ホテルのパソコンでも調べて7:40発だと分かったんでね。(切符にも印刷されてるけどさ)
7:20「県営バスターミナル」に「自転車」を畳んで入りました。
そして7:40「バス」は発車しました。

10:15「武蔵ヶ丘」で下車しました。
こんな「高速道路」の途中でも降りられるんだね…でも『武蔵塚公園』はどっちだ?

10:25準備完了し、聞き込みをしながら…ようやく10:50ごろ『武蔵塚公園』に着きました。

姉妹都市「テキサス州サンアントニオ」から贈られた「宮本武蔵に捧ぐ碑」がありました。

そして、この園内には…

『宮本武蔵像』があります。

それから奥に入って行くと…

『宮本武蔵の墓』と「独歩道の碑」があります。

これは『松浦新吉郎の墓』です。
『西南戦争』で「薩軍」とともに『官軍』と戦った「熊本隊」の副隊長です。

公園近くの「武蔵茶屋(お土産屋?)」です。
11:15『武蔵塚公園』を出ました。

途中「梅」がキレイに咲いていました。

11:45『引導石』に着きました。
1645年『宮本武蔵』が62歳で亡くなると、遺言により「大津街道二里木」の近くに葬られることになりました。
葬儀の列が「泰勝寺」参道に入って、この石の上に棺を置き、後に「泰勝寺」二代目住職となった「春山」がここで引導を渡したのが由来です。

これは「泰勝寺」境内「無相寺」跡です。

「泰勝寺庭園」の入口だけど、ここからは入れませんね…

この辺りは『立田自然公園(泰勝寺跡)』といいます。(入場料¥200)
「泰勝寺」は細川家の菩提寺なんです。

この石段を上がって行くと『四つ御廟』があります。

初代「細川藤孝夫妻」と、

二代目「細川忠興夫妻の墓」があります。

「細川ガラシャ(1563-1600)」は「明智光秀」の娘で「織田信長」の命により「細川忠興」に嫁ぎました。
「関ヶ原の戦い」の際「石田三成」に人質として「大阪城」入城を強要されますが承知せず、邸を囲まれ殉節しました。

そして、さらに奥へ進んで行くと…

墓所があります。

その中には「泰勝寺開祖大渕和尚の墓」と、

『伝 宮本武蔵供養塔』と「春山和尚の墓」があります。

他にも園内には「細川家歴代の墓」があります。

そういや昔「総理大臣」だった「細川護熙」って、この子孫なんだっけ?

これは「苔園」です。
12:20ごろ『立田自然公園』を出ました。

そして『熊本城』を目指し、市中心部に入りました。
おぉ「熊本」にも「路面電車」が走ってるんだね。

12:45『熊本城』周辺に着きました。
これは幕末の大学者「林桜園」の家塾「原道館跡」です。

では続きは“Part.2”にて。


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「バガボンド」史跡めぐり~小倉編

2009年02月13日 | バガボンド史跡めぐり
2月13日(金)1/2
さて、旅も折り返し(後半)に入り、ついに「九州初上陸」でーす。
昨晩21:20「高知駅」を発車した「高速バス」は、5:45「小倉駅」に着きました。
ここ「小倉」での史跡ハントは『小倉城』と『手向山公園』のみ。
『小倉城』は9時開門なので、まず『手向山公園』に行こうにも、まだ真っ暗なんでね…「小倉駅」前のマックで日の出を待つことにしました。
そして6:30マックを出て『手向山公園』を目指しました。

7:00ごろ『手向山公園』に着きました。
「自転車」を置いて、これから園内の山道を上がって行きます。

これは「探照灯台座跡」です。

これは「手向山砲台跡」と、そこから『幕末の激戦地』が臨めます。
慶応2年(1866年)7月の「小倉・熊本」両藩と「長州軍(奇兵隊)」との激戦地です。

これは『宮本武蔵の碑』です。
これは『宮本武蔵』の養子『宮本伊織』が建立したものです。

これは『佐々木小次郎の碑』です。
これは作家「村上元三」が小説「佐々木小次郎」の完成を記念して寄贈したものです。

これは「吟心舞魂の碑」です。

近くの展望台からは「関門海峡」が望めますが…今日はちょっと霞んでますね。

これは「明治時代の火力発電所跡」です。

これは『宮本家代々の墓』です。
『宮本伊織』は『武蔵』の兄「田原甚兵衛」の次男として慶長17年(1612年)に生まれ、幼き頃から武蔵の養子になりました。
15歳の時、明石10万石の藩主「小笠原忠政」に仕え、わずか20歳で「家老」になりました。
そして寛永9年(1632年)藩主の移封に従って「小倉」に移ります。
寛永15年(1638年)には「島原の乱」に出陣して功を立てました。
この中に『宮本伊織墓』があるんだけど、入れないんで「どれ」か分かりませんでした。
7:30ごろ『手向山公園』を出て、「小倉駅」方面に戻りました。

7:50ごろ「小倉駅」に着きました。
その近くにある「森鴎外京町住居跡碑」です。

8:00ごろ『小倉城』に着きました。
でも…まだ開門まで1時間もあるよ…

ヒマなんで、近くの「八坂神社」を見てました。

この旅では『大阪城』『二条城』『姫路城』『岡山城』『高知城』に続いて6番目に見た城ですね。

これは「大手門跡」です。

まだまだ時間があるんで、城周辺を散策していました。
これは「大砲」ですね…(見たままじゃん

これは旧日本陸軍の「第12師団司令部正門跡」です。

これは「白洲燈台」です。

これは「松本清張記念館」です。
作家「松本清張」は明治42年(1909年)、現在の小倉北区で生まれました。

あと20分…城前のベンチに座って待っていると「剣士のオジさん」に話し掛けられ、剣術についての「豆知識?」を教えてもらいました。
そして、9:15ごろ入城しました。(入場料¥350)
『小倉城』は慶長7年(1602年)「細川忠興」が豊前藩32万石のシンボルとして築城した南蛮造りの名城でしたが、慶応2年(1866年)の『第二次長州征討戦』のおりに焼失しました。
現在の天守閣は昭和34年に復元されたものです。

これは「迎え虎」です。

これは「島原の乱」出陣前夜の作戦会議風景をリアルなからくり人形で再現しています。
一番左に居るのが『宮本伊織』です。

天守閣から見た「小倉城庭園」です。
『小倉城』と「松本清張記念館」と「小倉城庭園」のセット入場券だと¥700だったと思います。

『武蔵』に関する展示と「送り虎」です。
9:55『小倉城』を出て、10:00「西小倉駅」に着きました。
そして、10:15発の「JR鹿児島本線」で「博多」に向かいました。

もうそろそろ「雨」が降って来そうな感じだなぁ。
それじゃ、「博多編」は次のレポートにて…


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「バガボンド」史跡めぐり~姫路・岡山編Part.2

2009年02月07日 | バガボンド史跡めぐり
2月7日(土)2/2
はい、続きで~す。

この「鳥居」をくぐると…

『平尾家』があります。
『武蔵』の姉「おぎん」の嫁ぎ先です。

こんな風景なかなか見られないよな…

そして『武蔵神社』に行きました。

石段を上がって行くと…

『宮本武蔵墓(左)』『父・平田無二(無二斎) 母・お政墓』があります。

何の石碑だっけ?

これは『武蔵神社』です。

これは「独行道の碑」です。

これって誰かの墓だっけ…?

『武蔵神社』を出て上り坂を上がって行くと…「森岩彦兵衛墓」と「本位田外記墓」があります。

そして更に上ります。(武蔵神社を出てから10分歩きました)

これは『一貫清水』といいます。
『武蔵』が故郷をあとに修行の旅に出るとき、竹馬の友「森岩彦兵衛」と別れを惜しんで飲んだといわれる水が今も湧いています。
13:55、これにて『宮本武蔵』でのバガボンド史跡ハントが終わりました~
『宮本武蔵』に着いてから1時間半で終えちゃったね。

帰りは下りだから楽チンです。

『柳生』と似た雰囲気を持った町だなぁ。
ここの人たち、何して生活してるんだろう?農家?
さて、駅に戻り「自転車」をしまい、14:15発の「智頭急行」で「上郡」に出ました。
当初は途中駅の「平福」に行こうか…とも考えてたんだけどね。
そこで見る史跡は『宮本武蔵初決闘の地』くらいだったんでスルーしました。
もう『宮本武蔵』だけで十分満足したからさ。

15:00「上郡駅」に着きました。
これが1両の「智頭急行」です。(急行?ってツッコミ入れたくなるよね)
それから、15:38発の「山陽本線」で「岡山」に向かいました。

16:30ごろ「岡山駅」に着きました。
これは駅前の「桃太郎像」です。
そして岡山県に留学してる教え子に電話して、17:00ごろ迎えに来てもらいました。
それから「自転車」で一緒に教え子(F君)の寮に行きました。
彼と会うのも約1年ぶりでしょうか…懐かしかったですね。
その寮にも数人教え子が住んでるんだけど、皆バイトだったので、F君と2人でファミレスに行って夕飯を食べました。
その後はバイトから帰って来た2人の教え子を含めて部屋で話してました。
さて明日は「岡山」の『後楽園』『岡山城』と「倉敷」辺りに行けるかな?

それじゃ、また明日。


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「バガボンド」史跡めぐり~姫路・岡山編Part.1

2009年02月07日 | バガボンド史跡めぐり
2月7日(土)1/2
今日は「神戸」から、まず「姫路」に行きます。
昨晩もウマの部屋にお世話になってたんだけど、トリ先生は中国に一時帰国し、Q君とウマも昨晩はバイトでいませんでした。
俺は7時には出発しなきゃならないんだけど、ウマは8時までバイトなんです。
でもQ君が7時には帰って来る…って言ってたような気がしたんだけど帰って来なかったんで、鍵を掛けて出ました。
ウマがバイトしてる店は「神戸駅」に行く途中にあるんで、鍵を渡してから駅に行きました。
また「神戸駅」で自転車を収納し、7:38発の「山陽本線」に乗りました。
事前調査と時間が違うな…って思ってたら「姫路」まで1時間も掛かってしまいました。
俺の調査では30分ほどで着くんだったんだけどな…今日は土曜だから休日ダイヤだったのかも…
この後「姫路」から「佐用」に行く「姫新線」が10:12発なので「自転車」をしまう時間などを考慮しても、10時までに「姫路駅」に帰らないと。
…ってことは、あと1時間20分かよ…
とにかく急いで「自転車」を組み立てて、『お通公園』を目指しました。

9:15『お通公園』に着きました。
『お通』が『武蔵』と待ち合わせたのが、現在の「小川橋」です。
3年の歳月を経て再会しますが「ゆるしてたもれ」の言葉を残して『武蔵』は去ります。
『お通像』は「新小川橋」を渡った『お通公園』内にあります。
写真だけ撮って、また『姫路城』方面に引き返しました。

9:30ごろ『姫路城』に戻りました。
さて…あと30分しか無いんだけど『姫路城』は「バガボンド史跡」なので、ちゃんとハントしなければ…と思い、急いで見学することにしました。

『姫路城』は「世界遺産」ですよ。(入場料¥600)

写真左は「備前丸池田輝政居館跡」です。
五層七階の天守閣は「関ヶ原の合戦」後、「姫路」入りした「池田輝政」によって築かれた城で、その姿は「羽ばたく白鷺」に似て美しいというところから、別名「白鷺城」とも呼ばれています。
天守閣だけ見て、すぐ帰ろうと思ってたのに…広すぎる

「天守閣最上階」には『刑部神社』があります。
「姫路城」城主が「木下家定」であった頃『宮本武蔵』は名前を隠し、「姫路」で足軽奉公をしていました。
その頃城内では「天守に妖怪が出る」という噂が広まっており、城の見張り番の者たちも恐れをなして、まともに出番を勤めることが出来ない状態が続いていました。
しかし、ただ1人『武蔵』だけが平気で夜の番をしており、それを聞いた「家老」が、その足軽は高名な武芸者『宮本武蔵』であろうと、名を隠していた『武蔵』を見破り「妖怪退治」を命じました。
ある夜のこと、『武蔵』は手に灯り一つを持って不気味な暗闇の天守閣に上って行きました。
『武蔵』が3階の階段にさしかかった時、突然あたりを激しい炎が包み、地響きと轟音が起こり、『武蔵』に襲いかかろうとしました。
すぐさま『武蔵』は「妖怪」に斬りかかろうと腰の太刀に手を掛けました。
すると異変はピタリと止まり、辺りはまた何もない暗闇に戻りました。
何事もない3階から『武蔵』が4階に上がるとまた同じような炎と轟音の地響きが起こりました。
しかし『武蔵』が腰の太刀に手を回すと、また辺りが静けさを取り戻したのです。
そのまま天守閣まで上った『武蔵』は、「妖怪」が現れるのを待とうと明け方まで座り続けました。
やがて、眠気に誘われ、うつらうつらし始めた頃どこからともなく『武蔵』を呼ぶ声が聞こえて来ました。
目を開けると『武蔵』の前に美しい「姫」が現れ「わたしは姫路城の守り神、刑部明神です。今夜あなたがここに来てくれたおかげで、城に住む妖怪は恐れをなして逃げていきました。褒美としてこの剣を与えましょう。」
『武蔵』の前には、白木の箱に入った「郷義弘の名刀」が残されていたといいます。
この話は今後『バガボンド』では語られない気がするけどね…
もう、9:55じゃん…一目散に天守閣を駆け下り、「自転車」で「姫路駅」まで戻りました。
…が、あと一歩及ばず「姫新線」は出てしまっていました。
マジかよ…その「姫新線」で「佐用」に出て、そこから「智頭急行」に乗り換えるんだったのに、1時間に1、2本くらいしか無い「姫新線」はほとんどが「佐用」まで行かないんだもん…
その降りた駅で「佐用」行きに接続があればいいんだけど、そこまで調査して無いしさ…接続があるか分からない30分後の「姫新線」に乗るより、他の手段で行こうと思い、「上郡」経由で「智頭急行」に乗ることにしました。
それでも接続がうまくいくか分からないんだけどね…しかも乗り込んだ「山陽本線」は「網干」までしか行かないし…
結局「網干」から「相生」に出て、「相生」から「上郡」に出ることに成功しました。

そして「上郡駅」から始発の「智頭急行」に乗りました。

11:48「智頭急行」は発車し、12:30『宮本武蔵』に着きました。
『宮本武蔵』の故郷だから『宮本武蔵(駅)』ですが…これって、乗りそびれた「姫新線」で計画してたのと同じ着時間ですよ~。
結局「智頭急行」で帳尻が合ったんですね。

駅を出ると『お通』『武蔵』『又八』の幼少時代の像がありました。
さて「自転車」を組み立てて、史跡ハントに出発じゃ~

これは「宮本武蔵顕彰 武蔵武道館」です。

これは『武蔵の里“五輪坊”』正門です。

これは「武蔵道場」です。

これは『青年期宮本武蔵像』です。
う~ん…やっぱ「和太鼓を叩く人」なんだよな~

これは『武蔵資料館』です。(入場料¥500)

またも隠し撮りです。

「五輪坊」正門前には『讃甘神社』があります。

この神社の神主が太鼓を叩く「バチ」をヒントに『武蔵』は「二天一流」を創始したと伝えられています。(やっぱ太鼓だったんかい…)

『五輪坊』と『讃甘神社』から『武蔵生家』方面を見たところです。

水車がありました。

これは『宮本武蔵誕生地記念碑』です。

これは「吉川英治先生文恩記念碑」です。

写真右が『宮本武蔵生家』です。

では続きは“Part.2”にて。


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「バガボンド」史跡めぐり~京都編Part.2

2009年02月06日 | バガボンド史跡めぐり
2月6日(金)2/2
さて、続きでーす。

11:15『一乗寺下り松決闘地』に着きました。
当主『清十郎』に次いで頼みの弟『伝七郎』までが倒されてしまったことで『武蔵』の名は高まる一方で、『名門・吉岡道場』は滅亡の危機に立たされてしまいます。
『武蔵』に対する「吉岡一門」の憎しみは頂点に達し、『武蔵』1人を倒すことに執念を燃やすのでした。
『武蔵』と「吉岡一門」の最後の闘いの舞台となったのが、ここ『一乗寺下り松』でした。

そして『八大神社』に行きました。

映画のシーンでの「一乗寺の決闘」が紹介されてました。
これら『武蔵』関連の映画観て~

これが「本殿」です。

そして決闘当時の『一乗寺下り松古木』が奉納されています。

俺は、やっぱ漫画『バガボンド』ファンなんでね…どうもこの『武蔵』は「和太鼓を叩く人」にしか見えないんだよな~
ここで昨晩買ってあった「おにぎり」を食べて、11:40ごろ『八大神社』を出ました。
外の駐車場の隅に「自転車」を停めていたんだけど、駐車場のババアが「駐車場に停めたら500円よ」と怒っててさ…
別に「自転車」なんてどこでも停めれるんだし、駐車に支障が全く無い所に停めてただけなのにさ…(て言うか、そんなに観光客来ません)。
謝って金を払わずに出て来たけどさ、性格の悪さが顔に出てる感じの「ババア」だったんで、去り際に「死ね、ババア」と言っておきました。
次は、ちょっと遠いんだけど『光悦寺』に向かいました。

12:50ごろ『光悦寺』に着きました。(入場料¥300)

これは「本堂」かな?
江戸初期の文化人『本阿弥光悦』が1615年(元和元年)「徳川家康」から与えられたこの地に草庵を結び、「法華題目堂」を建てたのが起こりです。

境内には、「大虚庵」など7つの茶室があります。
竹を斜めに組んだ垣根は『光悦垣』と呼ばれています。

『本阿弥光悦墓』です。
『本阿弥光悦(1558-1637)』は家業の「刀剣の研磨、鑑定」はもちろん「書」「製陶」「蒔絵」「茶道」などにも精通しました。
『バガボンド』では『吉岡道場』の当主『吉岡清十郎』との闘い後の『武蔵』を私宅で養生させます。
そして13:00すぎ『光悦寺』を出ました。

これは『上品蓮台寺』です。

『バガボンド』では洛北郊外の「蓮台寺野」で『武蔵』と『吉岡清十郎』が闘いました。
本来1年前の約束で弟『伝七郎』が『武蔵』と闘うことになっていたのですが、「蓮台寺野」にいた『武蔵』の前に『清十郎』が現れます。
そして2人は闘うのですが『清十郎』は『武蔵』の剣によって「真っ二つ」に斬られてしまいました…
その「蓮台寺野」が現在の『上品蓮台寺』辺りにあたります。

13:25次は『金閣 鹿苑寺』に行きました。(入場料¥400)

実は『三十三間堂』『清水寺』『銀閣寺』、そしてこの『金閣寺』と…初めて来たんですよ。

やっぱ『金閣寺』は綺麗だよね~さっきの『銀閣寺』(入場料¥500で改修中)とは、えらい違いだよね。(だって『銀閣寺』は銀色じゃないし)

「龍門の滝」と「白蛇の塚」です。

これは「夕佳亭」です。

ここは「茶所」ですね。
13:50ごろ『金閣寺』を出ました。

そして『大徳寺』前を通りました。
『大徳寺』の『大仙院』は『沢庵和尚』も住職を務めたといいます。

14:05ごろ『本法寺』に着きました。

『本法寺』は、「本阿弥家の菩提寺」で、『本阿弥光悦』作の「本法寺庭園〔巴の庭〕」は国の名勝に指定されています。(入らなかったけど)
写真右は『光悦手植えの松』です。

ここは『本阿弥光悦京屋敷跡』です。
『吉岡清十郎』との闘い後の『武蔵』は、対『伝七郎』戦まで、ここに世話になってたのかな?

14:35『二条城』前を通り…

15:00『伊東甲子太郎他数名殉難之地』に着きました。
『伊東甲子太郎(1835-1867)』は元治元年(1864年)10月、同門の「藤堂平助」の紹介で『新撰組』に入隊しました。
慶応3年3月20日「薩摩の動向を探る」という名目と、「孝明天皇」からの「御陵警備」任務拝命により『新撰組』を離脱します。
『御陵衛士(高台寺党)』を新たに結成し、『新撰組』結盟以来の隊士で八番隊組長の「藤堂平助」も『御陵衛士』に参加しました。
慶応3年11月18日『近藤勇』は自分の妾宅に『伊東』を呼び出して酔わせ、帰宅途中の「油小路」で『新撰組』の「大石鍬次郎」ら数名に暗殺させました(油小路事件)。
酒に酔わせたうえで、多人数で待ち伏せ、また闇から刺すという慎重な暗殺方法を取ったのは、「北辰一刀流剣術」の道場主であった『伊東』の剣の腕を『近藤』や『土方』が警戒したからとも言われています。
伊東の遺体は「油小路」に放置され、『御陵衛士』をおびき出す手段として使われました。
『御陵衛士』が収容しにやって来たところを、待ち伏せていた『新撰組』と斬りあいになり「藤堂平助」らが死亡しました。

そして「京都駅」で「自転車」をバッグに収納して、15:20構内へ。

16:45「神戸駅」に着きました。
それから「ウマ」に迎えに来てもらい、ウマの部屋で少し休んだ後、19:00ごろO君、ウマと3人で「三宮」に出て、1人の女生徒と4人で夕飯を食べました。
そして20:25ごろ女生徒と別れ、3人で「神戸」に戻りました。
今日もウマの部屋にお世話になりました。
明日は7時ごろ出発して「姫路」に向かいまーす。


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「バガボンド」史跡めぐり~京都編Part.1

2009年02月06日 | バガボンド史跡めぐり
2月6日(金)1/2
今日は7:30出発しました。
今日泊まってた「漫画喫茶」は、昨日「奈良」で泊まった店のチェーン店でね。
貰った割引券が早速役立ちました。

この「漫画喫茶」は新京極通り沿いにあり、昨晩夕飯を食べる店を探して彷徨ってたら『近江屋跡(坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地)』の近くだったんです。
まず今日は8時開門の『三十三間堂』からハントするために「五条大橋(写真)」を渡って行きました。
そして8:00『三十三間堂』に着くも…冬の期間中は9時開門でした…
まだ1時間もあるのか…それならと言うことで、この後行こうと思ってた「龍馬の墓参り」を先にすることにしました。

8:20ごろ『霊山護国神社』に着きました。

「龍馬の墓参り」は2006年5月17日以来2度目です。
「幕末史跡めぐり・京都編」については、その前回のレポートで詳しく書いています。
(あくまでも今回は“バガボンド史跡めぐり”がメインなので…)

入場ゲートに¥300を入れて「墓地」に入ります。

まず『吉村寅太郎墓』です。

そして『坂本龍馬・中岡慎太郎墓』です。

これは『円山公園』内にもある『坂本龍馬・中岡慎太郎像』のミニチュア版です。

『坂本龍馬・中岡慎太郎墓』から見える京都の街並みです。

位置関係はこんな感じです。

これは『大村益次郎墓』です。

これは『木戸孝允墓』です。

「旧霊山官修墳墓」には、『明治維新』に尽くした「志士たち1043名の霊」を祀っています。

左から『久坂玄瑞』『来嶋又兵衛』『高杉晋作』墓です。
8:40ごろ『霊山護国神社』を出ました。

これは『霊山護国神社』前にある『霊山歴史館』ですが、前回入ってるんでスルーしました。

別の道から来たんで『維新の道』から出て来ました。

これは『翠紅館跡』です。

これが『霊山護国神社』の「鳥居」ですね。

これは「京都国立博物館」です。

そして9:00『蓮華王院三十三間堂』に着きました。(入場料¥600)

「ここ」は『宮本武蔵』が『吉岡道場』の『吉岡伝七郎』と闘った地です。
『バガボンド』では、故郷を出て(追われ?)「天下無双」を目指し、まず「京」に上った『武蔵』は、大胆にも「京で最強」と謳われる「吉岡道場」に単身乗り込みました。
道場の留守を預かる「植田良平」に言われるまま5人の弟子を打ち破るものの、当主『吉岡清十郎』には相手にもされず、額に真一文字の傷を負います。
それでも試合を申し込む『武蔵』を無視し、色町へと繰り出した『清十郎』を追おうとした『武蔵』でしたが、弟子の敵を取ろうとするその弟『吉岡伝七郎』に引き止められ、命を賭して闘います。
両者「一本」ずつ奪い合い、互いに満身創痍の2人でしたが、道場に忍び込んでいた『又八』の不注意による火事のせいで試合は中断を余儀なくされ、2人は「1年後の再戦」を約束し、『武蔵』は「吉岡」を去りました。
その後『武蔵』は『宝蔵院』『柳生』を経て、1年後「京」に戻って来ました。
『伝七郎』との再戦まで9日となり、今から興奮が抑えられない『武蔵』は矢も盾もたまらず、大晦日の晩に旅籠を飛び出します。
そして「蓮台寺野」で寒さから「焚き火」をしていた『武蔵』の背後には『清十郎』が立っていました。
「不意打ち」をかわされ、仕方なく正々堂々と正面から『武蔵』を斬ることを決めた『清十郎』でしたが「清十郎を斬るためだけの体」となった『武蔵』の一閃の前に『清十郎』は倒されます。
この『武蔵』と『伝七郎』の闘いは、『伝七郎』にとって「兄の仇討ちと道場を守る闘い」になりました。
(当然『武蔵』が勝ち、「一乗寺下り松の決闘」へと続きます)

9:25『三十三間堂』を出て、9:40『清水寺』に着きました。

『清水寺』も初めて来ました。(入場料¥300)

「阿弥陀堂」から見た「本堂」です。

これがいわゆる「清水の舞台」ってやつですね。
10:00すぎ『清水寺』を出ました。

10:10「八坂神社」前を通り…

10:30ごろ「哲学の道」を抜けて…

10:40『銀閣 東山慈照寺』に着きました。(入場料¥500)

「向月台」や「銀沙灘」などの「庭園」と…

「東求堂」は見れたけど…

肝心の『観音殿(銀閣)』は修復工事中でこの有様でした。
なら、せめて半額にしろよ…
思わず近くにいたオバちゃんに「これで¥500はないですよね~」なんてグチってしまいました。

さて、また字数の関係上、続きは“Part.2”にて。


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「バガボンド」史跡めぐり~柳生編

2009年02月05日 | バガボンド史跡めぐり
2月5日(木)2/2
これから「路線バス」に乗って『柳生』に行きまーす。

12:30近鉄奈良駅前から『柳生』行きの「バス」に乗りました。

そして、13:20終点の『柳生』に到着しました。
『柳生』なんて『柳生十兵衛』が出て来る「ドラマ」とか「映画」でしか見たことが無かったんだけどね…「柳生の里」と言われてるままの雰囲気でした。
『バガボンド』で『宮本武蔵』『柳生石舟斎宗巌』との手合わせを望んで『柳生』を訪れましたが、叶いませんでした。
しかし宿泊した宿で同じく試合を望む『吉岡伝七郎』宛てに送られてきた「断りの手紙」に添えられている「芍薬の切り口」を見て『武蔵』はその切り口の鋭さに驚きます。
そこで『武蔵』は「これほどの手腕の者がいるとは柳生一族の実態は世間でいう以上なのかも知れない」と思うようになります。

バス停から史跡に向かって歩いて行くと「十兵衛食堂」なんてのもありました。

まず、13:40ごろ『旧柳生藩家老屋敷』に行きました。(入場料¥350)

江戸時代末期「柳生藩1万石」の家老「小山田主鈴の旧邸」です。
戦後は作家「山岡荘八の別邸」でした。

中には武具や生活用品が展示されています。
13:50ごろ『旧柳生藩家老屋敷』を出ました。

これは「柳生茶屋」と「橋本定芳師顕彰碑」です。

次は『芳徳寺』に行きました。(入場料¥200)
小銭が無かったのに誰も居ないから、そのまま入っちゃった。

『芳徳寺』は『柳生宗矩』が父『石舟斎』の菩提を弔うために建立しました。

裏山を上ると「一族の墓」(約80墓)があります。

その中に『石舟斎』の師「上泉伊勢守墓」、『柳生(石舟斎)宗巌墓』

『柳生宗矩墓』『柳生(十兵衛)三巌墓』がありました。
「柳生新陰流」の開祖が『柳生石舟斎宗巌』で、息子『柳生宗矩』は「徳川家康」「秀忠」「家光」三代に「剣術指南役」として仕えました。
「将軍の警護」「相談役」「諜報活動」など仕事は多岐にわたり、まさに「徳川の右腕」として活躍しました。
流儀としては「尾張名古屋」の嫡孫『兵庫助利巌』が第三世を継いでいます。

「本堂資料室」に入ってみました。

「資料室」にはいくつか展示品があり、「本堂」に行ってみると…

『柳生宗矩像』と、

『沢庵和尚像』(右)もありました。
14:20ごろ『芳徳寺』を出ました。

それから山道を10分ほど登って行くと…

「天石立神社の鳥居」があり…

その奥を更に進むと…

『一刀石』があります。
「天石立神社」は「天の岩戸」から飛んで来たといわれる「巨石」を神体とする神社です。
この『一刀石』は修行中の『石舟斎』が「天狗」と勝負し、真っ二つに斬ったという伝説があります。
14:35「天石立神社」を出ました。

それから、もう一度『芳徳寺』に戻り(写真撮り忘れたモノがあったんで…)、バス停方面に行きました。

『柳生』に着いた時から見えてたんだけど、最後に『十兵衛杉』を見に行きました。

これは『柳生十兵衛』が諸国漫遊に旅立つ前に植えたとされていますが、約30年前に「落雷」で枯れてしまいました。

帰りの「バス」は15:45なので、30分くらいバス停で待ちました。
いや~ホントに『柳生の里』『柳生の庄』って雰囲気のままでした。
とても満足で、わざわざ来た甲斐があったってもんです。
そして「バス」に乗り、16:40近鉄奈良駅に戻りました。
駅で荷物を取り出し、駐輪場で「自転車」を出して、また駅でバッグにしまって17:00駅構内に入りました。

そして17:18発の「近鉄京都線」で、18:00すぎ「京都」に着きました。
それから今日宿泊する「漫画喫茶」に行ってみると、ナイトパックが21時~だったので、それまで「ロッテリア」で夕飯を食べたりして時間潰しをしていました。
今日は「キン肉マンⅡ世」を読んでから寝ま~す。


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「バガボンド」史跡めぐり~奈良編

2009年02月05日 | バガボンド史跡めぐり
2月5日(木)1/2
今日は8:00ごろ「漫画喫茶」を出発しました。
ナイトパックが22時~6時だったかな…だから2時間延長してね。
リクライニング・シートだったんだけどさ…中国で「臥鋪バス(寝台バス)」に何度か乗ってる俺からすれば快適ですよ。
今日は12:28に近鉄奈良駅発の「バス」で『柳生』に行かなきゃならないんでね…「奈良の寺めぐり」が出来るのは午前中だけです。
まず目指したのは『唐招提寺』なんだけど…

10分ほどで着いちゃいました。
8:30からなの知ってたけど、あれ以上「漫画喫茶」に居ても料金が嵩むだけだったしさ…

とりあえず、8:30まで門前で待ってから入りました。(入場料¥600)
「金堂」は修復工事中でした。

「古都奈良の文化財」ってことで「世界遺産」に登録されてるけど、奈良の古い寺全てに、この「世界遺産碑」があるのだろうか…?

これは「戒壇」です。

この「講堂」で「金堂」にある仏像などが見れるんだって。

多分「撮影禁止」だったかも知れないんだけど…

別に減るモンじゃ無いでしょ。

フラッシュだって使わないようにしてるんだよ。

この奥には「鑑真大和上 御影堂」があるんだけど、入れないみたいです。

これは「鑑真和上御廟」の入口です。

入って行くと…これが「鑑真和上の墓」なんでしょうか。
そして、9:00『唐招提寺』を出ました。

9:05次は『薬師寺・玄奘三蔵院伽藍』に行きました。
「礼門(写真)」の奥には…

『玄奘塔』があるんだけど一般公開期間中じゃありませんでした…

次は『薬師寺・白鳳伽藍』の方に入りました。(入場料¥500)

やっぱありました「世界遺産碑」です。

まず「東院堂(国宝)」と「聖観音菩薩像(国宝)」です。

これは「金堂」です。

ちょっとシブい方が「東塔(左)」で、ちょっと派手な方が「西塔」です。

これは「大講堂」です。

これは「仏足石・仏足跡歌碑(国宝)」です。
9:45ごろ『薬師寺』を出ました。
次は『奈良公園』方面に向かいます。

その途中にある「平城京・朱雀門」です。

10:25「鹿」の出迎えで『奈良公園』到着~。(←トナカイ)
確か『奈良公園』は中学の修学旅行で来たような記憶があるんだけどな…

これは「奈良国立博物館(旧館)」です。

その付近に『宝蔵院流鎌槍発祥之地碑』があります。
『興福寺』内に『宝蔵院』があったんだね。

これは『宝蔵院の井戸枠の跡』です。
『バガボンド』で『宮本武蔵』は『宝蔵院』の二代目『宝蔵院胤舜』と闘っています。
『宝蔵院流槍術』は、『柳生新陰流剣術』とともに奈良を発祥地とする日本を代表する武道です。
約450年前『興福寺』の僧『宝蔵院覚禅房胤栄』が猿澤の池に浮かぶ三日月を突き、「十文字鎌槍」を創始したと伝えられています。

そして10:45『東大寺』に着きました。
『東大寺』も修学旅行で来たっけか…
中学時代の記憶はあまり残って無いんでね…

これは「東大寺南大門」です。

これは「東大寺中門正面」です。

そして「大仏殿」に入りました。(入場料¥500)
これが『盧舎那大仏』です。

それから「正倉院」を見ました。(入れないけど外観を見るだけならOK)
11:30『東大寺』を出ました。

また『奈良公園』方面に戻ろうとすると…「鹿の場外乱闘」です。
ここ観光客がたくさん通る所なんですけど…

これは「奈良国立博物館(新館)」です。

まだ時間があるんで『興福寺』も見てみました。

「東金堂」と「五重塔」です。

平成22年(2010年)の「興福寺創建1300年」に向け「中金堂」は再建工事中でした。
11:50ごろ近鉄奈良駅付近で駐輪場(¥120)を発見し、『柳生』へは「自転車」を持たずに行くことにしました。
12:00すぎ「自転車」を、駅には不要な荷物を預けて身軽にしました。

さて…次は12:28発の「バス」に乗って『柳生』に行って来まーす 


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