私はYouTubeが好きでよく見るのですが、「光る君へ」という紫式部の生涯が大河ドラマになるみたいで、色々と出ています
私は自分の持論があるのですが、それをちょっと書いてみたいと思います
まず、よく言われるのですが、紫式部と清少納言の関係です
まず紫式部の事ですが、最初は「紫式部」では無く、藤式部と言われていました
紫式部の苗字が藤原だったからです
藤原の家と言ってもこの時代は藤原だらけで藤原同士で争っていました
この時期一番勢力があったのは藤原道長であり、これも自分の親戚を追い落として手に入れた権力です
藤式部の家はおそらく貧しく、貴族と言っても良い地位についていないと思います
そういう貴族がこの時期にはたくさんいたのではないでしょうか
日本は一夫一婦制ではなく、天皇は多くの女御を持っていて、いくらでも子供を産めるので、貴族もたくさんいて、勢力争いに負けた貴族は落ちていくしかありませんでした
藤式部から紫式部替えた経緯は分かりませんが、そういう事です
一方清少納言は苗字が「清原」なので、清少納言になったそうです
彼女が仕えた定子がきれいな名前なので付けたそうです
清少納言は元々歌人の家に生まれ、お父さんも優れた歌人であったと言います
そんな彼女が中宮の定子に使えるのは当たり前だったのでしょう
清少納言の家もそれほど裕福ではなかったと考えます
清少納言も紫式部も大まかに言えば中流貴族だったと思います
ただこれは大まかな分類で裕福さや貧しさという点では同じであったとしても、清少納言には父親の名声もあるし、ある意味中宮に使えるのも、当たり前だったかもしれません
しかし紫式部は自身が聡明であったとはいえ、ほとんど自分の能力だけで召し抱えられたのですから宮中において肩身が狭かったと思います
それが二人の性格の違いを決定づけたような気がします
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