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史跡ハンター 臥龍

 ★戦国・幕末&中国に関する史跡を中心に紹介しています★

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北関東史跡ハント~栃木・群馬編

2015年03月14日 | 幕末~明治史跡めぐり
3月14日(土)
まず前日(金曜13日)は、いつも通り定時で帰宅…風呂に入ってからネットやデータ放送から天気予報を検索し、今回の史跡ハントにGOサインを出したよ。
とりあえず、雨マークさえ無ければOK…って感じだけどさ。
家を19:10ごろ出て、歩いてJR横須賀駅へ…19:45には駅に着いたよ。

このJR横須賀駅、2番線(写真左)と3番線(写真右)しかありません。

2番線はこのように横須賀発着専用なので行き止まりになります…久里浜までの路線が開通してなかった時代は横須賀が終着駅だったしね。
3番線は単線で上下線が利用する線路があるんだけど…ん?1番線は?と言うと…
1番線だから当然、写真で言えば2番線の左奥になきゃいけないんだけど…線路は分岐して来ているよね。
以前は1番線というホームがあったらしく、それは天皇陛下や皇室の方々、軍のお偉いさん専用のホームだった…って聞いたことがあるような。
もう目と鼻の先が軍港で造船所もあるからね…富国強兵を目指す日本の要地を視察に来られる方のためのホームが2番線のすぐ脇にあったのか、それとももう少し延ばして軍港の付近か中まであったのか?は分かりません…単に軍の物資積み下ろし用のホームが1番線になるとは思えないから、お偉いさん用のホームがあった駅と思っていたいね。

あと特徴と言えば階段が無いよ…バリアフリーなんです
上下線でも改札の反対(下りでは最後車両、上りでは最前車両)に乗ってしまうと降りた後、端から歩いて改札に向かうのってダルくなるから気をつけましょう。

19:56発の上り列車に乗り…20:06逗子で下車、20:18始発の湘南新宿ラインに乗り換えて終点の「宇都宮」でこの日は宿泊します。
逗子-宇都宮間…約3時間かぁ、なかなか始発の逗子から終点の宇都宮まで行く人は珍しいだろうな。
23:20「宇都宮」に到着…事前にチェックしておいたネットカフェに行く途中に「東口屋台村」ってのがあって、そこで夕飯食べてこうと思って寄ってみたけど居酒屋ばっかだったんで却下。

そのままネットカフェに入って、中でセールで割引になってた「そばめし」食って、雑誌とか読んだ後少し寝たよ…翌日(今日)は5時にチェックアウトだから4時半起きなんでさ。
今回、宇都宮まで来たんで高校時代の友人に声掛けてたけど、夜勤で会えず残念 会えても一緒に軽く夕飯食うくらいの時間しか無かったけど…また今度地元で飲み会があれば来て欲しいな。(俺は当分そっち方面には行かないだろうからなぁ)

今日(14日)は忘れたけど3時半くらいには目覚めてたんじゃないかな…だから2時間眠れたかどうか。
5:00ネットカフェを出て…5:18発の宇都宮線に乗ったんだけど、こんな朝一の列車に割りと若者が多いな…と思ったら、ほとんどが宇都宮に出て来て飲んで朝帰りしてるヤツらなんじゃん。

①栃木県那須郡那須町「殺生石」編

6:10ごろ「黒磯」で降りました。
ここから6:35発のバスに乗るんだけど、まだ25分くらいあるんでウンコして…まだ時間があるんで駅の案内板を見てたら近くに史跡?があるようなので行ってみたよ。

おぉ、古そうな酒屋…この辺りで見かける消火栓もレトロだなぁ。

これは「高木会館」といい、黒磯銀行本店として、大正7年(1918年)に建築されました。
黒磯銀行は黒磯に本店を置く初の銀行として大正7年9月に開業し、頭取は黒磯駅前の事業家である高木慶三郎でした…現在は1階がレストランなんだって~

6:35「東野交通バス」(写真右のバス)に乗って「那須温泉」方面へ…って、この大きなバスに乗客俺含め2人かぁ、時間が早いからかな?

最終目的地はもう少し先なんだけど、7:00ごろ3つくらい手前の「新那須」で下車しました。

バス停近くにあるのが「喰初寺」です…おぉ、なんか雪が降ってきたよ。
家を出る前に見たこの地域のピンポイント予報で「乾雪」ってなってたんだけど…ホントに降ってきたね。

境内の「九尾稲荷」です。

「九尾の狐」は「玉藻前」に化けますが、陰陽師「安倍泰親(安倍晴明)」に看破されて本性を顕します。

池にも氷が張ってるよ。

この「数珠割り石」は文永2年(1265年)湯治に訪れた「日蓮上人」が、この地で悪行を働いていた「九尾の狐」の霊魂を数珠に封じ、その数珠でこの巨石に叩きつけると真っ二つに割れ成仏して再び「九尾の狐」が悪行を働かないように「日蓮上人」が“南無妙法蓮華教”と巨石に墨書したと伝えられています。

じゃあ、この像は「日蓮上人」かなぁ?

写真だけ撮り、本数の少ないバスを途中下車したんで本来の目的地(那須湯本)まで2Kmくらい?歩きだぞ…

ずっと歩いて来た辺りが「那須温泉郷」なのかな…ほのかに「硫黄」の臭いがしてるよ。

7:20ごろ…約15分歩いて「那須湯本」に着いたよ

まず「温泉神社」から入ってみましょう。

これは社務所かね?

「さざれ石」だね。

この石の鳥居には…

「勝戦 紀念」と彫られてるね…日清とか日露かな?

これは「見立神社」です。

この先に「愛宕神社」ってのがあるらしいけど…この雪じゃ上れないね。

これは「愛宕福神水」だって…凍ってはいないな。

さて…拝殿まではまだ参道が続くぞぉ。

この石鳥居は…1186年「那須余一宗隆」奉献って…源平の「屋島の戦い」にて、平家が立てた扇の的を見事射落としたことで有名な源氏方の武士じゃん。

これは「御神木」だね。

やっと「拝殿」に着いたよ

その脇には「九尾稲荷」があったよ。

「九尾の狐」はこの地で征伐されたからね。

さすがに像は九尾じゃないかぁ…

これは「昭和天皇御歌碑」です。

この馬は?

この先に…今回ハントする目的の「殺生石」があるよ。

見下ろすと…

これら全部お地蔵さんみたい…

とにかく先を急ぎたいが…転ばないように気をつけないと…って、そのために持って来たワケじゃない杖が役立ってるね。

慎重に進み…やっと着いたぞ

ここに「殺生石」があります

写真上部のしめ縄がされてるのが「殺生石」だよ。

なんか…「殺生石」にヒビ入ってない?

妖狐「九尾の狐」が復活してしまう~(な~んて)
この辺りの硫黄臭はそんなキツくなかったよ…でも、それが「毒石」なんていわれる由縁かな?

「九尾の狐(きゅうびのきつね)」とは中国神話の生物で9本の尻尾をもつ妖狐…万単位の年月を生きた古狐が化生したものだともいわれています。
俺の好きな中国の「封神演義」でも「九尾の狐」が憑依した「妲己」が「殷」の帝辛(紂王)を誘惑して国を滅亡させます。
南天竺耶竭陀国(古代インド西域)の王子・班足太子の妃になった「華陽夫人」てのも九尾の狐の仕業なんだとさ。(この話は知らない)
で…日本では「玉藻前」という平安時代末期、鳥羽上皇に仕えた美しい女官が「九尾の狐」の化身という伝説があります。
18歳で宮中に仕え、後に鳥羽上皇に仕える女官となって「玉藻前(たまものまえ)」と名乗ります…その美貌と博識から次第に鳥羽上皇に寵愛されて契りを結ぶこととなりますが、その後上皇は次第に病に伏せるようになりました。
医師にも原因が分からなかったところに、陰陽師「安倍泰成(安倍泰親、安倍晴明とも)」が「玉藻前」の仕業と見抜きます。
「玉藻前」は変身を解かれ、白面金毛九尾の狐の姿で宮中を脱走して行方を眩ましますが、那須野にいることが分かり…鳥羽上皇は討伐軍を編成します。
「三浦介義明」「千葉介常胤」「上総介広常」を将軍に、陰陽師「安部泰成」を軍師に任命し、8万余りの軍勢を那須野へと派遣しました。
那須野で「九尾の狐」を発見した討伐軍は九尾の狐の術などに苦戦するも次第に「九尾の狐」を追い込んでいきました。
そして「三浦介義明」が放った二本の矢が脇腹と首筋を貫き、「上総介広常」の長刀が斬りつけたことで「九尾の狐」は息絶えました。
「三浦介義明」といえば地元「衣笠城」の主ではあ~りませんか…しかし「九尾の狐」はその直後、巨大な毒石に変化し、近づく人間や動物等の命を奪ったため、村人は後にこの毒石を「殺生石」と名付けました。


「九尾の狐」や「玉藻前」は「無双OROCHI2 Ultimate」に出てきた新キャラで、妖狐「九尾の狐」は前から知ってたけど…この那須に伝説があったとはね。

「無双OROCHI2 Ultimate」の「殺生石」です。

「妲己」(後姿)と「玉藻前」だよ…

ゲームでは敵キャラになるんだけど…美しい。


この先は「展望台遊歩道」で2.5Kmかぁ…脚に悪そうなので却下。

さっき上から見下ろしたお地蔵さんを見てバス停に戻ります。

一重積んでは父のため…二重積んでは母のため…三重積んでは故郷の…って、賽の河原じゃないよね?

「教傅地獄」だって…

「千体地蔵」です。

皆、手を合わせてるんだね。

30有余年の歳月をかけ、今800余体のお地蔵さんがあるそうな。

これは「盲蛇石」です…盲目の大蛇を助けた小屋が湯の花で埋め尽くされており、湯の花の作り方を伝授されたと感じた村人達が蛇の首に似たこの石を「盲蛇石」と名付けたそうです。

「温泉神社」からでなくても、こっちからでも「殺生石」に行けます。

下の川は「湯川」っていうの?

これは何の石碑だろ?

8:00ごろバス停に戻って来たけど、「黒磯」行きのバスは8:25発なんで待合室で少し休んでました。

「九尾の狐」もキャラクターになってるね。

8:25「那須湯本」発のバスに乗って「黒磯駅」まで戻ります。

行きの車窓から見てたんで、帰りに走るバスの車内から撮った「戦争博物館」です。

なんか観てみたい気もするが…バスで来てる俺はそう何度も途中下車はできんからなぁ。

この辺りは看板や建物も統一したカラーにしてるのかなぁ?このシックな「セブンイレブン」他に無いでしょ?同じカラーリングのファミマもあったよ。

しばらくこんな風景が続き、駅に戻るよ。
9:00ちょっと前に「黒磯駅」に着いたけど、次の「黒磯」発の宇都宮線は9:15なんで…さっき見た案内板にもう1ヶ所歩いて行ける神社があったんで行ってみることに。

ここは「黒磯神社」で…明治35年の創立です。

これは「神門」です。

これは「御神馬」と「足尾神社の御神像」です。

手足の神様として崇敬される…女神「惶根尊(かしこねのみこと)」と男神「面足尊(おもたるのみこと)」の御神像です。

人体の完備を神格化した神…だそうです。

これは「光玉稲荷」です。

これは「祖霊社」で…大東亜戦争で郷里から出征して戦死された254柱の霊璽が納められています。

これは「拝殿」です。

これは…神輿庫かぁ。

これは「阿波地神さん」だって。

これは「神楽殿」です。

駅に戻るとこんな小型バスがいたけど…俺が「那須湯本」まで行ったバスもこのくらいの大きさで良かったんじゃないの?
込む時間帯とシーズンだけ大型にしてさぁ…だから「黒磯‐那須湯本」間が片道¥820も掛かるんだよ。

②栃木県那須塩原市「大山巌墓」「乃木神社」編

9:15発の宇都宮線に乗り、9:26「西那須野」で降りました…まず目指すのは「大山巌」の墓所です。

こっから参道になるのかな?

「大山公園」ってか参道を進み…

この先の扉の中に「大山巌」の墓があるんだけど…公開されてないんだね。

なので、扉に空いてた穴から写真を撮ったよ。
日清戦争では陸軍大将として第2軍司令官、日露戦争では元帥陸軍大将として満州軍総司令官を務めて日本の勝利に大きく貢献しました。

でも…今日の11時から公開するんじゃん なんてタイミング …と思ったけど、俺は10:26発で宇都宮に戻らなきゃいけないんだった。
せめて10時からの公開だったら…と嘆いても仕方がないんで、気を取り戻して次の「乃木神社」に向かいます。


参道に着いたぞ…って、この参道が意外と長い…

「乃木温泉」だって~

やっと「乃木神社」に着いたよ…参道の入口?から10分くらい歩いたわ。

ドイツ帝国留学帰国後の乃木は休職するたびに那須野に購入した土地で農業に従事していたそうです。

このブログでは「東郷平八郎」とともに、よく登場する「乃木希典」陸軍大将だよ。
東京の「乃木坂」だって乃木大将からとった地名なんだぞ、46。

日露戦争(明治37年)を共にした愛馬「殿号」で、大正天皇(皇太子当時)よりの脚下賜の名馬でした。

日露戦争における旅順攻囲戦の指揮や明治天皇没後の殉死でよく知られています。
日露戦争では第3軍司令官として、さっき墓参りした「大山巌」総司令の部下だったワケだけど…2人ともこの那須に別邸を持ってたんだから、よっぽど気に入った地だったのかね?

これは「中国馬車」です。

これは「宝物館」だけど…時間の都合で入館せず。
境内奥には「乃木別邸」もあるんだけど…そっちにも行けなかったよ。

神社近くにあった教会です。
さて…10:05「乃木神社」を出て、20分あれば「西那須野」に戻れると思ってたんだけど…ちょっと遠回りしちゃったかなぁ?
実際は10:26発じゃなく、10:25発だったんだけど2分ほど間に合わず列車行っちゃったよ。
次は「③栃木県宇都宮市内編」で約50分ほどの間に「宇都宮城址公園」「二荒山神社」「宇都宮餃子」をハントする予定だったのに、この後の列車は11:00、その後は11:33かぁ。
もし「大山巌」墓を11時から見学して11:33の列車に乗ると、宇都宮市内をカットしても本来乗る予定だった宇都宮発11:55には全然間に合わないや。

はぁ…今回の史跡ハントで初の「やっちまった」かぁ…もう11:00発に乗るしかないけど、どっちみち宇都宮では15分じゃ何もできないな。
それと今11:00までの30分どうするよ?

また駅から少し歩いて「大山別邸」がある高校の前までは行ってみたよ…高校内だから予約しないと別邸(外観だけ?)は観れないんだけどさ。
あぁ…だったら「乃木神社」で「宝物館」や「乃木別邸」まで十分観れたな…やっちまった。
とりあえず11:00発の宇都宮線で、11:40「宇都宮」に6時間ぶりに戻って来たよ。

出ると損かも知れないけど15分あるんで改札を出て「餃子像」だけ見て来たよ…「宇都宮餃子」食いたかったなぁ。

③群馬県高崎市「少林山達磨寺」編
「宇都宮」11:55発の宇都宮線で12:21「小山」に着き、12:30の両毛線に乗り換えて…

この両毛線って、昔の東海道線じゃね?

14:18「高崎」に着いたよ。

ちょっと駅周辺を見て、西口14:56発の「ぐるりんバス」に乗って、15:50ごろ「少林山入口」で下車しました。

後で気づいた…この案内って車用(駐車場)だったんじゃん、まぁそっからでも入れるけどさ。

ここ「達磨寺」は黄檗宗の寺院で山号は少林山…「高崎のだるま市」で有名な寺なのです。

右の階段を上がって行くと…

「観音堂」があります。

さらに上がると…

これは「霊符堂」です。

これらは供養するためのダルマたちかな?

いっぱいあるよ…

脇にも裏にも…


これは「達磨堂」です。

ここには大阪吹田・大山立修氏寄贈の達磨コレクションが展示されてるよ

リアル達磨さんや顔がタヌキのダルマもあるね。

ちょっと変わったダルマもあるよ。

ヒゲダルマ発見

中曽根、小渕、福田…総理のダルマもあったよ。


これは「百庚申」です。

これは「瑞雲閣」です。

「お守り」や「おみくじ」が売ってます。

これは「大講堂」です。

「瑞雲閣」と「大講堂」の間には「招福の鐘」があるよ…俺も福を呼ぶために打ってきたよ。
16:20…30分でもう観るトコ無くなったし…って、よく30分持たせたし。
17:17発のバスまで、まだ約1時間あるじゃんよ…もしかしたら逆回りのバスがあるかもとバス停まで見に行くことに。

この「総門」から入るんだったんだね。

中国河南省の嵩山に「少林寺」があり、そこはインドから中国に渡来した「達磨」による禅の発祥の地と伝えらています…だからここが少林山ってワケではなさそうね。

バス停で時刻表見たけど…やっぱ俺が調べていた17:17が直近だったわ。

仕方ないんで、また境内に戻ったよ…

さっき見てなかった「達磨石」だよ…よく見りゃ「ダルマ」っぽい?

また「達磨堂」を観たり…もうヤルこと無いぞ。

ベンチに座って、さっき「瑞雲閣」で買っていた「ダルマおみくじ」(¥200)を開けてみたよ…「凶」だったら置いて帰らないといけないからさ。
初詣の「森戸神社」では中吉…そして今回「達磨寺」では“大吉”だったぞ~
もうすぐ17時だけど中国人らしき団体客がやって来たんで、俺ももうバス停で待とうと思って降りて行くと…皆と一緒に上がって行かなかった若い母と小さな息子がいたんで中国語で話し掛けてみたら台湾から来たんだってさ。

しばらくバス停でポカーンとバスを待ち…17:20ごろ来たバスに乗って「高崎」に戻りました。
この「ぐるりんバス」って小型で¥200と運賃は安いんだけど、住宅街の中を走ってくんだね。
18:20ごろ「高崎」に着き、どっかで夕飯を食べてから今日宿泊するネットカフェに行こうと思って寄ってみたのは…

「高崎田町屋台通り」なんだけど…やってるの居酒屋くらいで却下。

結局ネットカフェの近くで夕飯にすることにして、18:50ごろ入ったのはラーメン屋だよ。
朝から柿の種1袋しか食ってないんで、元祖「男爵味噌ラーメン」¥780と、ミニ麻婆丼+餃子3ケのセット¥200と、¥390の生ビールを注文したんだけど…

これが「男爵味噌ラーメン」¥780だよ…って、すげぇボリュームだわ、地元の「神豚」みたいにモヤシが山のように入ってるのよ。

さらにミニ麻婆丼と餃子3ケでしょ…俺、そんな大食いじゃないんだからさぁ。
でも何とか完食したわ…好きなモノだし、金払うのに残すことは俺の貧乏魂が許さんのだよ。
メチャ満腹になり…ラーメン屋の目の前のネットカフェにチェックインしたよ。
ナイトパックは21時からなんだけど、他に行くトコも無いから1時間くらい前から入っちゃった。

今日はマット室が取れたんだけど、デスク周りがこれくらい広くて右脇にコンセントも付いてるでしょ…こういうの助かるんだよね~
でも空調が暑くてさ…上は肌着(ヒートテック)1枚だけで過ごしたんで、借りたブランケットも使わんかったよ。
20時くらいから入ったんで、23時半ごろ寝たよ…ってか、炭酸飲料飲んでたら、また「しゃっくり」が止まらなくなってさぁ。
さて…明日は6時前にはチェックアウトするよ。


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地元横須賀の軍事施設跡散策

2015年03月07日 | 幕末~明治史跡めぐり
3月7日(土)
今日はちょっと買い物ついでと運動がてら、明治以降に設立された軍関係の施設跡を自転車で巡って来たよ。
朝から雨が降ったり止んだりでさ…買い出しの本番は毎週日曜(明日)なんで雨が降り続きそうなら明日行こうと思ったけど、午後は大丈夫そうだったし土日の日中ってテレビもつまらないんだよね~


まずここは家から自転車でも1、2分で着く「坂本中学校」と「桜小学校」とが併用している門です。
この門は、かつての陸軍「横須賀重砲兵連隊」の正門で、明治40年に竣工されました。
横須賀市内に残る数少ない明治時代の建造物で、門に連なる塀は明治24年に完成したといわれています。
明治23年5月に「要塞砲兵第一連隊」として誕生したのが始まりで、大正9年に「横須賀重砲兵連隊」と改称されたみたい。
俺の母校も兵舎だったのが戦後に中学校になったんだってさ…ウチの父も同じ中学だから、その当時の校舎は兵舎のままだったかもね。

それから用事で池上を経由して国道16号線を北上…

ここは田浦にある「海上自衛隊 第二術科学校」です。

「海軍通信教育発祥記念碑」です。

「海軍水雷学校跡」碑です。

この辺りは旧「海軍水雷学校」の敷地で、明治26年水雷や通信技術を身につけることを目的として水雷術練習艦の「迅鯨」を長浦湾の近くにおき、「水雷術練習所」を設置したことに始まります…その後、明治40年(1907年)に名称が「海軍水雷学校」となりました。
日露戦争で活躍した「広瀬武夫」中佐も練習所時代のこの学校に入り、練習艦「迅鯨」で水雷術を学んでいたといいます。
連合艦隊司令長官「山本五十六」も明治40年に4ヶ月間教育を受けてたんだって。


ここはJR田浦駅北口側…ほとんどの人は南口を利用してると思うよ。

相模運輸倉庫が保有する専用線が分岐しているよ。

アスファルトで埋設された線路跡です。

一部は枕木など線路が残ってるよ。

吾妻川に架かる吾妻橋です。

川…か?

平面交差してるトコ…先にあるのは「旧海軍軍需部 長浦倉庫」だよ…専用線で軍の物資を輸送してたのかな。

その先のトンネル内には穴を塞いだ跡が一定間隔であったけど…倉庫か?

そのすぐ先には「横浜DeNAベイスターズ」の総合練習場があるよ。

もう沖縄のキャンプは終わったんだろうけど…今こっちには誰も練習しに来ないのかな?
来週はファーム(イースタン・リーグ)の開幕戦が横須賀スタジアム(追浜)であるんだよ。


ここは「吉倉公園」です。

ここには「芥川龍之介の文学碑」があります。

「芥川龍之介」は横須賀に一時期住んでいたこともあり…「蜜柑」という小説は大正8年(1919年)5月に「新潮」に発表された短編小説です。

JR横須賀駅です…「芥川龍之介」は大正5年(1916年)東京帝国大学卒業後、すぐに就職口が見つからず12月より横須賀の「海軍機関学校」にて英語の嘱託職員として働き始めました。
当初は鎌倉に下宿していたそうなので、鎌倉からの通勤でこのJR横須賀駅を利用してたんだろうね。

ヴェルニー公園にある「逸見波止場衛門跡」で、旧横須賀軍港逸見門の衛兵詰所として明治末期から大正の初期頃に建てられた建築物です。

ここは「三笠公園」へと続く「横須賀学院」前です。

この辺りに「芥川龍之介」も教鞭を執った「海軍機関学校」があったんだって。
1874年、横須賀に海軍兵学寮分校が置かれ、1878年に海軍兵学校附属機関学校となり、1881年に「海軍機関学校」となりました。
1887年(明治20年)に廃止されるも1893年(明治26年)に再置されますが、関東大震災によって校舎が罹災したため、1923年~1925年は江田島の海軍兵学校内に移り、1925年に京都府舞鶴に移転しました。

それから「どぶ板通り」を通ったんだけど…昨日(6日)放送の「セカンド・ラブ」観てたら、最後の方に「亀梨和也」が出て来たアパートって「どぶ板通り」だったの?
チラッとしか画面観てなかったんだけど、この商店街に掲げられてる「DOBUITA STREET」のペリーが描かれた旗?だけは分かったんでさ。

「芥川龍之介」は大正6年(1917年)9月に汐入の下宿先に引っ越して来ます…この辺りにあった「尾鷲梅吉」方で大きな家だったらしいよ。

やっぱ教師と執筆を両立させるには通勤が苦だったみたいね…この酒屋は当時からあるんだって。
でも翌2月には婚約者と結婚するんで汐入の下宿は出たんだとさ。
「芥川龍之介」(1892年【明治25年】3月1日-1927年【昭和2年】7月24日)は35歳で服毒自殺したんだね…その8年後に創設された新人文学賞「芥川(龍之介)賞」は日本で最も有名な文学賞として今も続いてるから、そっちでとても知られてるよね。

後は関係無いけど「横須賀市立中央図書館」に本を借りに行ったよ。

この「読書公園」があるトコは配水池があったんだって…子供のころ既に配水池は無かったと思うけど公園になる前の跡地は何となく憶えてるよ。

ここ緒明山は伊豆・戸田村出身で我が国近代造船業の発展に尽くした「緒明菊三郎」所有の山だったんでそう呼ばれているらしいよ。
さいか屋と西友の跡地に建設中のマンションがここからも見えるんだね。

ここには緒明山教会ってのが昔あったんだって…そういやこの階段を上がったトコに跡(火事になったらしい)みたいのがあったような、何も無かったような…

子供のころは図書館左奥の今は駐車場になってるトコが公園(そこが緒明山公園って認識だった)で、友達とコマやったりしてたんだよ。

ここは「はまゆう公園」です…ここも陸軍用地なんだよ。

今はこんな立派なサッカー場になり、もうじき桜もキレイに咲く公園なんだけど…かつて陸軍の病院があったんだって。
この場所に陸軍の病院が作られたのは1891年(明治24年)で、1890年(明治23年)に新設された「要塞砲兵連隊」の医務室を移転して病院としたのが始まりで、昭和20年に東京湾要塞司令部だった場所に移り、横須賀国立病院(現うわまち病院)として診療を続けてきました。
陸軍病院が移転して建物が取り壊された後は関東学院グラウンドとなるんだけど…俺が子供のころは既に草ボーボーの荒地で遊ぶこともできなかったよ。
その後、昭和63年にサッカー場が造られ、「横須賀シーガルズ」(現横浜FCシーガルズ)が一部の試合を「はまゆう公園」で行っていたらしいんだけど…「横浜FCシーガルズ」になってから?は、さすがに母体が大きくなったからか?ほとんど横須賀には来てなさそうだね。

先週はさいか屋で「横須賀製鉄所パネル展」を観たけど、明治期~戦前・戦後くらいの地元をもっと知りたいな。
横須賀は陸海軍の施設が数多くあった要所なんだね…俺が今この地に住んでるのも祖父が海軍にいたからなのだろうか?
またどっか情報を入手したらレポしまーす

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要塞「猿島」上陸!

2015年02月07日 | 幕末~明治史跡めぐり
2月7日(土)
今日は今年初の史跡ハントに行って来たよ
行き先は「猿島」なんだけど…何故この時期に?と思われるでしょうが、この2月は「横須賀市民割」ってのがあって、参加してる店舗や施設が横須賀市民なら割引になるサービスがあってさ。
この猿島航路は通常大人¥1,300が半額になるんで、猿島にある旧陸・海軍の要塞跡を観に行きたくて決行したのよ。
2月は隔週土曜(14日、28日)と建国記念日も出勤だし、21日はFと出掛ける予定だし…明日を含め残り3日ある日曜は天気次第だから「行けるときに行っちゃえ」って感じでさ。
12月1日~2月末までは冬季ダイヤで土日祝日のみの運航なんだわさ…俺は第2便(10:00発)に乗船するため、9:30ごろ家を出たよ。
猿島航路のある「三笠桟橋」(三笠公園)へはバイクで行ったんだけど、それは島から戻ったら続けて別の史跡ハントに向かうためだったんだわ。
さぁ今日は初めて杖も持って行ったよ…島内は山道も多いだろうからね。
 
 ※この後、掲載する写真の撮影時間が事情により異なります


9:35ごろ「三笠公園」に着きました。

記念艦「三笠」も2月中は市民割で半額(¥300)で見学できるよ。

いつものように「東郷平八郎」元帥海軍大将にご挨拶。

これがチケット売場だよ…俺は免許証見せて¥650(半額)になりました。

この「三笠桟橋」から猿島行きフェリー?が発着するよ。

乗った便は20~30人くらい乗ったんじゃないかな…俺は先端部の椅子に座ったけど、そんなに寒くはなかったよ。

「猿島」は横須賀沖1.7Kmにある東京湾唯一の自然島です。
「何で猿島っていうの?サルいんの?」って思うでしょうが、無人島だけどサルもいないよ。
由来は1253年5月「日蓮上人」が房総から鎌倉へ渡る途中、嵐に遭って舟の進む方向も分からなくなったとき…どこからともなく一匹の白猿が現れて舟の舳先に立って島に案内したという言い伝えから「猿島」という名がついたとされています。
嵐の中の海に…その白猿、どうやって現れたんだ?筋斗雲で来たのかなぁ?孫悟空かよ

約10分で「猿島桟橋」に着きます…あの岩に付いてる黒い点は全部「鳥」だよ。(カラスではないと思う)

横須賀の中心街だね…建設中の2棟のマンションは西友とさいか屋の跡地のじゃない?

桟橋に降り立ちました…多分1時間もあれば周れるはずなんで11:15発で帰ることを目標に「猿島」散策スタートだよ


これは明治時代中期に造られた発電所だって。

落石注意だって~

「猿島」に来るのって子供のころ以来何十年ぶりか?ってくらいで、そのときは海水浴で来たんじゃないかなぁ。

だから島の中まで入った記憶が無くてさ…多分、これから紹介する要塞跡は初めて見たんだと思うよ。

これは兵舎です。

これも兵舎。

向かいのこれは何だろう?トイレ跡?

ここは何で下が見えるようになってるんだろう?何かを見せるためでもなさそうだけど…

ここは何を隠してるんだ?

これは弾薬庫です。

こっちのも弾薬庫?

その先にはトンネルが…このトンネルは「フランス積れんが建造物」で、現存するのは全国でもここ「猿島要塞」と「米海軍横須賀基地内倉庫」「長崎造船所 小菅ドック」「富岡製糸場」の4ヶ所だけなんだって。

これ「愛のトンネル」といい、カップルが2人で通り抜けると…までしかパンフに書かれてなかったんで帰ってから調べてみたよ。

暗くて危ないからカップルが自ずと手をつないで歩くことになるんで「愛のトンネル」だってさ。(フラッシュ撮影しているので明るく見えるだけ)

トンネルを抜けると正面に見えるトンネルと…

出てすぐ右に行く道(またトンネル)があります。(写真右のトンネルは今出て来た「愛のトンネル」)

俺は正面のトンネルに行き、「日蓮洞窟」と「砲台跡」をハントします。

少し進むと1個目の「砲台跡」があったよ。

その先は行き止まりだけど…

これも「砲台跡」です。

進入禁止だけど「切り通し」があるね。

おぉ、この下に「日蓮洞窟」があるんだな。

螺旋のようになった階段を岩場の方へ下りて行くと…

「日蓮洞窟」がありました…現三春町にある「春日神社」は明治17年までは猿島にあり、村民たちは7月下旬に大祭を行っていましたが、その前後には毎夜のように上総の鹿野山から猿島へ大蛇が泳いで来たといいます。
この大蛇は春日神社の守護神で、島に来た時はこの洞窟(日蓮洞窟)に住んでおり…江ノ島の岩屋まで続いているといわれています。
ここからは縄文時代の土器も発見されているらしいよ…当時は島だったか、地続きだったか知らんけどさ。

…で、何で「日蓮洞窟」なの?
さっきの「猿島」の由来だけど、調べてみると他に…鎌倉時代、日蓮上人が房総から鎌倉へ船出したところ、急に天候が悪化して舟が沈没寸前となったが、日蓮上人が舟の上で海の神様である龍に念仏を唱えると大きな龍が出現し、シケた海は静けさを取り戻した。
…とか、鎌倉に渡る途中シケに遭い、そのとき現「猿島」の遠浅の磯辺で舟底に穴が開いて沈没寸前の状態になったとき、日蓮上人が水面を見つめ念仏を唱えたところ、アワビが舟底の穴をふさいで舟が沈まずに済んだという話もあります。
その後、日蓮上人は現「猿島」に流れ着き、そのとき現れた白猿の導きによって横須賀の現「米ケ浜」に上陸しようとしましたが、着岸できないため舟頭が上人を背負って上陸しました。(やっぱ嵐の海の中に白猿は来ないよねぇ)
砂浜に上がってみるとサザエを踏んだ舟頭の足が血まみれになっていたので、日蓮上人がまた念仏を唱えたところ舟頭の出血が止まり、この近海のサザエの角が無くなった…という話もあります。
それは舟頭ではなく、出迎えた石渡左衛門尉という人だったという話もあり…左衛門尉がお腹が空いたのでは?と「おにぎり」を差し出しますが、寒さで震えていた上人はそれを落としてしまい砂が付いてしまいましたが、それを拾った上人が息を吹きかけると「ゴマ塩おにぎり」に変わり、それ以来この浜は「米ケ浜」と呼ばれるようになりました。
スゲェぞ、日蓮上人…まさに神や いや仏教だから仏様かぁ。

ヒョウモンダコなんているんだぁ。

この辺りはヨネノ根といい、クロダイ、スズキ、イナダ、アイナメなどが狙えるらしいよ。

そして広場に行きました…この下はオイモノ鼻といい、アイナメ、カサゴ、メバルなどが狙えるようです。

この石柱や右下の石も何かに使われてたのかなぁ?

この広場の斜面一帯には幕末(1847年)に建設された「卯の崎台場」があったそうです。

この「砲台跡」には砲台を設置した跡らしき鉄のボルト?みたいなのがあるね。

この「砲台跡」にも同じような鉄のボルト?らしきモノが…

この分岐点を右に行くと…さっきの「愛のトンネル」を出て、すぐ右に行った先とつながるよ。

そこにあるのは、この第1砲台の関連施設だったであろう部屋です。

で、分岐点を左に進み、階段を上がって行くと…

「展望台」があります。

「展望台」といっても上ることはできないんだけど…これ初代ショッカーの基地なんだよ

中、狭っ…地下に続く通路は?…って、あるワケないでしょ。

では、ここで「仮面ライダー」の一場面を…

これは「仮面ライダー」第9話「恐怖コブラ男」で猿島が出てくるんだけど…バイクで走ってるし、全然舗装されてないね。

放送が1971年5月…俺が生まれる数ヶ月前かよ。

当時は観光客なんて入れたのかね?

さらわれた子供を救出した仮面ライダー

展望台の上での闘い

Vsコブラ男。

これは「仮面ライダー」第80話だよ。

ゲルショッカー結成もここで行われました。


ショッカーの秘密基地をあとにし、先へ進むと「砲台跡」があるけど…ここのは歯車みたいな土台してるね。

さらに先へ進むと広場があるよ…これは発電所の跡みたい。

これは運輸省の測標だって。

この辺りは三本松といい、スズキ、マゴチ、カレイなどが狙えるようだよ。

これも古い機械か何か?

40分くらいで1周して戻って来たよ。

ここでバーベキュー道具のレンタルやってるんだね…上はボードウォークになってるよ。

「猿島仙人杖」なんて貸し出ししてたんだ…俺は自分の杖を使ってたけど、やっぱ持ってた方が多少は脚への負担が減るね。

11時すぎに「猿島桟橋」に行ってフェリーを待ってたよ。

この砂浜も海水浴シーズンになると込むみたい。

テレビ番組でも取り上げられて「猿島」はけっこう人気スポットなんだよ。

水もキレイでしょ。

フェリーが来るまでヒマだから撮った写真を見返してたら、島に上陸してから日蓮洞窟あたりまでの写真が無いじゃん
そういや、その辺りでカメラがフリーズしたような状態になってメモリーカードを入れ直して元に戻したんだけど…写真撮れてなかったのかよぉ。
史跡ハンターは写真に残してこそなんだよ…もう5分もすれば11:15発の「三笠桟橋」行が来ちゃうけど、このまま帰っちゃ来た意味が無い。
なので帰るのは1時間後(12:15発)にズラして、また切り通し(要塞跡)の方に戻ったわ…それで後から撮り直した写真が含まれてるんだけど分からないよね?

これは完全に1時間後の俺が乗って帰ったフェリーが到着したときの写真だよ。

さすがに戻って撮り直した後はカメラに異状もなく、何枚か撮る度に再生して見て確認したからね。

出航~ 帰りは2階席の方に行ったよ。

さらば要塞「猿島」 今度はバーベキューか十年以上やってない釣りで来てみたいな。

この公園と反対側の「三笠」が見えるのも、この猿島航路(フェリーから)のみだよね。

2時間島にいることになったせいで、この後「観音崎砲台」もハントしに行こうと思ってたけど中止して家に帰ったよ。
帰ってからブログ記事書いてるとき、行きにフェリー乗る前(三笠桟橋で)撮った写真も無いじゃんよ…一体どこから異状だったんだ?
こりゃ三笠公園からいきなり島に上陸しちゃうよ…ってんで昼飯食べた後、買い物ついでに自転車で三笠桟橋に行って写真撮って来たわ。
だから少し曇ってる写真になってるでしょ…島から引き上げる前に異状に気づいて良かったし、遠征する史跡ハントじゃなくて良かったよ。

ここで過去に撮った東京湾に設置されていた砲台跡を紹介します。

これは観音崎公園内の遺構(弾薬庫)だよ。

これは「三軒家砲台跡」です…他にも「北門第1、第2砲台跡」「花立新砲台跡」なんかもあるんで猿島の後行ってみるつもりだったのになぁ。

これは観音崎展望園地にある「28サンチ榴弾砲実物大型模型」だよ。
公園ボランティアがペットボトルのキャップなどを使って再現したんだけど…3月に撤去されるみたい。

これは横須賀中央公園の「米が浜砲台跡」だよ。

日露戦争の旅順攻囲戦において東京湾要塞が持つ28サンチ榴弾砲のうち、米が浜砲台より6門、箱崎高砲台(現米軍基地内)より8門、他4門が旅順へ送り込まれ、第二回旅順総攻撃以降ロシア軍陣地攻撃・旅順港砲撃に使用されました。

この中央公園にあった砲台が旅順に送られて日露戦争勝利に貢献してたんだよね…横須賀には記念艦「三笠」もあるし、「猿島」を含めた東京湾要塞跡も巡ってみるのも如何でしょう?


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幕末史跡めぐり・其之二十七~長野市松代町「佐久間象山」編

2014年03月22日 | 幕末~明治史跡めぐり
3月22日(土)2/2
さて…「川中島古戦場」をハントして14:35のバスに乗り、14:55ごろ「松代」に着きました。
今回はちょっと戦国史跡も含むけど、久々に「幕末史跡めぐり」の連番(其之二十七)に加えたいと思います。
ここ、初めは旅程に入ってなかったんだけど、川中島を調べたりしてたら松代町にも史跡がいっぱいあるじゃん
「象山神社」や「象山記念館」…そういや「佐久間象山」って松代藩出身だったのを思い出したけど、ここがそうだったのかぁ。

バスを降りて近くにあったのが「旧松代駅」です。

中の時刻表には平成9年って書かれているけど、その辺りまで現役の駅だったのかね?もう廃線になっちゃったのでしょうか。

これは「小山田家」です。

そして、まず向かったのは近くにある「観光案内所」です…ここでレンタサイクルが借りられるんでね。
16:30までで¥200…電動アシストじゃなかったけど、平地ばっかだろうから大丈夫でしょう。


まず、同じ並びにある「真田宝物館」に行きました。
「真田邸」「旧松代藩文武学校」との3館共通券(¥400)を買い、従業員の方に聞いた無料のロッカー(最後¥100返って来る)にリュックを預けました。
「真田宝物館」は17時までらしいので16時半に自転車を返した後に観て、それからリュックを出して帰ればいいので後回しにしたよ。

ここは「恩田木工邸跡」だって。

まず「真田邸」に入りました。

9代藩主の隠居所だったそうです。

この庭園が見所らしいです。

これは「旧樋口家住宅」です。
「旧松代藩文武学校」まで歩いて行っちゃうと自転車を置いた所(真田宝物館)から遠ざかっちゃうんで自転車を取りに行き…

「旧松代藩文武学校」に行きました。

これは弓術所です…って、これらは観てもつまらないなぁ。

これは「旧白井家表門」です。


これは「象山神社」境内にある「高義亭」です。
象山が「吉田松陰」の渡航未遂事件に連座して蟄居を命じられていたとき、来客があるとしばしばこの「高義亭」にて応対し、国家の時勢を論じていたといいます。

これは「桜賦」と歌碑?です。

これは「本殿」です。

これは「望岳賦」と「神木」です。

正面の方から出て来ちゃった。

入口にある「佐久間象山の像」です。

それから「象山記念館」に行きました…バスの「1dayパス」を持ってる俺は¥250→¥200になります。

象山は兵学のみならず、西洋の学問そのものに大きな関心を寄せるようになり、嘉永2年(1849年)に日本初の指示電信機による電信を行ったほか、ガラスの製造や地震予知器の開発に成功し、更には牛痘種の導入も企図していたようです。(写真は電気治療機だって)
漫画「JIN‐仁‐」でも未来を見て来た男として描かれていたよね~

嘉永6年(1853年)にペリーが浦賀に来航したときも、象山は視察として「浦賀」を訪れているんだよ。
元治元年(1864年)象山は「一橋慶喜」に招かれて上洛し、慶喜に公武合体論と開国論を説きました。
しかし当時の京都は尊皇攘夷派の志士の潜伏拠点となっており、「西洋かぶれ」という印象を持たれていた象山は京都の街を移動するときに供も連れなかったため、7月11日…三条木屋町で「前田伊右衛門」「河上彦斎」等の手にかかり暗殺されます。(享年54)
それは幕末史跡めぐり・其之四~京都編で紹介しているので見てね。
この「佐久間象山」や「吉田松陰」は維新前に亡くなってしまったけど、彼らの意志を継いだ者たちが明治維新を成し遂げたからね。


これは「山寺常山邸」です。

そして「象山地下壕」に行きました。(無料)

太平洋戦争末期、本土決戦の最後の拠点として大本営、仮皇居、政府機関などを移す目的で軍部によって極秘に建設されたのが、この「松代大本営地下壕跡」です。

ヘルメットを着用して中に入ります…500mくらい見学できるんだけど、時間も無いんで100mくらい見て戻ったけど「佐久間象山」とは無関係だったね。

これは「恵明禅寺」です。

これは「本堂」です。

「豊姫の霊屋」と「豊姫(あんず姫)の墓」です。
伊予(愛媛県)宇和島藩主「伊達宗利」公(伊達政宗の孫)の息女が「豊」で、松代藩「真田幸道」公に嫁いだ際、実家より鉢植えの「あんず」を持参して愛賞されていたのが善光寺平に「あんずの樹」が来た始めであるといわれています。

これは「蓮乗寺」です。

ここは佐久間家の菩提寺です。

ここに「佐久間象山の墓」があります。

左の墓石に「象山佐久間先生墓」と彫られているね。

それから「長国寺」に行きました。

ここは松代藩真田家の菩提寺です。

ここには「真田家墓所」があるんだけど…

どうやら隔離されてて入れないみたい…要予約らしく、突然「今見せて(有料)」って言ってもダメだと思い「長国寺」を出ました。
もう16:10なんで…自転車を返しに戻ることにしました。

これは「鐘楼」です。

これは「矢沢家の表門」です。

これは「池田満寿夫美術館」です。

「松代観光案内所」に自転車を返却し、歩いて「松代城址」に行きました。

バスの時刻まで30分切ってる(バス停に戻る時間も考慮して)んで急いでハントしなきゃ。

元々は「海津城」と呼ばれ、武田四天王の一人「高坂昌信(弾正)」が城代となり、川中島衆を率いて越後上杉氏に対する最前線にあたる守将を任されていました。
天正6年(1578年)の「上杉謙信」死後に発生した上杉家における「御館の乱」において、「武田信豊」とともに「上杉景勝」との取次を努め、甲越同盟の締結に携わっていますが同年6月14日、ここ海津城において死去しました。(享年52)
武田氏滅亡後には織田氏家臣の「森長可」の居城となり、本能寺の変後は上杉氏の支配となりましたが、1598年(慶長3年)に「上杉景勝」が会津に転出の後は「豊臣秀吉」の蔵入地となり、城主には「田丸直昌」が任じられました。
それから城主がいろいろ変わり、1622年(元和8年)「真田信之」(真田昌幸の長男、真田幸村の兄)が入城以後、松代藩の藩庁として明治維新まで真田氏の居城となりました。

天守址からの景色です。
それから急いで「真田宝物館」に行きました。

まぁ俺は博物館系はあまり時間を掛けて観ない方なんで10分も観てないよ。
16:40ごろロッカーからリュックも出して「真田宝物館」を出ました。

それから「松代駅」近くのバス停で長野駅行きのバス(17:00発)を待ちました。

予定通り17:00に来たバスに乗り、17:30ごろ「長野駅」に着きました。
それから17:41発の「しなの鉄道」に乗って…18:23「上田」に着きました。
今日は「上田」で探しておいたネットカフェに泊まるんだけど、大体の場所しか調べてなくてさ…けっこう歩いて近くまで来たのに交差点で曲がる方向を間違えてしまい(…ってか、電柱の住所表記が途切れた)探すのに時間喰っちゃったよ。
とりあえずネットカフェ近くの「すき家」で夕飯にし、19:30ごろチェックインしました。
ここも12時間¥1700のロングコースがあってさ…明日は7時前には出たかったんで、ちょうど良いコースだったね。
だけど、やっぱ会員証作らなきゃならなくてさ…合計¥2,000になったわ。
まぁそれでもホテルに泊まることを考えりゃ安上がりだからね…最近は住所不定のアヤシイのがネットカフェに寝泊まりするから身分確認のために「一見さん」でも会員にされちゃうんだろうね。
今日も少しブログ記事制作して、あとは「キン肉マン」の続編(Ⅱ世じゃなくてキン肉星王位争奪戦以後の話)を読んでたよ。
結局寝たの1時過ぎちゃってたな…風邪も治らないし、脚はパンパン、足の裏は水ぶくれが潰れ…満身創痍だけど、マットタイプの部屋にしたんで少し横になって寝れたな。
でも…ちょっと寒いぞ…暖房があまり効いてないじゃん…


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「浦賀ドック」周辺めぐり

2013年10月12日 | 幕末~明治史跡めぐり
10月12日(土)
先週(6日)は「日米親善ベース歴史ツアー」に参加して明治時代に造られたドライドックを見て来たけど、今週は「浦賀ドック」を見学しに行って来ました。
浦賀にはドックが2ヶ所あって「川間ドック」は事前予約制のツアーがあったんだけど応募せず、事前応募の要らない「浦賀ドック」の方のみを見学するつもりでいたんだけど…「川間ドック」は調べたらいつでも自由に見れるみたいなんで、後で個人で行ってみることにしました。
「浦賀ドック」の見学は11時からなんで10~15分前に着けばいいんだけど、今日は昨晩からの夜勤+残業で終了が8時半だったんで…家に帰って作業着を洗濯するために置いて、30分後くらいに下の妹の家(浦賀)に向かいました。
妹夫婦の家は浦賀駅から近いんで、もし現地にバイクを停める場所が無い場合を考えてバイクを置かせておいてもらうのと充電のために寄ったワケです。
まだうちの両親も上がったことのない新居(8月末に越したばかり)に先にオジャマしちゃいました。

10時半ごろKAZUMAを病院に連れて行くと言うんで、妹と甥姪と浦賀駅まで一緒に歩いて行きました。

駅の目の前が「住友重機械工業」の敷地です。

浦賀に所縁のある方々やエピソードのパネル?が外壁に数枚あります。

正門?から入り、事務所?みたいなところで番号だけ貰って参加OKです。

そこにはいくつか展示品がありました。
ドックに使用されているレンガや…

工具…などです。


けっこう参加者多いんだね…俺の前に30人弱の第1便が出たからね。

俺は約40人弱の第2便で見学をすることになりました。

2基のクレーンがあるレンガ造りのドライドックで、レンガ造りの明治期のドックは日本に2基しか残っていないのだそうです。

このシャッター?の先が海で艦船を引き入れた後、海水を抜いて船底を露出させて補修します。

これは反対側です。

この奥にある山はこのドック辺りまで裾野があったらしいよ…それをここまで山を削るのも大変な作業だよね。

大きな錨だね…

これも大きなタイヤだ…

人と比較してもこの大きさだもん。

この左のはクレーンで、右のが支柱?です。

この支柱?とこのクレーンが一体だったとは…

平成15年(2003年)に閉鎖されるまで、30mを越す高さのクレーンが空を覆い、日本丸、海王丸をはじめ、青函連絡船・大型タンカー・自動車運搬船・護衛艦などの船がこの「浦賀ドック」で建造され、街はドックで働く人たちで賑わっていたそうです。



ドックから見る浦賀港です。

このポンプ?でドック内の海水を排出するみたい。

クレーン(写真右)には、製造が大正13年11月って記載されてたよ。

明治24年(1891年)中島三郎助23回忌にあたり、旧船番所裏手の愛宕山に招魂碑が建てられ、その除幕式の席でかつて函館戦争のときの同志であった荒井郁之助(函館での海軍奉行)が「中島三郎助のために浦賀に造船所を造ったらどうか」と提唱し、榎本武揚は即座に賛成して地元の有力者に働きかけ、鳳凰丸建造から約40年後の明治29年(1896年)に浦賀船渠株式会社が創設されました。

現在の社名「住友重機械工業株式会社」は昭和44年(1969年)6月に合併してからのものです。

この「咸臨丸」は…“咸臨丸フェスタ”で使用するモノかな?

食事?も販売していました。

この後、イベントが行われるみたいです。



予定通り12時ちょい前に終わり…浦賀駅近くの「亜細亜楼」という中華料理屋に行きました。
浦賀出身の同僚が薦めてくれてたんでさ…俺は「とろみラーメン」を注文しました。
同僚はサンマーメンがお勧めって言ってたけど、俺サンマーメンって食べたことが無いんでちょっと抵抗あってさ。

「とろみラーメン」は¥750です…「とろみ麺」というスープ無しのメニューもありました。(半チャーハンはサービスでした)
ピリ辛って書いてあったけど、俺にはちっとも辛くなかったな…でも美味しくてスープも全部飲んじゃったよ。
妹の旦那は浦賀出身だけど、子供の頃行ったきりみたいでさ…妹には「美味しかった」と言っておいたけど味覚は人それぞれだし、俺も通うほどか?と聞かれれば、そこまででもないかな?(…ってか、俺は滅多に外食しないから)

食事後、妹のとこにバイクを取りに戻って、バイクで再び「住友重機械工業」方面へ…

ここは「西叶神社」です。

…俺は対岸の「東叶神社」は何度か行ってるけど、初めて「西叶神社」に来ました。
ここ「西叶神社」の勾玉を「東叶神社」のお守り袋に納めて身につけていると、恋愛をはじめさまざまな良縁を結んでいただけるそうですよ。

「たまゆら~もあぐれっしぶ~」第7話でも登場しました

これは「昭洞香山君碑」で、ペリー来航時に中島三郎助と共に応待、評判に当たった人物です。

左は「福寿弁財天」です。

文政6年(1823年)創建だって…でも、崖を修復したのか古さを感じないね。

この石段を上がって行ったら小さな社がありました。

「西叶神社」は天保13年(1842年)に建造されたもので、社殿を取り巻く総数230を超える彫刻は安房の彫刻師「後藤利兵衛」の作品です。

利兵衛は文化12年(1815年)安房国千倉の生まれで、江戸の後藤三次郎の門に学び、神社社殿の彫刻や山車、みこしを多く手掛けました。

東西の叶神社は、浦賀の港を行き来する「浦賀の渡し」で結ばれています。


それから「浦賀病院」方面へ…ここは「船番所跡」です。

目の前にはL字の「陸軍桟橋」があります…太平洋戦争終了後、南方や中国大陸からの引き揚げ者約56万人が、懐かしい日本の地に第一歩を印したところです。

このボードウォークは…

「たまゆら~もあぐれっしぶ~」第7話で、最後に皆で花火を見てたところだね。



それから「燈明堂跡」に行きました。
「燈明堂」は浦賀港の西にあり、港に出入りする船にとって灯台の役目をしていました。
慶安元年(1648年)幕府の命により造られ、菜種油で灯された光は海上4海里(7.4Km)を照らしたといわれています。

これは何の碑だろう?

明治5年(1872年)に廃止されるまでの約220年間、一日も休まずに航路の安全を守ってきました。

今日は天気が良かったんで日光浴してる人がいたよ…って、もう10月半ばなんですけど。

建物は明治20年代まで残っていたといわれていますが、風雨で崩壊し石垣だけが残されていました。
昭和63年(1988年)に残った石垣の上に現在の建物が当時のままに復元されました。

けっこうキレイな砂浜だったよ。


それから「浦賀病院」方面に戻る途中にある「シティマリーナヴェラシス」というヨットハーバーに寄りました。

その中にあるのが「川間ドック」です。

(株)東京石川島造船所が大型船の建造修理のため、当時取締役会長であった渋沢栄一の提案により、明治28年(1895年)10月に浦賀分工場として建設に着手し、同31年に営業を開始しました。

オールレンガ造りで築造されたドックは、全国を探しても明治期のものは「浦賀ドック」と「川間ドック」2基のみという大変貴重なものです。
もう今は海側のシャッター?が外されているため、ドライ(乾)ドックとしての役割を果たすことができなくなっています…


最後に「為朝神社」に行ってみました。

祭神は源為朝…源頼朝の父の弟にあたり、保元の乱で父・為義とともに戦って敗れ、伊豆大島に流罪となりました。
大河ドラマ「平清盛」でも頼朝(岡田将生)の父・義朝(玉木宏)の弟(八男)として猛将ぶりが描かれていました。
為朝はその強弓を恐れられ、腕の筋を切られて大島に流されて流人生活の果て許されることなく没しました。
…で、浦賀と何の関係があるの?っていうと寛政12年(1800年)浜町(西浦賀4丁目)の漁民が海に漂流していた木像を引き上げ地蔵堂に安置し祈願をすると、その功が多かったそうで鎮西八郎為朝の像であったといわれています。
この地に伝えられている「虎踊り」は浦賀奉行所の開設にあたって伊豆下田から伝えられたもので、 県の民俗文化財に指定されているそうな。

この他の浦賀周辺の史跡はこちらをご参照くださいな。


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日米親善ベース歴史ツアー

2013年10月06日 | 幕末~明治史跡めぐり
10月6日(日)
今日は夜勤明けで朝4時すぎに帰って来たんだけど…2時間ほどしか寝ないで事前予約していた「日米親善ベース歴史ツアー」に参加して来ました。
これは横須賀市観光協会が主催している米海軍横須賀基地内の通常目にすることのできない歴史スポットを見学するツアーです。
俺が申し込んだ第1グループ(約50人)はAM9時までにJR横須賀駅に集合だったんだけど、先着順から10人ほどの小隊になり順次出発しました。
今回、新デジカメのデビュー戦がこの「日米親善ベース歴史ツアー」になったね。
ベース内では一部撮影不可能な場所があるんだけど、今日は新デジカメ(PENTAX Q)と旧デジカメ(Cyber-shot DSC-T77)の両方で撮影したよ。


JR横須賀駅」のマメ知識もボランティアガイドさん?が説明してくれました…俺は「駅の内外を含めて階段が無い」ことは知ってたけど「1番ホームが無い」ことは気づかなかったなぁ。
1番線ホームは天皇陛下専用のホームだったらしく…今は無いけど2番線(横須賀止まり)と3番線(単線)が繰り上がることなく、そのまま残って使用されているんだよ。
JR横須賀駅を出た俺が属する第3小隊は、まず「ヴェルニー公園」に行きました…って、JR横須賀駅のすぐ近くだけどね。

ずっと「しらせ」は停泊しているみたいだな。

今回は念願のあっち(ベース)側に行けるワケだね。

これは石段だったんだね…

ベース内からは撮れない潜水艦も「ヴェルニー公園」からなら撮り放題だよ。

「ヴェルニー公園」は1946年(昭和21年)に開園した「臨海公園」を2001年(平成13年)にフランス式庭園の様式を取り入れてリニューアルオープンした公園で、名称は横須賀造兵廠その他の近代施設の建設を指導し、日本の近代化を支援したフランス人技術者「レオンス・ヴェルニー」に由来します。

これは「逸見波止場衛門跡」で旧横須賀軍港逸見門の衛兵詰所として明治末期から大正の初期頃に建てられた2つの建築物です。

「レオンス・ヴェルニー」と「小栗忠順」の胸像です。

「小栗忠順(小栗上野介)」も悲劇の幕臣だよな…大隈重信も「明治政府の近代化政策は小栗忠順の模倣にすぎない」と語ったほど日本の近代化は小栗あってだったんだよ。

これは小栗ゆかりの群馬県群馬郡倉渕村から1953年に寄贈された「記念石」です。

これは「開港碑」です。

フランス庭園と言えばバラ…プリンセスミチコ(左)とプリンセスアイコ(右)と名づけられた品種です。

旧日本海軍関係の慰霊碑(沖島、長門、山城の碑、國威顕彰碑、海軍の碑)と…

正岡子規の歌碑(横須賀や只帆檣の冬木立)があります。
「ヴェルニー公園」を出て「ドブ板通り」へ。

まだ開店前とはいえ、あまり活気の無い通りになっちゃってるよね…

そして「米海軍横須賀基地」へ。(ゲート前は写真撮影不可)
ゲート前で小隊(4つ?)全てが合流し、ここからは第1大隊として入場したんだけど…パスポートを見せて事前に予約した者であるかの確認を取られただけで、特に手荷物検査とかされなかったな。
正面メインゲートから入場できるのも、こういう小規模なツアーだからだろうね…基地開放イベントでは大抵「三笠公園」側のゲートから入場になるからさ。

メインゲートから入場して間もなく目に付くのが「関東大震災の碑」です。

これは「下仕官クラブ」です。

これは「横須賀製鉄所・工廠庁舎沿革の碑」です。

「NSF」って何だったっけ?

これは「泊船庵の碑」です。
ここの洞穴から?ゾウの化石が発見され、最初に日本のゾウ化石を研究した東大の地質学者だったドイツ人「ナウマン(明治8年~18年日本滞在)」の名前を取り「ナウマンゾウ」と呼ばれています。
日本で最初に発見されたもの(1868年)が横須賀製鉄所建設に伴う埋め立て工事によるものでした。

そしてメインのドライドックの見学へ。
まず第1号ドックからだけど…ドック内に艦船がある場合は撮影ができません。

残念ながら第1号ドックには補修中の艦船があったため、艦船が写らないシャッター?部だけ許可してもらいました。

第1号ドライドックは慶応3年(1867年)3月着工、明治4年(1871年)1月竣工で、設計は「ヴェルニー」です。


第2号ドック以降は艦船が入ってなかったので自由に写真が撮れました。

第2号ドライドックは明治13年(1880年)7月着工、明治17年(1884年)7月竣工で、設計は「ジュウェット」という人らしいです。

こっちは海を隔てたシャッター側です。


これは第3号ドックです。

第3号ドライドックは明治4年(1871年)5月竣工、明治7年(1874年)1月竣工で、設計は「ヴェルニー」です。


これは第4号ドックです。

これは…第5号ドックだね。

パンダの看板が付いてました。

ドライドック見学が終わり、ベース内を移動です。

この艦船が停泊してる場所は以前ベース開放日の時に艦船内部を見学した場所だよ…この艦船だったかは知らないけど。

「USO」って何だろう?

何やらイベントが行われているみたい?

この基地にある隧道も明治時代に造られたのかなぁ?
11:30ごろ、50分間の昼休憩になり、今日はせっかくなんで中のフードコートで昼食を買ってみました…フードコートに入って右から、

ハンバーガー等の「ALL AMERICAN FOOD」です。

「CINNABON」…ここが同僚の言ってたシナモンパンの店なのかなぁ?

「SUBWAY」は基地内じゃなくてもあるからね~

「POPEYES」…ここはファーストフード系だったかな。

この店で買うことにしました。

中では円とドルの両方使えるんだけど、おつりはドルのみです…って、久々にドル札を手にしたけど、どう見ても人生ゲームのお金にしか見えないんだけど。

これで8ドルだよ…おかずは追加で他にも選べたのかなぁ?よく分からず、1種類しか選ばなかったよ。
そんな安くないよね…ってか、むしろ高いじゃんか…しかも鶏肉に付いてるソース(タレ?)は甘酸っぱくて美味しくない。
何の味だろう?…って考えてたんだけど、オレンジソースみたいなの混ぜてるんじゃないかな?
俺はジャムだのマーマレードだのがキライなんだよ。

ここは一番広かったけど、イタリアンの店だったかな。

敷地内のいろんな所にあるニュースペーパーの販売機かな?左側はフリーペーパーだったんで1部取って来たんだけど、英語はさっぱり分からないや。

12:00ごろフードコートを出て、近くをブラブラしてました。(行動も規制されてるし)

基地内は広いんでバスが走っています。

ここは「コサノパーク」です。

元横須賀商工会議所会頭の小佐野氏は基地と横須賀市の友好関係に尽力したのでこの名前が付けられたそうです。

目の前は「三笠公園」です。
12:20に昼休憩が終わり、ずっと俺らを監視?というか一緒に回ってくれた海兵さん2人とコミュニケーションタイムとして質疑応答がありました。

担当してくれた海兵さん。

それから午後の部が始まりました。

このマクドナルドの近くの海岸が「終戦時米軍上陸地点」だそうです。

ドライブスルーもあるね。

黒船の中の一隻の名をとった「サスケハナ通り」です。

この建物が「将校クラブ」です。

「将校クラブ」入口です。

「紀元2600年記念庭園の石碑」と「皇后陛下行啓記念の碑」です。

紀元2600年記念とは1940年に満州国皇帝「溥儀」が海軍病院を訪問したのを記念し、海軍少将の保利信明が訪問と紀元2600年を記念して記念公園を開所したのです。
なぜ2600年なのか?というと、1940年は神武天皇が紀元前660年に即位してから2600年になるからだそうです。

これは病院って聞いた気がするんだけど…?

見ての通り救急車です。

ここにも「皇后陛下行啓記念の碑」がありました…隣は「奉安殿」です。

これは「海軍病院」です。

これは「旧海軍病院門柱」です。


これは「FLUCKEY HALL」で、司令官がいるとこみたい。

これは「米海軍横須賀司令部」です。

展示物だけど…何かな?

大将「東郷平八郎」死去を報じた新聞記事です。

左のホビー・エースって確かドブ板通りに昔あったプラモ屋だよ。

これは「在日米海軍の司令部及び極東司令部」で、かつての「横須賀鎮守府」の建物がそのまま使われています。

このように並んで建っているんだけど、このベース内の最重要施設がメインゲート入って割とすぐのとこにあるとは思いもよらなかったよ。

これは戦後このベース内で働いた日本人労働者に対する「労働感謝の碑」です。
13:30ごろ、メインゲートで解散になりました。

それから横須賀中央方面に歩いて行ったんだけど…

ここ、何があったんだっけ?奥に見える時計屋の建物ってあんな遺構みたいな建物だったんだぁ。

さいか屋の跡地も更地になっています。

西友の跡地はもう地下の工事が始まってるみたいね。

横須賀中央駅のYデッキに人だかりがあったんで見てみると警察が交通規制をしていました。
何やら楽器を演奏しながら行進して来るんで見ていたら…

幼稚園児のパレードだったよ。

これは消防団みたいね。

幼稚園児はカワイイね~

こんなに楽器が演奏できるなんて大したモンだよ…って、バカにしてる?

横須賀開国甲冑隊なんてあるのね。

みんな頑張ってました。

さて、やっと念願のドライドックの見学ができたね…6月は申し込んだのがギリギリで落選してたからさ。
2週間後の20日は基地開放日だけど、今日見学できたドライドックや司令部なんて見れない(そこまで入れない)からね。
今回の写真は2台のカメラで撮ったのが混ざってるけど、そんなに違いが分からないよね…でも満足してるよ。
来週は「浦賀ドック」が見れるらしいんで、問い合わせて確認したら行ってみるつもりです。
3週間くらい自転車通勤したせいか左脚の股関節辺りが痛くて歩行困難気味なんだけどね…


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横須賀市の「会津藩士墓」

2013年01月08日 | 幕末~明治史跡めぐり
1月8日(火)
今日は母がカメラのキタムラで注文した中古カメラを受け取りに、久々にバイクに乗って久里浜まで行って来ました。
うちの両親は旅行好きでいろんな所に行くんだけど、カメラは相変わらずフィルムカメラを使用してるんだよね。
もう俺なんてデジカメに慣れてて、あの小さなファインダーなんて覗けないよ。
デジカメの方がその場で画像を確認できるし、プリントだってパソコン使えなくても店でできるから便利なのにさ。
うちの両親は携帯もデジカメも持たず、DVDやブルーレイも知らず…という、特に母はほとんどデジタル家電に触れたことすらない人種なのでね。
また来週早々に旅行に行くようなので早めにカメラを手にしたいらしく、風邪が全く治らないのに今日俺が取りに行くことになっちゃってさ…
もう1週間以上経っても風邪が治らないのは、やっぱり免疫力が弱まってるんだろうね。
12月に入ってから外に出ることも少なくなってしまったし…だから、なかなか完治しないんだな。
それでも医者から母に(俺の代わりに)薬を処方してもらって、それを飲んでるんだけどさ。

久里浜でカメラを受け取った後、せっかく久々にバイクに乗ったし、天気も良かったんで寄り道して来ました。
観音崎の周辺地域には会津藩士および家族の墓地が4ヶ所散在しています。
この歴史は文化7年(1810年)会津藩主「松平容衆」が幕府の命令を受けて三浦半島の海岸警備ならびに台場(砲台)構築の任務に当たったことに始まります。
これは当時、漂流民の引渡と通商を求めて日本沿岸に出没する外国船に対して、鎖国をしていた徳川幕府としてはそれら外敵からの江戸城防衛のため緊急の大事でした。
幕府は多くの大名から敢えて会津藩にこの大役を命じたのは、同藩に対する信頼が篤かったためと考えられ、そうした幕府の期待に応えるべく藩主は直ちに家老「西郷頼母」をはじめ800余名の藩士ならびにその家族を同年11月に送り込みました。
そして観音崎・浦賀平根山・城ヶ島に台場を構築しました。


ここは浦賀港です。

まず「西徳寺」に行きました。

境内には「三浦大介義明」の孫で頼朝の挙兵を助け、鎌倉幕府の樹立に功績のあった武将「和田義盛」が出陣に際し戦勝を祈願したと伝えられる「和田地蔵」が祀られています。(写真なし)

カワイイお地蔵さんたちです。

本堂裏手の山道を上って行くと…

会津藩士の墓11基があります。

林さん?のお墓の裏には「會津」の文字が見えますね。

中には白虎隊士「間瀬源七郎」の身内の墓も2基あるそうです。

こっちから下りて行くと中学校があります。

ちなみにここには「義盛の剃刀塚」もあるらしいです。

次は近くの「能満寺」に行こうと思ってたんだけど、場所がよく分からずやめました。
そこには会津藩士の墓10基と川越藩士の墓1基があるそうです。


次は腰越「三昧堂」の会津藩士墓をハントしに行きました。

崖に「會津藩士之墓」と石板がありますね。

ここには会津藩士とその家族の墓が23基あります。

上に2基だけあったこの墓は位が上の人なのかな?
三昧堂のある腰越は会津藩が文化8年(1811年)に江戸湾海防のため陣屋を置いた場所で、その敷地は八千百十坪余と記され、家老も常駐していたという記録があります。
この陣屋には会津藩士の子弟を教育するための「養正館」という藩校までありましたが、陣屋は天保13年(1842年)に川越藩の所管となり、明治2年(1869年)に撤去されました。

最後に走水の「円照寺」に行きました。

墓地には会津藩士の墓5基と川越藩士の墓1基があるのですが…
どれか分からないけど、この辺のがそうらしいです。

「円照寺」は「走水神社(写真)」の並びにあります。

文政3年(1820年)12月にその任務は解かれましたが、その10年間会津藩士はいずれも一家を挙げて居をこの地に移して海防の任務にあたり、その間三浦半島は会津藩領となりました。
彼らにとって初めて経験する異郷での10年間にわたる生活は厳しいものであったに違いありません。
いま三浦半島の8ヶ所に存在する墓石がそれを如実に物語っており、観音崎周辺地域には(鴨居)西徳寺・(鴨居)能満寺・(腰越)三昧堂・(走水)円照寺の4ヶ所に存在しています。
あわせて我々はこの台場構築という重大な土木工事のために地元横須賀の人々も働いていたことも忘れてはなりません。
会津藩は任務を解かれた後もペリーが来航した嘉永6年(1853年)には房総半島で再び任務に就き、ペリーが久里浜へ上陸した時には海上警備をしていました。
明治維新で会津藩が新政府軍に破れると会津を離れ、因縁深い横須賀へ新天地を求めて来た人も多く、その子孫の方が現在も住まれているそうです。

一昨日、大河ドラマ「八重の桜」が始まったけど…八重が生まれたのは1845年なので、多くの会津藩士が移住して来たのはその父や祖父の時代になるんだね。
我が横須賀市と会津若松市は友好都市を締結している理由に、古くは…
①横須賀市は中世の400年間会津を支配した葦名氏の祖「佐原十郎左衛門義連」が拠点とした街である
②1810年から10年間にわたり会津藩が江戸湾を警備した際に藩士は家族とともに駐留し、三浦半島は会津藩領となった
③日本近代化の礎である横須賀製鉄所の建設に尽力した江戸幕府の勘定奉行「小栗上野介」の妻が幕末の動乱期に会津に身を寄せ、上野介の子どもを出産している
…という所縁からだそうです。
会津若松市と友好都市なのは知ってたけど、そういうつながりがあったんだね。
1189年に三浦大介義明の子「佐原義連」が奥州合戦の戦功により「源頼朝」から会津4群を与えられ、1589年に子孫の「芦名義広」が摺上原の戦いで「伊達政宗」に破れて芦名氏が滅びるまで三浦一族とは400年の関わりがあったワケで、その会津の方々が1810年に横須賀に赴いてくれたのは「佐原義連」以来620年ぶりに里帰りした藩士もいたかもね。
当然、当時「佐原義連」と共に会津に移った横須賀出身の家来がいて、それらの子孫で1810年に藩命により江戸湾海防のため横須賀に居住した人もいたんじゃないか…まぁ自分の先祖が三浦半島横須賀出身なんて知る余地も無いだろうけどさ。

会津の人たち、ありがとう
これからも「八重の桜」を楽しみに見続けます。


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リベンジ「陸奥宗光」墓

2012年03月14日 | 幕末~明治史跡めぐり
3月14日(水)
今日は、昨日うちに泊めてあげた教え子T君と「鎌倉」に行って来ました。
うちを9:30ごろ出て、まず向かったのは…

「三笠公園」です。
T君は意外にも「三笠」に関心を示してたんで、今度来るときは是非中の資料館を見てみてください。
そして「米軍基地」前から「ドブ板通り」を経て…

「ヴェルニー公園」に行きました。
T君はこんな近くで巡洋艦?や潜水艦が見れて驚いてました。
そしてJR横須賀駅から横須賀線に乗り、「鎌倉」で降りました。
T君は今晩、友人と会う予定があるらしいんで14時くらいには「新横浜」に着いてないとマズイと思ったんで、先に江ノ電に乗って「長谷」に行きました。

11:45「高徳院」に着きました。(入場料¥200)

T君のタイムリミットを考えて、インパクトのある「鎌倉大仏」を先に見せてあげた方がいいと思ってさ。

これ、大仏さんの草鞋?
今回T君と大仏さんの中に入ったけど…別に何てこと無いね。
ちょうどこの時、Y社の担当者から電話があったんだけどエライ低姿勢だったわ。
でも、昨日の件だって事前に返事は出来たはずだしさ…もし見積り額が他社より安くても、こっちが急いでるときに今回のような対応されたら困るからね。
もうこっちから電話やメールをしなくなったらY社も察して何も言って来ないだろう。
あ~ぁ、十中八九Y社に通関や運送は頼むつもりだったのに…たわけが

このお土産屋、剣とか俺好みのモノがけっこう売ってるんだけどね。
時間の都合上、俺はすぐ「鎌倉」に戻って「鶴岡八幡宮」に連れて行こうと思ってたんだけど、T君が「長谷寺」にも行ってみたいと。

途中の「日蓮聖人立正安国論進献霊跡」と「鎌倉オルゴール堂」です。

12:30「長谷寺」に着きました。(入場料¥300)
俺はこの入口まで来たことあったけど、入るのは今回が初めてでした。

今日は天気も良く、庭園の梅?とかもキレイでした。



これは「良縁地蔵」だって…カワイイね。

これは「地蔵堂」です。



これは「阿弥陀堂」です。

この「阿弥陀如来坐像(左)」は鎌倉幕府初代将軍「源頼朝」公の厄災消除を祈願して造立された尊像らしいです。

これは「観音堂(本堂)」です。

中には本尊の「十一面観世音菩薩像」があります。
「長谷観音」の通称でも親しまれる尊像は総高9.18mあり、本邦でも最大級の木造観音らしいんだけど…さすがに隠し撮りは出来なかったなぁ。

これは「大黒堂」です。

写真右の「大黒天」像は1412年の銘をもつ神奈川県でも最古の尊像で、写真左は「さわり大黒」です。

これは「石造釈迦如来坐像并四天王像」です。

これは「経蔵」です。

見晴台からは…

逗子・三浦半島がキレイに見えます。

また庭園に下りて行き…

「弁天堂」に入りました。

弁財天(右)とその眷属である十六童子が刻出されています。

ちょっと腰を痛めてたんで、中腰で通るこのトンネルはキツかったなぁ。



これは「和み地蔵」です。

T君はこういう寺を見るのが好きみたいで、この「長谷寺」は庭園もキレイなんでとても気に入ってました。
13:40ごろ「長谷寺」を出ました。
途中、T君は友人から電話があって今日の用事が中止になったらしく、ゆっくり夕方まで鎌倉見物が出来るようになってたんです。

これは「収玄寺」です。

日蓮聖人四大法難の一つ、1271年の「龍口法難」の際、宗祖「日蓮」とともに殉死の覚悟を決した「四條金吾」の屋敷跡だそうです。
この石碑は「東郷平八郎」の書みたいだね。

「長谷」から江ノ電に乗り、「鎌倉」に戻りました。

「小町通り」を抜けて…

これは「鎌倉市川喜多映画記念館」だって…

入らなかったけど、これが記念館で、

これが邸宅だったみたい。

そして「寿福寺」に行きました。

こういうお坊さんが歩いてると、それっぽいよね。

何故、この「寿福寺」に来たか?と言うと、過去2回ハントに失敗した「陸奥宗光」の墓を探しに来たんです。

これは「北条政子」の墓です。

近くの「源実朝」の墓です。

情報ではこの先の立ち入り禁止区域に「陸奥宗光」の墓があるって聞いたんだけど…無いなぁ。
でも、その先の閉ざされた門のような所の下に人が来てるぞ…そこは確か下からも立ち入り禁止(門が閉まってる)のはずなのに…

やっぱり下も閉ざされていたんだけど、脇の方から入っちゃいました。

上がって行くと…

この石碑は「吉田茂」が建てたみたいね。

ありましたこれが「陸奥宗光」の墓です。
幕末に「坂本龍馬」とともに海援隊で活躍し、明治新政府では外務大臣も務めた「陸奥宗光」の墓を3回目にしてやっとハントしましたね。

15:05「寿福寺」を出ました。

そして「鶴岡八幡宮」に行きました。

境内でドラマ「最後から二番目の恋」の撮影が行われてる?みたいなんだけど…特に誰も俳優が見当たらなかったんで、先に参拝しに行きました。

今回もお賽銭をあげて、武運(事業の成功)を祈りました。

珍しく、おみくじを買ったんだけど…なんと「凶」でした。
もう仏門に入ろうと思います…

下りて行ったら撮影が始まりました。
警備員やスタッフが「立ち止まらないでください」「写真を撮らないでください」と言う中…「中井貴一サン」と「小泉今日子サン」を撮っちゃいました。

これは撮影中の2人…最終回のワンシーンみたい。
俺はこのドラマ観てないんだけどさ…最終回だけ観てみようかな。
全然近くで見れなかったけど「キョンキョン」は俺よか年上でもカワイイんだろうな~

この先で撮影してました。
15:40ごろ「鶴岡八幡宮」を出ました。
まだ昼飯も食べてなかったんで16:00ごろ鎌倉駅近くで食べ、16:30に店を出ました。
そして「新横浜」へ向かうT君とホームで別れ、俺は家に帰りました。

今日は戦利品がありま~す
このシリーズの「坂本龍馬」は持ってなかったんでさ。
今日は「陸奥宗光」墓をハントしたのでカテゴリーが“幕末史跡めぐり”になりました。
22日にT君は埼玉県に引っ越して来るんだけど、また機会があれば一緒に観光地に行きたいな…俺が埼玉方面で行ってみたい史跡もあるしさ。
今日は昨日商談したフォワーダーI社からも電話があったみたいなんだけど、全然気づかなかったわ。
昨晩I社から届いた見積りも見てないし…明日は見積りを確認し、訪中日程を決めて航空券を手配しなきゃ。


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野島公園「旧伊藤博文金沢別邸」

2012年03月07日 | 幕末~明治史跡めぐり
3月7日(水)
今日は自転車で金沢区の不動産屋に行って来ました。
用事は賃貸保証契約書の内容が不動産屋が持ってた資料と違ってたので、差し替え分の記入し直しと事業計画書の提出でした。
金沢区くらいなら頑張れば自転車で行けるからいいよね…俺はお金にはシビアだから毎回電車でなんて行きたくないからさ。
家から自転車で45分くらい掛かるんだけど…1週間前の29日に最近履き慣れてない革靴で雪道を歩いたもんで、右足の甲を痛めちゃったんだけど…それがまだ治ってないんだよ。
歳を重ねるたびに思うのは怪我とかの治りが遅いんだよな~
以前、ちょっと負ってしまった擦り傷なんて治癒するのにも時間が掛かった上に傷跡が残っちゃってるしね…こんなの若い時じゃ考えられないことだよ。
細胞の自然治癒能力が加齢とともに衰えてるんだろうね…
不動産屋での用事はすぐ済むんだけど、いつも担当のオバさん(俺よか年上なのは確かだ)と話し込んじゃうんだよね~
まぁそれでも今日は30分ほどで切り上げて、帰りに野島公園の「旧伊藤博文金沢別邸」に寄って来ました。

左側に「シーサイドライン」、右側に「野島」です。

「夕照橋」を渡って「野島」に上陸しました。

先に見えるのは「八景島シーパラダイス」のジェット・コースターだね。
大昔、この「野島公園」内でバーベキューをしたことがあったような…

「野島公園」内に「旧伊藤博文金沢別邸」があります。(入場無料)

明治31年(1898年)初代内閣総理大臣「伊藤博文」が建てた別邸です。
老朽化が著しく、平成19年に解体工事・調査をし、平成21年10月に創建時の姿で復元されました。

台所(右)です。

この廊下には…

「伊藤博文」に関するパネルが展示されていました。

1841年長州藩(山口県)で生まれ、1857年に松下村塾に入り「吉田松陰」に学びました。

明治維新後、明治18年(1885年)44歳で初代内閣総理大臣に就任しました。

明治42年(1909年)中国・黒龍江省ハルピン駅で狙撃され、68歳の生涯を閉じました。
子供のときは“1000円札の白髭ジイさん”としか知らなかったけどね。

この窓からも八景島のジェット・コースターが見えています。

この「伊藤博文」夫妻の写真が飾られているのは客間(晴嵐の間)です。

歌川広重によって描かれた「金沢八景」です。

これも客間(帰帆の間)です。

これは帰帆の間にある「金屏風」です。



これは湯殿です。

これは便所です。

庭園の灯籠も古図面から復元されたモノです。

以前(2010年3月24日)自選“横須賀十選”第10位で紹介した「夏島」では、「明治憲法起草の跡碑」を掲載しました。
「夏島」は横須賀市なんだけど、「野島」は横浜市金沢区なんで…どちらも「伊藤博文」に関連する史跡だけど、「野島」は自選“横須賀十選”には入れてなかったんです。
今日行った「旧伊藤博文金沢別邸」は大日本帝国憲法(明治憲法)発布後の建築だけど、明治憲法の起草作業を行った場所は、金沢洲崎の割烹旅館「東屋」、夏島別荘(明治20年~22年まで夏島に建っていた伊藤公の別荘)とされています。

久々に幕末史跡(幕末じゃないけど伊藤博文は幕末の生まれってことで)を紹介しましたね。
夜は地元の友達と会いました。
彼は5月に結婚(入籍)するみたいで…って、やばいねぇ…独男も俺とKちゃんの2人だけかぁ?
こうなったら事業を成功させて“独身最後の大物”と言われるようになってやる


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おりょうさんまつり

2010年10月09日 | 幕末~明治史跡めぐり
10月9日(土)
1人ぼっちの1週間も終わりました。
月曜日は週明けで“やること”多かったけど、まだ中国が「国慶節」休暇中だったんで、火曜日はほとんど“やること”無くなっちゃって…
どうなるかと思ったけど、水曜日から中国の工場担当者も出勤してきて資料を出してくれたから“やること”が出来て良かったです…
こんな状態で、対面に上司が居ないと(居てもだけど…)眠くて眠くて…

7日(木)は取引先に「サンプル商品」を届けに「小伝馬町」に行って来たんで、帰りに久しぶりに「十思公園」を覗いて来ました。

ちょっと「小伝馬町」から離れちゃったけど、「お玉が池跡」です。
ビルの谷間に「お玉稲荷」と呼ばれる小祠があり、このあたりが「お玉が池」の跡と伝えられています。
「お玉が池」は、もとは「桜ヶ池」と呼ばれた大きな池だったと云われ、池畔にあった茶屋で働いていた「お玉」という美しい娘が二人の男性からの求愛に悩んだ末、池に身を投げ、その後「お玉が池」と呼ばれるようになったという伝説が残されています。
池は次第に埋め立てられ、現在はその位置も定かではありません。

「小伝馬町」駅からすぐの「江戸伝馬町処刑場跡」です。
“安政の大獄”により、「吉田松陰」を始め、「橋本左内」ら大勢の志士達が、ここで処刑されました。

その目の前の「十思公園」です。
「伝馬町牢屋敷」は、この「十思公園」および「十思小学校」を含む広大なものでした。

「吉田松陰顕彰碑」「辞世の碑」「吉田松陰終焉之地碑」です。
詳しくは、2006年5月9日のレポートを見てください。
その日が記念すべき“幕末史跡めぐり”の第1回目だったんだなぁ…この記事を編集中に分かったんで、感慨も無かったけどね。
そう考えると、それから4年半ほどの間に、北は「会津」「越前福井」、開国のまち・地元「横須賀」と「横浜」「江戸(東京)」、開港のまち「下田」、幕末の中心地「京都」から「大阪」「神戸」、龍馬の故郷「土佐」、長州藩「萩」「下関」、薩摩藩「鹿児島」「霧島温泉郷」、龍馬希望の地「長崎」…と、ほとんどの幕末史跡をハントして来たんだよな~

今日は午前中に「美容院」に行きました。
雨のため、歩いて行ったので、帰りに駅から「京急」に乗って、「大津」に行って来ました。
10月1日~10日まで「おりょうさんまつり」期間中なんだけど、今日は「坂本龍馬の妻龍子墓前祭」があるんです。
でも、この雨の中「墓前祭」って言ってもね…だから、とりあえず時間を合わせて行ってみるけど、祭典に参加するかどうかは状況によって判断する事にしました。

これは「美容院」の帰り、駅に行く前に寄って来た「おりょう会館(葬儀場)」です。
今まで「坂本龍馬の妻・おりょう終焉の地」碑がどこにあるのか分からず、ずっと裏通りを探してたんだけど…まさか表通り(米が浜通り)の「おりょう会館」の前だったとはね。
「おりょう会館」入口前には「おりょうさん」の胸像があります。

その後「共済病院」裏手にある「お穴さま」を見て来ました。
かなり昔(30年以上前?)、父に連れられて来たことがあった気がするんだけど、今じゃこんな風に崖や道がコンクリートで舗装されてたんで驚きました。
やっぱネットで以前の写真を見ると、「龍本寺」境内から続く「山道」だったもん。

いつから、こんな風情の無い史跡になっちゃったんだか…
「日蓮」が21日間篭り、大願成就の祈念を行なったと伝えられる座禅窟です。

12:30ごろ「京急大津」駅に着きました。

「京急大津」駅前では、「高知」の観光協会?が「観光」や「お土産」などをPRしてました。
そこの方々は「高知」からではなく、「東京」の事務所から来てたようなんだけど、俺が「高知」市内を自転車で回った話をしたんです。
そしたら「桂浜もですか?」って聞かれたから、「そうです」と答えたら、やっぱり驚かれましたね…
あの時も大変だったもんな~

これは何の店だろう?

「信楽寺」に続く駅前通りです。

さて、第22回「坂本龍馬の妻龍子墓前祭」は、13:30からここ「信楽寺(しんぎょうじ)」で始まります。
とりあえず、12:40ごろ行ってみました。

今日は午前中に「おりょうさん墓前祭ウォーク」ってのも開催されてたらしいし、この後は「墓前祭」もあるんで、参拝客が絶えませんね。
でも、ほとんどオジイさん、オバアさんばかりだったけど…
それと今年は『龍馬伝』効果ですよね…「おりょうさん」のことは知ってても、ここ「横須賀市大津」に墓があることまでは知らなかった人が多かったと思います。
「福山雅治」が演じる「坂本龍馬」の『龍馬伝』が注目されれば、当然「おりょうさん」も注目されるからね。
何て言ったって、あの「坂本龍馬」が妻にした女性なんだから。

「坂本龍馬の妻龍子墓前祭」が始まるまで、まだ時間もあるし、「京急大津」駅前「大津コミュニティセンター」で「龍馬とおりょうさんパネル展」を見てました。
入口には「龍馬&おりょう」がいました。
この2人「土佐」から来てるらしいですよ。(着ぐるみだけ?)
まぁ…「パネル展」に関しては、俺は「高知」や「京都」で有料のホンマもんを観て来てるからさ…

「大津コミュニティセンター」近くの「タネヤ西村」という雑貨屋?で「龍馬グッズ」を探してみたけど…あまりいいのが無かったです。
「マグカップ」とかにしても、作り(印刷)とかが良くないし、ショボいんだもん…
結局「坂本龍馬の妻龍子墓前祭」まで、あと20分だったけど、天気も悪いし、お坊さんが来て墓前で「お経」をあげるだけっぽいんだよね…
もし、大河で「おりょう」役の「真木よう子さん」でも来るってんなら、当然残って参列するんだけど…そんな噂も無いしさ。
なので、そのまま帰りました。

今日の「戦利品」でーす。
無料で貰った「土佐ガイドブック」ですね…「土佐」も3日間いたけど、全ての史跡を回れたワケじゃないしね…
グッズはこの「大津」でしか買えないという「ペン(ボールペンとシャーペン:各¥100)」と「おりょうの月琴ストラップ」です。
「ペン」は2本とも同じデザインです…なかなか「龍馬」と「おりょう」が一緒にデザインされたグッズって無いんですよね~
「おりょうの月琴ストラップ(¥500)」は唯一「信楽寺」公認グッズらしいので、買っちゃいました…まぁこれは「お布施」代わりにね。
「記念切手」も売られてたけど、あまりにデザインが良くない
恐らく使用出来るデザインや写真が限られてるせいで、「信楽寺」や「木人形」の写真、その他「イラスト」などしか無いんだろうね…
「信楽寺」については、「2006年5月10日」と「2010年3月26日」でも紹介してるので、見てみてくださいね。

さて…明日と明後日の休みは「DVD」観たり、「漫画」読んだりしてようかな…


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幕末史跡めぐり・其之二十六~下田編 Part.3

2010年03月30日 | 幕末~明治史跡めぐり
3月30日(火)3/3
では、続きでーす。

次は「下田橋」を渡り、20分くらい歩いて「三島神社」に着きました。

ここには「吉田松陰」像があります。

これは本堂です。

次は「玉泉寺」に行きました。
安政3年(1856年)総領事「タウンゼント・ハリス」は、通訳官「ヒュースケン」を伴い、米艦「サンジャシント号」で下田に着任しました。
「ハリス」は、ここ玉泉寺を日本最初の米国総領事館として開設しました。
庭前に星条旗が掲揚され、以来2年10ヶ月、幕末開国の歴史の中心舞台となりました。

これは本堂です。
初代アメリカ総領事館には、「お吉」や「お福」を含め5人の女性が召使女として勤めていました。
中でも「お吉」は安政4年5月22日、17歳で「ハリス」の召使として出仕しました。
しかし、「お吉」の玉泉寺通いはあまり長いものではなく、同年8月に解雇手当が支給された受取書が残されています。
「お吉」の生涯はこの玉泉寺通いが原因となって、人々の「お吉」に対する蔑視と嘲笑に耐え切れず、酒に溺れ、世間から孤立し、貧困のなか身を持ち崩し、50歳でその生涯を閉じた物語なのです。

これは「牛乳発祥の地の碑」です。
「ハリス」が病に伏したときに牛乳を飲んだことから建てられました。

これは「牛の慰霊碑」です。
アメリカ人の食に供するためにされた牛の慰霊碑です。

これは「ハリスの顕彰碑」です。

ここにも「カーター大統領」は来ていました。

本堂左脇を上がって行くと…

「ペリー艦隊乗員5名の墓」があります。

境内の「ハリス記念館」に行ってみましたが、誰もいないので門を入って行きました。

これが「ハリス記念館」ですが、呼ばないと人が出て来ないのかな?

なので、その裏手にある、ロシア艦「ディアナ号乗員3名の墓」を見てきました。

海岸を歩いて「ハリスの小径」に向かいました。
この先に「黒船」が停泊していたのかな。

ここが「ハリスの小径」です。

「ハリス」が海岸をしばしば散策していたという話から命名された散歩道です。
この先約1kmのところに「吉田松陰上陸の碑」があると書いてあったんで行ってみることにしました。

景色はキレイですね~

「至誠通天」と書かれた「松陰」を讃える碑です。

どうやら歩道が工事中で迂回させられたのかな?

道路沿いにポツンとあったのが…

これが「吉田松陰上陸の碑」かぁ…苦労して辿り着いたけど、これだけかぁ。
また約1Kmを引き返し、海岸沿いを「弁天島」に向かいました。

これは「弁天島」の「松陰七生説の碑」です。
上に建つのは「吉田松陰」と「金子重輔」が一時隠れていたといわれる「弁天社」です。
「吉田松陰」と「金子重輔」は、ここから沖に停泊していた黒船に向かって舟を漕ぎ出したのです。
しかし、乗船を拒絶されて引き返した場所が、さっき行った「吉田松陰上陸の碑」があった場所です。

その近くの「弁天島広場」に行きました。

ここには「吉田松陰」と「金子重輔」の像があります。
この舟もセット?

タイトルは「踏海の朝」です。

この2人の像が見つめる先の海に黒船が停泊してたんでしょうね。

…って、ホントに黒船が
これは遊覧船「サスケハナ号」でした。

この砂浜から「松陰」は舟を出したのかなぁ?
奥の丘が「弁天島」です。

そして「まどが浜海遊公園」を通って「風の花祭り」を見ました。

これは「在日米海軍横須賀基地」から2002年に寄贈されたそうです。

これは「みさご島」です。
そして、道の駅「開国下田みなと」の観光案内所で「蓮台寺」の史跡「吉田松陰寄寓処」について訊いたら、1つ先の「蓮台寺駅」から歩いて20分くらい掛かるんじゃないか…と言われ、行くのを断念しました。
そこは「黒船」密航前に、皮膚病を患っていた「松陰」が「蓮台寺温泉」の医師「村山行馬郎」の治療を受けるために滞在したという史跡です。
「蓮台寺」には「お吉ヶ淵」という、「お吉」が身投げした淵もあります。
15:00ごろ「伊豆急下田駅」に戻り、ちょっとお土産屋を見て、15:08発の「黒船電車」に乗って帰りました。

車窓から見えた「伊豆大島」です。
前日雪が降ったらしく、うっすらと見えますね。

この幕末史跡ハントも「江戸」「神奈川」「京都」「土佐」「萩」「下関」「長崎」「薩摩」「会津」と制覇し、ついに「下田」にも行きました。
主だった史跡は大分ハント出来たし、俺も社会復帰するのをもって当分打ち止めかな。
それでは「長い間ご閲覧ありがとうございました」…じゃなく史跡ハントは当分無くても、このブログはまだまだ続きますよー。


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幕末史跡めぐり・其之二十六~下田編 Part.2

2010年03月30日 | 幕末~明治史跡めぐり
3月30日(火)2/3
それでは、続きでーす。

次は「了仙寺」に行きました。

「久里浜」で日本開国を提唱するアメリカ大統領の親書を渡した「ペリー」は翌年の再来航を約束して、いったん中国「上海」に向かいます。
そして再び「浦賀」に来航したのが、1854年1月。
それから3月31日(嘉永7年3月3日)には「日米和親条約」が「横浜」で締結されます。
その中で決まったのが、「下田」と「函館」の開港(箱館は翌年の開港)とアメリカ船の日本における物資の確保とアメリカ人の安全の保障などです。

しかし「横浜」で締結した「日米和親条約」では細かい点がほとんど決められていなかったため、「下田」に上陸した「ペリー」は早速日本側と交渉に入りました。
その場所となったのが、ここ「了仙寺」です。
10日間にわたる協議の結果、1854年6月17日(嘉永7年5月22日)「日米下田条約(日米和親条約付則13ヶ条)」が結ばれました。
この中で、アメリカ人は「下田」の街中を自由に歩く権利、すなわち「遊歩権」を与えられました。
これは一種の交流権ともいえるもので、黒船のアメリカ人と下田の町民たちは、ここで異文化交流を体験しました。

境内裏には「了仙寺横穴遺跡」の洞窟があります。
この遺跡の洞窟は、今から約1300~1400年程前、古墳時代に墓として利用されていたと考えられており、洞窟内より人骨とともに、幻玉や水晶製の腕輪や耳飾り等の装身具、土師器、須恵器が出土しました。

境内の「了仙寺宝物館」に入りました。(入場料¥500)

「ジョン万次郎」の扇と、「お吉」が詠んだ直筆の歌です。

これは以前「山口編」でも紹介したことがある人相書きですね。
果たして、こんな人相書きが役に立つんだろうか…?

「ぺリーロード」を通って、

「長楽寺」に行きました。
安政元年(1854年)12月、ここ「長楽寺」において日本全権「筒井政憲」「川路聖謨」と、ロシア使節海軍中将「プチャーチン」との数回に及ぶ交渉の結果「日露和親条約」が締結されました。

境内にある「長楽寺宝物館」ですが…誰もいなかったよ。

これは「草画房」です。
大正時代は自転車屋だったそうです。

これは蔵でしょうか?

これは「旧澤村邸」です。
その脇の石段を上がって「下田公園(別名:城山公園)」に入りました。

これは「下岡蓮杖之碑」です。
「下岡蓮杖(1823-1914)」は、幕末の写真業創始者です。
「ハリス」の通訳「ヒュースケン」から写真原理を学び、横浜で写真師「ウンシン」から実技を習得しました。
長崎の「上野彦馬」とともに“日本の写真師の始祖”とされています。

園内をさらに進みます。

これは、昭和54年当時アメリカ大統領だった「ジミー・カーター」が来日した時に下田に来た記念碑です。

これは「開国記念碑」です。

「ペリー提督」と「ハリス領事」のレリーフ像に2人の言葉が刻まれています。

左側が「ハリス領事」で、

右側が「ペリー提督」です。

下田公園からの景色です。

ここが入口だったんですね。

「下田公園」を出ると「ペリー艦隊来航記念碑」があります。

これは「丸宮家」です。

これは「お吉」が晩年開いた「安直楼」です。

これは「松本旅館」です。

左は「角谷(船宿)跡」で、「勝海舟」や「板垣退助」も宿泊しました。
右は「櫛田家蔵」です。
それから「下田龍馬伝絵図」に載ってた「住吉楼跡」に行ったんだけど、何もありませんでした。
そこは「山内容堂」と「勝海舟」が謁見している間、「龍馬」が待っていたと伝えられてるんだけど、「龍馬」は船中で待っていたという説もあり、確証が無いんで案内板も無いそうです。

それから「マイマイ通り」に戻り、「宝福寺」近くの「海善寺」に行きました。

ここには、14代将軍「徳川家茂」も泊まったことがあるらしく、お手植えの松もあったそうです。

次は下田港方面に行きますが、キリがいいんで一旦〆ます。
続きは“Part.3”を見てくださーい。


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幕末史跡めぐり・其之二十六~下田編 Part.1

2010年03月30日 | 幕末~明治史跡めぐり
3月30日(火)1/3
今日は予定通り“幕末史跡めぐり”で「下田」に行って来ました。
都内・神奈川以外の“幕末史跡めぐり”は、去年2月の遠征以来ですね。
あの時は2月2日から“バガボンド史跡めぐり”と“幕末史跡めぐり”をして、最後は「下関」から中国「青島」に渡り、「青州」へ行って以前勤めていた学校を訪ねて、2月24日に第二次北京留学のために「北京」に戻ったんだから…
この時のブログを、まだご覧になっていない方には、是非見て欲しいですね。
なんてったって“史跡ハンターの執念の記録”ですから…

今日は前日に戸塚の親戚の家に「就職の報告(電話では伝えていたけど)」を兼ねて泊めさせてもらっていました。
戸塚からだと横須賀から出るより30分以上は短縮出来るしね。
7:30すぎに親戚の家を出て「東海道本線」に乗り、「熱海」で「黒船電車」に乗り換え、10:31「伊豆急下田」に着きました。

これが行き帰り共に「熱海⇔伊豆急下田」間乗った「黒船電車」です。

各車両、中央にオーシャンビュー席があるんですよ。

「伊豆下田」は“坂本龍馬飛翔の地”だって~。
「立会川」は“若き日の龍馬がゆく”だもんね…今「龍馬伝」が流行ってるから、ちょっとしか「龍馬」に縁がないような所でも龍馬を全面に出してPRしてるよね。

ここ「下田」に来るのは2004年5月3日以来です。
その当時は、まだ“史跡ハンター”のライセンス取得前だったし、別の用事で来てたんでさ。

まず、駅近くの観光案内所に行き「近くにレンタルサイクル店が無いか?」訊きました。
すると近くに1軒あったんだけど、聞いたところによると1時間¥500で、1日レンタルだと¥2,000もするらしく、「歩いても回れる」と言うのでレンタサイクルはやめて、観光マップを見ながら歩いて行きました。

まず、観光マップのルート通り「稲田寺(とうでんじ)」に行きました。

幕末開港時には、ロシア使節「プチャーチン」との交渉に当たった応接掛「川路聖謨」の宿舎となったそうです。
「お吉」(後ほど説明します)の恋人だった船大工「鶴松(川井松五郎)」の墓があります。
「鶴松」は、故あって「お吉」と離婚すると翌年に「一夜ポックリ(心臓麻痺)」で急死してしまいました。

次は「宝福寺」に行きました。

ここは「龍馬」と「お吉」のダブルキャストですか…

“坂本龍馬飛翔之地”だから、こんな木像?まで作っちゃって…

これは本堂です。

併設の「唐人お吉記念館」に入りました。(入場料¥300)
これは「お吉」立像と駕篭です。

これは「容堂・海舟謁見の間」です。
文久3年(1863年)「宝福寺」に風待ちで滞在する前土佐藩主「山内容堂」のもとに、運命の嵐に導かれ「勝海舟」が「坂本龍馬」の脱藩赦免を願い出るために謁見しました。
「容堂」は酒の飲めない「海舟」に、「この酒を飲み干したら、その者の脱藩を許してやろう」と言いました。
弟子「龍馬」の脱藩赦免がどうしても欲しい「海舟」は、その酒を一気に飲み干し、その赦免の証に扇を賜ったのです。
それにより脱藩が許され、「坂本龍馬」の英雄物語が始まったということで、この「下田」(宝福寺)が“坂本龍馬飛翔の地”とされる由縁なんですね。
(龍馬の肖像画掛け軸の下にあるのが、容堂が海舟に酒を注いだ盃です)

この「宝福寺」は「お吉」の菩提寺です。
「お吉(1841-1890)」は「下田」で芸妓をしていましたが、17歳の時、下田奉行所のはからいで法外な年俸と引替に心ならずもアメリカ総領事「ハリス」のもとへ待妾として奉公にあがることになります。
(ハリスは1856年7月に下田に着任し、1962年解任されて帰国しています)
その後は幕末、維新の動乱の中、芸妓として流浪の果てに「下田」に戻り、「鶴松」と暮らして髪結業を始めますが、ほどなく離別します。
さらに1882年に小料理屋「安直楼」を開業しますが、2年後に廃業しています。
「唐人」という世間の罵声と嘲笑をあびながら貧困の中に身をもちくずし、明治24年3月27日の豪雨の夜、ついに川に身を投げ、自らの命を絶ってしまったのです。

これが「唐人」と呼ばれた「お吉」の墓です。
この「宝福寺」で「山内容堂」と「勝海舟」の謁見があった頃、「龍馬」は29歳、「お吉」は23歳でした。
もし「龍馬」も「海舟」と一緒に上陸してたら…「下田」で芸妓だった「お吉」と会っていたかも
「お吉の墓」は、「唐人お吉記念館」に入らなければ見れませんよ。
中のお土産屋には「龍馬」関連のモノもあったんで、最後に駅近くのお土産屋で買おうとしたらありませんでした…
「龍馬」関連の土産(グッズ)は、もしかしたら「下田」では、ここ(唐人お吉記念館)でしか買えないのかも知れないので、購入しておくべし

これは下田市文化会館前にあった「1837年製カノン砲」です。

次は「大安寺」に行きました。

ここは、観光マップには特に載っていませんが、この本堂の柱に使われた材木に逸話があります。
1688年3月島津藩の支藩「日向佐土原藩」の船が将軍家献上の御用材を積んで江戸に向かう途中、遠州灘で大風に遭い、やむを得ず材木の一部を捨てて「下田」に入港しました。
しかし乗組員16名は御用材を捨てた責任を取り、自害したのですが16名の帰葬は許されず、郷里の菩提寺と同名のこの「大安寺」に合葬されたのです。
そして船に残っていた材木が当寺に寄贈されて本堂の柱となったんだそうです。

これが「薩摩十六烈士の墓」です。
でも、この逸話は来て偶然知っただけで、本来この寺に来た目的は別にあります。
2003年3月10日に亡くなった友人の墓がこの寺にあるからなんですね…だから以前「下田」に来たのも彼の墓参りのためで、よく一緒に遊んでた中学時代の友人と車で来てたんです。
彼とは小学2年生の時からの友人だったんだけど、「下田」に墓があるんじゃ、なかなか来れないですね…
それでまだ未ハントだった史跡ハントを兼ねて、平日に行動出来る今、墓参りを企画したんです。
彼の実家は俺の家からも近いんだけど、これもなかなか訪問出来ずにいます…数年前に母親も亡くなってしまったらしくてね。

「下田」のマンホールは黒船ですが、「ペリー提督」も描かれている我街「横須賀」の方が上だね。

次は「泰平寺」に行きました。

通り掛かりだから入ってみたけど、境内には「下田」の初代領主「戸田忠次」の墓がありました。

これは中央公民館前にある「吉田松陰拘禁之跡碑」です。
1854年、従者「金子重輔」と共に小舟で黒船に漕ぎ着け、渡米を懇願するも拒絶されて「下田」に引き返した「松陰」らが自首して拘禁された場所がここにあった「長命寺(廃寺)」だったそうです。

「下田」には、こういう「なまこ壁」を使った旧家が多いんだけど…地図に載ってなかったから、これは新しいのかな?

これは「欠乏所跡」です。
ここで外国船に対し、欠乏品の名目で実質上の貿易が行われました。

次は「下田開国博物館」に行きました。
…でも入場料が¥1,000だったんで入りませんでした。
高くても、せめて¥500~600じゃないとなぁ…何でそんなに高いんだろう?

さて…「マイマイ通り」を一直線に進んで来ただけなんだけど、ここまでで1時間が経過しました。
では、続きは“Part.2”をご覧ください。


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自選 “横須賀十選”第3位~第1位

2010年03月26日 | 幕末~明治史跡めぐり
自選“横須賀十選”4/4
それでは、第3位から第1位までの発表でーす

③幕末偉人の足跡:浦賀
「ペリー」が来航した地「浦賀」には、有名な幕末偉人たちも訪れていました。
まず、「東浦賀」側の史跡から見てみましょう。

ここは「東叶神社」です。

これは「勝海舟断食修行の折使用した井戸」と「源氏再興の折に源頼朝が奉納した蘇鉄」です。

本殿の左脇から、裏の「明神山」に登れます。

標高55mの「明神山」山頂にある「勝海舟断食之跡碑」です。
1860年1月「咸臨丸」がアメリカに向け「浦賀湊」を出航する際、艦長「勝麟太郎(海舟)」が太平洋横断の無事を祈り断食したと伝えられています。

「明神山」から見た「浦賀湊」です。

ここは「東林寺」です。

これが、本堂です。

何の「志魂碑」だろう?

これは「中島三郎助の墓」です。
写真左では一番手前、写真右では右側が「中島三郎助の墓」です。
1849年、浦賀奉行所の与力となった「中島三郎助(1821-1869)」は、幕府海軍の創設者のひとりで、1855年「勝海舟」「榎本武揚」らとともに「長崎海軍伝習所」へ入校しました。
ペリー来航(1853年)の際、交渉役として黒船に一番乗りをし、「高官でなければ応接できぬ」と断られますが、「明日は高官が来るから」と言って強引に乗り込み、船内を隈なく視察していたので「密偵」と思われたそうです。
1855年には無理やり押し掛けてきた「桂小五郎」に造船を教えたりもしています。
その後、戊辰戦争では「榎本武揚」らとともに北海道に転戦し、1869年に函館五稜郭で戦死しました。
…ってことは「土方歳三」とも一緒に戦ってるんですね。
「中島三郎助」を慕って五稜郭へ従った「浦賀隊」は20歳前後の若者ばかり約50人もおり、これは「浦賀の白虎隊」とも言えます。
函館には「中島三郎助」を記念して「中島町」という町があるそうです。

これは「徳田屋跡碑」です。
1853(嘉永6)年のペリー来航の際には、「佐久間象山」と「吉田松陰」がここ(割烹旅館徳田屋)で面談し、今後の対応策を協議しました。
また、「桂小五郎」「歌川広重」「松平定信」など、浦賀を訪れた武士や文人は必ずといっていいほど、ここに宿泊しています。
残念ながら「徳田屋」は大正12年の関東大震災の際、倒壊してしまいました。

次は「西浦賀」側に行きました。

「愛宕山公園」の入口は、ちょっと分かりづらいですね…
石段を上がって行くと、

「咸臨丸出港の碑」があります。

碑の裏側には、艦長「勝麟太郎」をはじめ、「中浜万次郎」「福沢諭吉」ら乗組員96人の名が刻まれています。

「愛宕山公園(愛宕山浦賀園)」からの「浦賀湊」です。

頂にある「中島三郎助招魂碑」です。
文久3年(1863年)10月には「坂本龍馬」も神戸海軍操練所の塾頭として「勝海舟」に従って大坂を出航し、晦日に「浦賀湊」に投錨し、次いで江戸へ向かっています。
1853年に黒船を見に来た…って話は本当なのかねぇ?
この浦賀には「勝海舟」「佐久間象山」「吉田松陰」「桂小五郎」「坂本龍馬」も来ていたということで、第3位でございまーす。

②黒船来航:ペリー公園
1853年(嘉永6年)7月8日、アメリカの東印度艦隊司令官「ペリー提督」が初めて久里浜に上陸しました。
同年7月14日に久里浜海岸で、米大統領の国書を浦賀奉行「戸田伊豆守」が受理しました。

「ペリー上陸記念碑」は、1901年(明治34年)7月14日に除幕式が行われました。

上陸記念碑の碑文「北米合衆国水師提督伯理上陸紀念碑」は、「伊藤博文」の揮毫によるものです。(写真右は裏側です)

園内の「ペリー記念館(入館無料)」です。

「ペリー記念館」入口にある「戸田伊豆守」と、

「ペリー」の胸像です。

「ペリー公園」前の砂浜です。
ここから「ペリー」らは上陸したんでしょうか?
ちなみに「ペリー公園」前の通りは「ペリー通り」といいます。

横須賀市内にあるマンホールです。
幕末「明治維新」が黒船の来航による開国から始まったと考えるなら、第2位だけど、ここ(久里浜・浦賀)は“横須賀十選”以上の“幕末史跡十選”くらいにも入るんじゃないかな?と思います。

①阪本龍馬之妻龍子之墓:信楽寺

浄土宗のお寺で「しんぎょうじ」と読みます。

本堂と、坂本龍馬の妻「お龍の墓」です。
「坂本龍馬」は1867年(慶応3年)11月15日、京都の醤油商「近江屋」で京都守護職の配下の見廻組与力の乱入を受けて斬り付けられ、33歳の若さで暗殺されました。
未亡人となった「お龍」は、坂本龍馬の実家がある土佐に移り住みましたが、長続きしませんでした。
その後、京都、大阪、東京、横浜と、明治初年まで流浪の生活が続きましたが、明治8年7月2日、30歳のとき、現在の米が浜通りの「西村松兵衛」の家に「西村ツル」として入籍しています。
そして、明治39年1月15日に亡くなっています。
墓碑には「贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓」と刻まれています。

本堂にある「坂本龍馬&お龍」の木像です。
この「信楽寺」が第1位ですが、やっぱあの「坂本龍馬」が愛した「お龍」の墓があるなんて、龍馬の墓がある「京都霊山護國神社」と同等の価値があると言ってもいいと思います。(言いすぎ?)
だって「横須賀」と言えば「黒船」や「横須賀製鉄所(造船所)」や「日本海軍鎮守府」は思い浮かぶでしょう。
それが「お龍」だよ…京都で生まれて「横須賀」と縁なんて無かったんだから。
2人の出会いは、1864年…龍馬曰く“おもしろき女”「お龍」は、1866年(慶応2年)の「寺田屋事件」で龍馬を救い、その後龍馬と結婚し、薩摩へ日本で最初の新婚旅行に行った・・・あの「お龍」の墓が「横須賀」にあるなんて。
NHK「その時歴史が動いた」2005年2月2日放送、第206回「龍馬が愛した女 ~幕末、愛と別れの物語~」を見るたびに涙が出てきてしまいます…
「明治維新」直前で暗殺された夫「坂本龍馬」と、明治を生き続けた妻「お龍」…
これから「お龍」が登場する「龍馬伝」が楽しみですね。

さぁて、自選“横須賀十選”いかがだったでしょうか?
紹介した公園や寺社などを、もっと詳しく知りたい方は「ネット」で調べてみてください。
俺が記事で書いてる「うんちく」だって、全部「ネット」や「本」で調べた内容だもん…
今週の日曜は「米海軍横須賀基地」が一般公開されます。
もう10年以上前に行ったことがあったきりなんだけど、今までは(近年は中国に住んでたけど)開放日がいつか知らなかった事が多くてね。
恐らく、毎年同じ時期に開催されてるんだとは思うんだけど、せっかく家から歩いて行けるんだし、そう滅多に入れる所じゃないんで行ってみようと思ってます。
そして、もしかしたら来週は就職前最後の「幕末史跡ハント」のために「下田」まで行くかも知れません。
これからも「史跡ハント」頑張るぞ


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幕末史跡めぐり・其之二十五~江戸編⑨

2010年02月09日 | 幕末~明治史跡めぐり
2月9日(火)
今日は「千代田区」に「面接」に行って来ました。
今年に入って、まず1月5日に応募した会社から6日に連絡が来て20日に「面接」がありました。(22日に辞退)
それから、その間の16日に応募した会社から21日に連絡があり、27日に「面接」して来ました。(30日お祈り通知)
そして、その間の25日に応募し、29日に連絡が来た会社に今日「面接」に行って来たんです。
…と言うように、最近は「辞退」や「お祈り」の前に「書類選考」が通って、次の「面接」の予定が決まってたんだけどね…
今回は応募中の会社はあるけど、まだ「書類選考」中で次の予定がありません…
最近は「ハロワ」の求人でも応募したい会社が無い状態だもんな~。
「転職サイト」や「人材紹介会社」の求人なんて、まず「書類選考」が通らないし…
今日「面接」に行った会社は、以前勤めていた会社の取引先なんです。
「社長」と面接したんだけど、懐かしい名前も出て来てね、俺も当時その「社長」に会ってたかも知れません。(社長は覚えてなかったから、俺が退職した後だったのかな?)
まぁ、でも結果としては「お祈り」だろうな…
昨日、新しい「Yシャツ」を買って、気合を入れて臨んだんだけどさ、もう全然「自信」が無いや…前回(1月27日)「面接」に行った会社だって、以前勤めていた会社の同業だったのに「お祈り」だったんだから。
このように以前勤めていた会社の「同業」や「取引先」だったから「書類選考」は通過して「面接」してもらえてるけど、「採用」となると…厳しいよ。
さっきも書いたように今回は次の「面接」の予定も無いし、現在「書類選考」中の会社だって1社しか無い(しかも全く選考に通る自信無い)から、ホント気が重いや…
はぁ…溜息しか出てこないよ。

気が重いまま、帰りは「幕末史跡」をハントして来ました。

京急「鮫洲」駅で途中下車し、「大井公園」に向かいます。

案内標識に沿って進んで行くと「山内豊信(容堂)墓」があります。

これが「山内豊信(容堂)墓」です。
「龍馬伝」でもお馴染みの「第15代土佐藩藩主」ですね。

同じ敷地内にあった「嶋津常候墓」(第13代藩主山内豊熈の妻の墓)と、

「山内家合祀之墓」です。

次は「立会川」方面に向かいます。

嘉永6年(1853年)「坂本龍馬」は、この辺りの「土佐藩抱屋敷(浜川砲台跡)」の警護に動員されたといいます。

そして「浜川砲台跡」に向かいます。
「きれいにしよう!立会川!」のプレハブの先にあるのが…

「浜川砲台跡」です。
平成16年(2004年)に「土佐藩抱屋敷跡」から発見された砲台の礎石が置かれています。
この付近が「土佐藩鮫洲抱屋敷跡」で、屋敷の敷地内には大砲八門を備える「浜川砲台」が築かれました。

「浜川砲台跡」から見える「倉庫?」の壁画です。

京急「立会川」駅から「浜川砲台跡」へ向かう途中の商店街も「龍馬」一色です。

同じく、京急「立会川」駅から「浜川砲台跡」へ向かう途中の公園には「坂本龍馬像」があります。
これは「浜川砲台跡地」より発見された礎石を高知市に送ったことのお礼として、高知市より寄贈されたものだそうです。
高知「ホテル南水」の前にあった、強化プラスチック製の像のようで、やっぱり叩いてみたら「ポリバケツ」のような音がしましたね。

2009年2月12日のブログで紹介した、この「龍馬像」なんですが、これが現在「ホテル南水」にある「龍馬像」であることが分かりました。
こっちは何で出来てるんだろう?

先日、初めて「携帯」で自分の「ブログ」を見てみました。
おぉ~「写真」も「絵文字」も全部見れるんだね
そして、2月7日付けの「ブログ・ランキング」で、俺が気付いた中じゃ初めて「10,000位」以内に入って、順位が表示(9,816位/1,363,159ブログ中)されました。
別に順位にこだわって記事を書いてるワケじゃないけど、順位が表示されると何か嬉しいね。
だって「10,000位」以下は「-」だけで数値が出ないからね。

さて…明日は「ハロワ」に行けるかなぁ?
事前にネットで調べてから「紹介状」出してもらいに行ってるんでね。
家で検索して応募したい求人が無かったら「ハロワ」には行かないからさ。
もう毎週「求人広告」に出てる「自動車工場」の期間労働にでも応募するしか無いかなぁ?
…それすら落とされたりしてね…
とにかく、諦めずに頑張るしかないか…


コメント
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